うつほ草紙

遠堂瑠璃

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八. 瓜子姫

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 毒でももられたように、体が痺れて動かない。
 視界を塞ぐ、闇、闇、闇。
 その闇の中で不自然な程、娘の顔ははっきりと見えた。白い肌が光を宿すように、くっきりと浮かび上がる。娘の首から上だけが、闇からもたげるように近づく。
 まるで黄泉から蘇った、死人しびとのように。
 濡れた両の眼が、異質な光を宿す。

 何故体が動かないのか、何故娘と二人だけで向かい合っているのか。桃太郎は何処へ行ってしまったのか。
 前後の記憶が霧がかったように、酷く朧気で曖昧だった。

 手の甲に、鈍い痛みが残る。
 そうだ、一瞬何かに手を噛まれた。その直後、記憶があやふやになった。
 意識が、どろりと闇の向こう側に溶けて流れ出した。


「もう一人の子は邪魔だったの」

 娘の鈴の音の声が、闇に転がる。

「あなただけが必要だった」

 娘の眼が、一層の妖しげな光を宿す。その眼は、底知れぬ闇そのもの。
 かぐやは、射るように娘を見据えた。

 くくっと、娘が笑う。


「あなたの名は?」
「かぐや」

「そう、かぐや……」
 
 娘が、口の中に含ませるように、かぐやの名を呟く。

「お前の名は」

 かぐやが娘に問い返す。己の声が、異質に歪みくぐもって耳に届く。
 此処は、本当に現世うつつよか。


「爺と婆は、おらの事を瓜子姫と呼んだ」

 娘が、三日月のような眼でほころむ。
 子のない老夫婦から姫と呼ばれ、さぞ大切に育てられたのだろう。その瓜子姫を育てた老夫婦は、もうこの世には居ない。一年程前に、二人揃って亡くなった。村人はそう語った。

 不意に、かぐやの中に厭なものが過った。

 まさか、この瓜子姫が老夫婦を……。自分を大切に育ててくれた、老夫婦の命を……。

 両の眼の奥にひっそりと沈む、得体の知れぬ底なし。
 この娘ならば、それも有り得る事だと思えた。幼い童が、無邪気に虫を殺すように。
 邪魔だと思えば、この娘ならばきっと、そうする。



「かぐや、おらはあなたの子種が欲しい」

 唐突に、瓜子姫は洩らした。かぐやは即座に、その言葉の意味を汲み取る事ができなかった。

 子種が欲しい。
 それが何を示す言葉なのか、それを理解するのに数秒を要した。


「ミトノ、目交マグアイセム……」


 瓜子姫の着物が、滑るようにするりと落ちた。途端に、白い素肌が闇に映え浮かび上がる。
 首筋からなだらかに下る細い肩、そこから垂れ下がる二本の腕、そして、胴体。丸く、玉のような乳房、続く腹、その下には、陰りを持つ淫靡な秘処。
 目の前に、自分と歳の変わらぬ娘の裸体が、惜しげもなく晒されていた。


 唾を呑み込む事すらままならぬ程、恐ろしく喉が渇いていた。心臓が、初めて知る速さで波打っている。かぐや自身の意思とは関係なく、血流が下腹部を熱くする。

 瓜子姫の眼が、かぐやの全身を妖しげにねめつける。


「吾が身は、成り成りて、成り合わざる処一処あり……」

 瓜子姫が囁いた言葉は、呪文のようにかぐやには聞こえた。

 瓜子姫の白い腕が、ひらりとかぐやの首筋に伸びてくる。ひやりとした感覚が、かぐやの皮膚に走る。
 死人のように冷たい瓜子姫の指先が、戯れるようにかぐやの肌を滑る。かぐやは総毛立った。
 首筋から鎖骨へ降りた指先は、そのままゆっくりとかぐやから衣を剥ぎ取ろうと動く。自由の利かぬ体は、まるで罠にがかった餌食のように抵抗できない。されるがままに、瓜子姫の細い指先に翻弄されていく。



 ミトノ、目交イセム……

 絡みついた瓜子姫の声が、頭の奥で再び響いた。そのままその声は溶け、頭の芯に甘い痺れをもたらしていく。
 完全に瓜子姫の手中に落ちてしまったのだと、かぐやは虚ろな意識の淵で気づいた。このまま身を任せてしまえば、そのうちに得も云われぬ快楽がもたらされる。ならば、それもいいだろう……。

