ミコ―龍の子の祭り―

遠堂瑠璃

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十二. 誓い

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 甲高く谺す笛の音。いつもと同じに岩場に響く。
 有り余る時を持つ守人もりびとは、眠る時以外は殆ど笛を離す事はなかった。
 この岩場のずっと先の天空に龍の気配がする。気の具合から、守人はそれが白龍だと悟った。
 いつもこの上空に龍たちは訪れる。

 守人はものを考えたりする事はない。只、笛を吹き続けるだけ。
 だが何故か、今守人の脳裏から一人の少年の姿が消える事はなかった。
 突然現れた、タケルと呼ばれるあの少年。

 何故ここで笛を吹いているのか。
 
 少年は、守人に向かってそう尋ねた。

 何故……?

 そして、昨日垣間見たもう一人の少年。岩場の下から、守人をじっと見詰めていた。
 守人は、己の姿を生まれてからまだ一度も見た事がない。自分を仰ぎ見ていた少年が、自分と瓜二つの顔をしている事に気づいていなかった。


「守人様、お食事です」
 
 若い巫女が、守人にこえをかけた。口元に当てた笛を降ろし、守人がゆっくりと振り向く。その顔に、やはり表情はない。
 食事を持って立っていたのは、見慣れたいつもの巫女だった。守人の元へやってくるのは、この巫女と白髪巫女だけだ。
 守人は只じっと、感情すらない眼で巫女を見た。

「さあ、冷めてしまいますよ」
 
 巫女は、台の上に食事を置いた。
 
「私は……」
 
 守人の口から抑揚のない聲が洩れた。

「私は、何故ここで笛を吹く……?」
 
 若い巫女は言葉を失い、愕然としたまま守人を見詰めた。
 それは守人の中に芽生えた、生まれて初めての疑問だった。
 
                ◆

 あれから七日以上経つ。タケルはあの日以来、牙星きばぼしに会っていない。
 巨木の幹に身を寄りかからせ、タケルは空を眺めていた。
 この巨木は、いつからこの地に根を張っているのだろう。タケルは硬い幹の表面に触れた。幾千もの年輪はあろうかという大木。牙星が好んで登っていたこの巨木の頂上にも、その姿を見つける事は出来なかった。
 草の上から立ち込める、蒸し返すような湿気。もうじき、夏が訪れようとしていた。
 空にかかる低い雲。
 この雲は何処へ流されて行くのだろうか。タケルはぼんやりと、そんな取り留めもない事ばかり考えていた。
 この場所から見る景色は、タケルの育った村の丘からのそれに似ている。何だか酷く懐かしい。

 婆様……。
 あの家に帰りたい。
 一つ歳を取ったあの日から、タケルは多くのものを奪われた。それと同時に、たくさんの感情をしまい込んだ。村の事も思い出さないように努めた。
 タケルは村を立ってから、気づかぬ間に童子らしさも失っていた。

 ここは、何がおかしい。
 タケルは、この世界の村や街の様子を知らない。神殿の外を歩いたのは、ここへ向かう途中の山道くらいだ。
 今居るここは、閉ざされた場所。
 この神殿で出会った、タケルと歳の変わらぬ童たち。牙星は、会ったばかりの頃は良く笑っていた。
 そして、暗く陽も射さぬ場所に幽閉されたように生きる、姫巫女ひめみこと守人。仄闇の中でも生白い肌は、陽射しの下で見れば病的に青白い筈だ。
 それに、タケルは気づいてしまった。
 あの人形のように美しい守人の顔は、牙星と瓜二つ。ひっそりと隠された、守人の存在。
 タケルには、何一つ判らなかった。己自身の事すら、何も判らない。
 
 タケルは神殿を見上げた。薄く霞んだ神殿の最上階の牙星の部屋。牙星は今、あの部屋で何を思っているのだろう。
 空の雲はいつの間にか形を変えていた。一刻一刻が、タケルを置き去りに過ぎていく。
 婆様の皴だらけの暖かな手は、もうここにはないのだ。

                    ◆
 
 祈りの儀の最中、人の気配に姫巫女双葉は振り向く。

「牙星様」
 
 炎に赤く染められた牙星がそこに居た。

「もうここへは来られないよう、お伝えしましたのに……」
 
 牙星は物も云わず、紅の眼《まなこ》を真っ直ぐに向けて双葉を見ている。

「牙星様……」
 
 双葉は祭壇から降りると、衣擦れの音をさせながら牙星に近づいた。
 祭壇の炎が、二人の影を帆のように揺らす。
 牙星は口元を堅く一文字に結んだまま、怒ったような顔をして黙っている。双葉も黙ったまま、牙星と向かい合っていた。


