ミコ―龍の子の祭り―

遠堂瑠璃

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二十七. 契り

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 先代の皇帝が死去して、五年の歳月が過ぎ去った。
 仮という形で皇帝の座に就いていた守人もりびとも十八となり、すでに成人の儀を迎えていた。命を共にする龍神を得ぬままに、正式に皇帝の座に就かざらない年齢となっていた。

 事を進める大臣たちは、かなりの焦りを覚えていた。
 先代皇帝の命を奪った牙星きばぼしの行方は、いまだ不明のまま。
 そして正式に皇帝となった後も、守人の様子は相変わらずだった。誰が何を云っても、笛を吹く事をやめようとはしない。
 更にその大臣たちを悩ます事。
 正式に婚姻の儀式を交わした守人と妃の間は、終止冷えきっていた。今では、寝室も別々。必要以外では、決して顔も合わせようともしない有り様。
 そんな様子であるから、当然世継ぎなど期待できるわけもない。

 そして、突然姿をくらました龍の御子みこタケルの存在も、大臣たちにとっては気がかりなものだった。
 先視が予言したという、真にこの世界を司る者。
 牙星と同様、邪魔な存在である事には変わりない。
 どうにかして、この二人の邪魔者を、始末しなければ。全ては、その後だ。
 邪魔な者が全て消え去ったのちは、皇帝となった守人を傀儡くぐつのように操っていけばいい。そうなれば、最早天下は自分たちの手中にあるも同然。
 その為には何としても牙星を探し出し始末して、早急に守人を真の皇帝に仕立て上げなければ。ついでに、皇帝の新しい妃も幾人か用意しておくか。
 
 守人の笛の音が響く神殿の片隅で、大臣たちはえげつなく思案していた。
       
           ◆  

 夜の闇が降りる頃、男は一人、静かに炎に薪をくべる。跳ねた火の粉が、男の手元を赤い粉雪のように舞う。
 紅の眼に燃える炎を映しながら、男はじっと座していた。物を思うでもなく、心を無にしたまま。眸《ひとみ》に正面で燃え盛る炎を揺らしながら、男は何も見てなどいなかった。

 放浪を続け、すでに幾年月もが過ぎていた。
 当てもなく彷徨いながら、剣の腕、武術による身のこなし等、常に鍛練を続けてきた。
 更に強く、誰よりも強くなる為に。
 それが今、男の生きる全ての意味だった。

 男の名は牙星。
 けれど今、この名を呼ぶ者は誰も居ない。


 己は強い。童の頃は、そう自惚れていた。
 けれど大切な者を守れなかった時、初めて己の未熟さ、弱さを知った。

 放浪しながら、数えきれぬ程の剣豪と腕試しをした。多勢を相手にした事もある。
 牙星は決して負ける事はなかった。けれど、まだ足りぬ。

 牙星は、更なる強さを欲していた。
 故に、放浪を続けている。
 都を避け、小さな村々を渡り歩き、己を鍛え続けた。都で目立つ事をすれば、すぐにその存在は神殿まで知れ渡る。陽の昇る頃に訪れた村は、陽が落ちるまでには去る。一処ひとところにとどまる事もない。

 まだ、足りぬ。もっと強くならねば。
 そしてその時を悟ったならば、血を分けた片割れである守ノ皇帝もりのこうていを斬る。
 それが、牙星が背負った定め。

 今更守ノ皇帝を伐ったところで、その座を取って代われるわけもない。
 只、罪が重なるだけ。
 父である先の皇帝に続き、双子の弟である現皇帝の命まで奪った最も罪深き罪人となるだけ。

 何も、戻っては来ぬ。
 けれど、構わぬ。そんなものを取り戻したいわけではない。
 この世界など、もう要らぬ。

 牙星は、目蓋まぶたを閉じる。
 双葉を失ったあの日から、牙星は世界に興味をなくした。
 いつか王となり、この世界の全ての上に立ち、全てを司るつもりだった。それを阻む者は誰であろうと許さぬ。そう強く思っていた。
 童の頃に強く欲していたこの世界は、今や血を分けた片割れである守ノ皇帝が司っている。自分は、守ノ皇帝から王の座を奪い返そうとしているのだろうか。
 牙星は、今一度己に問いかける。

