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二十八. 龍の子の祭り
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人々は、天を振り仰いだ。
そして、ある者は震え慄いた。龍神の怒りだと祈り、泣き叫んだ。
そしてある者は、嘆きに涙を流した。まだ若い龍の御子の、悲しみに打ちひしがれる聲を聞き、お可哀想にと共に泣いた。
そして一人の母は、時が満ちた事を知り、泣き伏した。
「……タケルが、呼んでいる……」
そう呟き、紅の眼の片割れは神殿を後にした。風を手に入れ、獣の速さで。
そしてもう一人の片割れは、稲妻に導かれるが如く天に近い頂へと駆け出した。
稲光と共に重く黒い雨雲が空一面を覆い、天が轟いた。
そして、尋常ではない、雨、風。渦巻き、荒れ狂う大気。
人々はその時が訪れた事を悟り、逃れようのない運命に深く頭を垂れ、手を合わせた。
◆
タケルは幾度となく雄叫びながら、峠を駆け登った。
龍の尾のような髪が、荒れた風に煽られ乱舞する。まるで手負いの獣のように、全身を振り乱し、タケルは走り続けた。
幾年もの歳月、食物はおろか水すら口にしていない筈なのに、タケルの全身には力という力がみなぎっていた。もうずいぶん走り続けているのに、呼吸すら乱れていない。
タケルはいつの間にか、荒れ狂う天の頂へと辿り着いていた。
黒い雲を渦巻きながら、天は唸っていた。タケルの動揺と悲しみをそのまま映し出しているかの如く、叩きつける雨。
タケルは頂に立ち、何度も何度も叫んだ。喉の奥が、血で染まる程に。
溢れる涙は、雨に洗い流された。
途方もない、絶望。
今の自分は、もう、人ではない。人である筈がない。
タケルの中に流れる、もう半分の血が目覚めていた。
龍の血。
タケルは紛れもなく、龍の御子だった。
天を貫く稲妻。
瞬間、タケルの心臓が激しく波打った。
はっとして、眼を見張る。
叩きつける雨に霞む視界の向こうに、人の姿が見えた。
息を呑み、眼を凝らす。
美しい、一人の男。
この気配。
タケルは、茫然と立ち尽くした。
忘れる事などできない、この強い生命力。過ぎていった時がその姿を変えさせようと、タケルには判った。
タケルが誰よりも、何よりも欲していた存在。
牙星だった。
◆
何なのだ、この者は。
雨の向こう側に立つ、異形の童子。
人の形はしていた。けれど、とても人とは思えなかった。その全身から発せられる気配は、到底人のものではない。
雨に濡れて張りついた、異常な長さの頭髪。童子の両の眼は、琥珀の光を帯び牙星を見詰めている。そして童子の全身からみなぎり溢れる、魂の気配。
この気配は、タケル。
いや、まさか。
牙星が、眼を疑う。この異形の者がタケルであるのならば、何故童子のままなのだ。袂を別ったあの日から、すでに数年の歳月が経過している。
牙星と同じ歳のタケルが、童子の筈がない。牙星と同じく、成人の姿の筈。
童子のままのタケル。
だが、牙星は本能的に気づいていた。
あの日のままなどではない。
タケルはもう、人などではない。
この気配。タケルの中に流れる、もう半分の血。龍神の血。
そこに居るのは、龍の御子タケルだった。
タケルは人の子から、龍の御子へと姿を変えたのだ。
それに気づいた瞬間、牙星の全身を巡る血が煮えたぎった。
眼前に立つは、憎き龍の血を引く者。いとおしき者を奪った、龍神の血を継ぎし者。
