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番外編:ほろにがチョコプディング〜バレンタイン仕立て〜
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数日後、相変わらず頼子の動向が気になりつつもその意味がわからない日が続き、僕は呆れていた。だって、夜中も何かコソコソとやっているし……
「頼子、寝ないの?」って聞いても「いいから、修くんは早く寝なさい!」とまるで母親のように叱る。解せない。だからほとぼりが冷めるまでほっとくことにした。
家に帰れば頼子が何かしてるし、キッチンは出禁になったし、会社に行けば仕事以外のことに神経を使わなければならないし不要なストレスが溜まっていく。
佐藤くんが「監視術を教えろ」と迫ってくるのを躱したり、義理チョコ委員会に渡すチョコレートの案を提出したり、経過報告を聞いたり、それを安原さんに察知されないよう気を配ったり、いろいろと大変だった。
バレンタインってこんなに大変なイベントだったっけ? こんなに神経すり減らすイベントだったっけ?
そんな感じで虚無タイム続行の中、バレンタインフェアも佳境となったある日、ふいに汐田さんから話しかけられた。
「真殿さん、お願いがあるんです」
バックヤードで疲れたため息をついていたら、汐田さんがおずおずと両手を合わせて言った。
「おいしい手作りチョコの作り方、教えてください!」
「え?」
意外なお願いに拍子抜けする。
「手作りチョコ?」
「はい! だって、真殿さんって元調理師でしょ? おいしいチョコ作れますよね!」
「さぁ……僕、お菓子作りはあんまりしないから……」
「もう時間がないんです!」
汐田さんは勢い込んで言った。とても近いので思わず後ずさる。
バレンタインまであと四日。明日は建国記念日だから公休で、土日は午前出勤が確定しているから確かに時間はあまりない。
「わかった。会社に戻ったら調理室借りて作ろう。材料はあるの?」
「あります! やったぁ! ありがとうございます!」
汐田さんが子どものように両手をバンザイして喜ぶ。小柄で天真爛漫な笑顔を絶やさない彼女は社内の妹的存在だ。どうにもほっとけない。
今日はフェアの担当も午前までなので、昼食が終わって軽く挨拶をしたあとは早速会社に戻って調理室を借りた。今日は料理教室が休みなので借りやすい。
あらかじめ帰社する途中にお菓子作り初心者でも簡単に作れるものを調べ、汐田さんが買っている材料とも照らし合わせてメニューを決めておいた。
「それじゃあ、今からチョコレートプディングを作ります」
ジャケットを脱いで、ロッカーにかかっていたエプロンを身に着けながら僕が言うと、汐田さんも同じくジャケットを脱いでエプロンを身につけて「おー!」と元気よく拳を突き上げる。
用意するのはチョコレート、卵、牛乳、砂糖、これだけ。甘ったるくならないようにインスタントコーヒーや、香り付けにラム酒も使うと本格的だが、今回は手元にあるものを使うことにする。
汐田さんが材料をはかっている間、僕は調理器具を準備する。オーブンをセッティングしプディングを作り始める。
「まず、卵を湯煎したまま泡立てて、砂糖を入れていく」
「はい」
僕の指示に汐田さんがテキパキと従っていく。
チョコレートは丸い円形のクーベルチュールを使う。これは製菓用のチョコレートで、溶かせばツヤが出て仕上がりがよくなる。
汐田さんが卵を泡立てている間に、僕はチョコレートを湯煎で溶かす。あとはこのチョコレートを泡立てた卵液の中に牛乳と一緒に入れて混ぜるだけ。
「分離しないように気をつけて。全体がよくなじんできたら型に流し込むよ」
「はーい」
耐熱用の小さなココット皿にプディング液を流し込んだら、オーブンで焼くだけ。
「オーブンに入れる時は、耐熱容器にお湯を注いだものの上からココットも入れる。アルミホイルをかぶせて……そうそう、そんな感じで」
汐田さんは手際よくココットをガラスの耐熱容器に並べていき、ひとつひとつアルミホイルをかぶせていった。
「これで蒸し焼きにする。簡単だろ」
「はい! めっちゃ簡単! さすが元調理師、私一人じゃもたついてできませんでしたよ」
汐田さんは満面の笑みで言った。
「別に僕がいなくてもできただろうに。汐田さん、飲み込み早いし手際もいいし」
「いえいえ! やっぱ誰かにお手伝いしてもらわないとできないですって! それに元調理師が横にいれば絶対トチることないじゃないですか!」
