うつほ草紙

遠堂瑠璃

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十. イザナミ

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 遠く彼方より降り注ぐ貴方の声を聞いた時、疾うに動きを止めた筈の私の心臓が、トンッと大きく鼓動を打つのを感じたのです。天にも舞い上がる心地とは、こういう事を云うのでしょう。
 地に巣くう木の根よりもずっとずっと奥深い底、黄泉の國へといざなわれた私の朽ちた体が、天へと浮かぶ筈がないのですが。

 貴方が私を呼んでいる。
 貴方の声が私の名を紡ぐ度に、その音の響きが余す処なく全てが貴い言霊となり、疾うに朽ちた筈の私の胸を打つのです。

 
 返事をしてはいけない。その呼び声に応えてはならない。

 私はすでに、神去かむさった者。夫婦とはいえ、棲むべき処を別った者同士。

 判っていた筈なのに。
 貴方の声が、あまりに切なく私の名を呼ぶ。

「私は此処です」

 声に引かれるように、私は応えていた。


「お前を迎えに来たよ。共に帰ろう」

 貴方はそう云った。
 二人の國は、まだ造りかけのままなのだと。

 帰ろう。貴方の言葉に、私の頬を生暖かい涙が伝った。
 貴方が迎えに来てくれた。こんなに暗く恐ろしい黄泉の國まで、私を迎えに来てくれた。
 形を失い始めた私の両の眼から、止めどない程に涙が溢れた。
 
 けれど私は、すでに黄泉の國の食べ物を口にしてしまっていた。黄泉の番人に云われるがままに、小さな木の実を一粒口にした。黄泉の食べ物を口にした者は、もう二度と地上へは戻れない。体はだんだんと朽ち、腐り溶け落ち、木の根の養分となるばかり。やがて何も無くなって、そしてまた別の何かになるのだと。

 私は初めて、黄泉の食べ物を口にした事を悔やんだ。
 胸が、きりきりと締めつけられるように切なく痛む。


 隔てられた岩の向こうから、貴方は幾度も私を、一緒に帰ろうと誘う。その岩と闇に遮られ、貴方に私の姿は見えない。すでに黄泉の國の住人と化した私の姿を眼にしたら、貴方は何と云うかしら?
 それでもまだ、共に帰ろうと云ってくれるのでしょうか。
 できる事ならば、こんなに醜くなり果てた姿など、貴方に見て欲しくない。まだ綺麗なままの体で、貴方の言葉に頷きたかった。こうべを垂れる度に、ぽとりぽとりと蛆が落ちるこんな姿を、貴方に見られたくない。


 けれど、貴方の元へ帰りたい……。
 本当はどんなにか、この声を待ち侘びていた。


 黄泉を司るお方に尋ねてみます。そのお方の許しを得られたならば、貴方と共に帰りましょう。
 ただし、私がそのお方にお伺いをかけている間、決してその様子を覗いてはなりません。

 貴方は、私の言葉を呑んだ。


 私は喜び勇んで、黄泉を司るお方の元を訪ねた。朽ちた肉と共に、体中に湧いた蛆が、ぽとりぽとりと足元に落ちる。
 私は地に平伏し、黄泉を司るお方に地上へ戻して欲しいと懇願した。けれど私がどれ程必死に願っても、黄泉を司るお方は首を縦に振ってはくれなかった。
 すでに生の世界と別った私が、地上へ戻る事は許されない罪なのだと。それは、神々の理に逆らう程の禁忌なのだと。

 それでも、私は諦める事などできなかった。
 
 お願いです。お願いです。私を地上のあの人の元へ帰して下さい。その為ならば、どんな罰も構いません。
 どうか、どうか、私をあの人の元へ。

 貴方が待っている。いとおしい、貴方が。
 黄泉に落ちた私を、それでも変わらず愛してくれた貴方が。



 刹那、黄泉の常闇を真っ赤な火が照らし出した。
 
 黄泉の國。
 それは、決して光の元に晒してはならぬ世界。

 私の姿は、情け容赦のない光に晒し出された。
 驚いて振り返った先に、火を手にした貴方が居た。

 眼が合った瞬間、貴方の顔は見る見る深い皺を刻み、歪んだ。

 かつて幾度となく目交まぐあった、貴方と私。

 ウルワシノ、ナニモノミコトヲ……

 柱の陰から言葉を交わし、そして重なり目交った。



 貴方は、ほとんど声にならぬ悲鳴を洩らして、踵を返して駆け出した。


 待って! 行かないで!

