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十四. 禁忌
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牙星と鉢合わせた白髪巫女は、いつになく驚いた表情を見せた。が、すぐに険しい眼差しを牙星に向けた。本来、男は決して踏み入ってはならぬ巫殿。それは、例え皇帝であろうと皇子であろうと許されぬ決まり事。
「……何故、皇子様がこのような場所に居らっしゃるのです」
白髪巫女の嗄れた聲が冷たく咎める。
牙星は毅然として、薄明かりに浮かび上がった白髪巫女を睨んでいた。常人の童ならば尻込みしてしまう白髪巫女の威圧も、この肝の座った皇子には通用しない。
「儂は、双葉に会いに来た」
凛として牙星は云い放った。白髪巫女には、瞬時にそれが誰の事なのか判らなかった。姫巫女の事をその名で呼ぶ者は、この巫殿には居ない。
少しの間の後、白髪巫女の皺だらけの顔が見る見る小刻みに震え出した。常に冷静な白髪巫女が、初めて見せた動揺だった。
「……姫巫女様に何用です」
口元が震えている所為《せい》で、聲が上ずっていた。額には汗が滲み出ている。
「儂が双葉に会う事に、何の文句がある! 無駄口はよい、早く双葉の元へ案内しろ!」
苛立つ牙星の聲が、巫殿の通路に反響した。白髪巫女は口元を震わせたまま、黙っていた。
牙星はすっかり血の気の引いた白髪巫女を押し退けると、速い歩みで通路を進み始めた。
「皇子様!」
嗄れた白髪巫女の聲が、牙星の背中を追いかける。牙星は聲を振り切り、篝火の照らす通路を真っ直ぐに進んでいく。
きっと双葉は、いつものあの広間に居る。牙星は、祭壇の前に座したまま振り返る双葉の姿を思い描いた。牙星が巫殿に再び立ち入った事を咎めながらも、きっと微笑んでくれるだろう。
通路の先、門のような大きな扉の前で牙星は立ち止まった。この向こうに双葉が居る。
牙星は、勢い良く扉を押し開いた。しんとした通路に、軋む音と振動が響く。
薄暗い広間。中央奥の祭壇の上で、紅蓮の炎が躍り狂うように燃えていた。
だがその炎の前に、座している筈の姫巫女双葉の姿はなかった。
「双葉! 何処に居る!」
返事はない。
呼び掛けた牙星の聲の余韻だけが、伽藍とした広間に吸い込まれ消える。
牙星は広間に足を踏み入れようとした。瞬間、両腕を何者かに掴まれ、牙星は振り向いた。両腕を鷲掴んでいたのは、幾人かの巫女たちだった。
「無礼だぞっ! この手を放さぬか!」
牙星が憤りに任せ怒鳴りつける。必死に両腕を振り払おうとしたが、女の力とはいえ、さすがに数人がかりで押さえつけられてはどうにもならない。
牙星は悔しいさと苛立ちに奥歯を噛み締めた。
「お前たち! 双葉を何処へ隠した!」
踏み留まろうとした足が、宙に浮く。圧倒的な力の差だった。幾人もの巫女たちに両腕を抱えられ、成す術もなく牙星の体はずるずると引きずられていく。
牙星はぎりぎりと奥歯を食い縛り、巫女たちを睨み付けた。
自分の無力さが、煮えくり返る程悔しかった。自分が童である事が、耐えられぬくらい腹立たしい。
「儂が皇帝になった暁には、お前たち全員縛り首だっ!」
牙星の喚きにも似た怒声が、冷たい通路にこだました。
◆
柔らかな白い皮膚を冷たい湧水に浸す。華奢な裸体を、針を刺すような刺激が襲った。
双葉はゆっくりと、一切の濁りのない澄んだ水の中へ全身を沈めた。
陽の射し込む事のない地下の湧水。たった一人、姫巫女の為だけにある御祓の泉。
初夏とはいえ、地下のずっと奥深くにあるこの泉は、真冬の水のように冷たい。
双葉はいつも二人の巫女を引き連れ、ここへ御祓に訪れる。龍神の岩場へ向かう時以外は、大概他の巫女を連れて行動する。
水の中で、双葉は静かに膝を抱いた。水に体をすっかり任せ、ゆらり漂う。
双葉は母の腹に宿る胎児のように、水に全てを預けた。
そして双葉は、思考を消し去り生まれる前の命になる。
波のない水面のように。水平を保つ静寂。
