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四. いと美しき君は……
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返す言葉など、ある筈がない。
桃太郎はぱっくりと口を開けたまま、呆然とかぐやを見詰めていた。
竹の中から生まれ、この世の者とは思えぬ美しさで都中の男たち、更には帝まで骨抜きにしたその娘が、実は男であった。目の前に突きつけられたその事実を到底受け入れられる筈もなく、桃太郎は惚けた顔をしたまま水面にかがよう光に映されたかぐやを見ていた。
かぐやは夜に素肌を晒したまま、涼しい眼差しを桃太郎に向けている。端から覗けば、非常に妙な光景だろう。
「大声上げてやろうか? じいさんもばあさんも、恐ろしい剣幕ですっ飛んで来るだろうな」
僅かに口元を綻ばせながら、かぐやが云った。
桃太郎は慌てて首を横に振る。夕刻に見たあの婆様の顔を思い出し、背中に悪寒が這う。
そんな桃太郎の反応を見て、かぐやがにやりと笑った。もちろんかぐやは本気で云っているわけではない。桃太郎が盗人や夜這い目的ではない事など、一目で判った。素朴で純情そうな少年を、からかって面白がっているのだ。
桃太郎の顔は、夜目にもはっきりと判る程に赤く染まっていた。
この少年の眼に、いつまでもこの姿は毒だろう。かぐやは、水を吸いすっかり重くなった衣を拾い上げ羽織る。白い衣からは肌が透け、ほとんどなんの意味もなさなかったが、何も身に着けていないよりはましだろう。
かぐやの水を孕んだ衣と黒髪が、光を纏う。男だと判っても、やはり眼を奪われてしまう。
「お前、ここに何しに来た?」
かぐやが訊ねた。まだ僅かに、甲高さの残る声。女のふりをして言葉を紡ぐ事など、きっとお手のものだろう。
かぐやに問われ、桃太郎はわざわざこんな危ない真似をした目的を思い出した。
緊張に喉が張りつき、すぐに声が出なかった。僅かな唾を呑み下し、渇いた喉を気持ち程度に潤す。
「君に、会いに来た」
桃太郎の返答は、かぐやの予想通り。今までにも、かぐやに会おうと屋敷に忍び込んできた男が三人程居た。その度に、婆様にことごとく酷い目に合わされ命からがら逃げ去っていった。そんな事が何度あろうと門番を置かないのは、余計な事にびた一文払いたくないという婆様のがめつさ故。
屋敷に忍び込んだ桃太郎を婆様に引き渡す気など、かぐやには更々ない。この見るからに純情そうな少年を、じじばばに見つからぬうちにこっそり屋敷の外に逃がしてやろう。そんなつもりだった。
あのがめつい婆様には、いい加減うんざりしていた。男たちが持参するかぐやへの貢ぎ物に目が眩み、年々その強欲さに磨きがかかっていくばかり。桃太郎を逃がしてやるという行為は、婆様への細やかな反抗でもあるのだ。
かぐやは水音を忍ばせ池から上がった。夜、闇に紛れて御祓紛いの儀式を行うのが、かぐやの日課となっていた。あの婆様の欲に晒されていると、己までもが俗物と化していくような気がした。
僅かでもその穢れを祓いたくて、老夫婦が眠りに着いた後、一人ひっそりとその身を水に沈めるようになった。
かぐやは桃太郎に視線を向けた。池の脇に灯した灯籠の火を映してか、桃太郎の顔はほんのり紅に染まっている。丸い眼はまだ幼さを残し、見ようによっては幼女のそれのようにあどけない。不釣り合いな程の精悍な眉がなければ、少女と間違われても仕方なかっただろう。
並んで立つと、桃太郎の方が僅かばかりかぐやより身の丈が低い。十六歳のかぐやは、桃太郎よりひとつ歳上だ。
桃太郎の眼が、切れ長のかぐやの眼をじっと見据える。
「君は、竹から生まれたというのは本当?」
かぐやの涼しげな眼が見開かれた。
驚いたというよりも、意外な事を訊ねられた、そんな様子。
桃太郎の眼は揺るがない。口を一文字に結んだまま、じっとかぐやの返答を待つ。
不意にかぐやの顔が、ふっと綻ぶ。
「そう、俺は竹から生まれた。そんであのじいさんばあさんに拾われ育てられて、今はこの屋敷で女のふりをさせられている。ずいぶんおかしな話だろ」