 私は貴方を追いかけた。
 けれど朽ち始めた足では、上手く貴方に追いつけない。
 脇目も振らず、貴方は逃げる。死に者狂いに、私から離れていく。私がどれ程呼び掛けても、貴方はもう決して振り返ってはくれない。


 行かないで! 行かないで! もう私を置いて行かないで!
 貴方と離れたくない。本当は、離れたくなどなかった。
 共に神去るその時まで、ずっと一緒に居たかった。
 貴方と只二人、まだ何もない混沌とした地に降りた。一本の長く太い棒を二人で掴み、海を掻き混ぜ二人で國造りを始めた。
 いつでも貴方は必ず、私の傍に居てくれた。
 貴方さえ居てくれたなら、他の誰も居なくても構わない。
 ずっとずっと、そう思っていた。

 貴方が黄泉まで、私を迎えに来てくれた。
 私は本当に、本当に……心の底から嬉しかった。
 貴方を、貴方だけを愛しているから……。



 私の体から零れ落ちたヨモツシコメが、貴方の行く先の邪魔をする。貴方は悲鳴を上げて、手足をがむしゃらに振り回した。けれどヨモツシコメたちは幾体にも連なり、しつこく貴方にまとわりつく。私はその隙に、肉が削げ落ち骨ばかりの足で貴方との距離を詰めていく。

 もうすぐ、貴方に追い着ける。
 置いていかないで! 置いていかないで!


 突然、貴方にまとわりついていたヨモツシコメたちが、別の方向へ群がった。
 自由になったその隙に、貴方は再び逃げる。後僅かだった貴方との距離が、また開いていく。


 行かないで!
 私は叫んだ。貴方は聞き入れてくれない。

 黄泉比良坂よもつひらさかを越え、境界となる岩の外へ貴方の姿は消えた。
 ゴロゴロと、鈍い音と振動。岩戸が、ゆっくりと閉まっていく。

 射し込む光が後僅かのところで私は岩戸に辿り着き、そこから手を差し入れた。
 ヒッと、貴方の声がした。

 ぽとりぽとりと、私の体から蛆が落ちる。
 朽ちていく体。もう黄泉以外の処に存在する事すら許されぬ姿。
 私の頬を、涙が伝った。

 恐らく、これが最後の涙。
 朽ちていく私の体は、もう泣く事すらできなくなるのだろう。

 私を黄泉に残して、貴方は行ってしまう。
 それは、仕方のない事。仕方のない事……。
 けれど、けれど私は……。


うつくしきがなせのみこと、かくせば、が國の人草、一日ひとひ千頭ちがしらくびり殺さむ……」

 
 貴方を、愛しています。殺してしまいたい程、愛しているのです。

 止めどない涙が、まだ貴方と共に居た頃の事を思い出させる。
 私をこんな処に閉じ込めて、去って行く貴方が憎い。
 愛しているから、こんなにも憎い。

 これから貴方が一人で造り出す、國も命も、全て殺してしまいたい。


「愛しき我がなにの命、汝しかせば、あしに一日に千五百ちいほの産屋立てむ」

 貴方の声が返る。
 これは貴方から、私への決別の言葉。

 その直後、岩戸は完全に閉ざされた。
 もう私の声も、貴方からの声も届かない。貴方の気配も、もう判らない。
 けれどきっと、もうそこに貴方は居ないのでしょう。

 私は冷たい岩戸に身を寄せ、涙が渇れるまで泣き伏した。
 互いに交わした最後の言葉が、幾度となく頭の内に繰り返される。


 涙が渇れてしまった後、私は黄泉平坂を振り返り、見た。

 闇に閉ざされた道の端に、ヨモツシコメが喰い尽くした桃の種が転がっていた。
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