上 下
3 / 105

【弓月と和臣】

しおりを挟む
「いらっしゃいませ」

鈴が鳴るようなその声に、鼓動が胸を打って、

手を握りしめる。真っ白なシャツに、

黒いエプロンが映えて、眩しかった。

「どういったお花をお探しですか?」

少し首を傾げて、彼女は柔らかな笑みを

僕に向けた。

「花を……ください」

咄嗟に口をついて出た言葉があまりに的外れな

もので、彼女が笑みを深める。

その笑みにまた鼓動が鳴って、僕は視線を

花へと移した。

「あの、仏壇に供える花を……」

もう一度、息を整えて発した声が震えたのは、

吸い込んだ空気が冷たかったからではなかった。

「仏壇のお花ですね」

と、頷く彼女に「白い花を」と付け加えた声は、

また震えていて……僕はコートの襟を掴んだ。

花を選び始めた彼女が「新しい仏様ですか?」

と、振り返って訪ねる。肩口までは届かない、

艶やかな黒髪がわずかに揺れる。

「はい」と答える僕に頷くと、一輪、また一輪、

と手に取って、器用に花を束ねていった。


長いまつ毛に縁取られた瞳が、零れるような光を

映していて、僕は彼女の横顔を静かに眺めながら、

時が流れてしまうことを、ただ惜しんだ。

「こちらで、どうですか?」

濃い緑と白のコントラストが涼しげな花束を、

すっと彼女が差し出す。

しばし彼女に見惚れていた僕は、不意にその声に

意識を引き戻され、慌てて首を縦に振った。

にこり、とまた笑って、彼女が透明のセロファンを

切り取る。黄色い光が、ゆらりと踊るそのセロファン

で花束を包み込むと、彼女は一度レジ台に置いた。

会計を済ませ、財布をカバンにしまい込んだ

僕の手に、そっと花束をのせる。

「ありがとうございました」と、レジ台越しに

彼女は僕に笑った。咄嗟に、何か言わなくては、と、

思いを巡らせた僕は、不自然なほど真剣な眼差しを

彼女に向けた。けれど、考えた末に口をついて出た

言葉は、「また来ます」という、ありふれたもので……

ただの客のひとりに過ぎない僕が、ここにいる理由は、

もはや、何もなかった。僕は名残惜しい気持ちを振り

切るように頭を下げると、ポツリと雨が落ち始めた

夜空の下に飛び出して行った。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます

結城芙由奈 
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います <子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。> 両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。 ※ 本編完結済。他視点での話、継続中。 ※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています ※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

完結 若い愛人がいる?それは良かったです。

音爽(ネソウ)
恋愛
妻が余命宣告を受けた、愛人を抱える夫は小躍りするのだが……

あの子を好きな旦那様

はるきりょう
恋愛
「クレアが好きなんだ」  目の前の男がそう言うのをただ、黙って聞いていた。目の奥に、熱い何かがあるようで、真剣な想いであることはすぐにわかった。きっと、嬉しかったはずだ。その名前が、自分の名前だったら。そう思いながらローラ・グレイは小さく頷く。 ※小説家になろうサイト様に掲載してあります。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

処理中です...