 女を求める男の本能が、それを受け入れようとしている。
 あの柔らかく熱い足の間に、我が身を沈めよう。その淫靡なものを、かぐやはまだ知らない。


 ……吾が身は、成り成りて、成り余れる処一処あり……


 巣くう闇の彼方から、知らぬ男の声が聞こえたような気がした。
 それと、ほぼ同時だった。


「かぐやっ!」

 
 名を呼ぶ声に、かぐやの意識は引き戻された。

 刹那、勢い良く腕が引かれた。かぐやは、体がぐらりと崩れ落ちるような感覚を覚えた。そのまま、つんのめるようになりながら、たたらを踏む間もなくいざなわれ、走り出す。不快な痺れが、鉛のように動きの邪魔をする。体中の感覚、全てが鈍い。何か得体の知れぬ膜に包まれているように、土を踏み締めている筈の足の感覚すら伝わってこない。
 此処は現である筈なのに、夢の最中のように全てが不確かだ。音すらも、水の底で聞くようにくぐもっている。


 あの娘……瓜子姫は、きっと魔物だ。あの娘の毒針にやられたのかもしれない。手の甲に感じた鈍い痛み。あの時きっと刺されたに違いない。
 桃太郎に引かれるままに足をもたつかせ走りながら、かぐやは朦朧と思った。

 あのまま瓜子姫の餌食になっていたら、自分は……。

 闇に艶かしく映える、白い肌。一糸纏わぬ、娘の柔肌。眼に焼きついたその肢体が、幾重にも重なりかぐやの記憶を掠める。


 ミトノ、目交イセム……

 鈴の音のような瓜子姫の声が、耳鳴りのように響き、転がった。






「また、邪魔をするのね。小賢しい……」

 肌を晒したまま、瓜子姫は気怠く吐き捨てた。すっと細めた眼を、戸の方へ向ける。

「天の邪鬼、居るのでしょ?」

 戸の陰、気配が動く。瓜子姫に声をかけられるのを待っていたように、それは顔を覗かせた。
 かぐやに瓜二つの顔形。見間違みまごう程、寸分違わぬ同じ姿。けれどあの少年は、それすらも見破ってしまったのだろう。だからこうして此処へ戻り、本物のかぐやを連れて逃げ去った。瓜子姫の邪魔をして。

 あのかぐやという少年と目交ってしまえば、後は時を待つばかりだったのに。瓜子姫が成そうてしている事は、それで全て叶う筈だった。
 うつほに宿り、黄泉から現世うつつよへ舞い戻ってまでも成したかった事。

 黄泉では肉体は必要ない。
 けれど、現世に現れる為にはその魂が宿る肉体がなければならない。肉体を得ぬまま現世に現れても、それは空気と同じようなもの。
 女の胎内に宿るのでは、不都合が生じる。あの子宮というのは厄介で、羊水の中に漂い十月十日とつきとおか眠る間に、魂はすっかり黄泉の記憶を忘れる。

 うつほ。ぽっかり空いたその闇は、黄泉から繋がるもの。

 瓜子姫が成そうとしている事は、男女が対でなければ叶わぬ事。
 本来ならば、決して現世で肉体を得る事などない存在を、瓜子姫は道連れにうつほに宿った。影と闇を司るその存在は、尊い協力者となる筈。しかも、あの方の体から生まれし者であるのだから。


 そう、空に宿る道連れにしたのは、かぐやだけだった。
 なのに意とせぬ余計な者までもが、空に宿り肉体を得た。
 あれは間違いなく、桃の眷族けんぞく


「かぐやに噛みついた時に、その姿形だけではなく、魂からも全てを得ているのでしょ? 天の邪鬼」

 瓜子姫の腕が、すうっと伸びる。細い指先が、かぐやの姿をした天の邪鬼の首筋をなぞる。指先はそのまま、合わせた衣の隙間から鎖骨を辿り肩を撫でていく。次第にかぐやの顔をした天の邪鬼の眼に、欲望の色合いが現れる。それを確かめた瓜子姫の桜貝のような唇の端から、赤い舌先が覗く。

 本物のかぐやの方が都合が良かったが、いた仕方ない。身代わりとして遜色ないだろう。

「立派に事を成して頂戴。おらの可愛い、天の邪鬼……」

 腰紐がほどかれ、かぐやの姿をした天の邪鬼の体から衣が滑り落ちる。
 互いに肌を晒した二人の体は、闇の中でゆっくりとひとつに重なり合った。

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