刹那、双葉の中の静寂がそよ風のように僅かに揺らいだ。気紛れな春風のように、淡く優しく心地好く。
心臓が高鳴った。凪ぐ事のない水面。
それは、どれ程無に返ろうとしても、双葉の心から拭うことのできない仄かな想い。
双葉は薄く目蓋を開いた。
仄暗い水の中。
揺らぐ水面が見えた。眼《まなこ》を開けてみても、消える事のない想い。むしろ現実の世界を眼に映す程に、その戸惑いは強くなるばかりだった。
再び、双葉は眼を閉じる。
無邪気に笑う、少年の顔が目蓋を過った。あの日、少年は双葉に云った。
お前を、龍神から奪ってみせると。
決して果たせるわけもない約束。判っている。けれど……。
芽生え始めた淡い気持ち。切なく、痛い。
牙星を想う度に、繰り返される。
生まれて初めて覚えた、未熟な恋心。決して抱いてはならない感情。
姫巫女にとって、それは最も禁忌な感情。
双葉はもう直十五歳になる。普通の娘ならば、同じ年頃の少年にほろ甘い感情を抱き初々しく花盛りな頃。
姫巫女である双葉には、決して叶わぬ想い。
双葉は水に浸かった己の体に眼をやった。娘らしさも感じられない、幼い童女のような体。四肢は棒のように細く、肉の丸みすらない。月のものも、まだ一度も訪れていない。
双葉が十五を迎える宵に、祭りは行われる。
姫巫女の条件は、一切の穢れのない事。
そして、額に神の眼を抱く娘である事。
双葉は水面に顔を上げた。そして水底に足を下ろし、立ち上がる。現れた上半身と共に、纏った水が滴り落ちる。
今日はもう、御祓を続けるのは無理だ。雑念を祓いきる事などできない。
双葉は岸に向かい水中をゆっくり歩き出した。
「……姫巫女様、今少しだけ御祓をなさっていて下さい」
岩場に上がろうとした双葉に、伴の巫女が云った。
「何故です?」
双葉が尋ねる。他の巫女が御祓の事に口出しする事など、今まで一切なかった。
「……はい、巫殿で少々面倒な事が起こりまして……」
濁すように伝え、巫女は困ったように口を接ぐんだ。
黙ってしまった巫女を、双葉は三つの眼で訝しげに見詰めた。
◆
いつもよりも長い御祓を終え、双葉は祈りの間へ戻った。まだ濡れたままの長い黒髪が、羽織った衣に張り付き湿らせる。門のような扉を開くと、険しい顔の白髪巫女が待ち構えていた。
いつも恐ろしい顔をした白髪巫女は、更に強張った表情で姫巫女双葉を出迎えた。何事かただならぬ様子に、双葉は身構える。
「姫巫女様に、お伺いしたい事がございます」
嗄れ、感情を押し殺した白髪巫女の聲。双葉の胸に、嫌な予感が過る。
「先程この場所へ、神殿の皇子様が姫巫女様を尋ねていらっしゃいました」
全身が冷たくなった。双葉は叱られた童のように俯いた。
いつものように双葉に会いにやって来た牙星が、運悪く白髪巫女と鉢合わせてしまったのだろう。それは双葉が一番恐れていた事だった。
「姫巫女様は、以前にもこの広間で皇子様とお会いしましたね」
双葉はすぐに聲が出せなかった。まるで体の中心を、太い縄で締め付けられているような気分だった。白髪巫女の窪んだ眼が、双葉の返事を待ち構えるように見据えている。
「……はい」
やっと絞り出した聲は、僅かに震えていた。白髪巫女の眉が動く。
「何故、その事を黙っておられたのです」
抑揚は乏しいが、双葉を激しく咎める口調だった。
「……申し訳ありません」
双葉は俯いたまま、素直に詫びた。許されるわけもない事は判っている。
「この事は、いずれ皇帝のお耳にも触れる事になるでしょう」
眼を伏せたまま、双葉は黙っていた。
もうすぐ、祭りの日がくる。
恐らく自分は、もう二度と牙星に会う事はできないのだろう。
酷く苦しかった。
癒される事のない傷み。叶わぬと知っていた。
なのに何故、こんなに痛いのだろう。
姫巫女となったあの日から、定められた事。双葉には判っていた。
けれど、この想いはもう消す事はできない。
恋心。
姫巫女ではない。一人の少女、双葉として芽生えた想い。
けどそれは、姫巫女としては禁忌。
