ウインドオーケストラの恋人たちへ

乃翠奏頼

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縁とまゆ

四日目(1)

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 翌朝、開店前の三山楽器に無理を言って入らせてもらった満由は、昨夜使用した練習室で無事忘れ物を回収した。現在午前八時。気合いで起きた。
 リハーサルの開始時間は十時半からだが、準備のためにホールは八時半過ぎには開けられる。また、舞台上の準備を整えた後にはアンサンブルの合奏の予定も詰め込んでいた。

 もう一度振り向いて忘れ物はないか確かめる。今日はちゃんとミュートも持った。
 満由は楽器を背負い直すと、無理を聞いてくれた店長に鍵を返すべく階下へ降りて行く。
 いつも優しいおじさま店長の姿を探していると、一階から賑やかな話し声が聞こえてきた。

 開店前のはずだから店員同士だろうかと思っていたら、聞き慣れた縁の声が聞こえて来たため満由は反射で階段を数段戻った。

(縁!?)

 話題まではよく聞き取れないが、ちらりと見えたあの目立つ赤のトロンボーンケースで縁とすぐに分かる。あの眩しい赤のケースを今のところ縁以外に使っている人は見たことがない。

(来てたんだ……)

 満由は階段の壁に隠れながらそっと様子を窺った。縁と探していた店長と、そして満由の知らない女性がカウンターで立ち話をしている。

 昨晩のデート(仮)のお礼として受信したメッセージのやりとりを最後に、今朝は縁からの連絡は特に受け取っていなかった。朝から顔を合わせるのだから妥当だと満由も思うが、何故だか面白くない気分にさせられてしまう。

(い、いや、別に逐一予定を知りたいわけではないんだけど!)
 
 満由は頭を振って妙な気分を追いやった。
 店の外に出るにはカウンターの横を通らなければならず、仕方なく満由は話が終わるまで隠れてやり過ごすことにする。

「店長~、もう本当にありがとうございました! また宜しくお願いしますね!」 

 店内に響いた半泣きの女性の声に驚いた。縁の隣にいた女性の声かと心拍を落ち着けながら、満由は肩からずり落ちた重い楽器ケースを背負い直す。

 やがて二人分の足音と店長が見送りをしようとする様子の声かけが聞こえた。頃合いだと察して満由は改めて階段を降り、視線を店の出口の方へ遣ると店の外に出ようとしている二人の後ろ姿が見えた。

 あの女性は誰だろうかと少し気になる。

 腰まで伸びた艶のある黒髪の毛先は揃えて切り揃えられ、スタイルの良い立ち姿も相まってモデルのように見える。体型に沿うようにぴったりと仕立てられたサーモンピンクのコートが、鮮やかな色合いであるのに派手さを感じさせない。手に持っているのは楽器ケースで、大きさから見て縁と同じトロンボーンだろうか。

 思わず見入っていると、女性は縁に親しげに抱きついた。唐突ながら、ごく自然に見えた。
 抱きつかれた縁の腕も、自然に女性の背へと回る。

「わっ……」

 満由は階段の途中で立ち止まり、口を慌てて塞いだ。

 背伸びをして縁の首に腕を回した女性と、彼女を受け止めて背中を優しく叩く縁の姿。ガラス扉の向こうで一つの影になる二人はとても絵になった。
 やがて店の前に来たタクシーに女性が乗り込み、手を振ってそれを見送った縁が店の前を離れていく。

 満由は、気付けば階段に座り込んでいた。

(今の、誰……?)

 この関係は、明日で終わる仮のもの。どこまでも一時的で脆い関係性。
 今日が来るまで何度も自分に言い聞かせて来たことが、今更鳩尾のあたりに重く沈んだ。

 縁はずっと女性と付き合ってきた。本人からも聞かされた。そんなことは昔から知っていて、既に縁と誰かが親しげな様子を見て、それによって縁を対象外だと遠ざけたこともある。
 短期間に二回もこの喪失感を味わうのは稀だが、これはいつもの失恋コースだ。知っている。
 
 こんな時はいつも、思いを告げる前で良かった、気付かれる前で良かった、そういう安心感もどこかに滲んでいたはずだ。相手がいると分かったのなら、席を外すように。今までと、同じように。

 だが何故か、長谷川の時より鈍い衝撃が頭と身体に残っていて動けなかった。
 ──諦められないなんて、初めてだ。

「やだなぁ……」

 満由は膝を抱えて額を擦り付けた。

(僕、縁のこと好きになってる)

 そう自覚すれば、あらゆることが腑に落ちて堪らない。

「……あれ、橋本先生? えっ、大丈夫ですか!?」

 フロアで縁と女性の対応をしていた店長が血相を変えて走り寄って来た。

「顔真っ青ですよ。立てますか?」

 そう言われ、初めて自分の顔が真っ青らしいことを知る。

「い、いえ、意外と平気です。あ、そうだ、店長さんに練習室の鍵を返すのと、ご挨拶をと思って、それで探してて……」
「ああ、そんなのいいのに……! それよりディチェンブレさんって今日リハでしょ、そんな顔色で大丈夫なんですか?」

