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縁とまゆ
三日目
しおりを挟む仮付き合い三日目、早朝七時。
「おはよ。今日は帰りが遅くなるから、夕飯呼べない代わりに朝ご飯持ってきた」
呼び鈴の後、玄関の扉を開けたら立っていた縁に頭を押さえた。
満由は寝起き直後で目が開いていないのに、縁は既に一仕事終えてきたような冴えを湛えている。
「とりあえずどうぞ……」
「お邪魔しまーす」
この二日で畳み掛けられた縁の甲斐甲斐しさには舌を巻くが、若干引いてもいた。だが食事は普通に有難いので結局呼び入れてしまう満由である。
「夕飯無かったら、十一時以降なら帰ってるから来ても良いよ」
「そんな夜更けに行きません……」
「そう? まあ、明日朝からリハだもんね」
細い廊下を進みながら縁から渡された紙袋の中を覗くと、ラップに包まれたサンドイッチが二つ入っていた。昨日の食パンだろうか。底に触れると仄かに温かい。
満由は起き上がった直後の毛布などがそのままになっているベッドの上に座り直し、一緒に付いてきたタンブラーの蓋を開けた。中身はコーヒーで、蓋を開けると湯気が鼻を撫でる。その温もりについほっと息を吐いてしまうが、なんと隙のない朝食だと慌てて思い直した。
「今日の予定は?」
「えーと、午後にレッスン一件と、個人練習」
三山楽器でのレッスンではなく、生徒の自宅まで満由が出張するタイプの個人レッスンだ。
「じゃあ、午前中は空いてるんだね」
「そう。だから誰かさんが朝早くから来なければ、もうしばらく寝れたの」
「俺も午前中空いてるから出かけようよ」
「話聞いてた……?」
「空いてる時間が重なることなんか滅多に無いでしょ。だからデートしよ」
早速飲もうとしていたコーヒーを寸前で止め、満由は縁を見上げる。
いつもの黒のチェスターコートから淡いグレーのニットが覗く、少しおしゃれな装いの縁に胸が高鳴った。
「明日はリハで明後日は本番なんだし、もう期間中にデート体験できるの今日しかないよ」
体験と聞いて少し冷静になった。
気を取り直してコーヒーに口を付け、ゆったりと飲み込んでから満由は意識して呆れた声を出す。
「……縁って、意外とぐいぐい来るよね」
「というと?」
「強引だなって。今まで付き合ってた人とも、そういう風にしてたんでしょ」
「あれ、気になるんだ」
「そうじゃなくて、印象の話」
三日目ともなれば憎い変化球は返せるようになった気がする。
すると縁はどこか困ったように笑った。
「……どうだろう。逆に、前に付き合ってた人達の方からぐいぐい来られてたかも。うつったかな」
「知らないよ……」
「何にせよ、自分からこんなにアタックしてるのは初めてです」
何故か得意げな表情の縁に満由は渋面を作った。そうやって、かつての相手達にも特別扱いしてきたのだろう。騙されてやるものか。
「ちなみに家に誰かを呼んだのもまゆが初めてだよ」
……騙されてなど、やるものか。
満由はコーヒーを飲み下しながら念じた。
*
満由が仕事の準備を整えて車に乗ったのを確認すると、縁は車を走らせてから行き先はみなとみらいであると明かした。
「みなとみらい……!?」
「一回行ってみたかったんだよねー。展望台」
縁はあろうことか横浜のランドマークである高層ビルを御所望のようで青ざめる。
「ベッタベタのデートコースじゃん……! 男二人とか絶対悪目立ちするっ……」
「行ったことある?」
「ないけど……!」
「なら、行こ。平日の朝だから大丈夫だよ」
車を降りてから牛歩の足取りで進む(せめてもの抵抗だ)満由を平然と引っ張りながら、縁は展望台付近の人手を確認して満由を振り向く。
「ほら、そんなに人いない」
「いなくはないよ!?」
ちゃんと数人は並んでいる状況のどこを見てそんなにいないと判断したのか震えた。
「これからどんどん増えてくるから早い方が良いと思うよ」
「じ……じゃあ、分かった。せめてチケットは各自購入ということで、ね? そうしよ?」
そんな満由の提案を軽やかに無視してチケットカウンターに向かった縁は、満由の手を引いたまま大人二人をまとめて買った。
満由は塞ぎ込んだ。
(……まあ、僕が気にし過ぎなだけ、と言うのは分かっているのですが……)
思えばカウンターにいた女性は縁を見るや否やほわほわと見惚れながら応対をしていたし、縁がチケットを何枚買おうがきっと気付かなかったはずだ。だから同行者が男だったなんてことも、きっと気付かなかったに違いない。
