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縁とまゆ
プロローグ
しおりを挟む橋本満由は深いため息を吐き尽くした。
長さにして、ロングトーンのたっぷり八拍分。
満由の周りで音が跳ねる。天井を、壁を揺らし、音の波が練習室──コンサートホールの建物内にある音楽室を駆け巡る。
防音設備が整った練習室は、大きな音の出る管楽器を鳴らすには最適の空間だった。
壁際の中央に置いた指揮台を要に、扇状に並べられた椅子が二列。
三列目からは指揮台に対し正面を向いた椅子が並び、集まった三十人ほどの音楽家たちは、各々の楽器ごとに座って旋律を奏でている。
音には奏者の個性が強く出る。十人が同じ楽器を吹いても音色は異なり、楽器が異なれば更に異なる音色を生む。
異なる音色は、深い響きとなる。その多様さを残しつつ、指揮者と演奏者で楽曲の方向性を揃え、完成度を高める──この工程を、合奏と呼ぶ。
演奏会本番を五日後に控え、本番までに合奏練習ができるのは今日と本番前日のたった二日。
その差し迫った状況の中、満由は調子が上がらず途方に暮れていた。
焦茶色の髪はストレスで乾燥し、唇の左下の位置にほくろがある顔は、抱えた楽器に青白く写っている。
(最悪……)
白銀色の楽器の表面を見下ろした満由は、それをタオルでごしごし磨いた。
満由が中学一年の時、吹奏楽部で出会ったユーフォニアムは自分の唇を振動させて音を鳴らす中低音域の金管楽器だ。
温かく丸みのある音を始め、圧力のある低音や、空気が張り詰めるような高音も魅力。
約四.五キロの管体を抱えるように構え、右手人差し指、中指、薬指、左手人差し指で操作する四本のピストンの運指と、唇と口の中の形の組み合わせによって音を変える。ピストンの位置や数は楽器によって異なるが、満由が使っているのはこのタイプだ。
昨今は世間の知名度も上がり、吹奏楽界隈に留まらずユーフォと呼ばれるようになったこの楽器こそ、ユーフォニアム奏者となった満由の仕事道具であり出会ってから十四年の相棒である。一応。本日の満由にとっては、意見の合わない仕事相手だ。
満由自身の唇と指の動きも「なんか調子悪いな」という状態ではあるのだが、今日は楽器とも反りが合わず、簡単なリズムの箇所でも躓いた。
朝から練習や仕事もこなして来た夕方だというのに──むしろこなしてきて疲労が溜まったせいか、思った通りの音にならないのだ。よりにもよって残り二回しかないリハーサルの一回がこのコンディションとは、途方に暮れるしかない。
合奏は十分間の休憩中だが、譜面台に置いた腕時計に目を落とすともう終わる頃合いで。
扇の要にはもう指揮者も戻って来ており、満由は半分絶望、半分諦めの気分で遠くを眺めていた。
「どーしたの橋本くん、顔死んでるよ~!」
満由に気付いた指揮者から声を掛けられ、近くに座る団員からは労るような視線が届く。
ユーフォの席は指揮者から数えて三列目の中距離に位置する。そんな距離からでも満由が生気ない顔をしているのを察知するこの御方は、世界で活躍する若手指揮者の伊波舞歌女史。満由の所属する楽団の常任指揮者だ。
未だに男の玉座の印象が強い指揮者の世界で、数々の優秀な成績を修める彼女の名は高く結い上げた栗色の髪型とともに知れ渡っている。
「大丈夫です、生きてます……」
「本当~? 次アルプスだけど生きてね?」
指揮台の上に乗せた椅子の上で胡座をかく伊波は眉を下げて笑った。満由は場の空気に合わせて苦笑したが「はい頑張ります」で復活できれば苦労しない。
しかしやるしかない。本番まで僅かな時間しか残されていないのだ。
団員達が休憩から戻ったのを見て、伊波は譜面台に置いていた指揮棒を手に取る。
それが掲げられると団員達は指揮者へ意識を向け、自身と楽器の準備を整えた。
「それでは改めて、宜しくお願いします!」
吹奏楽は、日本では部活動を通して多くの人に知られている。日本における愛好家の数もかなりの規模だ。部活動で結成されるスクールバンドの他、卒業後も趣味で吹奏楽を続ける人々が集まったアマチュアバンドなどを含めると、その団体数は一万七千を超えると言われている。
