7 / 11
まもりびと
6
しおりを挟む
「もう帰りなさい。いつまでも、こんなと
ころにいちゃいけない」
僕は拳を握りしめ、項垂れる。
おそらくは、僕がこの場を離れるまで先生
は傍にいるつもりなのだろう。覚悟を決めた
としても、さすがに彼の目の前で飛び降りる
ことは出来ない。
そう思い至ると、僕は仕方なく頷き断崖に
背を向けた。そして歩き出す。歩き出した僕
の背を、先生の声が追ってきた。
「君、名前は?」
僕は振り返る。先生はそこに立ったまま、
白衣のポケットに両手を入れている。
「なつめ……高橋、捺人」
「捺人君か。いい名だ」
目を細め、白い歯を見せる。
ほっとするようなこの笑みに、どれだけの
人が救われたことだろう。頭の片隅でそんな
ことを思った僕に、先生は言った。
「もし、まだ死にたい気持ちが残っていた
ら、うちのクリニックに来なさい。家族にも
話せない胸の内を、全部吐き出せばいい」
僕はこくりと頷く。話したところで僕の病
気は治らないけれど、先生はきっと生きる力
を僕に与えるつもりなのだろう。
僕は再び身を翻し歩き始めた。家に帰ると
決めた足は、信じられないほどに軽かった。
数日後。
僕は楠木こころクリニックを訪れていた。
早朝から鈍行を乗り継いでここに来るのは
大変だったけれど、まだ診療が始まったばか
りの待合室にいる患者は疎らだ。
「高橋さん、お入りください」
看護婦さんに名前を呼ばれ、診察室の前に
立つ。先生にどんな顔をされるだろうかと思
えれば、ドアノブを握る手に汗が滲む。
「失礼します」
僕はドアを開けると、白いデスクに向かう
白衣の男性を見やった。そうして目を見開く。
問診表から顔を上げたその医師は50前後の
男性で、僕が会った楠木先生ではなかった。
ころにいちゃいけない」
僕は拳を握りしめ、項垂れる。
おそらくは、僕がこの場を離れるまで先生
は傍にいるつもりなのだろう。覚悟を決めた
としても、さすがに彼の目の前で飛び降りる
ことは出来ない。
そう思い至ると、僕は仕方なく頷き断崖に
背を向けた。そして歩き出す。歩き出した僕
の背を、先生の声が追ってきた。
「君、名前は?」
僕は振り返る。先生はそこに立ったまま、
白衣のポケットに両手を入れている。
「なつめ……高橋、捺人」
「捺人君か。いい名だ」
目を細め、白い歯を見せる。
ほっとするようなこの笑みに、どれだけの
人が救われたことだろう。頭の片隅でそんな
ことを思った僕に、先生は言った。
「もし、まだ死にたい気持ちが残っていた
ら、うちのクリニックに来なさい。家族にも
話せない胸の内を、全部吐き出せばいい」
僕はこくりと頷く。話したところで僕の病
気は治らないけれど、先生はきっと生きる力
を僕に与えるつもりなのだろう。
僕は再び身を翻し歩き始めた。家に帰ると
決めた足は、信じられないほどに軽かった。
数日後。
僕は楠木こころクリニックを訪れていた。
早朝から鈍行を乗り継いでここに来るのは
大変だったけれど、まだ診療が始まったばか
りの待合室にいる患者は疎らだ。
「高橋さん、お入りください」
看護婦さんに名前を呼ばれ、診察室の前に
立つ。先生にどんな顔をされるだろうかと思
えれば、ドアノブを握る手に汗が滲む。
「失礼します」
僕はドアを開けると、白いデスクに向かう
白衣の男性を見やった。そうして目を見開く。
問診表から顔を上げたその医師は50前後の
男性で、僕が会った楠木先生ではなかった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
「みえない僕と、きこえない君と」
橘 弥久莉
ライト文芸
“少しずつ視野が狭くなってゆく”という病を
高校生の時に発症した純一は、多少の生きづらさ
を感じながらも、普通の人と同じように日々を
過ごしていた。
ある日の仕事帰り、自転車でのんびりと住宅街
を走っていた時に、ふとした油断から通行人の女性
にぶつかってしまう。慌てて自転車から降り、転ば
せてしまった女性の顔を覗き込めば、乱れた髪の
隙間から“補聴器”が見えた。幸い、彼女は軽く膝を
擦りむいただけだったが、責任を感じた純一は名刺
を渡し、彼女を自宅まで送り届ける。
----もう、会うこともないだろう。
別れ際にそう思った純一の胸は、チクリと痛みを
覚えていたのだけれど……。
見えていた世界を少しずつ失ってゆく苦しみと、
生まれつき音のない世界を生きている苦しみ。
異なる障がいを持つ二人が恋を見つけてゆく、
ハートフルラブストーリー。
※第4回ほっこり、じんわり大賞
~涙じんわり賞受賞作品~
☆温かなご感想や応援、ありがとうございました!
