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二十五. 母
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目の前の老夫は、全てを知っている。
タケルの父である龍神の事も。そして、タケルを産み落とした母の事も。正体すら判らぬこの老夫は、タケル以上にタケルの出生の事実を知っている。
タケルは察した。
「……お前の母は、儂の妻の姉だった」
老夫の語った事実に、牙星までもが眼を剥いた。
「聖龍神様は、先代の皇帝と命を共にする龍神だった。そしてお前の母は、その龍神に仕える、只一人の姫巫女だった」
タケルの母は、姫巫女だった。双葉と同じ、龍神に仕える唯一の巫女。額に第三の眼を持つ選ばれし娘だけが、姫巫女としての定めを与えられる。
タケルは初めて聞かされた母の事実に、胸の動悸を押さえられずにいた。
老夫が、言葉を続ける。
「聖龍神様と命を共にする皇帝は、久遠の時を生きる為に、姫巫女を贄に捧げる祭りの儀式を行おうとした」
祭りの儀式。
双葉を亡き者にした、犠牲の儀式。
硬く握られた牙星の拳が、癒えぬ怒りに震えた。
「……何故、永遠の命を得るその儀式に、姫巫女の犠牲が必要なんだ」
懸命に感情を抑えた聲で、牙星が問う。
「龍神を、堕天にする為だ」
老夫の頭髪の隙間から覗く眼が、一瞬だけ憂いを帯びた。
「額に眼を持つ娘は、貴き神の遣い。云わば、生き神。その穢れなき姫巫女を喰らう事で、龍神は穢れた神となる。穢れたものは、天に忌み嫌われるからな」
堕天。
祭りが行われた日の明け方、白髪巫女が云っていた言葉。
双葉は、自分の定めを知っていた。最後の御祓を行いながら、双葉は何を思っていたのだろう。
タケルは、眼を落とした。その落とした視線の先に、小刻みに震える牙星の拳が見えた。
「お前の母も、龍神を堕天にする為に捧げられた。だが聖龍神様は、お前の母である姫巫女を喰らう事ができなかった」
姫巫女だったタケルの母も、あの祭りの日の双葉と同じように、己の仕える龍神と対峙した。これから己の身を喰らおうと構える、爪と牙を持つ龍神と。
けれど龍神は、姫巫女を生かした。
「聖龍神様は、人間に姿を変えると、姫巫女を連れ、人里離れた山奥へ隠れ棲んだ」
人の姿と化した龍神と、姫巫女。
二人は、誰の手も及ばぬ、遠くへと逃げ隠れた。
只二人で巫殿から逃げ出した、あの日の牙星と双葉のように。
「そして姫巫女は、その胎内に子を身籠った」
龍神と姫巫女。
いつしか両者は、互いに心を通わせ合った。
「元々、額に眼を持つ娘は短命だ。龍の子は、人間の子よりもずっと母の胎内で過ごす時間が長い。もうすでに姫巫女は、龍の子を身籠った為にその命を繋いでいるようなものだった」
その胎内に龍神の赤子を宿し、姫巫女は僅かな命を繋ぎ止めた。
龍神と共に、残された時を過ごした。
「お前を産み落とすと間もなく、姫巫女は天命を終えた。聖龍神様は、お前を人の世界の巫女長に託し、天に還られた」
龍神は、当時の巫女長であった婆様に、生まれたばかりのタケルを託した。
人と龍の間に成された、小さな小さな赤子を。
「タケル。お前は、人の姿をした……龍」
老夫の聲が強い余韻を残し、洞窟に響いた。
◆
微かに頬を掠めた感触に、龍貴妃は目蓋を開いた。腰掛けに座した膝に舞い落ちたのは、桜の花弁だった。開け放たれた窓から、春の風に乗って舞い込んで来たのだろう。
龍貴妃は、細い指で花弁を摘んだ。それとほぼ同時に、笛の旋律が止んだ。
龍貴妃は、ゆらりと眼を上げた。正面に立った守人は口元から笛を離し、紅の眼で龍貴妃の指の動きをじっと見詰めていた。
「どうしたの? もう少し、あなたの笛を聞かせて頂戴」
龍貴妃は眼を細め、柔らかな聲で守人に云った。守人は人形のような顔で僅かに首肯くと、再び笛を唇に当てた。そして、旋律の続きを奏で始める。
龍貴妃は、窓の外に眼を転じた。すっかり満開に咲いた桜の花は、後はもう散るばかりだった。風に吹かれては、一片二片と舞い落ちる。
龍貴妃は旋律を耳に、目蓋を閉じた。我が子の奏でる笛の音だけが、今この場所に自分が居るという証だった。
昨夜、一時だけ龍貴妃の元へ戻って来た、もう一人の我が子。少し離れていた間に、随分成長したように見えた。背丈は伸び、四肢の筋の肉も逞しくなっていた。そしてその面差しは、時を経るごとに父である皇帝に近づいていた。
龍貴妃は、胸に切ない痛みを覚えた。
十四年前の真夏、龍貴妃は二人の赤子を産み落とした。
王家に授かった、双子の皇子。
一人は生まれてすぐから良く動き、静止する事を知らぬ喜怒哀楽の激しい赤子。そしてもう一人は、生まれ落ちた瞬間すら泣きもしない、おとなしい赤子だった。
生まれたばかりの二人の我が子を抱いた龍貴妃は、片方のおとなしい赤子が左手に何かを握っているのに気づいた。硬く握られた小さな拳の端から、白い物が覗いている。まるで何か、獣の牙のような物。赤子はそれをしっかりと握ったまま、決して離そうとはしなかった。
そして皇子誕生から幾日経とうと、命を共にする龍神が天より現れる事はなかった。
皇帝は、皇子が同時に二人も誕生した所為だと、産後の肥立ちも済まぬ龍貴妃に当り散らした。そして龍貴妃の意向も問わぬまま、笑わぬ赤子の方を巫殿の奥深くに閉じ込めてしまったのだった。
それでも一向に現れない龍神に業を煮やし、皇帝は先視に予言をさせた。先視は巫女に近い者である為、女人である龍貴妃がその予言を伺う事となった。
語られた、先視の言葉。
あの瞬間の事は、今でもはっきりと思い出せる。先視の口から洩れた、天上界を手中にする者の名。
タケル。
我が子である二人の皇子を差し置き、天下を手中にする者。
できる事なら、その者の命を奪ってでも、我が子どちらとも幸せを与えてやりたかった。
けれど、できるわけがない。
自分の子と同じ年頃の童子を殺すなど、できる筈もない。
龍貴妃は目蓋を開くと、正面の守人を見た。
守人は薄く目蓋を開き、只笛を吹いていた。一切の感情の伺えない、傀儡のような姿。ずっと離れていた、愛しい我が子。
「……守、こちらへいらっしゃい」
守人は口元から笛を離すと、云われるがままに龍貴妃に近づいた。龍貴妃は腰掛けから立ち上がると、守人の体を引き寄せ、その胸に抱いた。
赤子だった頃から、長く交わす事のなかった抱擁。守人の確かな温もりが、龍貴妃の胸に伝わってくる。牙星と同じ、暖かな体温。
皇帝の強行とはいえ、この子を手放してしまったのは、自分の罪。
やっと知る事のできた守人の温もりに、龍貴妃は涙を零した。
決して動く事のない、守人の表情。
この子から感情を奪ってしまったのは、きっと自分に違いない。我が子を胸に抱いたまま、母の涙は止めどなく溢れ続けた。
◆
赤い空を、薄い雲がゆっくりと通り過ぎていく。タケルは一人、高い樹の陰からそれを眺めていた。タケルの生まれ育った村と、何ひとつ変わらぬ空。
牙星を追いかけ神殿を飛び出して、最初の一日が暮れようとしている。
お前のその眼は、龍の眼だ。
蓬髪《ほうはつ》の老夫は、タケルに云った。そして、タケルの父は先代の皇帝と命を共にする龍神であった事、タケルの母はその龍神に仕える姫巫女であったとも。
龍神と姫巫女。
いつしか両者は心を通わせ、そしてタケルは生まれた。
龍と人との間に生まれた自分は、龍なのか。それとも人なのか。
タケルは人の姿をしている。けれど、あの老夫はタケルの眼を龍のものだと云った。
タケルはずっと、堂々巡りにそんな事ばかり考えていた。いくら考えても、タケル自身に答えなど出せるわけもなかった。
「タケル」
降り注いだ聲に、タケルは見上げた。向かいの樹の上に、牙星の姿があった。葉の間から射し込む夕陽に染められ、紅の眼は炎のように揺らめいている。
牙星は猿のような身のこなしで、あっという間にタケルの眼前に降り立っていた。
いつかも見たような、そんな場面。
その瞬間、タケルはまるで閃くように気づいた。
「そうだ、この場所は……」
草の生い茂る山道。高い樹々の形。そして、繁みの向こうの急斜面。
タケルの記憶と、今目の前にしている景色が重なる。
「そう、ここだよ」
それは、丁度一年程前の出来事。懐かしい感覚が、タケルの胸をくすぐる。
「牙星、覚えてない?」
「何をだ」
嬉しそうに尋ねるタケルに、牙星が怪訝そうに問い返す。
「僕たちが、初めて出会った場所だよ」
この山道で、タケルは牙星と出会った。牙星は、云われてようやく気がついたように、辺りを見回した。
「ここで、出会ったばかりの牙星に、いきなり酷い目に合わされたっけ」
あの高い樹の上から、牙星はタケルに石を投げつけてきた。そして、旅の者には見えぬタケルを怪しがり、いきなり剣を振るってきたのだ。
あの時の牙星が本気でタケルを傷つけるつもりがなかった事は、今ならば判る。牙星が本気でかかって来ていたなら、タケルなど避ける事はできない。
全てが、懐かしい記憶。タケルの心を震わせる。
「感情に浸るな。あの頃とは、何もかも違うんだ」
牙星の乾いた聲が、タケルを現実に引き戻した。
何もかもが、懐かしい思い出。たった一年前の事なのに、全てが遠く過ぎ去り、変わり果ててしまった。もうあの頃あったものは、何ひとつと戻ってこない。
「……そうだね」
タケルは、小さく俯いた。牙星の言葉は、尤ものような気がした。
それに、牙星の方が、タケルよりも多くのものを失っているのだ。
「それよりタケル、儂に着いて来い」
牙星は、言葉が終わると同時に、駆け出した。
「あっ、牙星待って」
牙星は、こういうところは相変わらずだった。タケルはそれがとても嬉しく、何だか心が救われたような気がした。
牙星がタケルを連れてやって来たのは、一面に景色が見渡せる切り立った緩い斜面だった。
牙星は立ち止まり、黙ったまま眼を落とした。その視線の先には、人の頭程の丸い石があった。牙星が、その石の前にしゃがみ込む。そしていつの間に摘んだのか、白い小さな野花をそっと手向けた。
タケルは、牙星の背中を言葉もなく見詰めていた。何故なのか、話しかけてはならない気がした。ぽつんと置かれた、丸い石。まるで、その場所に座すように。
その石が何を意味するのか、タケルは直感で悟っていた。
「……タケル、小さな聲で話すのだぞ。あまり大きな聲で話すと、双葉が起きてしまうからな」
穏やかな聲で、牙星が囁いた。
タケルは、やはり何も云えなかった。
この石の下に、双葉は居る。眠りについたままの、小さな双葉の欠片が。
「タケルの母も、双葉と同じだったのだな」
やがて、牙星が独り言のように呟いた。
「……うん」
タケルの母も、額に眼を持つ姫巫女だった。洞窟の老夫は、タケルにそう告げた。
「ならばタケルの母も、一番最初に生まれた女だったのか」
「何で?」
牙星の言葉の意図が判らず、タケルは尋ねた。
「姫巫女とされる者は、額に眼を持つ一族に、最初に生まれた女と決まっている」
双葉と共に皇帝の手中から逃げ出した夜、双葉は牙星にそう語った。
双葉と二人だけで過ごした、ほんの僅かな一時。
タケルは、再び黙り込んだ。
母について、老夫に聞かされた事以外タケルは何も知らない。姫巫女として龍神に捧げられる者の条件も、今初めて知った。
第三の眼を持つ一族に、最初に生まれた女の赤子。只それだけの理由で、双葉もタケルの母も龍神に全てを捧げる定めを決められた。
そして双葉はずっと仕えてきた龍神の牙にかかり、タケルの母はその龍神の御子を身籠った。
タケルは、黙したまま考えていた。そして、はっと気づく。
「ねえ牙星、そう云えばあのお爺さん、云ってたよね」
「何をだ?」
背を向けたまま、牙星が尋ねる。
「僕の母さんは、自分の妻の姉だって」
「それがどうした」
「額に眼を持つ血族は、短命だって」
「だから、何だ」
中々核心をつかないタケルに、牙星は少し苛つく。
「生まれる子の数だって限られてくるし、結果として一族の数だって極僅かになる」
「……何が云いたい」
牙星の鋭い視線が、タケルを睨む。
「だからもしかすると、あのお爺さんは双葉の……」
言葉が終らぬうちに、もの凄い剣幕で牙星が立ち上がった。
「あんな陰気臭いじじいが、双葉の父のわけがなかろうっ!」
血相を変えた牙星が、タケルのすぐ眼前で怒鳴る。
「けど、もしかしたら……」
「もしかも何もないっ!」
牙星の唾が、タケルの顔に飛び散る。
「大体あんな髭むくじゃらのじじい、双葉には似ても似つかん!」
牙星は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、再びタケルに背を向けた。タケルも慌てて後に続く。
機嫌を損ねてしまった牙星の足に追いつくのは、酷く骨の折れる作業だった。
夕闇が山を囲み、タケルと牙星は洞窟へと戻った。
いつもは洞窟の奥に座したままの老夫の姿が、珍しく見当たらなかった。そして夜が訪れ朝がやって来ても、老夫が再び姿を見せる事はなかった。
タケルの父である龍神の事も。そして、タケルを産み落とした母の事も。正体すら判らぬこの老夫は、タケル以上にタケルの出生の事実を知っている。
タケルは察した。
「……お前の母は、儂の妻の姉だった」
老夫の語った事実に、牙星までもが眼を剥いた。
「聖龍神様は、先代の皇帝と命を共にする龍神だった。そしてお前の母は、その龍神に仕える、只一人の姫巫女だった」
タケルの母は、姫巫女だった。双葉と同じ、龍神に仕える唯一の巫女。額に第三の眼を持つ選ばれし娘だけが、姫巫女としての定めを与えられる。
タケルは初めて聞かされた母の事実に、胸の動悸を押さえられずにいた。
老夫が、言葉を続ける。
「聖龍神様と命を共にする皇帝は、久遠の時を生きる為に、姫巫女を贄に捧げる祭りの儀式を行おうとした」
祭りの儀式。
双葉を亡き者にした、犠牲の儀式。
硬く握られた牙星の拳が、癒えぬ怒りに震えた。
「……何故、永遠の命を得るその儀式に、姫巫女の犠牲が必要なんだ」
懸命に感情を抑えた聲で、牙星が問う。
「龍神を、堕天にする為だ」
老夫の頭髪の隙間から覗く眼が、一瞬だけ憂いを帯びた。
「額に眼を持つ娘は、貴き神の遣い。云わば、生き神。その穢れなき姫巫女を喰らう事で、龍神は穢れた神となる。穢れたものは、天に忌み嫌われるからな」
堕天。
祭りが行われた日の明け方、白髪巫女が云っていた言葉。
双葉は、自分の定めを知っていた。最後の御祓を行いながら、双葉は何を思っていたのだろう。
タケルは、眼を落とした。その落とした視線の先に、小刻みに震える牙星の拳が見えた。
「お前の母も、龍神を堕天にする為に捧げられた。だが聖龍神様は、お前の母である姫巫女を喰らう事ができなかった」
姫巫女だったタケルの母も、あの祭りの日の双葉と同じように、己の仕える龍神と対峙した。これから己の身を喰らおうと構える、爪と牙を持つ龍神と。
けれど龍神は、姫巫女を生かした。
「聖龍神様は、人間に姿を変えると、姫巫女を連れ、人里離れた山奥へ隠れ棲んだ」
人の姿と化した龍神と、姫巫女。
二人は、誰の手も及ばぬ、遠くへと逃げ隠れた。
只二人で巫殿から逃げ出した、あの日の牙星と双葉のように。
「そして姫巫女は、その胎内に子を身籠った」
龍神と姫巫女。
いつしか両者は、互いに心を通わせ合った。
「元々、額に眼を持つ娘は短命だ。龍の子は、人間の子よりもずっと母の胎内で過ごす時間が長い。もうすでに姫巫女は、龍の子を身籠った為にその命を繋いでいるようなものだった」
その胎内に龍神の赤子を宿し、姫巫女は僅かな命を繋ぎ止めた。
龍神と共に、残された時を過ごした。
「お前を産み落とすと間もなく、姫巫女は天命を終えた。聖龍神様は、お前を人の世界の巫女長に託し、天に還られた」
龍神は、当時の巫女長であった婆様に、生まれたばかりのタケルを託した。
人と龍の間に成された、小さな小さな赤子を。
「タケル。お前は、人の姿をした……龍」
老夫の聲が強い余韻を残し、洞窟に響いた。
◆
微かに頬を掠めた感触に、龍貴妃は目蓋を開いた。腰掛けに座した膝に舞い落ちたのは、桜の花弁だった。開け放たれた窓から、春の風に乗って舞い込んで来たのだろう。
龍貴妃は、細い指で花弁を摘んだ。それとほぼ同時に、笛の旋律が止んだ。
龍貴妃は、ゆらりと眼を上げた。正面に立った守人は口元から笛を離し、紅の眼で龍貴妃の指の動きをじっと見詰めていた。
「どうしたの? もう少し、あなたの笛を聞かせて頂戴」
龍貴妃は眼を細め、柔らかな聲で守人に云った。守人は人形のような顔で僅かに首肯くと、再び笛を唇に当てた。そして、旋律の続きを奏で始める。
龍貴妃は、窓の外に眼を転じた。すっかり満開に咲いた桜の花は、後はもう散るばかりだった。風に吹かれては、一片二片と舞い落ちる。
龍貴妃は旋律を耳に、目蓋を閉じた。我が子の奏でる笛の音だけが、今この場所に自分が居るという証だった。
昨夜、一時だけ龍貴妃の元へ戻って来た、もう一人の我が子。少し離れていた間に、随分成長したように見えた。背丈は伸び、四肢の筋の肉も逞しくなっていた。そしてその面差しは、時を経るごとに父である皇帝に近づいていた。
龍貴妃は、胸に切ない痛みを覚えた。
十四年前の真夏、龍貴妃は二人の赤子を産み落とした。
王家に授かった、双子の皇子。
一人は生まれてすぐから良く動き、静止する事を知らぬ喜怒哀楽の激しい赤子。そしてもう一人は、生まれ落ちた瞬間すら泣きもしない、おとなしい赤子だった。
生まれたばかりの二人の我が子を抱いた龍貴妃は、片方のおとなしい赤子が左手に何かを握っているのに気づいた。硬く握られた小さな拳の端から、白い物が覗いている。まるで何か、獣の牙のような物。赤子はそれをしっかりと握ったまま、決して離そうとはしなかった。
そして皇子誕生から幾日経とうと、命を共にする龍神が天より現れる事はなかった。
皇帝は、皇子が同時に二人も誕生した所為だと、産後の肥立ちも済まぬ龍貴妃に当り散らした。そして龍貴妃の意向も問わぬまま、笑わぬ赤子の方を巫殿の奥深くに閉じ込めてしまったのだった。
それでも一向に現れない龍神に業を煮やし、皇帝は先視に予言をさせた。先視は巫女に近い者である為、女人である龍貴妃がその予言を伺う事となった。
語られた、先視の言葉。
あの瞬間の事は、今でもはっきりと思い出せる。先視の口から洩れた、天上界を手中にする者の名。
タケル。
我が子である二人の皇子を差し置き、天下を手中にする者。
できる事なら、その者の命を奪ってでも、我が子どちらとも幸せを与えてやりたかった。
