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最終章
最終章
しおりを挟む正午過ぎまで眼を開いたなり、わたしは床の上に横臥って糸島での出来事や女のこと、月日を振り返りつつ、さては後の生活についての思案なぞをとやかくしていたが、ついにはそれにも疲れて覚えずうとうとと転寝をしてしまった。
いよいよ起き出して顔を洗ったのは午後の二時に近い頃であった。いつも行くカフェーに出向いて、珈琲を飲みながら此の半日を、最後の糸島の半日をどう送ろうかと彼是と考えた。今一度、隈なく街を歩き廻ってみようかとおもったが、そうするには街は広すぎた。
わたしは此の地を去る切っ掛けとなった場所である公園へと向かった。広い園内に正しく列を成した木立には若葉の芽吹く様が眺められた。其の淡く薄い柔らかな緑が春の光に一枚一枚が射通され、下から見上げると緑の絵硝子で張り詰められた天井の様であった。
悪い夢としたい出来事があった頃とは違って、薄明るい木陰の椅子に腰掛けて四辺を見渡すと若々しく見える人妻であろう女性が真白な頸を見せながら乳母車の人形より可愛らしい幼児をあやしている。
互に身につまされる話を打ち明けているのであろうか。三人四人と椅子を近寄せて小声でしんみりと語り合う様子もあった。
其の様子をば通りすがりに杖を止め、衰えた悲しい眼で、じっと打目戍った見すぼらしい白髪の老人もいる。又、身を凭れ合って、うっとりとおもいに耽る男女も在る。凡ては皆生きた詩である。
其の様は極点に達した幾世紀の文明に、人も自然も悩み疲れた現代に見られる生の営みを謳い上げる詩ではなかろうかと、わたしはおもえた。仮に文壇で名を知られる事はなくとも、斯様な精神で人々の生きるを筆することが出来たなら、文士として十分に幸福光栄であろう。
ああ、此の苦痛。わたしはどうしたら可いのか。いっそ今、咄嗟の間に電車に乗り込んで発してしまえばともおもう。
別れた後ならでは、誠の恋の味は解されないものだ。今更のようにわたしは、お京の美しい姿と所作、心持をおもい返した。
唐津まで彼女を連れ立った新しい旦那が好い人物であればと願いながらも、運命の悪戯とは云えど、わたしとお京は如何に遥けく隔たったかと顧みれば切なさも募った。
凡そ悲しきも嬉しきも、巷に活ける浮世の芝居と虚無な態度を装ってはみても、殊更に忘るるを能わざるは好んだ女の事なりと、真の声が耳元で聞こえた。
窓に坐って通り過ぎる素見客にからかわれたり、又逆にからかっているお京。其の間々に中仕切りの大阪格子を隔てて、わたしの方にも話をしかける。近くのカフェーから女給がかき氷を運んで来て。
「あなた、氷なら食べるでしょう。あたしがおごるわ」
「お、宇治金時か。わたしは抹茶の味が好きでね」
「覚えてるわよ。実があるでしょう。だからもう、そこら中で浮気をするの、お止しなさい」
「此処へ来ないと、どこか他の家に行くとおもっているのか。仕様がないなぁ」
「男は大概そうだもの」
「氷で頭がつんと来る。食べてる中だけでも仲よくしようや」
「知らないっ」
お京はわざと荒々しく匙の音をさせて山盛りの氷を突き崩す。窓口から覗いた素見客が下卑た笑いをして声を掛ける。
「よう、姉さん。美味しかと」
「一つあげよう。口をお開け」
「青酸加里かもしれん。命が惜しかぁ」
「文無しのくせに、聞いて呆れらぁ」
「何云っとうや、この女郎」
「ふん、芥溜め野郎が」
そんな遣り取りを苦笑しながら眺めるわたし。博多を出発し東へと向かう車中で微睡んでいた脳裏に浮かぶのは、過ぎた日々の記憶であった。
逢わざる恨みほど深きはなし
我は程なく関西の地に着く
何時の日にか再び糸島を、伊都國を見得べきと
されど我は永世に彼の女に逢う事能わざるなり
時よ、恋よ、而して忘却よ
伊都國綺譚はここに筆を擱くべきであろう。
然しながら若しここに古風な小説的な顛末をつけようと欲するならば、半年或いは一年後に、わたしが偶然おもいがけない処で既に素人になっているお京と廻り逢う一節を書き添えればよいであろう。猶又、この偶然の邂逅が更に感傷的ならしめようとしたら、摺れ違う自動車だとか或いは電車の窓から、互に顔を見合して言葉を交わしたいが出来ない場面などを設ければ殊に妙でよいかもしれない。
わたしとお京は、互に其の本名も、住所も知らずにしまった。束の間に娼家で狎れ暱しむ間柄であったばかり。ひと度別れてしまえば、生涯相逢うべき機会も手段も無い。恋愛の遊戯と云いながら、再会の望みなき事を初めから知り抜いていた別離に情を強いて之を語ろうとすれば、誇張に陥る事を逃れない。又、之を軽々に叙し去れば情を尽くさぬ憾みがある。
能く這般の情緒を描き尽くし、人々をして暗涙を催さしむる末段はあるが、此の伊都国綺譚に斯様な色彩を添加するなら、徒に至らざる笑を招くに過ぎぬものとなるであろう。
わたしはお京が、永く娼家で極めて廉価に其の媚を売るものでない事を早くから之を予想していた。わたしが若い頃に、遊里の消息に通暁した老人から以下のような話を聞かされたことがある。
これほど気に入った女はいない。早く話をつけないと外の客に身受けされはしまいかと心配すると、其の女はきっと病気で死ぬか、さもなければ突然に厭な男に連れて行かれる。何の訳も無い気病みというものは存外に当たるものだという話だ。
お京はあのような地の遊女には似合わしからぬ容色と才智を持っていた。鶏群の一鶴であった。然し、昔と今とは時代も違う。病むとも死する事はあるまい。あの質素な家の屋根の下で、風雨の重苦しい空に映る燈影を望みつつ、わたしとお京とが真暗な部屋の窓に倚って互の汗ばむ手を取りながら、唯それとなく謎のような言葉を交わし合った時、突然閃き落ちる稲妻に照らされ浮かぶ横顔は、今も猶ありありと目に残って消去らずにいる。
恋愛の遊戯には早熟であったわたしが、此の壮年と呼べる年齢に至って、癡夢のような語りをせねばならぬとは。
運命を揶揄すること、また甚だしいものである。
終
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