心から感謝いたします。
※この物語はフィクションです。作中に登場する
人物や団体は実在しません。
※表紙の画像は友人M.H様から頂いたものを、
本人の許可を得て使用しています。
※作中の画像は、フリー画像のフォトACから選んだ
ものを使用しています。
《参考文献・資料》
・こころの耳---伝えたい。だからあきらめない。
=早瀬 久美:講談社
・与えられたこの道で---聴覚障害者として私が
生きた日々=若林静子:吉備人出版
・難病情報センター https://www.nanbyou.or.jp/entry/196
・https://koikeganka.com/news/oshirase/sick/4425
罪の在り処
橘 弥久莉
ライト文芸
「この世に存在する意味がない」。
そんな言葉を遺し、親友が命を絶った
忌まわしい事件から十年。
加害者家族を支援する団体で臨床心理士
として活動している卜部吾都(うらべあさと)
は、交流会、『心のよりどころ』で、兄が
殺人を犯したという藤治佐奈に出会う。
「加害者家族であるわたしは、幸せになっ
てはいけない」。参加者の前でそう語る彼女
の瞳は暗い影を宿していて、吾都は罪の呪縛
から彼女を救いたいと感じる。
けれど日々の活動に忙殺され彼女に連絡出来
ないまま時を過ごしていた吾都は、ある晩、
偶然にも彼女が命を絶とうとする場面に
居合わせ、我が身を投げ出し助けることに。
後日、顔を合わせた彼女に死のうとした
理由を訊ねると、『兄』ではない『兄』
からの手紙に書かれた一文に絶望し、生きる
気力をなくしたということだった。
ーー彼女の身に何かが起ころうとしている。
謎の一文に言い知れぬ胸騒ぎを覚えた吾都は、
佐奈と共に手紙の送り主を探し始める。
この『兄』は誰なのか?旧知の友である刑事
課の木林誠道に力を借りながら真実を手繰り
寄せるうちに、吾都は心に闇を抱える佐奈に
「笑っていて欲しい」という慕情のような
想いを抱くようになり……。
心に傷を負った臨床心理士と、加害者家族
という罪を抱える古書店員が織り成す
ヒューマン・ラブミステリー。
※この物語はフィクションです。登場する
人物・団体・名称等は架空のものであり、
実在のものとは関係ありません。
※表紙はミカスケ様のフリーイラストから
お借りしています。
※作中の画像はフリー画像サイト、pixabay
からお借りしています。
<参考文献・引用元>
・息子が人を殺しました 加害者家族の真実
阿部 恭子 著 幻冬舎新書
・加害者家族 鈴木 伸元 著 幻冬舎新書
・死刑冤罪 戦後6事件をたどる
里見 繁 著 インパクト出版
寝室のクローゼットから女の声がする!夫の浮気相手が下着姿で隠れていてパニックになる私が下した天罰に絶句
白崎アイド
大衆娯楽
寝室のクローゼットのドアがゴトゴトと小刻みに震えて、中から女の声が聞こえてきた。
異様な現象を目の当たりにした私。
誰か人がいるのかパニック状態に。
そんな私に、さらなる恐ろしい出来事が目の前で起きて…
もっさいおっさんと眼鏡女子
なななん
ライト文芸
もっさいおっさん(実は売れっ子芸人)と眼鏡女子(実は鳴かず飛ばすのアイドル)の恋愛話。
おっさんの理不尽アタックに眼鏡女子は……もっさいおっさんは、常にずるいのです。
*今作は「小説家になろう」にも掲載されています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる