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九. 十五夜の月
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瓜子姫の元での出来事。
桃太郎とかぐや、あの日の事は互いに一切口にする事はなかった。かぐやも自分から語ろうとはしなかったし、桃太郎も決して訊きはしなかった。
瓜子姫は、明らかに異質な者だった。人の形はしていたが、その内に潜むものは人成らざるもの。
桃太郎とかぐやと同じ、空から生まれた者。
空に潜む闇の向こう側から産み落とされたモノ。
空という、本来生き物の宿らぬ処から生まれてきた存在であるのだから、やはり人以外のモノなのだろう。
瓜子姫は、二人にまざまざとそれを知らしめた。
自分が何処からやって来たのか知りたい。ずっとそう思っていた。
だから桃太郎は、竹という空から生まれかぐやを訪ね、瓜から生まれたという娘を探して歩いたのだ。
瓜子姫の内に見た闇。
あれが、空の闇そのものなのだとしたら……。
桃太郎は恐ろしかった。知るべきではないのだと思った。
知らずとも、今まで通りに生きていけるのならば、そんな恐ろしいものを見る必要などない。今は、傍にかぐやが居る。それだけで、充分だと思った。
瓜子姫にかぐやを奪われる。
そう感じた瞬間が、一番恐ろしかった。桃太郎はかぐやを失う事に、酷く怯えていた。
かぐやを奪おうとする者。
その嫌悪感もあり、瓜子姫は忌むべき存在として桃太郎の内側に刻まれた。
もう二度と、瓜子姫の居るあの村には近づく事もない。そうなれば、二人が旅をする目的もない。
かぐやは、もう都の屋敷に戻るつもりはないと云った。あの夜の旅立ちは、かぐやにとって育ての親である老夫婦、今までの生活との決別だったのだ。
何処にも行く宛のないかぐやを、桃太郎は自分の村へと誘った。
桃から生まれた自分を、暖かく育ててくれたあの村、そしてじい様ばあ様ならば、誰もかぐやを疎まないだろう。
「そうだなあ。じゃあ、桃太郎の処に行ってみるか」
そう云ってかぐやは、にっと笑った。美しい女人のような姿のかぐやであるが、その仕草の全てが骨っぽく少年らしさがそこかしこに伺える。
桃太郎は心を踊らせた。かぐやが桃太郎の村で暮らすと決めてくれた事、そして、そこに戻るまでの道中。二人だけの旅路。来る時のような忙しなく落ち着かぬ旅ではなく、のんびりとした帰路。二人で同じものを見聞きし、同じ美味に舌鼓を打つ。それは他に代えようのない幸せな時間。
まるで恋する乙女のような心地だった。いや、乙女に例えるのはどうかと思うが、恋する気持ちには変わりない。
同じ男同士ではあるが、桃太郎はかぐやに心を寄せている。意中の相手と過ごす時間が宝のように大切である事は、男であろうが女であろうが同じだ。
この心踊る帰りの道中が、生涯通して決して忘れられぬ記憶となる事など、この時の桃太郎は思いもしなかった。
月はすっかり満ちていた。
かぐやと二人、旅路に着いたのは三日月の晩だった。旅路の間に月は満ち、そして欠けて新月を迎え、再び満ちて円を描く。今夜はかぐやと共に迎える二度目の十五夜。夜空に浮かんだ真ん丸の十五夜月を見上げ、桃太郎はこの一月程の出来事を思い返した。
その晩も、二人は小さな村の空き寺で宿を借りていた。ほとんど朽ちかけで天井も此処かしこと空が覗いていたが、屋根がある場所で寝泊まりできるだけで充分だ。幸いここまで、あまり雨にも降られずに済んでいる。降ったとしても田畑を潤す恵みの雨で、旅の足に不便を被る程ではなかった。
白く美しく満月を見上げ、桃太郎は後幾日かで帰り着く懐かしい家を思った。老夫婦は、かぐやを見たならば、何と云って驚くだろうか。
桃太郎は、傍らのかぐやを伺った。仰向けに横たわり静かに眼を閉じていたが、まだ眠ってはいない。