 申し訳なさそうに鍵を受け取った店長の眉が心配そうに下げられる。満由は慌てて首と手を振り、心配かけまいと明るく振る舞った。

「大丈夫です、ご心配かけてしまってすみません。朝早く起きたから眠いだけです、きっと。僕もそろそろ行かないと……、っ」
「危ない!」

 言いながら立ち上がった途端によろめき、店長の逞しさとふくよかさを合わせ持つ体躯に支えられた。

「どこが大丈夫なんですかー! こんなんでラッシュの電車乗せられませんよ! ちょっと待っててください、送りますから!」

 そしてそのまま、楽器ごと満由は運搬されてしまう。

「えっ、あっ、なんか大ごとに……」

 *

 満由が断っても店長は頑として譲らず、トラックの助手席に積み込まれた満由はホールに搬入される打楽器と共に運ばれることとなった。三山楽器はディチェンブレのリハーサルと本番に、打楽器を貸してくれている。

 十分ほど走ったトラックはコンサートホールの搬入口にすんなりと到着した。搬入口は大きな鉄扉を開けると直接舞台袖に繋がる出入り口で、持ち込んだ大型楽器や機材などを運び込める広さになっている。

 電車に乗っていたらまだ着いている時間ではなく、満由は恐縮しながら運転席の店長に何度もお礼を言った。

「気をつけてね! 今日一日長いからね!」

 店長に見守られながらこわごわ二トントラックから降りると、搬入口に待機していた島谷とばったり会う。島谷は満由が三山楽器のトラックから降りてきたことに瞬いていたが、爽やかに挨拶をしてくれた。

「おっ。おはよう、橋本! アンサンブルの件は本当にありがとうな!」
「お、おはようございます」
「なんか困ったことあったら言ってくれな。すぐ対応するから」
「は、はいっ。ありがとうございます!」

 満由は慌てて頭を下げると、頷いた島谷はすぐに店長と打ち合わせをしながらトラックの後方へ向かって行く。気付けば、島谷の他にも待機していた数人の男性団員達が荷台の中の楽器を着々と運び始めていた。

 プロ楽団に入った今でも団員が手分けをして行う楽器の積み下ろしは重労働だ。搬入口に流れる忙しなさと本番直前の活気に、満由も手伝わなくてはという義務感が生まれ、塞いだ心が僅かに持ち直す。
 背負った楽器を隅に置いて搬出に加わろうとした時、

「まゆ」

 呼び止められて息が詰まった。心臓が変なリズムで走り出し、耳の近くで拍動している心地がする。
 できれば今は、この声を聞きたくなかった。

「おはよ。トラック乗ってきたの?」
「……そ、そうだけど」

 恐る恐る顔を向けると、縁が近付いてくるのが見える。グレーのピーコートに、黒いマフラーは端をしまい込んだ巻き方。足元は珍しくデニムとスニーカーで、楽器搬入の時に動きやすそうだ。当たり前だが、先程見たばかりの縁と同じ服装をしていた。
 脳裏には女性と抱き合う縁の姿が反芻され、縁の顔を見ることができなくなる。

「あれ、顔色悪くない?」

 縁が顔を覗き込んで来るような気配がする。
 偶然目元を隠していた前髪に縁の手が触れようとした時、満由は思わずそれを払い退けた。
 乾いた音が力なく響く。

「……ひ、人前、だから……」

 満由は呟くように言うと、目を僅かに見開いていた縁を置いてその場から離れた。
 楽器搬入と雛壇を組み立てる舞台上の準備に、逃げるように打ち込んだ。

 *

 朝の縁と女性を見てから頭の中にずっと靄がかかっている。

 縁を好きかもしれないと自覚したとはいえ、どのみち縁にはもう別の相手がいる。お試しでも一応は付き合っている期間中に被らせて二股を掛けているのは、ちょっと意味が分からないけど。

 でも後になって知るよりは傷が浅い。

 明日の最終日に、予定通り終わりにしようと言われても、今なら「うん、そうしよう」で返せるはずだ。そう返せるように、準備をすれば良いだけのことで。
 
「……い、おい、橋本?」
「はっ、はい!」

 肩を揺すられ、満由はようやく正気に戻った。

「ったく、大丈夫かよ?」
「す、すみません、大丈夫です」
「今の話どこまで聞いてた?」
「全然記憶がないです……」
「正直なので許す」

 徹人がため息を吐いて楽譜を捲り戻しながら、「この小節からもう一回な」と指をさして教えてくれた。
 慌てて楽譜のページを戻しながら、満由は置かれた状況を徐々に思い出す。