もう、牙星と会う事は許されない。
それは姫巫女である自分が踏み入ってしまった罪への冥罰。
そう思う事で、双葉は自分を慰め、そして騙した。
「……何故、皇子様がこのような場所に居らっしゃるのです」
白髪巫女の嗄れた聲が冷たく咎める。
牙星は毅然として、薄明かりに浮かび上がった白髪巫女を睨んでいた。常人の童ならば尻込みしてしまう白髪巫女の威圧も、この肝の座った皇子には通用しない。
「儂は、双葉に会いに来た」
凛として牙星は云い放った。白髪巫女には、瞬時にそれが誰の事なのか判らなかった。姫巫女の事をその名で呼ぶ者は、この巫殿には居ない。
少しの間の後、白髪巫女の皺だらけの顔が見る見る小刻みに震え出した。常に冷静な白髪巫女が、初めて見せた動揺だった。
「……姫巫女様に何用です」
口元が震えている所為《せい》で、聲が上ずっていた。額には汗が滲み出ている。
「儂が双葉に会う事に、何の文句がある! 無駄口はよい、早く双葉の元へ案内しろ!」
苛立つ牙星の聲が、巫殿の通路に反響した。白髪巫女は口元を震わせたまま、黙っていた。
牙星はすっかり血の気の引いた白髪巫女を押し退けると、速い歩みで通路を進み始めた。
「皇子様!」
嗄れた白髪巫女の聲が、牙星の背中を追いかける。牙星は聲を振り切り、篝火の照らす通路を真っ直ぐに進んでいく。
きっと双葉は、いつものあの広間に居る。牙星は、祭壇の前に座したまま振り返る双葉の姿を思い描いた。牙星が巫殿に再び立ち入った事を咎めながらも、きっと微笑んでくれるだろう。
通路の先、門のような大きな扉の前で牙星は立ち止まった。この向こうに双葉が居る。
牙星は、勢い良く扉を押し開いた。しんとした通路に、軋む音と振動が響く。
薄暗い広間。中央奥の祭壇の上で、紅蓮の炎が躍り狂うように燃えていた。
だがその炎の前に、座している筈の姫巫女双葉の姿はなかった。
「双葉! 何処に居る!」
返事はない。
呼び掛けた牙星の聲の余韻だけが、伽藍とした広間に吸い込まれ消える。
牙星は広間に足を踏み入れようとした。瞬間、両腕を何者かに掴まれ、牙星は振り向いた。両腕を鷲掴んでいたのは、幾人かの巫女たちだった。
「無礼だぞっ! この手を放さぬか!」
牙星が憤りに任せ怒鳴りつける。必死に両腕を振り払おうとしたが、女の力とはいえ、さすがに数人がかりで押さえつけられてはどうにもならない。
牙星は悔しいさと苛立ちに奥歯を噛み締めた。
「お前たち! 双葉を何処へ隠した!」
踏み留まろうとした足が、宙に浮く。圧倒的な力の差だった。幾人もの巫女たちに両腕を抱えられ、成す術もなく牙星の体はずるずると引きずられていく。
牙星はぎりぎりと奥歯を食い縛り、巫女たちを睨み付けた。
自分の無力さが、煮えくり返る程悔しかった。自分が童である事が、耐えられぬくらい腹立たしい。
「儂が皇帝になった暁には、お前たち全員縛り首だっ!」
牙星の喚きにも似た怒声が、冷たい通路にこだました。
◆
柔らかな白い皮膚を冷たい湧水に浸す。華奢な裸体を、針を刺すような刺激が襲った。
双葉はゆっくりと、一切の濁りのない澄んだ水の中へ全身を沈めた。
陽の射し込む事のない地下の湧水。たった一人、姫巫女の為だけにある御祓の泉。
初夏とはいえ、地下のずっと奥深くにあるこの泉は、真冬の水のように冷たい。
双葉はいつも二人の巫女を引き連れ、ここへ御祓に訪れる。龍神の岩場へ向かう時以外は、大概他の巫女を連れて行動する。
水の中で、双葉は静かに膝を抱いた。水に体をすっかり任せ、ゆらり漂う。
双葉は母の腹に宿る胎児のように、水に全てを預けた。
そして双葉は、思考を消し去り生まれる前の命になる。
波のない水面のように。水平を保つ静寂。
刹那、双葉の中の静寂がそよ風のように僅かに揺らいだ。気紛れな春風のように、淡く優しく心地好く。
心臓が高鳴った。凪ぐ事のない水面。
それは、どれ程無に返ろうとしても、双葉の心から拭うことのできない仄かな想い。
双葉は薄く目蓋を開いた。
仄暗い水の中。