「かぐや、月が綺麗だよ」
かぐやはうっすらと眼を開け、気のない返事をした。
「月は、あんまり見たくない。あれ見てると、何だか此処が落ち着かなくてさ」
かぐやは云って、繊細な指先で胸を指した。
「どんな風に落ち着かないの?」
「何だろうな。ざわざわするって云うか。胸騒ぎって云うのかな」
「胸騒ぎ……」
桃太郎は再び、月を見上げる。夜空に浮かび上がる白く明るい円の内側に、僅かに陰る部分をなぞる。この陰を兎の餅つきだと云う者も居るが、桃太郎にはどう眺めてもそのようには見えなかった。
丸く満ちた月は、まるでそれ自体が夜空にぽっかり空いた巨大な空のように思えた。
桃の実は丸い。そして竹の筒も、真上から覗けば円だ。瓜の実も、縦ではなく横から切れば円になる。
空、それは円。
月の中央、一瞬その陰が動いたような気がした。
不審に思い、桃太郎はその部分をじっと見詰めた。そうしているうちに、見る見る陰となる黒の部分が、縦に黒い筋となって広がっていく。内側から陰が滲み、這い出していくように。黒い筋は、ひび割れのように月の表面を伸びていく。ひび割れたそこから、月がぱっくりと口を開く。
何かがそこから、生まれ出でようとしている。
桃太郎の様子がおかしい事に気づいたかぐやも、上体を起こして夜空の月を見上げた。
「……何だよ、こりゃあ……」
ぱっくりと真っ二つに割れた月の内側から、細い枝のようなものが現れた。それが、もう一本。
人の腕。
二本の腕が割れた月を左右に押し開きながら、その内側からずるりと這い出す。もたげ上がるように伸びたそれは、長い髪をだらりと垂らした、人の頭だった。
続いて肩から腰が現れた。腰まで現れたそれは、一旦動きを止めた。そしてぞっとするような異様な気配を忍ばせながら、ゆっくりと振り向いた。
底知れぬ闇を孕んだ眼が、じっと地上を見下ろす。
巨大な形をした、女人。
その巨大な女人の眼を見た瞬間、二人はあの娘を思い出した。
瓜子姫。
巨大な女人の眼に宿る闇は、瓜子姫の内にあるそれと同等のものだった。
そして桃太郎とかぐやは、この女人を知っていた。何故だか判らないが、知っていた。
かつてこの國を造りし夫婦神の片割れ、伊邪那美命。
都、そして村という村の人間たちは混乱に陥った。
月から現れし巨大な女人の姿を眼にした者たちは、その信じられぬ光景に、言葉もなく膝を折る。
人知を超えた何者かが、この現世に現れ出でようとしている。人間など、恐らく成す術もないであろう存在が。
天から現れしそれは、神。
人々は震えながら、只々頭を垂れた。
月から出でし女人。
それは、伊邪那美命。黄泉を司りし、黄泉津大神。
かつてこちらの世界から黄泉の國へと別たれた、夫婦神の片割れ。
火の神を産み落とし、その陰へ火傷を負い、神去った伊邪那美命。
その尊い神を黄泉の國へ追いやった、火の神。火之伽具土神。
我が子である火の神を、伊邪那岐命は悲しみのあまりに真っ二つに切り殺した。
妻を奪った、憎きモノとして。
「ああ、今やっと、カカ様が黄泉返った」
真っ二つに割れた月を見上げながら、瓜子姫は恍惚と呟いた。
「これでトト様は、おらを許して下さるだろうか。他の子等と同じように、慈しんで下さるだろうか」
かつて神去らせてしまった母、そして自分を切り殺した父。
全ては、この父と母に愛して欲しくてした事。
黄泉から繋がる空。そこに宿り、人の形をして現世に生まれ出でたのも、全ては父母の為。
女の形をした瓜子姫の陰も、黄泉へと通じている。男と交われば、門は開く。
子種を受ければ、命を宿す。
いとおしいカカ様を受け入れる為の、肉体を宿す。この胎内にではなく、特別な空の中へ。
尊い神が宿るべき、最もふさわしい空。
夜を司る、円。
黄泉と最も近い、夜を食す國の輝き。
カカ様を呼ぶ為に空に宿るのは、自分とあの月を司る者だけで良かった。要らぬ者までも一人、空に紛れ込んでしまったが。