うーん……褒めてる、のか? 褒めてると捉えておこう。僕は苦笑しながらオーブンのボタンを押した。
「そういえば、結局買うのやめたんだね。湯崎さんへのチョコ」
何気なく言ってみると、汐田さんはあからさまに顔を強張らせた。
「だから、そんなんじゃないって言ってるじゃないですか!」
「またまた、そんなこと言って。隠さなくていいのに」
「本当に違うんですってば!」
汐田さんはぷっくりと頬を膨らませた。あらら、怒らせちゃったか。
「だいたい、湯崎さんには安原さんがいるでしょ。私が渡したところで迷惑ですよ!」
そう言われてしまうと、僕はたちまちバツが悪くなる。うーん、湯崎さんと安原さんはそんな関係じゃないと思うんだけどなぁ。
なんて言ってなだめようか考えていると、汐田さんが話題を変えた。
「そんなことより、真殿さん。聞きたいことあるんですけど」
「何?」
「最近、佐藤先輩が変なんです」
汐田さんの神妙な声に今度は僕が顔を強張らせた。心当たりが多すぎる。
「へぇー……どんな風に?」
なるべく平静を装って訊いてみる。
「どんなって、最近ずっと相田部長の後ろをついてまわってて、出先から戻った部長を出迎えに行ったり、ランチも休憩もトイレでさえも! まるでストーカーですよ」
「ぶっふ……う、うわぁー……」
笑い事じゃないくらい佐藤くんの必死さが思い浮かぶけど、笑わずにはいられず僕は顔を背けてオーブンの様子を見るふりをした。
「おかげで佐藤先輩と話す時間が減りました! 私の教育係なのに、それをほっぽってまで相田部長の追っかけやってるんですよ。ねぇ、何か知りません?」
「知らないなぁ……僕、部署が違うし」
「でも最近、めっちゃ仲いいじゃないですかぁ。この前も、ふたりでコソコソ話してたじゃないですかぁ」
だんだん絡み方がウザくなってくる。汐田さんの追及に僕はどう逃げるか急いで頭を回転させた。あぁ、あと少しで焼き上がるぞ。これで逃げられる。
そう思っていたら、調理室のドアが開いた。
「何やってるの、真殿くん」
広報部の女性社員、スレンダーなマニッシュスタイルの筒井さんが怪訝そうに声をかけてきた。
「え? あぁ、これは汐田さんから頼まれて……いっ!」
素直に答えようとすると、つま先に衝撃が走る。あろうことか汐田さんが僕の足を踏んづけていた。
「真殿さんがバレンタインチョコ作るの手伝ってたんです! みなさんに振る舞うそうですよ!」
「え? なにそれ、どういうこと?」
筒井さんが素っ頓狂な声をあげる一方、僕はつま先の痛みに耐えるべくその場にうずくまった。
そりゃ聞かれたくない話かもしれないけど、僕にいろいろなすりつけるのは卑怯だぞ! そんな怒りを込めて見上げると、汐田さんは絶対に僕のほうを見ずに白々しく笑っていた。
おのれ、汐田。そうやって出し抜こうとするから、佐藤くんがいつも怒鳴るんだな。
そんな僕らの静かな攻防に気づかず、筒井さんが苦笑しながら言い放った。
「えー、手作りかぁ。でも義理でしょ? ちょっと重いかなぁ……」
その瞬間、汐田さんの笑顔が凍りつく。僕も頭におもりがのしかかったかのような大ダメージを食らう。そんな僕らの空気を察することなく、筒井さんは引きつった笑いのままフェードアウトしようとしていた。
「そっかー、わかった。バレンタインは真殿くんの手作りチョコが食べられるって、みんなに言っとくね」
「や、待って! やめます! やめますから、拡散だけはどうかやめてください!」
筒井さんがスマートフォンを取り出したので、僕は猛スピードで止めに走った。これ以上、僕のライフポイントを削るようなことがあってはならない。さすがの汐田さんも悪いと思ったのか、僕の後ろから「拡散だけは!」と懇願する。
これに筒井さんは「ふぅん?」と片眉を曲げて笑うと、スマートフォンをジーンズの尻ポケットに仕舞った。
「じゃ、そういうことにしましょ。あ、チョコできたら教えてね。それが口止め料ってことで」
そう言って、シルバーの指輪がはまった手をひらひら振って、彼女は調理室を後にした。
「はぁ……なんとかうまくごまかせましたね」
「いや、ごまかせたのか、あれは」
「大丈夫ですって。筒井さん、あれで口固いほうですから」
汐田さんは屈託なく笑い、親指を突き上げた。
全然大丈夫じゃないんだよなぁ……おもに僕への風評被害が。
「あ、焼けたようですよ! いいにおーい!」
オーブンが機嫌よく焼き上がりの合図を鳴らすと同時に汐田さんがオーブンに駆け寄って扉を開けた。ふんわりとあたたかく香ばしいカカオが部屋中に舞う。僕もオーブンの前に戻り、プディングの様子を見た。
うん、初めてにしては上出来かな。焦げてないし、色もまろやかなチョコレート色だが、まだまだ柔らかくて形が不安定なのでしっかり固めたい。
「これを冷蔵庫で冷やしたら完成。それじゃあ、後片付けをして仕事に戻ろうか。一時間後くらいにまた様子を見に来て、しっかり固まってたら完成だよ」
「はい! ありがとうございます!」
返事だけは百点満点なんだから……まぁ、味見をしてないからなんとも言えないけども、これ以上関わってたらさらに面倒を呼び込みそうだから退散しよう。
僕は手早く調理器具を洗い、汐田さんと一緒に片付けたあと調理室を出て仕事に戻った。
しかしこの時、どうして筒井さんがわざわざ調理室を覗いたのかもう少しきちんと考えるべきだったことに後々思い知ることとなる。
***
その日、終業後に義理チョコ委員会議が開かれるので、僕は湯崎さんと一緒に定時に上がるふりをして第二会議室へ向かった。すでにメンバーは勢揃いだったが、委員長ポジションの杉野さんがいない。なんでも、仕事が詰まってて抜け出せそうにないらしい。
代わりになぜか佐藤くんが議長席に座っていた。
「というわけで、今回は杉野さんの代打として私、佐藤映司が議長を務めます」
厳かな雰囲気で始まる義理チョコ委員会議。佐藤くんはどうやら相田部長を四六時中監視していたおかげで、この委員会を動かすほどの力を得たらしい。本当、末恐ろしい同期だと思う。
「まぁ、真殿さんに期待はしてなかったですけど、なんとかチョコの手配はできましたよ」
湯崎さんが横でヒソヒソと教えてくれる。経過報告は聞いていたが、僕が適当に出した案はいつの間にか溶けてなくなったようで、杉野さんと湯崎さんの素晴らしい連携プレーにより経理部への贈呈チョコが選ばれたそうだ。ベルギー産のチョコレートを使用したナントカっていうとこの、ナントカという賞を受賞したチョコレートに決定した。見るからに高級そうな包装紙に茶色のリボンがオシャレな小包が入った紙袋を長机に置いている。きっちり経理部員の人数分。
当日のフォーメーション(主に総務部が経理部へ進呈するらしい)もバッチリ打ち合わせし、やはり十分程度で会議は終了した。
「ちなみに、相田部長のリサーチはどうだったの?」
会議室を出る間際、僕は佐藤議長に聞いた。
「問題ありません。何を贈るかは本人に聞きましたから」
さらりと冷静に答える佐藤くんに僕は素直に驚いた。
「本人に聞いたの!? あぁ、でもその方が手っ取り早いか……すごいな、佐藤くん」
「これで今回のバレンタインは我々の勝利です」
なおも冷静に答えるが、その目は不敵に笑っていた。
バレンタインの前日は、皆一様に不自然なほどそわそわしている。それはどうも男性だけでなく女性たちも同様で、よくよく見てみればみんなあれこれと隠し事をしている。
唯一、安原さんだけがのんびりとしており、帰り際なんかは「よーし、私も高級チョコ買いにいってこよー!」と宣言していたけれど。自分で食べる用を買うらしい。
「ほんと切ないですね……俺はああはなりたくないな」
湯崎さんが毒づいていたが、もう君もそっち側にいると思うのはきっと僕だけじゃないだろう。
みんな変といえば、頼子も変だ。コソコソ隠れて何やってるんだか──
帰り道、寒そうにざわめく川べりの木の下で僕は立ち止まった。ここまでの経緯すべてをつなぎ合わせて、ひとつの解に結びつける。
「……なるほど」
いつもは鈍い僕だが、この時ばかりはかなり冴えていた。
頼子もサプライズで何かを用意している。それも手作りのチョコレートだ。僕に知られないようにするためカメラをテープで隠したり、はぐらかしたり、夜中にコソコソと何かをしていたのだろう。うん、しっくりくる。絶対そうだ。
何を作ってくれるんだろう。プリンかな? 練習が必要なものだろうから、プリンじゃないならケーキかも。とにかく十四日が楽しみだな。
そうして僕は気づかなかったふりをし、何食わぬ顔で帰宅した。
「頼子、寝ないの?」って聞いても「いいから、修くんは早く寝なさい!」とまるで母親のように叱る。解せない。だからほとぼりが冷めるまでほっとくことにした。
家に帰れば頼子が何かしてるし、キッチンは出禁になったし、会社に行けば仕事以外のことに神経を使わなければならないし不要なストレスが溜まっていく。
佐藤くんが「監視術を教えろ」と迫ってくるのを躱したり、義理チョコ委員会に渡すチョコレートの案を提出したり、経過報告を聞いたり、それを安原さんに察知されないよう気を配ったり、いろいろと大変だった。
バレンタインってこんなに大変なイベントだったっけ? こんなに神経すり減らすイベントだったっけ?