 いや、そんなもの最早どうでもよい。

 牙星を突き動かしているものは、本能。
 定めを悟った、本能なのだ。

 守ノ皇帝を伐った後、自分はどうするつもりなのだろう。

 判らぬ。
 けれど、そんな事はもうどうでもよい事。
 いずれにしろ、牙星が最も望む願いは、もう二度と叶う事はないのだ。

 
 双葉……。


 今でもその少女は、牙星の心に棲み、離れずにいる。
 不意に隙をつき、心の内をよぎっていく。あの頃のまま、変わらぬ姿で。

 
 儂はこうして成長したが、お前はいつまでも童女のままなのだな……。
 
 双葉の事を想う時だけ、束の間に牙星の口元は笑みを湛える。険しく獣のように研ぎ澄まされた眼は、優しくたゆむ。

 儂は、本当は強くなる事など欲してはいないのかもしれぬ。いくら強くなろうと、もう守るべき者は何処にも居ないのだから。
 儂は只、お前に再び会う事だけを望んでいるのかもしれぬ……。

 紅の眼に、光が揺れた。

「…………双葉……」

 牙星の聲《こえ》が、只一人の愛しい者の名を紡いだ。

         
            ◆


 牙星は、天を振り仰いだ。遠く、空が黄金に輝いている。
 陽が明けてから、どれ程の道程を歩いて来ただろう。山を越え、幾つかの村を抜け、だいぶ外れの里村まで来ていた。人の姿も、いつのまにか見当たらなくなっていた。
 今宵はこの辺りで腰を据えよう。
 そう思いながら、牙星は再び天を仰いだ。
                 
           

 娘は一人、夜の帳も降りた薄暗い座敷に居た。
 いぶる蝋燭に灯る火を見据え、小さな祭壇に祈りを捧げていた。締め切られた座敷の中央に座し、その口元以外は僅かな動きすら見せない。
 真っ白な巫女装束は、闇と蝋燭の火に染め上げられている。長い黒髪は、娘の細い腰の更に先、座した藺草の上にまでかかっていた。

 風の音。
 娘は弾かれたように、まなこを障子の向こうに向けた。
 障子の外側に、人影が揺れている。その丈の高い影は、間違いなく男のもの。
 
 ここは、神聖なる巫女の領域。男子禁制の場所。女人ですら、限られた者しか立ち入る事の許されぬ処。
 何故、このような者が。 
 娘は、身を硬くした。
 
 音もなく、障子が開いた。
 娘は僅かに戸惑い、障子の先に現れた者を見据えた。身の丈六尺はあろう男。
 男。
 娘は一瞬、女人と見間違えた。それ程に、美しい相貌の男だった。その身の丈と精悍な体躯がなければ、女人と信じ込んでいたであろう。これ程に端整な顔形の者を、娘は初めて目にした。
 月光が宿っているかのような漆黒の長い髪、陶器のような肌、そして切れ長の紅の眼。
 まだ若く、歳は十七、八という頃か。

 男は娘の方へ視線を向けると、酷く驚いたように形の良い眼を大きく見開いた。
 娘は黙ったまま、少し怯えて身構えた。男の方も言葉もないままに、只じっと娘を見詰めている。
 娘は、心を落ち着かせるべく、一度小さく息を吐いた。そして、男に問いかける。

「……あなたは、何故そのように、私を見て驚かれるのですか?」
 動揺しきって喉が渇いている為か、こえが上手く出せない。

「儂が昔、伴侶に選んだ娘に、お前があまりに似ていたものだからな」 

 男の顔が、ふと緩んだ。口元に、えも云われぬ優しい笑みを溢して。それは、ある種の気を許したものだけに見せるような、そんな表情だった。
 娘は、胸を突かれたような不思議な心地を感じた。男の柔らかな憂いを宿した眼を見ているうちに、娘の中からいつのまにか怯えや動揺は消え失せていた。
 そして、ずっと前からこの男を知っていたような、そんな安心感さえ芽生えていた。

 そして、強く波打つ胸の鼓動。
 その高鳴りの原因が、娘には判らなかった。

                 ◆

 次の夜も、その次の夜も、男は現れた。
 男子禁制のこの場所へ毎晩平然と現れる男を、娘は何故か咎める気にはなれなかった。

 男は娘に、名を明かそうとはしなかった。娘が尋ねても、決して語ろうとはしない。そして只一言、今は名を持たぬ身だと口にするだけだった。
 男は、娘にも名を尋ねなかった。また娘も、自ら名を口にはしなかった。

 毎夜現れては、一言二言、言葉を交わすだけ。
 それでも娘は満足だった。
 何故なのか判らぬが、幸せだった。
 いつしか娘は男に、春の心地にも似た、淡い感情を抱いていた。

 そしてそれは、七日目の夜だった。
 宵待ち月の晩。
 男は、穏やかに優しく、娘に云った。

「お前のその姿は、儂の妃となる筈だった双葉の生き写し。儂と出会ったこの時から、お前は双葉となれ。双葉として生き、哀れなあの娘の成せなかった願いを叶えるのだ」
 
 娘には、その言葉が何を意味するのか判らなかった。

 速い動きではあった。が、優しく労るように、男の腕が娘の体に伸びた。
 気がつくと、娘の体は男の腕の中に埋もれていた。暖かな体温、脈動が触れた腕から伝わってくる。娘は、驚いて身を硬くした。男の腕の中に身を預けたまま、寸分も動けずにいた。
 呼吸の音が耳に聞こえる。それが男のものなのか、自分のものなのか、それすら判らなくなる程、思考が停止していた。
 そうしているうちに、娘の顎が、男の指に引き寄せられる。
 