揺らぐ水面が見えた。眼《まなこ》を開けてみても、消える事のない想い。むしろ現実の世界を眼に映す程に、その戸惑いは強くなるばかりだった。
再び、双葉は眼を閉じる。
無邪気に笑う、少年の顔が目蓋を過った。あの日、少年は双葉に云った。
お前を、龍神から奪ってみせると。
決して果たせるわけもない約束。判っている。けれど……。
芽生え始めた淡い気持ち。切なく、痛い。
牙星を想う度に、繰り返される。
生まれて初めて覚えた、未熟な恋心。決して抱いてはならない感情。
姫巫女にとって、それは最も禁忌な感情。
双葉はもう直十五歳になる。普通の娘ならば、同じ年頃の少年にほろ甘い感情を抱き初々しく花盛りな頃。
姫巫女である双葉には、決して叶わぬ想い。
双葉は水に浸かった己の体に眼をやった。娘らしさも感じられない、幼い童女のような体。四肢は棒のように細く、肉の丸みすらない。月のものも、まだ一度も訪れていない。
双葉が十五を迎える宵に、祭りは行われる。
姫巫女の条件は、一切の穢れのない事。
そして、額に神の眼を抱く娘である事。
双葉は水面に顔を上げた。そして水底に足を下ろし、立ち上がる。現れた上半身と共に、纏った水が滴り落ちる。
今日はもう、御祓を続けるのは無理だ。雑念を祓いきる事などできない。
双葉は岸に向かい水中をゆっくり歩き出した。
「……姫巫女様、今少しだけ御祓をなさっていて下さい」
岩場に上がろうとした双葉に、伴の巫女が云った。
「何故です?」
双葉が尋ねる。他の巫女が御祓の事に口出しする事など、今まで一切なかった。
「……はい、巫殿で少々面倒な事が起こりまして……」
濁すように伝え、巫女は困ったように口を接ぐんだ。
黙ってしまった巫女を、双葉は三つの眼で訝しげに見詰めた。
◆
いつもよりも長い御祓を終え、双葉は祈りの間へ戻った。まだ濡れたままの長い黒髪が、羽織った衣に張り付き湿らせる。門のような扉を開くと、険しい顔の白髪巫女が待ち構えていた。
いつも恐ろしい顔をした白髪巫女は、更に強張った表情で姫巫女双葉を出迎えた。何事かただならぬ様子に、双葉は身構える。
「姫巫女様に、お伺いしたい事がございます」
嗄れ、感情を押し殺した白髪巫女の聲。双葉の胸に、嫌な予感が過る。
「先程この場所へ、神殿の皇子様が姫巫女様を尋ねていらっしゃいました」
全身が冷たくなった。双葉は叱られた童のように俯いた。
いつものように双葉に会いにやって来た牙星が、運悪く白髪巫女と鉢合わせてしまったのだろう。それは双葉が一番恐れていた事だった。
「姫巫女様は、以前にもこの広間で皇子様とお会いしましたね」
双葉はすぐに聲が出せなかった。まるで体の中心を、太い縄で締め付けられているような気分だった。白髪巫女の窪んだ眼が、双葉の返事を待ち構えるように見据えている。
「……はい」
やっと絞り出した聲は、僅かに震えていた。白髪巫女の眉が動く。
「何故、その事を黙っておられたのです」
抑揚は乏しいが、双葉を激しく咎める口調だった。
「……申し訳ありません」
双葉は俯いたまま、素直に詫びた。許されるわけもない事は判っている。
「この事は、いずれ皇帝のお耳にも触れる事になるでしょう」
眼を伏せたまま、双葉は黙っていた。
もうすぐ、祭りの日がくる。
恐らく自分は、もう二度と牙星に会う事はできないのだろう。
酷く苦しかった。
癒される事のない傷み。叶わぬと知っていた。
なのに何故、こんなに痛いのだろう。
姫巫女となったあの日から、定められた事。双葉には判っていた。
けれど、この想いはもう消す事はできない。
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姫巫女ではない。一人の少女、双葉として芽生えた想い。
けどそれは、姫巫女としては禁忌。
もう、牙星と会う事は許されない。
それは姫巫女である自分が踏み入ってしまった罪への冥罰。
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