只一人本気で愛した双葉を、牙星から奪い去った、龍神。
そして。
牙星は気づいた。
龍の血を継ぐ者。
この者こそが、牙星から全てを奪う存在なのだと。
牙星が王として司る筈のこの世界を。牙星が伐つべき者は、守ノ皇帝などではない。
眼の前に居るのは、真に忌むべき存在。
龍の御子。
この者はもう、タケルなどではない。
躊躇う必要など、ない。
牙星は素早い動きで、腰の鞘から剣を抜いた。瞬間光った稲妻が、鋭い刃先に反射する。容赦ない雨が、タケルと牙星の全身に叩きつける。
「……儂から、双葉を奪った龍神……お前は、その血族」
タケルは剣を構えた牙星を、只惚けたように見詰めていた。
「そして儂から、全てを奪おうとする者」
刹那、牙星の剣がタケルを掠める。タケルはそれを、只本能で交わしていた。タケルの頭髪が、雨に散る。
タケルは息を呑んだ。
紙一重だった。以前の自分ならば、確実に急所を突かれていただろう。
牙星の殺気を帯びた眼差しが、タケルを射抜く。牙星は、本気でタケルに剣を向けていた。
止む事を知らぬ、濁流のような雨。
全てが、悪い夢のように。
牙星が、再び剣を振り下ろす。タケルの髪が、散り流される。
「……牙星……」
タケルは、酷く久し振りに言葉を発した。
「黙れっ!」
言葉と共に、牙星の剣が襲う。
「……やめろ、牙星……!」
言葉など無駄だった。牙星の攻撃は、只激しさを増すばかりだった。雨を纏い、その剣は一心不乱にタケルを追い詰める。
殺気は雨に流れ出し、一帯を染め上げる。血飛沫が、煙るように雨に散る。タケルは腕に、焼けつくような痛みを感じた。一文字に裂けた傷口に、雨が差し込む。
閃光が荒れ狂う天を駆ける。
頂で合間見える二人の姿は、雨に乱舞する二体の龍のように美しく崇高な光を纏った。稲光を映し、二人の眼は琥珀と紅の光を宿した。
タケルは、酷く苦しかった。牙星の剣は、只ひたすらタケルを追い続けた。タケルの命を絶つ事しか、今の牙星の頭にはない。
龍の御子となった、タケルを絶つ。もう只の人の子ではない、タケルを。
そう、もうタケルは人ではない。人ではないモノとなってまで、生き続けてどうするのだろう。これから先、人ではないモノとして生きていくのか。
タケルの内を、ゆらりそんな思いが過る。
剣を突き出す牙星。
これは一体、何なのだろう。
牙星は、只一心不乱にタケルを追い、剣を振り続けた。両の眼に憎悪だけを宿し、タケルを捉えて放さない。
牙星は今、本気でタケルを憎んでいた。
タケルには、牙星が本気で自分を憎むわけが判らなかった。
タケルが、龍神の御子だから?
タケルは只、牙星に生きて欲しいだけだった。
龍神となったタケルがこの世界を手中にするのだと、龍貴妃は云った。
そんなものは要らない。欲しいとも思わない。
自分が消えれば、定めの輪は変わるのだろうか。
牙星は、もう一度あの頃のように、無邪気に笑ってくれるのだろうか。
二人で登った大木の頂上で楽しそうに笑っていた、牙星の姿を思い出した。
不意に、タケルの気が緩んだ。
激しい雨の飛沫を受け、牙星の姿が幻影のように揺らぐ。
刹那の稲光に、全てが白く溶け去る。
鈍い音がした。肉と骨を突く、嫌な音。
不思議と、痛みはない。
タケルの上に、何が崩れ落ちた。その重みでタケルの体は、ぬかるむ土の上に倒れた。
タケルは驚いて、目蓋を開いた。
ぐっしょりと雨に濡れた、鮮やかな衣。タケルの上に横たわる、細身の体躯。すっかり血の気の引いた、美しい面差し。
「……守人……」
タケルは、愕然と眼を剥いた。
何故、いつの間にここへ現れたのか。
ぐったりと横たわった守人の胸には、牙星の剣が深く突き刺さっていた。雨の染み込んだ衣に、真っ赤な鮮血が広がっていく。
「……どうして」
ほんの一時の間に、何が起きたのか。タケルが守人の体を起こした、その時だった。
「……ぐはっ……!」
苦しげな呻きが聞こえた。タケルが、驚いて振り向く。口から多量の鮮血を吐き出し、崩れ落ちる牙星の姿が見えた。
「……何故、儂が……」
言葉と同時に、再び鮮血が溢れた。零れ落ちた血を、すぐに雨が洗い流していく。牙星の心臓が、激しく波打っていた。牙星は手のひらで心臓を掻きむしるように押さえ、悶えながら土の上に倒れ込んだ。
牙星は低く咳込むと、再び鮮血を吐き出した。
「牙星っ!」
起き上がったタケルは、牙星の傍に駆け寄った。
牙星は倒れたまま、苦しげな血眼をすでに事切れた守人に向けた。同じ時に生まれ落ちた、双子の弟。
何故、今まで気がつかなかったのだろう。双子の片割れの発する、この気配は。
牙星は、己の迂闊さを悔いた。
「……そうか、今、判った……」
口元に幾筋もの紅を溢しながら、牙星が云った。
「お前が、儂と命を共にする、龍神なのだな……」
もうすで、守人が言葉を洩らす事はない。
牙星は、憎々しげに呪うように、天空を見上げた。いつの間にか、あれ程激しかった雨は止んでいた。まだ重苦しい雲が、流れ動いていく。
牙星の視界が、白い霧に覆われていく。朦朧と、息苦しい。
牙星は、ゆっくりと目蓋を降ろした。
聲が、聞こえた気がした。
懐かしい、あの愛しい聲。
ああ、聲が……。
双葉の聲が聞こえる……。
ゆっくりと目蓋を上げると、そこに双葉の姿があった。
双葉は、只微笑んでいた。
あの穏やかで優しい眼で、牙星を見詰めていた。
これは、死の間際の、夢幻なのだろうか……。
しかし、それでも構いはしない。
ああ双葉、今再び、儂の傍に居てくれるのか……。
今再び、その懐かしい眼で、儂を見てくれるのか……。
儂はなあ、双葉。
お前が最後に見せた、あの涙がずっと気になっていたんだ。
お前が悲しいまま、たった一人で黄泉の国へ行ってしまったのではないかと、ずっとずっと気になっていた……。まだ童女のお前が、黄泉の国でも泣き続けているのではないかと……。
良かった……。
お前が再び、笑ってくれて……。
……双葉、今度こそ誠に、お前を……儂の妃に……。
牙星は、虚ろに目蓋を開いた。そこから覗いた紅の眼は、焦点すら定まらぬまま、天を彷徨《さまよ》った。
「……儂は、ここより高い国を司る……、この世界は、お前に譲ろう……」
不思議と穏やかな聲で、牙星は云った。雲間から、微かな陽が射していく。
そのまま、牙星の紅の眼を再び見る事は、もうなかった。流れた血が、まるで鮮やかに咲く花のように、その屍を飾っていた。
牙星は、泣いていた。
すでに魂の抜け殻である筈の牙星の眼から、細い涙の筋だけが静かに流れていた。
「……牙……星」
タケルは惚けた顔のまま、横たわった男の名を呼んだ。すでに返る言葉が、ある筈もない。
白い目蓋は動く事なく、それを縁取る長い睫毛の先には、光の粒が宿っていた。
タケルは、もう一度牙星の名を呼んだ。
もう一度、呼ぶ。
もう一度。
「牙星ぃぃぃっ!!」
最後の呼び聲は、泣き聲に変わっていた。
牙星は、死んだ。
傲慢で高飛車だった少年は、もう笑う事すらない。その足で、野を駆ける事もない。
眠りに落ちたような、牙星の顔。穏やかに、微笑んでいるように。
タケルは、無邪気に笑う牙星の姿しか、思い出す事ができなかった。
ここより、高い国。
牙星は、これから何処へ向かっていくのだろう。婆様とは、恐らく別の処。残されたタケルには、知る術もない。
タケルは只一人、泣き続けた。
「兄……上……」
聲に、タケルは振り向いた。
守人が、生きている。守人は胸に剣が突き刺さったまま、ゆらりと立ち尽くしている。
タケルは、己の眼を疑った。
守人の頬に伝う、一筋の涙。
泣いていた。
感情を一切見せる事のなかった守人が、今タケルの目の前で泣いていた。
その顔に、やはり表情はなかった。面のような顔の上を、涙だけが零れていた。タケルは、只黙ってそれを見ていた。
「……私は、兄上の分身である筈の、龍の化身……」
やがて口を開いた守人の体は、幾つもの白い粒子に包まれていた。
「私は、天の大気の中から生まれた。龍は皆、そうして生まれる」
守人の聲は、その全身を包む粒子に溶けるように、大気に響いた。
「そうして生まれたばかりの私は、母の胎内に抱かれ眠る赤子の姿を見た。私は、母の温もりなど知らない。そこに眠る兄上の姿は、この上なく安らぎ、心地良さそうだった。そして私は、いつしかその中に身を委ねていた」
牙星と命を共にする筈の龍神。その龍神は、牙星を身籠った龍貴妃の胎内に自ら宿った。赤子の牙星と共に胎内に宿り、十月十日の後人の赤子として産み落とされた。牙星と共に生まれた人の形をした龍神を、神殿の者たちは双子の皇子だと思ったのだ。
「母の胎内というのは、おかしなものだな。あの水の中で揺られ眠るうちに、生き物は輪廻転生の記憶を置き忘れるのだろうな」
抑揚のない聲。
人の形をした、龍神。
感情を一切伴わない守人の聲の中に、タケルは止めどない悲しみと虚しさを知った。守人と同じ龍の子であるタケルは、その内に潜むものを苦しい程に感じ取っていた。
「私は、タケルが羨ましい。龍の子でありながら、母を知る、お前が……」
言葉が終わる刹那、守人の姿は白い龍となった。ゆらりと、天に舞い昇る。
まだ若い龍神は、美しい白い肢体から燐光を発しながら、森羅万象という母の元へ還っていく。雲の隙間から空が覗き、光が射した。
陽の光を受け、彼方の空に白い龍神は一筋の光となった。
雷鳴のような低い咆哮が、天の遥まで谺した。
タケルは頂の上に、只一人残された。
濡れた草の上に、笛が転がっていた。守人が片時も手放す事のなかった、白い笛。
龍でありながら、牙も爪も持たなかった守人。この白い笛が、そのふたつの代わりだったのかもしれない。
龍の姿へ還り、牙も爪も手に入れた守人には、もう必要のないもの。
タケルは、静かに笛を拾い上げた。
冷たく、獣の牙のように硬い笛。タケルはそれを、そっと口元に近づけた。
笛の音が響く。
それを奏でるタケルの顔には、一切の感情すら見られない。薄く開かれた目蓋の下に、琥珀の眼が揺れていた。
長い髪が風に吹かれ、タケルの痩躯《そうく》を包み込む。光を纏い、鬣(たてがみ)のように輝きながら。
残された幼い龍神は、只一人笛を奏でた。
苦しみ、痛み、悲しみ、全ての感情を内に眠らせて。
タケルはすでに、幾つもの大切なものを失っていた。
笛の音は谺した。
久遠の旋律。龍の子守唄。人の子でもあった己を眠らせる為の、子守唄。
ミコよ、今は只、おやすみ。
何も心病まずとも、良いように。
再び目覚める時まで、今はおやすみ。
タケルの笛の音と重なり、遠くお囃子の音が聞こえた。
村や里、都では、龍のミコを迎える為の祭りの仕度を始めていた。
❬終劇❭
そして、ある者は震え慄いた。龍神の怒りだと祈り、泣き叫んだ。
そしてある者は、嘆きに涙を流した。まだ若い龍の御子の、悲しみに打ちひしがれる聲を聞き、お可哀想にと共に泣いた。
そして一人の母は、時が満ちた事を知り、泣き伏した。
「……タケルが、呼んでいる……」
そう呟き、紅の眼の片割れは神殿を後にした。風を手に入れ、獣の速さで。
そしてもう一人の片割れは、稲妻に導かれるが如く天に近い頂へと駆け出した。
稲光と共に重く黒い雨雲が空一面を覆い、天が轟いた。
そして、尋常ではない、雨、風。渦巻き、荒れ狂う大気。
人々はその時が訪れた事を悟り、逃れようのない運命に深く頭を垂れ、手を合わせた。
◆
タケルは幾度となく雄叫びながら、峠を駆け登った。
龍の尾のような髪が、荒れた風に煽られ乱舞する。まるで手負いの獣のように、全身を振り乱し、タケルは走り続けた。
幾年もの歳月、食物はおろか水すら口にしていない筈なのに、タケルの全身には力という力がみなぎっていた。もうずいぶん走り続けているのに、呼吸すら乱れていない。
タケルはいつの間にか、荒れ狂う天の頂へと辿り着いていた。
黒い雲を渦巻きながら、天は唸っていた。タケルの動揺と悲しみをそのまま映し出しているかの如く、叩きつける雨。
タケルは頂に立ち、何度も何度も叫んだ。喉の奥が、血で染まる程に。
溢れる涙は、雨に洗い流された。
途方もない、絶望。
今の自分は、もう、人ではない。人である筈がない。
タケルの中に流れる、もう半分の血が目覚めていた。
龍の血。
タケルは紛れもなく、龍の御子だった。
天を貫く稲妻。
瞬間、タケルの心臓が激しく波打った。
はっとして、眼を見張る。
叩きつける雨に霞む視界の向こうに、人の姿が見えた。
息を呑み、眼を凝らす。
美しい、一人の男。
この気配。
タケルは、茫然と立ち尽くした。
忘れる事などできない、この強い生命力。過ぎていった時がその姿を変えさせようと、タケルには判った。
タケルが誰よりも、何よりも欲していた存在。
牙星だった。
◆
何なのだ、この者は。
雨の向こう側に立つ、異形の童子。
人の形はしていた。けれど、とても人とは思えなかった。その全身から発せられる気配は、到底人のものではない。
雨に濡れて張りついた、異常な長さの頭髪。童子の両の眼は、琥珀の光を帯び牙星を見詰めている。そして童子の全身からみなぎり溢れる、魂の気配。
この気配は、タケル。
いや、まさか。
牙星が、眼を疑う。この異形の者がタケルであるのならば、何故童子のままなのだ。袂を別ったあの日から、すでに数年の歳月が経過している。
牙星と同じ歳のタケルが、童子の筈がない。牙星と同じく、成人の姿の筈。
童子のままのタケル。
だが、牙星は本能的に気づいていた。
あの日のままなどではない。
タケルはもう、人などではない。
この気配。タケルの中に流れる、もう半分の血。龍神の血。
そこに居るのは、龍の御子タケルだった。
タケルは人の子から、龍の御子へと姿を変えたのだ。
それに気づいた瞬間、牙星の全身を巡る血が煮えたぎった。
眼前に立つは、憎き龍の血を引く者。いとおしき者を奪った、龍神の血を継ぎし者。
只一人本気で愛した双葉を、牙星から奪い去った、龍神。
そして。
牙星は気づいた。
龍の血を継ぐ者。
この者こそが、牙星から全てを奪う存在なのだと。
牙星が王として司る筈のこの世界を。牙星が伐つべき者は、守ノ皇帝などではない。
眼の前に居るのは、真に忌むべき存在。
龍の御子。
この者はもう、タケルなどではない。
躊躇う必要など、ない。
牙星は素早い動きで、腰の鞘から剣を抜いた。瞬間光った稲妻が、鋭い刃先に反射する。容赦ない雨が、タケルと牙星の全身に叩きつける。
「……儂から、双葉を奪った龍神……お前は、その血族」
タケルは剣を構えた牙星を、只惚けたように見詰めていた。
「そして儂から、全てを奪おうとする者」
刹那、牙星の剣がタケルを掠める。タケルはそれを、只本能で交わしていた。タケルの頭髪が、雨に散る。
タケルは息を呑んだ。
紙一重だった。以前の自分ならば、確実に急所を突かれていただろう。
牙星の殺気を帯びた眼差しが、タケルを射抜く。牙星は、本気でタケルに剣を向けていた。
止む事を知らぬ、濁流のような雨。
全てが、悪い夢のように。
牙星が、再び剣を振り下ろす。タケルの髪が、散り流される。
「……牙星……」
タケルは、酷く久し振りに言葉を発した。
「黙れっ!」
言葉と共に、牙星の剣が襲う。
「……やめろ、牙星……!」
言葉など無駄だった。牙星の攻撃は、只激しさを増すばかりだった。雨を纏い、その剣は一心不乱にタケルを追い詰める。
殺気は雨に流れ出し、一帯を染め上げる。血飛沫が、煙るように雨に散る。タケルは腕に、焼けつくような痛みを感じた。一文字に裂けた傷口に、雨が差し込む。
閃光が荒れ狂う天を駆ける。
頂で合間見える二人の姿は、雨に乱舞する二体の龍のように美しく崇高な光を纏った。稲光を映し、二人の眼は琥珀と紅の光を宿した。
タケルは、酷く苦しかった。牙星の剣は、只ひたすらタケルを追い続けた。タケルの命を絶つ事しか、今の牙星の頭にはない。
龍の御子となった、タケルを絶つ。もう只の人の子ではない、タケルを。
そう、もうタケルは人ではない。人ではないモノとなってまで、生き続けてどうするのだろう。これから先、人ではないモノとして生きていくのか。
タケルの内を、ゆらりそんな思いが過る。
剣を突き出す牙星。
これは一体、何なのだろう。
牙星は、只一心不乱にタケルを追い、剣を振り続けた。両の眼に憎悪だけを宿し、タケルを捉えて放さない。
牙星は今、本気でタケルを憎んでいた。
タケルには、牙星が本気で自分を憎むわけが判らなかった。
タケルが、龍神の御子だから?
タケルは只、牙星に生きて欲しいだけだった。
龍神となったタケルがこの世界を手中にするのだと、龍貴妃は云った。
そんなものは要らない。欲しいとも思わない。
自分が消えれば、定めの輪は変わるのだろうか。
牙星は、もう一度あの頃のように、無邪気に笑ってくれるのだろうか。
二人で登った大木の頂上で楽しそうに笑っていた、牙星の姿を思い出した。
不意に、タケルの気が緩んだ。
激しい雨の飛沫を受け、牙星の姿が幻影のように揺らぐ。
刹那の稲光に、全てが白く溶け去る。
鈍い音がした。肉と骨を突く、嫌な音。
不思議と、痛みはない。
タケルの上に、何が崩れ落ちた。その重みでタケルの体は、ぬかるむ土の上に倒れた。
タケルは驚いて、目蓋を開いた。
ぐっしょりと雨に濡れた、鮮やかな衣。タケルの上に横たわる、細身の体躯。すっかり血の気の引いた、美しい面差し。
「……守人……」
タケルは、愕然と眼を剥いた。
何故、いつの間にここへ現れたのか。
ぐったりと横たわった守人の胸には、牙星の剣が深く突き刺さっていた。雨の染み込んだ衣に、真っ赤な鮮血が広がっていく。