まだ幼い頃は、本当に大切に育てられていた。子に恵まれなかった老夫婦は、天からの授かり物だとかぐやを幾重もの絹にくるむが如く慈しみ育てた。
やがてかぐやは年頃に成長し、男児であるにも関わらずその美しさは女人を遥かに凌駕していた。
試しにと婆様が娘時代の着物を着せてみたところ、それはそれは常人など敵わぬ美しさだった。
婆様の心に、ふと魔が刺した。
試しにかぐやに、このまま女のふりをさせてみたらどうなるだろうか。
婆様の思惑は、まんまと的中した。
かぐやの噂を聞きつけ、貢ぎ物を手に屋敷を訪れる貴族の男たちが後に絶えなくなった。こうして味をしめてしまっては、もう止められるわけがない。
婆様に云われるがままに、かぐやは毎日女の姿になる。
これも親孝行と気持ちを割り切り、騙されてやって来た男たち相手に愛想を振り撒く。
求婚してくる者には、無理難題を押しつける。これも婆様の入れ知恵だ。
龍から勾玉を奪って来て欲しい。
これを口にした時には、さすがに気の毒過ぎて心苦しかった。
かぐやの良心の呵責はぎりぎりの縁で毎日悲鳴を上げている。いけ好かない貴族への難題は心がスカッとするが、中には有り金はたいて貢ぎ物を携え遠くはるばる訪ねてくる者も居る。濁りのない純真な眼差しを向けられる度に、自分の正体を打ち明けてしまいたい衝動にかられる。
鳩尾の奥が、小石を呑み込んだように鈍く痛む。
夜な夜な肌を突き刺す冷水に身を沈めるのは、そんな男たちへの懺悔の心もあっての事。
自分は、目に見えない楔に繋がれている。
婆様の手の内から伸びる楔に。
そこから解放される事を望んでいる自分に、かぐやはずいぶん前から気づいていた。
本当は全て捨ててしまいたい。今ある全てを。
この屋敷での生活、婆様の望むままに女のふりをする自分。何も知らない男たちを手の内で転がし、貢ぎ物を集める自分、そしてじいさんばあさん。
かぐやは桃太郎の黒い眼を見詰めた。覗き込みたくなる程、黒く輝くその眼の内側。
この少年だけは騙さずに済んだ事が、かぐやの罪の心を慰める唯一の救いのように思えた。
「俺も、桃から生まれた。何もない、暗いうつほの中から。君と同じ処から来たんだ」
桃太郎の口から紡がれた言葉が、夜の闇に溶けた。
桃太郎はぱっくりと口を開けたまま、呆然とかぐやを見詰めていた。
竹の中から生まれ、この世の者とは思えぬ美しさで都中の男たち、更には帝まで骨抜きにしたその娘が、実は男であった。目の前に突きつけられたその事実を到底受け入れられる筈もなく、桃太郎は惚けた顔をしたまま水面にかがよう光に映されたかぐやを見ていた。
かぐやは夜に素肌を晒したまま、涼しい眼差しを桃太郎に向けている。端から覗けば、非常に妙な光景だろう。
「大声上げてやろうか? じいさんもばあさんも、恐ろしい剣幕ですっ飛んで来るだろうな」
僅かに口元を綻ばせながら、かぐやが云った。
桃太郎は慌てて首を横に振る。夕刻に見たあの婆様の顔を思い出し、背中に悪寒が這う。
そんな桃太郎の反応を見て、かぐやがにやりと笑った。もちろんかぐやは本気で云っているわけではない。桃太郎が盗人や夜這い目的ではない事など、一目で判った。素朴で純情そうな少年を、からかって面白がっているのだ。
桃太郎の顔は、夜目にもはっきりと判る程に赤く染まっていた。
この少年の眼に、いつまでもこの姿は毒だろう。かぐやは、水を吸いすっかり重くなった衣を拾い上げ羽織る。白い衣からは肌が透け、ほとんどなんの意味もなさなかったが、何も身に着けていないよりはましだろう。
かぐやの水を孕んだ衣と黒髪が、光を纏う。男だと判っても、やはり眼を奪われてしまう。
「お前、ここに何しに来た?」
かぐやが訊ねた。まだ僅かに、甲高さの残る声。女のふりをして言葉を紡ぐ事など、きっとお手のものだろう。
かぐやに問われ、桃太郎はわざわざこんな危ない真似をした目的を思い出した。
緊張に喉が張りつき、すぐに声が出なかった。僅かな唾を呑み下し、渇いた喉を気持ち程度に潤す。
「君に、会いに来た」
桃太郎の返答は、かぐやの予想通り。今までにも、かぐやに会おうと屋敷に忍び込んできた男が三人程居た。その度に、婆様にことごとく酷い目に合わされ命からがら逃げ去っていった。そんな事が何度あろうと門番を置かないのは、余計な事にびた一文払いたくないという婆様のがめつさ故。
