楽器店に流星

乃翠奏頼

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3 楽器店のお仕事(1)

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 案の定あまり眠れなかった涼が七時過ぎに起床すると、立野はもう起きて食卓についていた。

「おはようございます!」
「お~……。朝から元気だな~……」

 涼は寝起きかつ寝不足の顔を前髪で隠すと洗面所へ逃げ込む。
 それなりに身支度を整えてから再び食卓に戻るが、正直起き抜けを立野に見られた時点で意味は成していないだろう。

 忙しい五十嵐家の朝は自分で用意するスタイルだ。涼はキッチンの作業台に置いてあった市販の食パン袋から一枚取って半分に折り、三口で詰め込む。コーヒーで流し込みながら冷蔵庫を開け、バナナを見つけて立ったまま一本平らげた。
 両親はもう一階に降りて開店の準備をしていたが、立野は律儀に涼が食べ終わるのを待っていて――この、涼が咀嚼をしている静かな時間がとても気まずかった。

「食べるの速いですね」

 そりゃ急いでいるからねと言いかけたが、立野の髪が窓から差し込む朝日を受けてきらきらと輝いている様を見て毒気が抜かれてしまう。

「……髪、なんか特別なことしてんの?」
「え? えっと、特には、何も……」
「……そっか……」

 涼は距離感を掴みあぐねていた。
  
 *
  
「じゃあ、軽い仕事からな」
「はい!」

 いがらし楽器店とプリントされた紺色のエプロンを着た立野は、箒を携えて頷いた。
 朝食時には気付かなかったが、立野はエプロンの下に涼の白いTシャツとライトブルーのジーンズを合わせていた。提供元はもちろん母で、立野が着てきた服は仰向けになった際に汚れたため現在洗濯機の中で回っているそうだ。

「開店は十時。閉店は夜七時。その時間が近くなったら、店の前を軽く掃いてくれ。ちりとりで適当に拾ったら、裏にあるゴミ箱に捨てる」
「分かりました」

 涼が店の裏口へ通じる外の細い道と途中にあるゴミ箱を案内した後、立野は早速掃除を始めた。動き回るたびに襟足でまとめられたプラチナブロンドは朝日を受けて煌めく。
 第一印象がおとぎ話の妖精のせいで一般的な掃除の仕方も教えるべきか悩んだが、ちゃんと心得ており真面目に取り組む普通の人間で安心した。

「喫茶店時代にもよく掃除をしていたので」

 立野は少し得意そうに微笑む。

「その喫茶店って、この近所?」
「えっと……、都内です」
「へぇ」

 立野がここに来る前は都内にいて、県境を超えてやってきたことが分かる。だがこれ以上は聞いてほしくなさそうな壁を感じ、涼は大人しく引き下がった。
 掃除用具を片付けた後は、立野を連れて店内の配置を案内する。

「店入ってすぐ、電子ピアノとエレキギターの陳列。奥のガラス張りの棚には管楽器と弦楽器。これは普段鍵が掛かってるから、試奏したいってお客さんが来たり、予約の電話が入ったりしたら声掛けて。あんまりいないけど。で、中央に並んでる棚はCDやDVD、楽器アクセサリーや雑貨、楽譜や音楽関連の本も並べてある。まあ、追々覚えてくれれば良いし分かんなくなったら聞いて。あと、棚を抜けた右奥がリペアルームで、隣の部屋が試奏用の防音室」

 店内を見回しながら立野はおずおずと訊いてきた。

「楽器アクセサリーって、楽器に使うお手入れグッズってことで合ってますか?」
「あ~、そうそう。楽器の掃除用品とか。例えば管楽器だと管内の水分を拭く布とか、楽器の金属部分を磨く薬品とか布とか。チューナーやメトロノームもそうだし、弦楽器の松脂もそれ」
「松脂も!」

 立野はぱっと顔を輝かせた。松脂は、弦楽器奏者が右手に持つ弓の毛の部分に塗って音色を安定させるものだ。

「種類の幅が広いんですね」
「そうだな。ウチの店で定義はない」
「これは覚えるのが大変ですね……!」

 言いつつ、どこか表情が生き生きしている立野に若干の素質を感じてしまう涼である。

(弦楽器やってる、って言ってたっけ?)

 少し引っ掛かりを覚えたが、レジスターの近くに設置してあるPCを起動し、仕入れで利用している通販サイトを開いているうちに忘れてしまう。

「次は発注。ウチの商品の回転はそう早くないけど、定期的に仕入れておかないとまずいものがある。まずは木管楽器のリード」
「リード?」

 立野は画面を覗き込んだ。

「サックスとクラリネット、あとはオーボエとファゴットが使うものだな。それぞれ大きさや形は違うけど、大体七センチから十センチくらいの大きさの、葦でできた薄い板。それぞれの楽器のマウスピースに取りつけて、息を吹き込んで震わせたら音になる」
「なるほど……、よく売れるんですか?」
「消耗品だしな。使ってるうちに板がペラペラに薄くなってくるから、定期的に買い換えないといい音が出ない」
「そうなんですか……。だからこまめに補充しないといけないんですね。……わ、たくさん種類がある」
「ああ。この中の、このブランドで、サックスとクラリネットの3と3.5さんはんを五箱ずつ注文して欲しい」
「さんはん?」
「リードの厚さ数値だよ。0.5ずつ上がるんだけど、読み方は『半』って読む。数字が大きいほど厚くなる」
「わあ~、専門用語っぽい」