「……どうして」
ほんの一時の間に、何が起きたのか。タケルが守人の体を起こした、その時だった。
「……ぐはっ……!」
苦しげな呻きが聞こえた。タケルが、驚いて振り向く。口から多量の鮮血を吐き出し、崩れ落ちる牙星の姿が見えた。
「……何故、儂が……」
言葉と同時に、再び鮮血が溢れた。零れ落ちた血を、すぐに雨が洗い流していく。牙星の心臓が、激しく波打っていた。牙星は手のひらで心臓を掻きむしるように押さえ、悶えながら土の上に倒れ込んだ。
牙星は低く咳込むと、再び鮮血を吐き出した。
「牙星っ!」
起き上がったタケルは、牙星の傍に駆け寄った。
牙星は倒れたまま、苦しげな血眼をすでに事切れた守人に向けた。同じ時に生まれ落ちた、双子の弟。
何故、今まで気がつかなかったのだろう。双子の片割れの発する、この気配は。
牙星は、己の迂闊さを悔いた。
「……そうか、今、判った……」
口元に幾筋もの紅を溢しながら、牙星が云った。
「お前が、儂と命を共にする、龍神なのだな……」
もうすで、守人が言葉を洩らす事はない。
牙星は、憎々しげに呪うように、天空を見上げた。いつの間にか、あれ程激しかった雨は止んでいた。まだ重苦しい雲が、流れ動いていく。
牙星の視界が、白い霧に覆われていく。朦朧と、息苦しい。
牙星は、ゆっくりと目蓋を降ろした。
聲が、聞こえた気がした。
懐かしい、あの愛しい聲。
ああ、聲が……。
双葉の聲が聞こえる……。
ゆっくりと目蓋を上げると、そこに双葉の姿があった。
双葉は、只微笑んでいた。
あの穏やかで優しい眼で、牙星を見詰めていた。
これは、死の間際の、夢幻なのだろうか……。
しかし、それでも構いはしない。
ああ双葉、今再び、儂の傍に居てくれるのか……。
今再び、その懐かしい眼で、儂を見てくれるのか……。
儂はなあ、双葉。
お前が最後に見せた、あの涙がずっと気になっていたんだ。
お前が悲しいまま、たった一人で黄泉の国へ行ってしまったのではないかと、ずっとずっと気になっていた……。まだ童女のお前が、黄泉の国でも泣き続けているのではないかと……。
良かった……。
お前が再び、笑ってくれて……。
……双葉、今度こそ誠に、お前を……儂の妃に……。
牙星は、虚ろに目蓋を開いた。そこから覗いた紅の眼は、焦点すら定まらぬまま、天を彷徨《さまよ》った。
「……儂は、ここより高い国を司る……、この世界は、お前に譲ろう……」
不思議と穏やかな聲で、牙星は云った。雲間から、微かな陽が射していく。
そのまま、牙星の紅の眼を再び見る事は、もうなかった。流れた血が、まるで鮮やかに咲く花のように、その屍を飾っていた。
牙星は、泣いていた。
すでに魂の抜け殻である筈の牙星の眼から、細い涙の筋だけが静かに流れていた。
「……牙……星」
タケルは惚けた顔のまま、横たわった男の名を呼んだ。すでに返る言葉が、ある筈もない。
白い目蓋は動く事なく、それを縁取る長い睫毛の先には、光の粒が宿っていた。
タケルは、もう一度牙星の名を呼んだ。
もう一度、呼ぶ。
もう一度。
「牙星ぃぃぃっ!!」
最後の呼び聲は、泣き聲に変わっていた。
牙星は、死んだ。
傲慢で高飛車だった少年は、もう笑う事すらない。その足で、野を駆ける事もない。
眠りに落ちたような、牙星の顔。穏やかに、微笑んでいるように。
タケルは、無邪気に笑う牙星の姿しか、思い出す事ができなかった。
ここより、高い国。
牙星は、これから何処へ向かっていくのだろう。婆様とは、恐らく別の処。残されたタケルには、知る術もない。