そんな感じで虚無タイム続行の中、バレンタインフェアも佳境となったある日、ふいに汐田さんから話しかけられた。
「真殿さん、お願いがあるんです」
バックヤードで疲れたため息をついていたら、汐田さんがおずおずと両手を合わせて言った。
「おいしい手作りチョコの作り方、教えてください!」
「え?」
意外なお願いに拍子抜けする。
「手作りチョコ?」
「はい! だって、真殿さんって元調理師でしょ? おいしいチョコ作れますよね!」
「さぁ……僕、お菓子作りはあんまりしないから……」
「もう時間がないんです!」
汐田さんは勢い込んで言った。とても近いので思わず後ずさる。
バレンタインまであと四日。明日は建国記念日だから公休で、土日は午前出勤が確定しているから確かに時間はあまりない。
「わかった。会社に戻ったら調理室借りて作ろう。材料はあるの?」
「あります! やったぁ! ありがとうございます!」
汐田さんが子どものように両手をバンザイして喜ぶ。小柄で天真爛漫な笑顔を絶やさない彼女は社内の妹的存在だ。どうにもほっとけない。
今日はフェアの担当も午前までなので、昼食が終わって軽く挨拶をしたあとは早速会社に戻って調理室を借りた。今日は料理教室が休みなので借りやすい。
あらかじめ帰社する途中にお菓子作り初心者でも簡単に作れるものを調べ、汐田さんが買っている材料とも照らし合わせてメニューを決めておいた。
「それじゃあ、今からチョコレートプディングを作ります」
ジャケットを脱いで、ロッカーにかかっていたエプロンを身に着けながら僕が言うと、汐田さんも同じくジャケットを脱いでエプロンを身につけて「おー!」と元気よく拳を突き上げる。
用意するのはチョコレート、卵、牛乳、砂糖、これだけ。甘ったるくならないようにインスタントコーヒーや、香り付けにラム酒も使うと本格的だが、今回は手元にあるものを使うことにする。
汐田さんが材料をはかっている間、僕は調理器具を準備する。オーブンをセッティングしプディングを作り始める。
「まず、卵を湯煎したまま泡立てて、砂糖を入れていく」
「はい」
僕の指示に汐田さんがテキパキと従っていく。
チョコレートは丸い円形のクーベルチュールを使う。これは製菓用のチョコレートで、溶かせばツヤが出て仕上がりがよくなる。
汐田さんが卵を泡立てている間に、僕はチョコレートを湯煎で溶かす。あとはこのチョコレートを泡立てた卵液の中に牛乳と一緒に入れて混ぜるだけ。
「分離しないように気をつけて。全体がよくなじんできたら型に流し込むよ」
「はーい」
耐熱用の小さなココット皿にプディング液を流し込んだら、オーブンで焼くだけ。
「オーブンに入れる時は、耐熱容器にお湯を注いだものの上からココットも入れる。アルミホイルをかぶせて……そうそう、そんな感じで」
汐田さんは手際よくココットをガラスの耐熱容器に並べていき、ひとつひとつアルミホイルをかぶせていった。
「これで蒸し焼きにする。簡単だろ」
「はい! めっちゃ簡単! さすが元調理師、私一人じゃもたついてできませんでしたよ」
汐田さんは満面の笑みで言った。
「別に僕がいなくてもできただろうに。汐田さん、飲み込み早いし手際もいいし」
「いえいえ! やっぱ誰かにお手伝いしてもらわないとできないですって! それに元調理師が横にいれば絶対トチることないじゃないですか!」
うーん……褒めてる、のか? 褒めてると捉えておこう。僕は苦笑しながらオーブンのボタンを押した。
「そういえば、結局買うのやめたんだね。湯崎さんへのチョコ」
何気なく言ってみると、汐田さんはあからさまに顔を強張らせた。
「だから、そんなんじゃないって言ってるじゃないですか!」