約二百七十メートルを駆け上がるエレベーターの中、何とか羞恥を昇華しようと試みているとふと視線を感じた。
見上げると、ほんの数センチ高いところにある縁の整った顔と目が合う。
「な、何……」
「百面相してるなーと思って」
満由は露骨に顔を逸らしてしまった。
「勝手に見ないでよ」
「許可取ったら見て良いの?」
「屁理屈言うから余計だめ」
「厳しいなー」
軽口の応酬を重ねる数十秒で、エレベーターは展望フロアに到着している。
「わー、良い天気だね」
フロア内に差し込む日光は強く眩しい。満由は目を細めながら、先にエレベーターから出た縁の後について大きな窓へ近づいた。
日差しの色を透き通る白色のガラスとしたら、街の景色は空と海の色が混ざった青色のベールを纏っているように見える。
そのコントラストに目が慣れてくると、景色を切り取る窓枠の中に一つ一つの建物の輪郭が浮かび始めた。
高層ビルの屋上のヘリポートが見える。地上から見上げていた数々のビルが、今やミニチュア模型のように細く頼りなく見える。遥か下にある道路を走る豆粒大の車たちは、さらに繊細なものに。
眩しい光と幻想的な景色に圧倒されたのも束の間、こんなに高いとは思わず満由は現実に引き戻されていた。
縁は窓際に近付いて真下まで見下ろしているが、満由は恐怖心が勝って後退りする。
不思議に思ったのか縁が振り返った。
「あれ、高所恐怖症?」
「違います」
「怖くないよ」
「違うから」
ぴしゃりと跳ね除け続けるが、縁の口元がずっと笑っていて気に食わない。
満由は深呼吸した。別に怖くなどない。
いわゆる掛け湯だ。急に高所からの絶景を目に入れると心臓に良くないから、徐々に視界を慣らしていけば良い話で。心の準備が整えば、手摺りを支えにして、ごく普通に景色を見下ろせるのだ。
意を決して手摺りに触れた直後、満由の視界は何故か急下降するのだった。
「へぁ!?」
この唐突に訪れた膝の脱力感は、膝カックンという名前で知っていた。頭では理解したが声は既に裏返り、満由はバランスを崩して手摺りの上に崩れ落ちている。
「…………」
耐えたようだが最終的に震え出した縁の肩を、満由は急上昇した心拍のテンションのまま立ち上がりざまに叩いた。
「うん、ごめん。今のは俺が悪いね。……でもちょっと……ビビり過ぎ……」
公共の場のため声を抑えていたが、縁は深めのツボに嵌ったようだった。最早引き笑いの段階に入った縁に満由はもう一発入れておく。
「痛い痛いごめんって。悪かったから」
縁に目尻を拭いながら言われ、恥ずかしさのあまり震えてくる。地上二百七十メートルで小学生みたいな悪戯をまともに食らった自分が情けなかった。
目を離した隙に縁は笑いをぶり返している。
「まだ笑ってんの……!?」
「いやだって、俺の前に絶対立たないようにしてるのがもう面白くて……、ふ、高いところ怖かったんだね。悪いことしたね……」
「怖くないから!」
ちゃんと小声で言い返し、満由は不貞腐れてそっぽを向いた。
縁はまだ肩が揺れていたが、満由の左手に触れて指を絡める。
「許してくれる?」
そんなたった一言を、何故わざわざ耳元で囁いてくるのだろう。動揺の余韻と呆れや恥、様々な感情がまだ渦巻いているのに耳が徐々に熱くなっていく。
「許すも何も……別にもうどうでもいいし……っ」
「良かった」
落ち着いた縁の声が僅かに安らいだように聞こえた。瞬いた満由はちらりと縁を見上げるが、琥珀色は細められるだけだ。
縁はそのまま満由の手を引き、展望フロアを回り始める。
四角錐台のビルの展望フロアは四方角ごとに空間を区分けし、区画によってソファに腰掛けたり、カフェで飲食を楽しみながら景色を堪能したりできる。
外が明るいため室内の照明は抑えてあり、比較的まばらな客入りなこともあってフロアは密やかな雰囲気だ。
「ていうか、手……」
繋がれたままの手に居た堪れなくなっていると、縁は飄々と笑った。
「みんな景色に夢中で気付かないよ」
満由と縁のいる南東側には、窓の前に置かれたソファに腰をかける一組の男女とカメラを構える女子大生がいる。それぞれが景色や互いを写真に収めるのに忙しそうで、確かにこちらを気にする素振りはなさそうではあった。
それならと、満由は手を握り返してみる。
指の間に通る縁の指はほんのり温かく、少し乾燥していた。
「……何か、変な感じ」
「何が?」
「縁が、大真面目に男と付き合ってるのが」
「俺はまゆと付き合ってるつもりなんだけど」
