伊都國綺譚

凛七星

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第十章

第十章

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巷に雨の濺ぐが如く わがこころにも雨が降る

如何なれば係る哀しみ わがこころの中に進み入りし

地に響き屋根に音する蕭条なる雨の音よ 雨の調べよ

わがこころは何が故に憂うるとも知らず 唯だ訳もなく潤う

訳もなく哀しむ哀しみこそ 哀しみの極みと云うものだろう

憎むでもなく愛するでもなく わがこころには無量の哀しみ



 調子をつけて口にしたのはヴェルレーンという名の詩人のものだ。窓の硝子戸から雨の町を見下ろすと、何だかより意味深い詩のようにおもえた。
 人家はまばらにあり、工場や倉庫とその駐車場は色をくすませている。彼方に見える流れには曳き船らしき影が幾艘も繋がれていた。石堤を降りた水際には蘆の茂った処で、幾人もが雨合羽を被り並んで釣りをしている。流れが横切る、正面遥かに聳えた糸島富士と呼ばれる可也山の頂には低く雲が垂れ込め、中腹の緑は帯びた黒味を深くする。
 英吉利西語でジプシイ、仏蘭西語でボヘミアンと呼ばれる類の人種に身を費やしてどれ程になろう。浮浪、無宿、漂白。嗚呼その言葉の響きが、いつもながらどうしてこうも自分の胸の底深くで言霊するのか。浮浪、それこそが人生の真の声ではあるまいか。
 親もなく、兄弟もない。死ぬ時節が来れば独りで勝手に逝けばよい。恩愛だの義理の涙なぞを見る煩いもない。万が一病気にでもなれば慈悲も情けもなく誰も知らぬ地の路傍に朽ち果てればよし。その様なことをおもい巡らしていると、どうにも居た堪れぬ心持ちになって、近くの居酒屋へと向かったのはもう夜であった。



 独り卓に座り猪口だけを相手に酒を酌んでいると、いつのまにか自分が強かに酔い過ごしている事を知った。性の悪い酒の為だったか、頭がぐらぐらして夜空が廻転してるように見える。
 わたしは一本道を真っ直ぐに進んだ処にある公園の長椅子に前のめりに倒れるようにして横臥した。寝返りを打つと人家の燈や、過ぎ行く自動車の燈が見える。
 辺りの暗い木立の間には猶も暗い方へ暗い方へと歩いて行く忍び逢いの男女が折々通った.わたしは身を起こすとポケットを手探りし、煙草を取り出して火を点けた。すると滅入ったこころは滅入ったなりに、もうどうやら沈着いて了ったらしくおもわれた。
 夏は過ぎた。頬を撫で去る夜風がそれを教えてくれた。
 並木の繁っている通りへと出る。電車の終点と覚しく、空いた車輌が駅に停っていた。傍らの木の下には運転手や車掌が帽子を片手にベンチへ腰をかけて、煙草を喫んだり談笑をする姿があった。
 まだ人出がちらほらする通りから忽然と薄暗い横道に入ると、程なく女給を相手に呑める風情の酒場の灯りが幾つか見える。わたしはその中のひとつの戸口に暫し立って、漏れ聞こえる嬌声に耳を傾け佇まいを眺めた後、中へと這入った。
 扉を開けると、ぱっと明るい燈火がわたしを照らした。紫煙と酒の匂いが漂い、女の香気が噎せ返るように満ちていた。片隅では一段高くなった台の上で得意気に赤ら顔をした客が、比律賓の女らしき腰を抱いて唄っている。室の一方に設えたカウンタァには丈の高い円椅子に腰をかけて寄り掛る男女が身体を密着させて、いまにもその場で情交でもしそうな勢いである。
 四辺を見渡しながら据え並べられたテーヴルのひとつに悠然と陣取ると、程なくしてマダムと覚しき小太りの中年女が、背の高い痩せた露西亜系らしい女を伴って席まで品を作りやって来た。

「此処は初めてよね?」

 マダムだと自己紹介をする女はわたしの向かい側に坐り、若い白系女に隣席へ着くよう目配せをする。傍らに坐った女は着痩せする性質のようで、身を摺り寄せ凭せ掛けたときの乳房はおもいのほか豊かであった。下着も覗けようかという裾丈の短いドレスから伸びた脚は、西洋人特有である膝下が長く滑らかな曲線を描いていた。
 女に聞いてみると、果たして露西亜から来たと言う。少々匂う甘酸っぱい体臭も嫌悪感よりも、男を煽情させるものであろう。料金の説明を受けた後ひとしきり安物ウイスキーを水で割って呑んでいると、酔いも廻ってきたか酌をする女からの刺激も手伝い何やら落ち着かなくなった。
 しかし淫靡に戯りたくとも、此処では斯様な相手をする商売まではして居らぬ様子。どうしたものかという顔をして居ると、ターニャという名の女が「オンナガホシイカ」と耳打ちしてきた。わたしが頷くとターニャは女主人を席に呼んだ。

「お客さん、もう少し呑んでくださるんなら、その娘を店の外へ連れ出してもよかよ」

 確かにターニャは魅惑的であった。雲のように渦巻き出で豊かに両の耳を被う髪の黄金に輝くにつれて、化粧した細面は抜けるように白いばかりか、近くで見詰めると西洋人の皮膚とはおもえぬ滑らかさは驚くほど。眼の縁、口尻など験べても、まだ目につく様な小皺も筋もない。とは云うものの、やや落ちこけた頬の寂しさと青く澄んだ瞳の底には、久しく斯様な生活に様々な苦労をしたやつれが現れていた。
 露西亜の若い女は殊の外美しいと云うけれど、実際だとわたしはおもった。その襟許の美しさ、その肩の優しさ、綺麗に手入れされて飾られた爪と細い指先。男なら万事を忘れて其の方に惹きつけられよう。

「わかった。今夜はそうしよう。ただ、他にもこの辺でどんな店があるか教えて欲しいもんだね」
「この辺りんくさ、遊びば好きな連中が多い唐津も近かけん。湾も傍やろ。其の手の商売は昔から結構あるとよ。それに……」
「それに?」
「ちょっと特殊な地域があるけんねぇ」

 わたしは周囲に注意し、声を潜めるマダムの口振りと態度から、皆まで聞かずとも何とはなしに伝えたい旨が推し量られた。さらにわたしが数ヶ月程、この糸島に拠点を構えていると知ると、

「まぁ、ちょっと変わったところもあるとよ。地の人やらヨソモンを警戒するとこがあるばってんが、お客さんも気づくやろうもん。ウチも地のモンじゃなかけんね。最初ここに来た時は色々と感じよったと」

と意味有りげに声を潜めた。

「へえ、そうなんだ。あ、それは兎も角、今夜はこの娘と楽しませて貰うよ」

 わたしは糸島に来て以来そこはかと周辺の人々から受けていた印象の原因たるものが何であったのかを、深い闇の底を仄かな灯りで照らし視た如くおもえた。


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