「……桃の精、もうカカ様の邪魔はさせぬ」
桃太郎とかぐや、あの日の事は互いに一切口にする事はなかった。かぐやも自分から語ろうとはしなかったし、桃太郎も決して訊きはしなかった。
瓜子姫は、明らかに異質な者だった。人の形はしていたが、その内に潜むものは人成らざるもの。
桃太郎とかぐやと同じ、空から生まれた者。
空に潜む闇の向こう側から産み落とされたモノ。
空という、本来生き物の宿らぬ処から生まれてきた存在であるのだから、やはり人以外のモノなのだろう。
瓜子姫は、二人にまざまざとそれを知らしめた。
自分が何処からやって来たのか知りたい。ずっとそう思っていた。
だから桃太郎は、竹という空から生まれかぐやを訪ね、瓜から生まれたという娘を探して歩いたのだ。
瓜子姫の内に見た闇。
あれが、空の闇そのものなのだとしたら……。
桃太郎は恐ろしかった。知るべきではないのだと思った。
知らずとも、今まで通りに生きていけるのならば、そんな恐ろしいものを見る必要などない。今は、傍にかぐやが居る。それだけで、充分だと思った。
瓜子姫にかぐやを奪われる。
そう感じた瞬間が、一番恐ろしかった。桃太郎はかぐやを失う事に、酷く怯えていた。
かぐやを奪おうとする者。
その嫌悪感もあり、瓜子姫は忌むべき存在として桃太郎の内側に刻まれた。
もう二度と、瓜子姫の居るあの村には近づく事もない。そうなれば、二人が旅をする目的もない。
かぐやは、もう都の屋敷に戻るつもりはないと云った。あの夜の旅立ちは、かぐやにとって育ての親である老夫婦、今までの生活との決別だったのだ。
何処にも行く宛のないかぐやを、桃太郎は自分の村へと誘った。
桃から生まれた自分を、暖かく育ててくれたあの村、そしてじい様ばあ様ならば、誰もかぐやを疎まないだろう。
「そうだなあ。じゃあ、桃太郎の処に行ってみるか」
そう云ってかぐやは、にっと笑った。美しい女人のような姿のかぐやであるが、その仕草の全てが骨っぽく少年らしさがそこかしこに伺える。
桃太郎は心を踊らせた。かぐやが桃太郎の村で暮らすと決めてくれた事、そして、そこに戻るまでの道中。二人だけの旅路。来る時のような忙しなく落ち着かぬ旅ではなく、のんびりとした帰路。二人で同じものを見聞きし、同じ美味に舌鼓を打つ。それは他に代えようのない幸せな時間。
まるで恋する乙女のような心地だった。いや、乙女に例えるのはどうかと思うが、恋する気持ちには変わりない。
同じ男同士ではあるが、桃太郎はかぐやに心を寄せている。意中の相手と過ごす時間が宝のように大切である事は、男であろうが女であろうが同じだ。
この心踊る帰りの道中が、生涯通して決して忘れられぬ記憶となる事など、この時の桃太郎は思いもしなかった。
月はすっかり満ちていた。
かぐやと二人、旅路に着いたのは三日月の晩だった。旅路の間に月は満ち、そして欠けて新月を迎え、再び満ちて円を描く。今夜はかぐやと共に迎える二度目の十五夜。夜空に浮かんだ真ん丸の十五夜月を見上げ、桃太郎はこの一月程の出来事を思い返した。
その晩も、二人は小さな村の空き寺で宿を借りていた。ほとんど朽ちかけで天井も此処かしこと空が覗いていたが、屋根がある場所で寝泊まりできるだけで充分だ。幸いここまで、あまり雨にも降られずに済んでいる。降ったとしても田畑を潤す恵みの雨で、旅の足に不便を被る程ではなかった。
白く美しく満月を見上げ、桃太郎は後幾日かで帰り着く懐かしい家を思った。老夫婦は、かぐやを見たならば、何と云って驚くだろうか。
桃太郎は、傍らのかぐやを伺った。仰向けに横たわり静かに眼を閉じていたが、まだ眠ってはいない。
「かぐや、月が綺麗だよ」
かぐやはうっすらと眼を開け、気のない返事をした。
「月は、あんまり見たくない。あれ見てると、何だか此処が落ち着かなくてさ」