「儂には、何一つ判らない」
 
 やがて一言、牙星が洩らした。

「皆、儂に何か隠し事をしている。儂の機嫌を伺い、必要以上に儂に構い、そして避けようとする。母上までもだ。儂は、どうして良いのか判らない」

 きつく吊り上がった眉。しかしそれとは裏腹に、両の眼は不安定に揺れていた。
 初めて知る、戸惑い。
 目まぐるしく起きた出来事に、牙星の心は信じられぬ程脆く揺さぶられていた。ぐらぐらと不安で、落ち着いていられなかった。
 感情が抑えられなくなった時、牙星はもう一度双葉の元へ足を向けていた。
 双葉にもう一度、会いたくなった。


「お前のその額の眼に、儂は今どのように見える?」

 佇んだまま、牙星が尋ねた。

「今の儂は、さぞかし情けなく見えるのだろうな」
 
 力のない聲の響き。牙星は、僅かに眼を伏せた。
 こんな事を尋ねたところで、双葉を困らせるだけなのは知っている。牙星が生まれて初めて口にする、弱音だった。こんな言葉、誰にも吐き出せない。ましてや母の前でなど、絶対に。けれど強がりを通すには、牙星の心はあまりにも不安定な状態だった。
 誰かに、この弱さを打ち明けたい。受け止めて欲しい。
 己の不安に押し潰されそうになった時、双葉の顔が浮かんだ。牙星は衝動のままに、双葉の元へやって来た。そして気持ちを吐き出した。強がりの面を外し、素のままの自分を晒す。
 双葉の前ならば、何故なのか躊躇《ためら》わずそれができた。

 牙星は押し黙ったまま、じっと双葉の答えを待つ。


「私にも、判らない事が多くあります」

 眼を上げ、牙星が双葉を見る。

「判らない事がたくさんあるのなら、気を長く持ってゆっくり解いていけば良いのです」

 炎が音もなく二人の影を揺らし続ける。二対の影は戯れるように揺れながら、時折重なりひとつの黒い形になった。

「牙星様はお強い。謎を解いてゆく事を、楽しんでしまえば良いのです」
 
 牙星の紅の眼が、大きく見開いた。驚いたような顔で双葉を見詰める。
 抱え込んでいた大きな荷が落ちたように、瞬時に心が軽くなっていくのを感じた。

「そうか」
 
 堅かった牙星の表情が、緩く綻んでいく。

「そうだな」

 牙星はいつの間にか、嬉しそうに笑っていた。生まれ持った楽天気質、素直さ。牙星は双葉の言葉をそのまま受け入れ、一瞬にして不安の靄を吹きはらってしまったようだ。あれ程悩んでいた事が、幻のように消し飛んでいく。
 牙星は、快活に聲を上げて笑った。双葉もにっこり微笑んでいた。額の眼も、柔らかな三日月のようにたゆむ。
 双葉の眼は誰よりも綺麗で、深い慈悲を湛えている。こうして眼を合わせているだけで、心に潜む厭なものが全て残らず取り払われていく。

 牙星は勝ち気な表情の中に悪戯っぽさを含んだ眼差しで双葉を見た。


「儂はお前が気に入った。儂が成人した暁には、お前を妃として迎えよう!」
 
 牙星の思いもしない突然の申し出に、滅多に動じない双葉も驚いて眼を見張った。

「……い、いけません」
「何がいけない」

 少し仏頂面で牙星が云い返す。

「けれど、私は龍神様に仕える姫巫女です」

 巫女である娘は、生涯未婚を通さねばならない。その巫女に求婚するなど、余程のうつけか世間知らずと云えよう。それに双葉は、姫巫女として疾うに名を捨てた身。龍神に仕える為だけに、今ここに生きている。

「儂が決めた事だ! 何者も文句は云わせん」
 
 牙星は頑として引かない。牙星にしてみれば、誰が何と云おうが知った事ではない。
 双葉を自分のものにする。牙星はすでに、そう決めたのだ。
 双葉は、困り果てて俯いた。

「案ずるな、顔を上げろ」

 視線を上げた双葉に、牙星がにっと歯を見せ笑った。

「ならば、儂が龍神からお前を奪ってみせよう! それなら良いな」
 
 双葉は棒立ちのまま、腕白に笑う牙星を見詰めた。
 皇子とは云っても、眼の前に居るのは自分と然して歳の変わらぬ童子。こうして笑うその姿は、本当に少年そのものだ。
 だが双葉には、正面で無邪気に笑う少年の温もりが、誰より強く頼もしく思えた。 

 感情が高ぶっていた。
 只一人、自分を人というものにしてくれた。
 眼の前に居るのは、誰よりも貴い人。

 そして双葉は、ゆっくりと小さく静かに首肯うなづいた。
 






 
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