タケルは只一人、泣き続けた。
「兄……上……」
聲に、タケルは振り向いた。
守人が、生きている。守人は胸に剣が突き刺さったまま、ゆらりと立ち尽くしている。
タケルは、己の眼を疑った。
守人の頬に伝う、一筋の涙。
泣いていた。
感情を一切見せる事のなかった守人が、今タケルの目の前で泣いていた。
その顔に、やはり表情はなかった。面のような顔の上を、涙だけが零れていた。タケルは、只黙ってそれを見ていた。
「……私は、兄上の分身である筈の、龍の化身……」
やがて口を開いた守人の体は、幾つもの白い粒子に包まれていた。
「私は、天の大気の中から生まれた。龍は皆、そうして生まれる」
守人の聲は、その全身を包む粒子に溶けるように、大気に響いた。
「そうして生まれたばかりの私は、母の胎内に抱かれ眠る赤子の姿を見た。私は、母の温もりなど知らない。そこに眠る兄上の姿は、この上なく安らぎ、心地良さそうだった。そして私は、いつしかその中に身を委ねていた」
牙星と命を共にする筈の龍神。その龍神は、牙星を身籠った龍貴妃の胎内に自ら宿った。赤子の牙星と共に胎内に宿り、十月十日の後人の赤子として産み落とされた。牙星と共に生まれた人の形をした龍神を、神殿の者たちは双子の皇子だと思ったのだ。
「母の胎内というのは、おかしなものだな。あの水の中で揺られ眠るうちに、生き物は輪廻転生の記憶を置き忘れるのだろうな」
抑揚のない聲。
人の形をした、龍神。
感情を一切伴わない守人の聲の中に、タケルは止めどない悲しみと虚しさを知った。守人と同じ龍の子であるタケルは、その内に潜むものを苦しい程に感じ取っていた。
「私は、タケルが羨ましい。龍の子でありながら、母を知る、お前が……」
言葉が終わる刹那、守人の姿は白い龍となった。ゆらりと、天に舞い昇る。
まだ若い龍神は、美しい白い肢体から燐光を発しながら、森羅万象という母の元へ還っていく。雲の隙間から空が覗き、光が射した。
陽の光を受け、彼方の空に白い龍神は一筋の光となった。
雷鳴のような低い咆哮が、天の遥まで谺した。
タケルは頂の上に、只一人残された。
濡れた草の上に、笛が転がっていた。守人が片時も手放す事のなかった、白い笛。
龍でありながら、牙も爪も持たなかった守人。この白い笛が、そのふたつの代わりだったのかもしれない。
龍の姿へ還り、牙も爪も手に入れた守人には、もう必要のないもの。
タケルは、静かに笛を拾い上げた。
冷たく、獣の牙のように硬い笛。タケルはそれを、そっと口元に近づけた。
笛の音が響く。
それを奏でるタケルの顔には、一切の感情すら見られない。薄く開かれた目蓋の下に、琥珀の眼が揺れていた。
長い髪が風に吹かれ、タケルの痩躯《そうく》を包み込む。光を纏い、鬣(たてがみ)のように輝きながら。
残された幼い龍神は、只一人笛を奏でた。
苦しみ、痛み、悲しみ、全ての感情を内に眠らせて。
タケルはすでに、幾つもの大切なものを失っていた。
笛の音は谺した。
久遠の旋律。龍の子守唄。人の子でもあった己を眠らせる為の、子守唄。
ミコよ、今は只、おやすみ。
何も心病まずとも、良いように。
再び目覚める時まで、今はおやすみ。
タケルの笛の音と重なり、遠くお囃子の音が聞こえた。
村や里、都では、龍のミコを迎える為の祭りの仕度を始めていた。
❬終劇❭
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