かぐやは云って、繊細な指先で胸を指した。
「どんな風に落ち着かないの?」
「何だろうな。ざわざわするって云うか。胸騒ぎって云うのかな」
「胸騒ぎ……」
桃太郎は再び、月を見上げる。夜空に浮かび上がる白く明るい円の内側に、僅かに陰る部分をなぞる。この陰を兎の餅つきだと云う者も居るが、桃太郎にはどう眺めてもそのようには見えなかった。
丸く満ちた月は、まるでそれ自体が夜空にぽっかり空いた巨大な空のように思えた。
桃の実は丸い。そして竹の筒も、真上から覗けば円だ。瓜の実も、縦ではなく横から切れば円になる。
空、それは円。
月の中央、一瞬その陰が動いたような気がした。
不審に思い、桃太郎はその部分をじっと見詰めた。そうしているうちに、見る見る陰となる黒の部分が、縦に黒い筋となって広がっていく。内側から陰が滲み、這い出していくように。黒い筋は、ひび割れのように月の表面を伸びていく。ひび割れたそこから、月がぱっくりと口を開く。
何かがそこから、生まれ出でようとしている。
桃太郎の様子がおかしい事に気づいたかぐやも、上体を起こして夜空の月を見上げた。
「……何だよ、こりゃあ……」
ぱっくりと真っ二つに割れた月の内側から、細い枝のようなものが現れた。それが、もう一本。
人の腕。
二本の腕が割れた月を左右に押し開きながら、その内側からずるりと這い出す。もたげ上がるように伸びたそれは、長い髪をだらりと垂らした、人の頭だった。
続いて肩から腰が現れた。腰まで現れたそれは、一旦動きを止めた。そしてぞっとするような異様な気配を忍ばせながら、ゆっくりと振り向いた。
底知れぬ闇を孕んだ眼が、じっと地上を見下ろす。
巨大な形をした、女人。
その巨大な女人の眼を見た瞬間、二人はあの娘を思い出した。
瓜子姫。
巨大な女人の眼に宿る闇は、瓜子姫の内にあるそれと同等のものだった。
そして桃太郎とかぐやは、この女人を知っていた。何故だか判らないが、知っていた。
かつてこの國を造りし夫婦神の片割れ、伊邪那美命。
都、そして村という村の人間たちは混乱に陥った。
月から現れし巨大な女人の姿を眼にした者たちは、その信じられぬ光景に、言葉もなく膝を折る。
人知を超えた何者かが、この現世に現れ出でようとしている。人間など、恐らく成す術もないであろう存在が。
天から現れしそれは、神。
人々は震えながら、只々頭を垂れた。
月から出でし女人。
それは、伊邪那美命。黄泉を司りし、黄泉津大神。
かつてこちらの世界から黄泉の國へと別たれた、夫婦神の片割れ。
火の神を産み落とし、その陰へ火傷を負い、神去った伊邪那美命。
その尊い神を黄泉の國へ追いやった、火の神。火之伽具土神。
我が子である火の神を、伊邪那岐命は悲しみのあまりに真っ二つに切り殺した。
妻を奪った、憎きモノとして。
「ああ、今やっと、カカ様が黄泉返った」
真っ二つに割れた月を見上げながら、瓜子姫は恍惚と呟いた。
「これでトト様は、おらを許して下さるだろうか。他の子等と同じように、慈しんで下さるだろうか」
かつて神去らせてしまった母、そして自分を切り殺した父。
全ては、この父と母に愛して欲しくてした事。
黄泉から繋がる空。そこに宿り、人の形をして現世に生まれ出でたのも、全ては父母の為。
女の形をした瓜子姫の陰も、黄泉へと通じている。男と交われば、門は開く。
子種を受ければ、命を宿す。
いとおしいカカ様を受け入れる為の、肉体を宿す。この胎内にではなく、特別な空の中へ。
尊い神が宿るべき、最もふさわしい空。
夜を司る、円。
黄泉と最も近い、夜を食す國の輝き。
カカ様を呼ぶ為に空に宿るのは、自分とあの月を司る者だけで良かった。要らぬ者までも一人、空に紛れ込んでしまったが。
「……桃の精、もうカカ様の邪魔はさせぬ」
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