 立野の質問に答えながら画面をスクロールしていると、背後に母が控えていることに気付けなかった。

「おふたりとも。研修中悪いけど、もう開店時間だから看板出してきてくれるかしら?」
「わあ絵美子さん! びっくりした!」

 立野が声を上げた隣で、顔に出ないよう取り繕った涼も数ミリ飛ぶ程には驚く。

「……立野くん、さっきの掃除用具入れの隣にしまってある看板出してきて。通りに向けて立てるだけで大丈夫だから」
「はーい!」

 ぱたぱたと靴音を立て、店先へ走っていく立野を見ながら母はにまにま笑った。

「あーんた。しっかり先輩風吹かせてるじゃないの~」
「いや先輩なんで……」

 いつになく饒舌だったことを遅れて自覚し涼は頬を掻く。

「やっていけそう? 彼」
「まだ様子見だけど、結構ちゃんとしてる」
「それは良かった!」

 母が大きく頷くと、看板を出してきた立野が戻ってくる。

「看板出してきました~」
「ありがとう、本日も開店ね!」

 郊外にある音ヶ山商店街の平日の朝は静かで、店を開けた瞬間に客が入ってくることはない。

「そういえば立野くん、昨日届いた荷物をまだ開けられてないの。たぶん楽譜とかリペア用のパーツだから、発注終わったらその仕分けもしてもらえるかしら?」
「もちろんです!」

 母の頼み事に立野は笑顔で答えた。積極的なのは好ましいが、少々張り切りすぎのような気がして声をかける。

「初日から頑張りすぎないほうがいいぞ」
「いえいえ。大切なお仕事ですし、このくらいへっちゃらですよ。それに僕、今すごく楽しいんです。前から楽器屋さんで働いてみたくて。今その夢が叶っているから」
「それなら良いけど……無理のない範囲でな」
「はい!」

 率直に、真面目だなと感想を持った。

 新しい仕事に取り掛かった立野の様子を見守り、一旦離れても大丈夫だろうと判断した涼は店の奥のリペアルーム、自分の作業場へと戻る。

 顧客から修理依頼を受けた楽器を診るリペアルームは、三畳ほどの空間がある。
 机を詰め込んで最大三人が作業できるような環境で、涼と父は互いにスペースを確保し合いながら仕事をしている。縦に細長いスリット窓を避けて壁一面に工具を掛けて並べており、少々雑然としているがものに囲まれている空間は居心地が良い。

「おう涼、今日納品があるんじゃないか」

 作業をしていた父が、視線を手元から動かさないまま独り言のように零した。

「知ってる。OJTが忙しいんだよ」

 つむじ辺りの髪をかき集めて黒いゴムで結んだ涼は、自分の作業席に腰を下ろして肩を回す。

「えーと、ファゴット最終調整して、アポが確か昼間……」

 昨夜机に貼り付けておいたメモを眺めて記憶を呼び覚ましていると、

「涼さん! 納品書と届いた物の付け合わせ終わりました!」

 リペアルームに立野が顔を出した。

「あ~……、ありがとな。ちょっと待って、在庫をしまっとくところ教える」

 仕事をひとつやり遂げた後輩の意欲を無碍にできず、涼はすぐに席を立った。会社員時代もOJT中は自分のペースで仕事はできなかったことを思い出す。
 在庫の保管場所を教え、今度は店内の陳列に商品を補充するよう頼んでから涼は改めて自席へ戻る。

「こうして見ていると、立野くんってひよこみたいだなぁ」

 父が相変わらずの間抜けた声で言うので、涼は瞬きながら労わるように言い返した。

「大丈夫か? 目とか、頭とか」
「うるさいよ。見た目じゃなくて、すり込みっていうの? 律儀におまえを追いかけるところとか、親鳥追いかけるヒナみたいだと思ってさあ」
「同い年だぞ」

 すると、レジの隣にある電話が鳴った。
 一コール目が鳴り終わっても誰も出ないと言うことは、店頭に母はいない。
 こんな時は基本的に涼が出る暗黙のルールがあるが、再三の離席にさすがの涼も反応が僅かに鈍っていると、

「はい! いがらし楽器店です!」

 在庫補充に勤しんでいるはずの立野の声が飛んできた。その声に父も作業の手を止め、立野を見遣ってから涼を見上げる。

「何も言わずに電話も取ってくれるなんて、やる気のあるいい子じゃないか。婿にもらったらどうだ」

 突拍子もない提案に涼は変な汗をかいた。

「う、うるせーわ。それに何で俺が妻側なんだよ」
「何となく」
「本当にうるせーな」
「涼さーん! なんとか中学校の田中さんっていう女性の方からお電話です!」

 親子のつまらない言い合いは立野のおかげで途切れたが、涼に小さな頭痛が襲う。

「……立野くん、今度からなんとかの部分が分かんなかったら、保留する前にもう一回聞き返そうな……!」

 言いつつ立野の元へ走っていった涼の背を見ながら、父はこっそり笑みを零した。

「しっかり親鳥じゃんなぁ」



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