一団体に三十人が在籍していると仮定すれば約五十万人超の現役団員がいる計算で、吹奏楽経験者までを加えると約五百万人にも上るという日本は、世界屈指の吹奏楽大国だ。
さて、吹奏楽とは? 答えを探そうとするととても難しい。
字の通り息を吹き込んで奏でる管楽器を編成した演奏形態だが、その編成の多様さのせいか定義が確立されていないのだ。
ブラバンと呼ばれる所以となった金管楽器だけで編成される「ブラスバンド」、それにサクソフォンを加えた「ファンファーレバンド」など編成によって呼び名は変わり、人数においても小編成なら「アンサンブル」、大編成は「オーケストラ」。隊列を組むなら「マーチングバンド」という違いがある。
また、吹奏楽は管弦楽と同様に打楽器も編成するし、弦楽器であるコントラバスも加わる。曲によってピアノやハープ、合唱やチェロも加わることがあり──結構、何でもありだから難しいのだ。
白銀色のマウスピースに息を吹き込んだ満由は、ゆっくりな拍の中に細かい連符を滑り込ませる。
現在合奏をしているのは『アルプスの詩』の冒頭部。スイスの作曲家・チェザリーニの作品で、二十分を超える大曲だ。
「はーい。じゃあ一回、頭から連符の皆さんだけで下さい」
伊波は手を上げて音楽の流れを止め、分厚いスコアを捲り戻す。自分の楽譜に細かい音符を持っている者だけ、曲の最初からもう一度という指示だ。
該当者の満由は唇にマウスピースを合わせ直し、伊波の合図を待った。
合図は四カウント。三カウント目から息を吐き、深く吸うと満由は同じ連符を絞り出すように吹いた。
『霧』と題される冒頭部分には、低い音域でうねるような連符が並んでいる。
連符を担当することが多い木管楽器のほぼ全員が吹いている中、金管楽器であるユーフォにも連符が振られていた。
金管楽器の連符係といえばユーフォであるが、そうかと思えば裏拍を刻むし、ベースラインにも参加するし主旋律も対旋律も歌い上げる。
ユーフォは、かなり忙しいのだ。だから調子の悪い日は穏やかではない。
再び伊波は手を上げ、音楽を止める。
「えーと、六連符吹いてる皆さん、この場面の軸になる人たちだから、この感じで拍と受け渡しだけ正確にお願いねー」
数小節間に渡り、六連符を吹いたら二拍休む前発組と、二拍休んで六連符の後発組に分かれている。前発組から後発組へ繋げるように吹き、一本の連符に聞こえるよう作り上げるのが理想だ。
伊波に指摘されたということは、この連符の聞こえ方が気になったのだろう。自分がずれていたのかもしれないという冷や汗が浮かぶが、この現場では元凶を炙り出す合奏はしない。
「それじゃあ全員で同じところから!」
全員で最初から。今まで待機していた奏者たちも楽器を構え、満由はその隙に指に滲んだ汗を拭う。
奏者全員が準備を終えるのを見計い、指揮棒を振り始める伊波のタイミングはいつも絶妙だった。
滑る指を制御し、先程よりは及第点の指回しの感触を掴む。あとはそれを維持する。
プロの現場では、部活時代にこれでもかと経験したような、一音一音を突き合わせる合奏をしない。
たった数日許されたリハーサルの中、短いフレーズにおける解像度を上げるより、楽曲全体を通した完成度を上げることに注力するのだ。
集まった団員達の技術は高く、合奏で指揮者の指示を受けつつも、演奏者の耳ベースで個々に調整を行っている。
各地で調節が重ねられる中、指揮者は響きを総括し、全員を導く司令塔となる。よって伊波の言葉の指示は最低限だ。指示を待っているだけではただ時間だけが過ぎていく、音に包まれながらも静かで厳しい現場である。
曲が進み、伊波の指揮棒が大きく弧を描く。それに呼応して音は膨らみ、鼓膜から内臓の全てを揺るがすような音の波、あるいは風が駆け抜ける。
満由は、ふと視界が開ける心地を覚えた。
強奏を得意とする吹奏楽の輝くような音色に包まれると、自分の調子が悪かったことも忘れて音楽に引き込まれる。
吹奏楽は不思議だ。
一度この響きを知ってしまったらそう簡単には戻ってこられない、そんな不思議な魅力がある。
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