けれど、できるわけがない。
自分の子と同じ年頃の童子を殺すなど、できる筈もない。
龍貴妃は目蓋を開くと、正面の守人を見た。
守人は薄く目蓋を開き、只笛を吹いていた。一切の感情の伺えない、傀儡のような姿。ずっと離れていた、愛しい我が子。
「……守、こちらへいらっしゃい」
守人は口元から笛を離すと、云われるがままに龍貴妃に近づいた。龍貴妃は腰掛けから立ち上がると、守人の体を引き寄せ、その胸に抱いた。
赤子だった頃から、長く交わす事のなかった抱擁。守人の確かな温もりが、龍貴妃の胸に伝わってくる。牙星と同じ、暖かな体温。
皇帝の強行とはいえ、この子を手放してしまったのは、自分の罪。
やっと知る事のできた守人の温もりに、龍貴妃は涙を零した。
決して動く事のない、守人の表情。
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◆
赤い空を、薄い雲がゆっくりと通り過ぎていく。タケルは一人、高い樹の陰からそれを眺めていた。タケルの生まれ育った村と、何ひとつ変わらぬ空。
牙星を追いかけ神殿を飛び出して、最初の一日が暮れようとしている。
お前のその眼は、龍の眼だ。
蓬髪《ほうはつ》の老夫は、タケルに云った。そして、タケルの父は先代の皇帝と命を共にする龍神であった事、タケルの母はその龍神に仕える姫巫女であったとも。
龍神と姫巫女。
いつしか両者は心を通わせ、そしてタケルは生まれた。
龍と人との間に生まれた自分は、龍なのか。それとも人なのか。
タケルは人の姿をしている。けれど、あの老夫はタケルの眼を龍のものだと云った。
タケルはずっと、堂々巡りにそんな事ばかり考えていた。いくら考えても、タケル自身に答えなど出せるわけもなかった。
「タケル」
降り注いだ聲に、タケルは見上げた。向かいの樹の上に、牙星の姿があった。葉の間から射し込む夕陽に染められ、紅の眼は炎のように揺らめいている。
牙星は猿のような身のこなしで、あっという間にタケルの眼前に降り立っていた。
いつかも見たような、そんな場面。
その瞬間、タケルはまるで閃くように気づいた。
「そうだ、この場所は……」
草の生い茂る山道。高い樹々の形。そして、繁みの向こうの急斜面。
タケルの記憶と、今目の前にしている景色が重なる。
「そう、ここだよ」
それは、丁度一年程前の出来事。懐かしい感覚が、タケルの胸をくすぐる。
「牙星、覚えてない?」
「何をだ」
嬉しそうに尋ねるタケルに、牙星が怪訝そうに問い返す。
「僕たちが、初めて出会った場所だよ」
この山道で、タケルは牙星と出会った。牙星は、云われてようやく気がついたように、辺りを見回した。
「ここで、出会ったばかりの牙星に、いきなり酷い目に合わされたっけ」
あの高い樹の上から、牙星はタケルに石を投げつけてきた。そして、旅の者には見えぬタケルを怪しがり、いきなり剣を振るってきたのだ。
あの時の牙星が本気でタケルを傷つけるつもりがなかった事は、今ならば判る。牙星が本気でかかって来ていたなら、タケルなど避ける事はできない。
全てが、懐かしい記憶。タケルの心を震わせる。
「感情に浸るな。あの頃とは、何もかも違うんだ」
牙星の乾いた聲が、タケルを現実に引き戻した。
何もかもが、懐かしい思い出。たった一年前の事なのに、全てが遠く過ぎ去り、変わり果ててしまった。もうあの頃あったものは、何ひとつと戻ってこない。
「……そうだね」
タケルは、小さく俯いた。牙星の言葉は、尤ものような気がした。
それに、牙星の方が、タケルよりも多くのものを失っているのだ。
「それよりタケル、儂に着いて来い」
牙星は、言葉が終わると同時に、駆け出した。
「あっ、牙星待って」
