楽器店に流星

乃翠奏頼

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15 星を待つ冬

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「……ったく、毎日毎日さっみーな」

 十二月に入ると立て看板を出すために店の外へ出るだけで覚悟がいるので、涼は防寒に一番強いジャージと半纏を羽織って外に出た。ご近所にどう見られたとしても気にしない。寒いものは寒いのだ。
 八秒で看板を出して店内へ戻ると、暖房が回っている店内で息を吐く。開店直後に客が来ないのは相変わらずで、涼は真っ直ぐリペアルームへと戻った。

 父も相変わらず猫背で、修理依頼されたオーボエの作業を黙々と進めている。変わったことと言えば、めっきり口数が減ったことくらいか。ここ数ヶ月間のリペアルームは雑談もなく静まり返っていた。

 涼も何も言わず自席へ座り、中断していた作業を再開する。

 着火したバーナーから出る細い炎へ、アルトサックスの取り外した部品を翳して加熱する。部品に付いている接着剤を溶かして外し、新しいものと取り替えるためだ。
 冬は苦手な涼だが、作業するには冬の方が良い。空気も澄んで静かで集中しやすく、少し時間も経って立野のことを冷静に考えることができるようになった。

 別れ際、立野は戻ってきたら楽器を学びたいと言っていた。それなら、働きながら学校に通えるようにこの場所を守っておきたい。
 隣にいたいとも言ってくれた。それなら戻ってきても失望されないように、あの時の自分より少しでも技術を上げておきたい。
 そう自分の中での方向が定まったら、時折ニュースに出るhisaの話題を目にしても多少は動揺しなくなり――

「涼! 立野くん……じゃなかったhisaが、年末で事務所を退所するって!」
「え!? あっつ!」

 涼は指先の熱さで飛び上がった。蝋燭のような形をした棒状の接着剤を溶かしていたはずが、動揺と目を離した途端に指先を炙っている。

「ほら見て! <VINCERO>公式SNS!」
「どれどれ!?」

 母が見せてきたスマホの画面には先に父が飛びついた。

「親父が飛びつく方が速い……だと……!」

 一気に仕事どころではなくなったリペアルームからそっと抜け出し、涼は自分のスマホを持って店の裏口から外に出る。

 首筋を撫でる冷気に首を竦めながら、しばらく止めていた煙草に火をつけた。
 煙を吸いながら壁に寄りかかり、逸る気を抑えて画面を撫でる。涼もこっそりチェックしていた<VINCERO>の公式SNSには、新しい投稿が更新されていた。

『応援してくださる皆様へ
 <VINCERO>のhisa、franの両名は、お世話になった音楽事務所<高柳>を今月二十八日付で退所することとなりました』

 その下に二人からの挨拶が続いている。涼は緊張してしまいながら親指の動きを速めた。


『皆様へ
 いつもありがとうございます。かねてより体調不良が続いており、たくさんご迷惑をおかけして申し訳ありません。
 医師とも相談の上、今後の演奏活動を続けていくことが困難だと判断し、この度事務所を退所して引退する運びとなりました。
 今後は治療に専念しながら、新しい人生を歩んでいきたいと考えています。
 かけがえのない時間を皆さんと過ごすことができて、本当に幸せでした。      ーーhisa』


 淡々とした短い文章でありながら、さまざまなものが詰まっていて涼は大きく息を吐く。
 すると添付されていた動画が親指に触れ、徐に映像が回り始めた。

 レコーディングスタジオのような室内に、<VINCERO>の二人が楽器を携えて佇んでいる。二人は何故か近くに座らず思い思いの位置取りをしており、自由に楽器の音出しをしていた。
 顔が髪に隠れていたが、遠くで真横を向いているチェロの人物がhisaであり立野だと分かると、涼の心臓は早鐘を打つ。
 hisaは音出しを止めて弓を振ると、弓を弦の上に乗せてから静かに息を吸った。
 それは合図のためのブレスで、見えないカウントに乗ってヴァイオリンがメロディを紡ぎ出す。

 奏で始めたのは『Por una cabezaポル・ウナ・カベーサ』――首の差で、と訳されるタンゴの有名曲だった。

 競馬において首の差ほどの僅差で敗れたように、恋の駆け引きに負けてしまった哀愁を歌う曲である。
 失恋の曲ながら明るい八分音符のメロディと、中間部の情熱的なメロディの対比は多くの人の心を掴み、アレンジを織り交ぜながらたくさんのアーティストに演奏されている。

 弓全体を使って弦を鳴らす音色、左手によってかけられるビブラートの音色はため息が出るほど豊かで、franの弾く優雅なヴァイオリンが明るいメロディを、hisaのチェロが情熱的なメロディを弾き上げて心を揺さぶる。

 きっと今、涼と同じように画面を見つめる人々が世界に大勢いることだろう。

 気付けば涼は、大粒の涙を溢していた。

「弾けてんじゃん……立野くん……」

 いつまで待たせるのかとか、本当に帰ってくるのかとか、あれから電話が大変だったんだとか、色々とぶつけたいものは燻っている。

 だが弾けないと吐露していた演奏家が申し分なく弾けているのを見るだけで、ただ元気そうな様子を見るだけでそんなものは吹き飛んでしまった。
 曲の良さがまた小憎らしい。――こんなの、好きが募って苦しい。久しぶりの煙草が濃くて重苦しい。

 涼は次々と湧き上がる感情を持て余してしばらく泣いた。

 万年日陰の裏口は気温が低く、吐き出した息と煙が仄白く漂っていく。



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