「またまた、そんなこと言って。隠さなくていいのに」
「本当に違うんですってば!」
汐田さんはぷっくりと頬を膨らませた。あらら、怒らせちゃったか。
「だいたい、湯崎さんには安原さんがいるでしょ。私が渡したところで迷惑ですよ!」
そう言われてしまうと、僕はたちまちバツが悪くなる。うーん、湯崎さんと安原さんはそんな関係じゃないと思うんだけどなぁ。
なんて言ってなだめようか考えていると、汐田さんが話題を変えた。
「そんなことより、真殿さん。聞きたいことあるんですけど」
「何?」
「最近、佐藤先輩が変なんです」
汐田さんの神妙な声に今度は僕が顔を強張らせた。心当たりが多すぎる。
「へぇー……どんな風に?」
なるべく平静を装って訊いてみる。
「どんなって、最近ずっと相田部長の後ろをついてまわってて、出先から戻った部長を出迎えに行ったり、ランチも休憩もトイレでさえも! まるでストーカーですよ」
「ぶっふ……う、うわぁー……」
笑い事じゃないくらい佐藤くんの必死さが思い浮かぶけど、笑わずにはいられず僕は顔を背けてオーブンの様子を見るふりをした。
「おかげで佐藤先輩と話す時間が減りました! 私の教育係なのに、それをほっぽってまで相田部長の追っかけやってるんですよ。ねぇ、何か知りません?」
「知らないなぁ……僕、部署が違うし」
「でも最近、めっちゃ仲いいじゃないですかぁ。この前も、ふたりでコソコソ話してたじゃないですかぁ」
だんだん絡み方がウザくなってくる。汐田さんの追及に僕はどう逃げるか急いで頭を回転させた。あぁ、あと少しで焼き上がるぞ。これで逃げられる。
そう思っていたら、調理室のドアが開いた。
「何やってるの、真殿くん」
広報部の女性社員、スレンダーなマニッシュスタイルの筒井さんが怪訝そうに声をかけてきた。
「え? あぁ、これは汐田さんから頼まれて……いっ!」
素直に答えようとすると、つま先に衝撃が走る。あろうことか汐田さんが僕の足を踏んづけていた。
「真殿さんがバレンタインチョコ作るの手伝ってたんです! みなさんに振る舞うそうですよ!」
「え? なにそれ、どういうこと?」
筒井さんが素っ頓狂な声をあげる一方、僕はつま先の痛みに耐えるべくその場にうずくまった。
そりゃ聞かれたくない話かもしれないけど、僕にいろいろなすりつけるのは卑怯だぞ! そんな怒りを込めて見上げると、汐田さんは絶対に僕のほうを見ずに白々しく笑っていた。
おのれ、汐田。そうやって出し抜こうとするから、佐藤くんがいつも怒鳴るんだな。
そんな僕らの静かな攻防に気づかず、筒井さんが苦笑しながら言い放った。
「えー、手作りかぁ。でも義理でしょ? ちょっと重いかなぁ……」
その瞬間、汐田さんの笑顔が凍りつく。僕も頭におもりがのしかかったかのような大ダメージを食らう。そんな僕らの空気を察することなく、筒井さんは引きつった笑いのままフェードアウトしようとしていた。
「そっかー、わかった。バレンタインは真殿くんの手作りチョコが食べられるって、みんなに言っとくね」
「や、待って! やめます! やめますから、拡散だけはどうかやめてください!」
筒井さんがスマートフォンを取り出したので、僕は猛スピードで止めに走った。これ以上、僕のライフポイントを削るようなことがあってはならない。さすがの汐田さんも悪いと思ったのか、僕の後ろから「拡散だけは!」と懇願する。
これに筒井さんは「ふぅん?」と片眉を曲げて笑うと、スマートフォンをジーンズの尻ポケットに仕舞った。
「じゃ、そういうことにしましょ。あ、チョコできたら教えてね。それが口止め料ってことで」
そう言って、シルバーの指輪がはまった手をひらひら振って、彼女は調理室を後にした。
「はぁ……なんとかうまくごまかせましたね」
