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14 ある夜のこと
しおりを挟むそれはある真冬の金曜の夜だった。
くたびれたサラリーマンの涼が、二軒目のバーに入る時間帯だ。
一軒目から一人酒でもうすっかり酔いが回っているが、相手を見繕わないと眠れそうになかったのだ。
顔の良いタチが一人で飲んでいないか都合の良い願望を浮かべながら、鈴のついた木の扉を開けて中に入る。
すると六十後半で灰色の口髭を蓄えたマスターが涼を認めてそっと微笑んだ。
「あれ? 今日空いてるじゃん」
するとマスターはこくりと頷いて、小さなメモ用紙にボールペンを走らせた。
達筆の字はこう告げる。
『常連しか入れないようにしてあるからね』
「あれ、そうだった?」
このゲイバーは駅前の大通りからも外れて入り組んだ通りに建つ雑居ビルの三階にある。初来店では置き看板がないとまずたどり着けないことを逆手に取り、マスターはたまにそんな措置を取っていた。
『彼、悩んでるようだから話を聞いてあげてほしくて』
マスターはまたボールペンを走らせた。
『俺でいいの?』
カウンターに一人座る先約の背中を見やり、マスターのボールペンでそう書いた涼にマスターは大きく頷く。涼が頼んでもいないカクテルまで差し出した。
『カシスソーダ、私の奢り』
そう書いてボールペンを置いたマスターは、眼鏡の向こうにある細目の片方を閉じてくるりと背を向け、グラス拭きに戻ってしまう。
日頃世話になっているマスターにここまでされて無碍にはできなかった。
「隣いい?」
気後れしながら先約に近付いて涼が訊くと、硬い声音が返ってくる。
「……どうぞ」
ちらりと向けられた顔はまた戻され、涼は男の横顔を眺めることになった。
高い鼻梁に白い肌。髪は店内の照明に当たって淡く輝く白い色彩で、スーツで溢れる職場に身を置く涼にはひどく眩しく映った。
涼が普段見るのは、茶色に染めた女性社員の髪色に色彩を抑えたオフィスカジュアル、男性社員のネクタイやシャツの差し色などが精々でこんなに鮮やかな髪色は久しく目にしていない。
一体何色なんだろうと、ふと思う。白髪でも、銀髪でもない、もっと他の色。
「……何というか、星の色?」
「え?」
思わず呟いた言葉に男は驚いたように振り返った。
「あー……ごめん、髪色がこう、キラキラしてて星みたいで、キレーだなって思って。あと俺、もう結構酔ってるから気悪くしたらごめん」
「いえ……そんなこと……」
男は瞬きながら、自身の髪に触れた。
「初めて言われました。珍しがられる方が多くて」
「そ? キレーだよ。染めてんの?」
「地毛です」
「へえ~、そりゃ更に良いじゃん。そういう色に染めてみても俺はこんなキレーな色になるかどうか」
「あ、ありがとうございます……」
僅かに彼の雰囲気が軟化したことを察知し、涼は口を開く。
「今日はどうしたの? なんかマスターがなんか悩んでるって言ってたけど」
カシスソーダを傾けながら切り出すと、男は息を詰めて瞬いた。
「あー……、えっとな。これは何が何でも俺に話してみろよってことじゃなくて。さっき、話聞いてみてくれってマスターに奢ってもらっちゃって、聞いとくだけ聞いとこうと思って聞いただけだから。話したくなかったら話さなくてもいいよ」
「は、はい……?」
「マスターな。パートナー亡くされてから声出なくなっちゃってて、お客さんの話を聞いたり、会話したりできないのを気にしてんだよ。俺はその絡み、っていうか」
これでカシスソーダ分の働きは返せただろうと、涼はカウンターの方を見やる。
マスターはまた振り返ってウインクをし、体の向きを戻してしまった。
「あとちょっとシャイなんだよな」
男は納得したように何度か頷いている。
「そうだったんですね。いえ、ありがとうございます。そっとしておいてもらうだけでも助かっていたんですけど……やっぱり、聞いてもらってもいいですか?」
こちらを初めて向いた男の顔を目の当たりにした涼は、男の髪と同色の睫毛に縁取られた切れ長の目元に釘付けになった。男を見ているだけで今までの酒が一気に巡り始める。
「……いいよ? 酔ってるから、あんまいい考えも浮かばないかもだけど」
話を聞くと言った途端に酔いが回ってきた涼は、何とか眠さを押し殺しながら、男の話を聞き続けた。
「お兄さん? 大丈夫ですか?」
「大丈夫、だいじょーぶ……」
そう繰り返し続けて、ふと意識が繋がった時には見知らぬベッドの上だ。
「あ、起きました?」
半裸になった、先程まで隣の席に座っていた男に組み敷かれている。
「今更びっくりしないで。お兄さんが誘惑してきたんですよ」
「まじで……?」
「お酒の口移しとか」
「何それ、すげー酔ってんな……、って、うわっ」
腿の裏を掴まれて膝と肩を縫い付けられた涼は、秘部を男に晒してから初めて自分が何も着ていないことに気付いた。
「寝ないでくださいね。煽った分は……頑張って」
身体を近づけて見下ろしてくる男の髪が、涼の顔の周りに落ちる。蠱惑的に囁いた男の声に、全身は否応なしに高められていった。
「っ……なんだ、大人しそうに見えて結構やるじゃん……」
涼は男の腰に脚を巻き付けようとして――
*
全身に鈍い痛みが広がった。
「……っ、いってえ……」
部屋の床しか見えない視界に、重い身体。
窓から差し込む朝日が目元を照らし、ようやくベッドから落ちたことを自覚した。
「リーマン時代の、夢か……。……いてて……」
年末頃の、数ある出会いの一つだ。
涼は節々の痛みに耐えながら起き上がり、欠伸をしてからふと瞬く。
「……あれ?」
そんなまさか。いやしかしと記憶を手繰るも、起きた瞬間に夢で見た景色は綺麗に消えてしまっている。
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