 確かステージ上の雛壇の組み立ては予定より早く済んでしまい、アンサンブルの合奏の予定が早倒しになったはずだ。
 さて一度頭から通してみるかと三人で合わせてみて──各自譜読みは出来ているのだが、何かが決定的に合っていなかったところまで覚えている。

「いち、にー」

 徹人の声の後、三と四は呼吸で拍を取って改めて指示された小節から音を出す。
 だが音程なのか、音色なのか、どこか平行線な音楽が鳴り響いた。本番と同じ場所を想定してロビーで吹いているが、辺りには不協和音の残骸が漂っているように感じる。

 マウスピースから唇を離した徹人が渋い顔をした。

「……うーん。全音符の頭からケツまで音程が平行線なのは、流石にやべーなと……思うんですが……」

 徹人がいつになく慎重になって満由と縁を交互に見るが、満由は徹人を最悪の空気に巻き込んでしまったことにただ申し訳なさを募らせる。

「すみません……」
「とにかく明日が本番だから、色々詰めていきたいんだがー……」

 徹人が楽器を膝に置き、襟足を掻いた。

「その前に、この『ウ恋』の冬ってやつがどんな曲かみたいな話でもするかぁ? こういう時はガリガリ吹いても合わんしなー」
「うこい?」

 聞き返す声が縁と揃ってしまい、居心地が悪くなる。

「タイトルが長えだろ? だからウ恋」
「結構強引に切りましたね」

 スタンドに楽器を立て掛けながら長い脚を組んだ縁に言いたいことも取られてしまい、満由は何も言えずに楽譜に目を落とした。

 徹人はそんな満由を横目で窺いながら続ける。

「……タイトルの略称は置いといて、この曲、スコアの説明読んでも曲の着想とか全然書いてないし、演奏されてる機会も少ないから参考音源もなかったろ? 故に何も分からんという状況から、せめて奏者のイメージだけは合わせてこの混沌を脱したいと考える。異論は?」
「ないです」

 やはり揃って答えた二人に頷いた徹人も楽器を置き、鞄から全パートの楽譜が載っているフルスコアを取り出した。

「それじゃ朝はお勉強の時間にするか。代わりに昼とかリハの合間で合わせるから、覚悟しとけよ」

 すっかり微妙な空気になったこのグループを率いてくれる徹人を有り難くも申し訳なく思いながら、満由は何度も頷いた。

 その横顔を縁は静かに見ている。

「さて、全体通して基本ゆっくり~なテンポで進むだろ? そんで1stがほぼ全部メロディ。最近の吹奏楽曲みたいな現代音楽っぽさがあるかと思いきや、ジャズっぽいブルーノートの時もある」
「基本、静かで暗めですよね」と縁が添えた。
「冬の夜なんだろな。そういや他の楽章に『夜』ってあったような」
「……でも、途中から出てくる連符の掛け合いは、もう雪が降っていて冷たい風に吹き上げられて、強さみたいなものも感じます」

 満由はスコアを見ながら口を開いた。それぞれのパートに拍のタイミングをずらした連符の指示がある。繋げて演奏すると畳みかけるように聞こえる効果を持つものだ。

 満由の言葉を聞いた二人は瞬いてから口角を上げた。

「詩的だね」
「いいぞ橋本。その調子で最後まで頼む」
「えっ流石に全部は……作曲者と意見が違って来ちゃうかもですし……」

 訳もなくスコアを捲り始める満由に、縁が声を掛ける。

「違っても良いと思うよ。メロディのまゆが思い描くイメージに、俺たち伴奏が寄せるから」

 琥珀色の視線を受け取り、満由は動けなくなった。

 この曲の1st奏者として、楽団の新人団員として、そして縁としばらくお試し期間を経てきた相手としての、自分の全てが不安定に揺らいだ。

 この曲の曲想を作るのは自分に掛かっているプレッシャー。楽団の先輩二人をリードするように吹かなくてはいけないプレッシャー。
 そして先ほど別の女性と仲良さそうしていた縁に、穏やかな声音で励まされた行き場のない感情。

 満由は結局、何も返せなかった。

「──じゃあ、リハ前にもう一回通しておきましょうか」

 縁は何事もなかったような声音で提案する。

「そだな。今の橋本の感じの『冬』加減でいってみるか」

 徹人もそれに乗ると、再び楽器を手に取って首に掛けたストラップと楽器を繋げていた。

 満由が言葉を返し損ねた空白を、二人が無かったことにしてくれてしまう。露骨な態度を取った自分に嫌気が差した。

「ま、泣いても笑っても明日でこの曲終わりだし、できるだけ良い感じに仕上げたいですよね」

 縁の軽い声音と言葉が、妙に耳の奥に残る。

 今の満由には、それがこの曲だけのことを言っているように聞こえなかった。

 
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