 重なる唇。
 ひとつに繋がった影が、障子に揺れ映る。

「恐れなくとも良い」
 男の聲が、耳元に触れる。
 娘は、強張った体の力を、ゆっくりと抜いた。そして、静かに男に身を委ねた。

               ◆

 蝋燭の火に、二人の影姿が揺れていた。
 娘は、まだ薄紅の頬のまま、憂いを孕んだ眼差しで男を見上げた。衣を整え終えた男が、娘の視線に振り向く。まだ少し、乱れたままの髪。

「……私の、巫女としての、最後の神託です」

 男が、言葉もなく娘を見詰める。

「牙も爪も持たぬ龍に、お気をつけ下さい」
 
 巫女としての凛とした娘の聲が、まだ薄暗い朝の梢に響いた。

「……それだけが、あなたへの餞別として伝えられる、私の唯一の言葉です」
 娘の頬は、いつのまにか涙に濡れていた。

 そして男は、娘の元を去っていった。別れが近い事は、娘にも判っていた。
 出会いと同じく、それは必然の定め。

 男とむつみ合ううちに、この者の背負った定めの重さを、娘は悟っていた。そして、こうして自分と交わり合っている時でも、男の心には別の誰が棲んでいる事も。

 全部、判っていた。けれど、それでも良かった。
 双葉という娘の代わりでも、自分がその相手に選んでもらえただけで、充分だった。
 男がいつか、双葉という娘の陰に自分の存在を忘れてしまっても、娘は決してあの男の事を忘れない。

 娘はこの隠れ里に生まれた、額に眼を持つ一族の巫女だった。
 娘の双子の姉は、最初に生まれた額に眼を持つ女の赤子であった為、姫巫女として五歳の時に引き離されていった。
 額に眼を持って生まれた者は、短命である。自分の命が後数年である事も、娘は知っている。
 ならばせめて、残された数年間は、片時も男の事を忘れはしない。
 命尽きるまで、誰よりも想い続けていたい。

 娘……二葉は、朝霧の中で想い馳せるように、目蓋を閉じた。
                 
          ◆

 あれから幾度、陽が昇ったのだろう。
 それとも三日も過ぎていないのかもしれない。
 何時なんどき辺りなのか、外に出て確かめる気力すら、タケルにはなかった。

 不意にタケルは、両の足の指に絡み付く、湿り気を帯びた藻のようなものに気づいた。

 それは、生き物の毛髪だった。

 ここに、タケル以外の人間が居る筈がない。
 
 タケルは、はっと何かに気づいたように両の手で己の頭を鷲掴みにした。頭部の皮膚から伸びる、長い長い毛束。夥しい、毛髪。
 タケルは、激しく動揺した。

 この尋常ではない程に、長く伸びた髪。それが、何を意味するのか判らない。
 タケルの背丈程に長い頭髪。一年やそこらで伸びる長さではない。

 今は一体、どれ程の歳月が過ぎというのだ。そんなにも長い歳月、ここでこうして過ごしていたというのか。
 嘘だ。
 そんなわけがない。
 牙星が居なくなってから、食物も水も口にしていないのだ。
 たかが十三歳の童子が、そんな状態でそれ程長い歳月を平気で過ごせるわけがない。只の人間が、生きていられるわけがない。
 只の人間が。

 タケルは、息を呑んだ。
 弾かれたように、暗闇の洞窟から外へ飛び出す。
 
 全身に、風を受ける。
 外の景色を、眼のあたりにする。歳月は、確実に過ぎていた。
 樹の枝の形、草の生え方、苔むす岩の様子、僅かずつ、全てが記憶と異なっていた。

 時は、過ぎ去っていた。
 タケルは、絶句した。

 一体、何が起きた。一体、どれ程の時間が流れた。何も食べていない。何も呑んでいない。
 自分は何故、生きている。

 タケルは、激しい恐怖と絶望に襲われた。
 恐い、恐い、恐い、恐い、恐い、恐い、恐い、恐いっ‼

「うっ…うあっ……」
 歪んだ嗚咽が、タケルの口から洩れ出す。

「……ウォォォォォォォォォォォォォォォッ‼」

 タケルの叫び聲。それは、龍の咆哮だった。
 何度も何度も洩れた咆哮は、遠く山々、都まで響き、谺した。
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