牙星は、こういうところは相変わらずだった。タケルはそれがとても嬉しく、何だか心が救われたような気がした。
牙星がタケルを連れてやって来たのは、一面に景色が見渡せる切り立った緩い斜面だった。
牙星は立ち止まり、黙ったまま眼を落とした。その視線の先には、人の頭程の丸い石があった。牙星が、その石の前にしゃがみ込む。そしていつの間に摘んだのか、白い小さな野花をそっと手向けた。
タケルは、牙星の背中を言葉もなく見詰めていた。何故なのか、話しかけてはならない気がした。ぽつんと置かれた、丸い石。まるで、その場所に座すように。
その石が何を意味するのか、タケルは直感で悟っていた。
「……タケル、小さな聲で話すのだぞ。あまり大きな聲で話すと、双葉が起きてしまうからな」
穏やかな聲で、牙星が囁いた。
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「……うん」
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「ならばタケルの母も、一番最初に生まれた女だったのか」
「何で?」
牙星の言葉の意図が判らず、タケルは尋ねた。
「姫巫女とされる者は、額に眼を持つ一族に、最初に生まれた女と決まっている」
双葉と共に皇帝の手中から逃げ出した夜、双葉は牙星にそう語った。
双葉と二人だけで過ごした、ほんの僅かな一時。
タケルは、再び黙り込んだ。
母について、老夫に聞かされた事以外タケルは何も知らない。姫巫女として龍神に捧げられる者の条件も、今初めて知った。
第三の眼を持つ一族に、最初に生まれた女の赤子。只それだけの理由で、双葉もタケルの母も龍神に全てを捧げる定めを決められた。
そして双葉はずっと仕えてきた龍神の牙にかかり、タケルの母はその龍神の御子を身籠った。
タケルは、黙したまま考えていた。そして、はっと気づく。
「ねえ牙星、そう云えばあのお爺さん、云ってたよね」
「何をだ?」
背を向けたまま、牙星が尋ねる。
「僕の母さんは、自分の妻の姉だって」
「それがどうした」
「額に眼を持つ血族は、短命だって」
「だから、何だ」
中々核心をつかないタケルに、牙星は少し苛つく。
「生まれる子の数だって限られてくるし、結果として一族の数だって極僅かになる」
「……何が云いたい」
牙星の鋭い視線が、タケルを睨む。
「だからもしかすると、あのお爺さんは双葉の……」
言葉が終らぬうちに、もの凄い剣幕で牙星が立ち上がった。
「あんな陰気臭いじじいが、双葉の父のわけがなかろうっ!」
血相を変えた牙星が、タケルのすぐ眼前で怒鳴る。
「けど、もしかしたら……」
「もしかも何もないっ!」
牙星の唾が、タケルの顔に飛び散る。
「大体あんな髭むくじゃらのじじい、双葉には似ても似つかん!」
牙星は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、再びタケルに背を向けた。タケルも慌てて後に続く。
機嫌を損ねてしまった牙星の足に追いつくのは、酷く骨の折れる作業だった。
夕闇が山を囲み、タケルと牙星は洞窟へと戻った。
いつもは洞窟の奥に座したままの老夫の姿が、珍しく見当たらなかった。そして夜が訪れ朝がやって来ても、老夫が再び姿を見せる事はなかった。
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大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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