屋敷に忍び込んだ桃太郎を婆様に引き渡す気など、かぐやには更々ない。この見るからに純情そうな少年を、じじばばに見つからぬうちにこっそり屋敷の外に逃がしてやろう。そんなつもりだった。
あのがめつい婆様には、いい加減うんざりしていた。男たちが持参するかぐやへの貢ぎ物に目が眩み、年々その強欲さに磨きがかかっていくばかり。桃太郎を逃がしてやるという行為は、婆様への細やかな反抗でもあるのだ。
かぐやは水音を忍ばせ池から上がった。夜、闇に紛れて御祓紛いの儀式を行うのが、かぐやの日課となっていた。あの婆様の欲に晒されていると、己までもが俗物と化していくような気がした。
僅かでもその穢れを祓いたくて、老夫婦が眠りに着いた後、一人ひっそりとその身を水に沈めるようになった。
かぐやは桃太郎に視線を向けた。池の脇に灯した灯籠の火を映してか、桃太郎の顔はほんのり紅に染まっている。丸い眼はまだ幼さを残し、見ようによっては幼女のそれのようにあどけない。不釣り合いな程の精悍な眉がなければ、少女と間違われても仕方なかっただろう。
並んで立つと、桃太郎の方が僅かばかりかぐやより身の丈が低い。十六歳のかぐやは、桃太郎よりひとつ歳上だ。
桃太郎の眼が、切れ長のかぐやの眼をじっと見据える。
「君は、竹から生まれたというのは本当?」
かぐやの涼しげな眼が見開かれた。
驚いたというよりも、意外な事を訊ねられた、そんな様子。
桃太郎の眼は揺るがない。口を一文字に結んだまま、じっとかぐやの返答を待つ。
不意にかぐやの顔が、ふっと綻ぶ。
「そう、俺は竹から生まれた。そんであのじいさんばあさんに拾われ育てられて、今はこの屋敷で女のふりをさせられている。ずいぶんおかしな話だろ」
まだ幼い頃は、本当に大切に育てられていた。子に恵まれなかった老夫婦は、天からの授かり物だとかぐやを幾重もの絹にくるむが如く慈しみ育てた。
やがてかぐやは年頃に成長し、男児であるにも関わらずその美しさは女人を遥かに凌駕していた。
試しにと婆様が娘時代の着物を着せてみたところ、それはそれは常人など敵わぬ美しさだった。
婆様の心に、ふと魔が刺した。
試しにかぐやに、このまま女のふりをさせてみたらどうなるだろうか。
婆様の思惑は、まんまと的中した。
かぐやの噂を聞きつけ、貢ぎ物を手に屋敷を訪れる貴族の男たちが後に絶えなくなった。こうして味をしめてしまっては、もう止められるわけがない。
婆様に云われるがままに、かぐやは毎日女の姿になる。
これも親孝行と気持ちを割り切り、騙されてやって来た男たち相手に愛想を振り撒く。
求婚してくる者には、無理難題を押しつける。これも婆様の入れ知恵だ。
龍から勾玉を奪って来て欲しい。
これを口にした時には、さすがに気の毒過ぎて心苦しかった。
かぐやの良心の呵責はぎりぎりの縁で毎日悲鳴を上げている。いけ好かない貴族への難題は心がスカッとするが、中には有り金はたいて貢ぎ物を携え遠くはるばる訪ねてくる者も居る。濁りのない純真な眼差しを向けられる度に、自分の正体を打ち明けてしまいたい衝動にかられる。
鳩尾の奥が、小石を呑み込んだように鈍く痛む。
夜な夜な肌を突き刺す冷水に身を沈めるのは、そんな男たちへの懺悔の心もあっての事。
自分は、目に見えない楔に繋がれている。
婆様の手の内から伸びる楔に。
そこから解放される事を望んでいる自分に、かぐやはずいぶん前から気づいていた。
本当は全て捨ててしまいたい。今ある全てを。
この屋敷での生活、婆様の望むままに女のふりをする自分。何も知らない男たちを手の内で転がし、貢ぎ物を集める自分、そしてじいさんばあさん。
かぐやは桃太郎の黒い眼を見詰めた。覗き込みたくなる程、黒く輝くその眼の内側。
この少年だけは騙さずに済んだ事が、かぐやの罪の心を慰める唯一の救いのように思えた。
「俺も、桃から生まれた。何もない、暗いうつほの中から。君と同じ処から来たんだ」
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