「そ、そういうのを、僕に言うのも変な感じ」
「心外だなあ」
返ってきたのはいつもの軽い声だったが、縁の顔が覗き込んできて満由は目を見開く。
「そんなに変?」
珍しく不服そうで満由は言葉を探した。
「いや、変……っていうか、女の人とこういうことしてるイメージしかなかったから、男の僕となんて、ただただ不思議だな、っていうか……」
「俺は女の子と付き合ってる方が俺っぽいってこと?」
「っ……そう、じゃないけど」
言われて初めて、他人の主観の枠に当てはめられる居心地の悪さを思い出した。
自分がされて一番嫌だったことを知らずに言っていて後悔する。
「……ごめん」
「分かってるよ。今のは仕返し」
真面目に謝ったのに琥珀色は悪戯っぽく細められ、あっさり視線は景色へと戻っていった。
満由はむっとする。
「ていうか仕返しなら、先に僕の方に権利があると思うんですけど」
「膝カックンの?」
「当たり前でしょ」
「予告したら意味ないと思う」
「忘れた頃にやってやるから」
「本当? 気をつけよ~」
言いながら満由はいつものように笑う縁を窺ってみたが、踏み込んだ話を持ちかけてきた意図が結局分からず、景色へ目を移す。
大分目は慣れてきたが、やはり眩んだ。
「まゆから見たら、俺は女の子に困ったことないって見えるのかもしれないけど」
縁は静かに続ける。
「普通に上手くいってなかったよ。相手が何回も変わってんだから、分かるだろうけど」
「……縁が飽きて切って、何回も相手を変えてたんじゃなかったの?」
「怒るよ?」
満面の笑みを向けてくる縁に満由は押し黙った。
「いつも向こうから急に付き合って、って言われて無理矢理押し切られてるのに。……って信じてないなその顔」
「だって押し切られるようなキャラじゃないじゃん」
「そうでもないよ。今は仕事が忙しいからって言って断れるけど、『誰とも付き合ってないのに何で私の告白を断るんですか』って言われたこともあったし」
「こわ……把握されてたってこと?」
「そうかもね」
縁は何でもないことのように言って片付けた。
「そんな始まり方ばかりだから、ちょっとしたことですぐ上手くいかなくなるし、相手の方から別れるって言うし。色々あったんですよー、これでも」
「それはまあ……お疲れ様でしたということで……」
「どーも。だからさ、恋愛って疲れるって思ってたけど」
縁は急に繋いだ手を持ち上げて、満由の指に口付ける。
満由は勿論飛び上がった。
「急に何……!?」
指に唇を寄せたまま口角を上げた縁が、満由の反応を見て顔をくしゃりと崩す。
「まゆとこういうことするのは楽しい」
満由は慌てて目を逸らしたが、指先に残った感触と、目尻に捉えてしまったその顔のせいで鼓動がどんどん早まった。
とにかく逃れたい一心で景色を見回し、目に付いたものを脳直で指差す。
「あ……あ、あれって、スタジアムかな……!」
「聞いてる?」
縁は満由の顔を覗き込むが、きっと変な顔をしているに違いないので顔を背け続けた。
こんな顔を見られるわけには。
──そんな午前中を過ごしたから、午後はずっと心ここに在らずで集中できなかった。
移動では電車の乗り換えを間違えたし、レッスンでは言おうとしたことを忘れて生徒に心配され、個人練習のために寄った三山楽器の練習室でも妙に指が滑った。更に閉店時間を間違えていて、店の人に言われて慌てて帰ってきた。
焦ったせいか楽譜一式を恐らく練習室に忘れてきていることが分かり、満由は自宅の部屋で項垂れる。明日は朝からリハなのに。
(浮かれてる……)
そもそも、朝一にデートなんてことをしたら仕事に影響を及ぼすなど考えなくても分かるはずなのに。縁相手なら遠慮なく断れたのに、何故わざわざ翻弄されてしまったのだろう。
騙されてはいけない。
仮付き合いの最終日に「じゃあこれまで」と言われるかもしれない。縁が今楽しいのだとしても、今だけかもしれないのに。
だが万が一、この関係が続いたとしたら。もし縁の手が、手や唇以外の場所に触れたら?
『抱きたいと思ってる側だから』
反芻する声は耳の奥に、触れられた手と唇の感触は、満由の手首や指──そして唇にまだ鮮明に残っている。
キスをされた指に、満由は自分の唇を寄せてみた。
それだけで堪らない気持ちになるのは、どうしてだろう。
「どうしよう……」
満由は途方に暮れながら床に座り込んだ。
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