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第十五章
第十五章
しおりを挟む十二月の曇った空は重く湿った羅紗の様であった。深い霧に閉ざされて、風の戦ぎさえ絶えていた。立ち続く並木は黒い雲の如く、その暗澹たる木立からは午後の四時過ぎだと云うのに白く褪せた電燈の光が煌き出す。路には人影無く、見渡す限り寂しいものだ。
車道には四台、五台と間を置きながら自動車が引き続き走り去る。道は湿っているので、車輪の音は鈍って反響した。何れもまだ灯を点けずにいた。
わたしのこころは忽ち冬の夕方の物悲しさに冒されてしまった。殊更、湿った静かな枯木の色が堪え難い程の悲哀を映し、不快ささえ感じられた。
咄嗟の反抗心で斯様な不快な色の中に闖入してやりたくなって、公園の林の中へ行ってみようとおもった。時節違いで誰一人と居まい。それから不景気な居酒屋を騒がしてみよう。我ながら驚く程に、この様な考えが突飛で且つ痛快である気がした。
然し、其処でわたしは伊都での時間という岸辺に押し寄せては帰し、削り落とした砂で濁り淀む流れを失した河溜りとも例うべき日々を突如遮断される事になるのであった。非日常の使者が齎した危機は、正しく突如わたしを襲った。其れは何もかも奇怪な、見苦しい、悲劇的な出来事ではあったが、此れまでの身上に起こった幾多の事件を考えるならば別段奇異なものでもない。むしろ平凡ではないと云った程度かも知れない。
わたしは若かりし頃より政治的活動に関わっていた。元より家系代々がそうであった因縁ならばこそ、随分と其の情熱は烈しく真剣なもので、治安維持を目的と称する権力組織からは疎まれるだけでなく、度々厄介にもなり痛い目にも遭った。また別の方面から気まずい連中からも狙われる混沌とした様相を呈する中で、何時しかわたしは心身を深く傷つけ、そして活動から離れたのである。
だが逃れられない宿命であるかの様な経緯から、わたしは復も関係する仕儀に相成った。博多の街を訪れ、後に伊都と呼ぶ地で無為なる放蕩の時を過ごしていたのも、面倒な事柄から身をかわして暫し逃亡するという側面もあったのだ。
屈強なる男たちに囲まれ、わたしは薄れつつあった意識が定かにした。そうなのだ。わたしは大半の人生を波瀾重畳の中へと抛り込んで、いずくともなく吹き荒れる旋風に舞い狂うように送っていたのだ。身に迫る暴力に多少の抵抗は試みたものの、わたしは拘束され、連れ去られた。無論、誰にも気づかれること無く。
寝室は暗し。磨きたる寄木に床板に映る、暖炉で燃ゆる火の色は薔薇の如く紅い。窓幕のあわいより幽暗なる微光の漂えり。我が目に届くは東雲か黄昏か。二月の冬の日は、さらば雪にてはなかりしなり。昨日より未だ一片のパンをも口にせざりき。我は飢えたり。しかも臥所を去る事を能わず。之は夢か現か。こころ余りに懶し。遠くより鐘の音聞ゆ。夕は来たれり。起きよ目覚めよ。夕鐘は頻りに鳴り、車の音は路を走れり……。
斯様な詩吟を口にしつつ、理不尽で執拗な苦悶の時を重ねた後、漸く自由にさせられたのは、既に暦では春の訪れを告げる頃であった。されど、猶痛みに軋む身体が伏した床から起き上がるには半月ほどを要した。
図らずも糸島のラビラントの一隅に於いて浮世半日の閑を偸んでいた時を、突然に邪魔されてから三月が経っていた。
お京はどうしているだろう。此の顛末を晩時ながら説明して、姿を見せずに居た事を説明したい……わたしはそんな心持で陽が落ちて薄暗い灯影が水溜りの面に反映する、風流絃歌な路地へと入った。
風が真っ向から吹きつけ髪を乱す。片手を目の前に翳してみたものの覚えず苦笑を浮かべてしまう。店前の幟は竿も折れんばかりだ。
廃屋らしき影に深くする闇の中で、がさがさと何か枯れたような響がする。俄かに広く打仰がれる空には銀河の星という星の光が如何にも森然として冴え渡っているのが、言い知れぬ寂寥を胸に宿した。
人家の後ろを走り過る電車の響が烈風に掠れ耳に届くと、更にこの寂寥を深くさせた。陋巷の間を迂曲する路を辿って彼の店の前に着く。客引きをする男は此方を見て会釈をした。
「おひさしぶりで」
「お京は……いるかな?」
「あぁ、彼女は店を辞めたとですよ」
「そうか……どこへ行ったか知ってるかね」
「さぁ、詳しくは。なぁんか唐津の方にとは」
「唐津、か……」
わたしの嘆息交じりに考え込む素振りは、男の陽気な声を誘った。
「折角、来んしゃったとやけん、新奇の女子もたくしゃん居るんで、ちょこっとどげんですか?」
「そうか。賑やかになったんだな」
男は扉を開けると呼び鈴を鳴らして中へと誘った。わたしは彼の背をぼんやりと眺めながら後を続いた。
酔いて場を出れば春の夜は尽きて
憂鬱極まりなき暁の光蒼白く狭き路地に漂いぬ
燈火は疲れて瞬きせり
一夜を舞い明かせし女は
さながら道の辺にて辱めに遇いたるが如く
乱れたる髪を整える態もしどろなる姿して
歩みを速めり
薄暗き娼家の蔭には一夜の餌を得ざりし女
哀れなる声して行く人の袖を捕えんとす
風は冷かに面を撲てり
我がこころは憂いぬ
故ありし悲しみに
我が眼には燈火に照らされし
女人を包む衣服の色彩にいみじき
女の肉の形を忘れ得ざりき
ああ、放蕩の真味と云うは強き慙愧
我は知りぬ
暫くして、わたしはお京が病んで唐津の病院に居ることを知った。店の雇人から聞いた話なので病の何であるかも知る由が無かった。
散歩をしていて立ち寄った安酒場では人々の着ている毛織物から湿った匂いがぷんと鼻につき胸が悪くなった。
「此の地を離れるか…」
わたしは部屋に帰ったら、旅の支度をしようとおもった。
続
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