「いや、ごまかせたのか、あれは」
「大丈夫ですって。筒井さん、あれで口固いほうですから」
汐田さんは屈託なく笑い、親指を突き上げた。
全然大丈夫じゃないんだよなぁ……おもに僕への風評被害が。
「あ、焼けたようですよ! いいにおーい!」
オーブンが機嫌よく焼き上がりの合図を鳴らすと同時に汐田さんがオーブンに駆け寄って扉を開けた。ふんわりとあたたかく香ばしいカカオが部屋中に舞う。僕もオーブンの前に戻り、プディングの様子を見た。
うん、初めてにしては上出来かな。焦げてないし、色もまろやかなチョコレート色だが、まだまだ柔らかくて形が不安定なのでしっかり固めたい。
「これを冷蔵庫で冷やしたら完成。それじゃあ、後片付けをして仕事に戻ろうか。一時間後くらいにまた様子を見に来て、しっかり固まってたら完成だよ」
「はい! ありがとうございます!」
返事だけは百点満点なんだから……まぁ、味見をしてないからなんとも言えないけども、これ以上関わってたらさらに面倒を呼び込みそうだから退散しよう。
僕は手早く調理器具を洗い、汐田さんと一緒に片付けたあと調理室を出て仕事に戻った。
しかしこの時、どうして筒井さんがわざわざ調理室を覗いたのかもう少しきちんと考えるべきだったことに後々思い知ることとなる。
***
その日、終業後に義理チョコ委員会議が開かれるので、僕は湯崎さんと一緒に定時に上がるふりをして第二会議室へ向かった。すでにメンバーは勢揃いだったが、委員長ポジションの杉野さんがいない。なんでも、仕事が詰まってて抜け出せそうにないらしい。
代わりになぜか佐藤くんが議長席に座っていた。
「というわけで、今回は杉野さんの代打として私、佐藤映司が議長を務めます」
厳かな雰囲気で始まる義理チョコ委員会議。佐藤くんはどうやら相田部長を四六時中監視していたおかげで、この委員会を動かすほどの力を得たらしい。本当、末恐ろしい同期だと思う。
「まぁ、真殿さんに期待はしてなかったですけど、なんとかチョコの手配はできましたよ」
湯崎さんが横でヒソヒソと教えてくれる。経過報告は聞いていたが、僕が適当に出した案はいつの間にか溶けてなくなったようで、杉野さんと湯崎さんの素晴らしい連携プレーにより経理部への贈呈チョコが選ばれたそうだ。ベルギー産のチョコレートを使用したナントカっていうとこの、ナントカという賞を受賞したチョコレートに決定した。見るからに高級そうな包装紙に茶色のリボンがオシャレな小包が入った紙袋を長机に置いている。きっちり経理部員の人数分。
当日のフォーメーション(主に総務部が経理部へ進呈するらしい)もバッチリ打ち合わせし、やはり十分程度で会議は終了した。
「ちなみに、相田部長のリサーチはどうだったの?」
会議室を出る間際、僕は佐藤議長に聞いた。
「問題ありません。何を贈るかは本人に聞きましたから」
さらりと冷静に答える佐藤くんに僕は素直に驚いた。
「本人に聞いたの!? あぁ、でもその方が手っ取り早いか……すごいな、佐藤くん」
「これで今回のバレンタインは我々の勝利です」
なおも冷静に答えるが、その目は不敵に笑っていた。
バレンタインの前日は、皆一様に不自然なほどそわそわしている。それはどうも男性だけでなく女性たちも同様で、よくよく見てみればみんなあれこれと隠し事をしている。
唯一、安原さんだけがのんびりとしており、帰り際なんかは「よーし、私も高級チョコ買いにいってこよー!」と宣言していたけれど。自分で食べる用を買うらしい。
「ほんと切ないですね……俺はああはなりたくないな」
湯崎さんが毒づいていたが、もう君もそっち側にいると思うのはきっと僕だけじゃないだろう。
みんな変といえば、頼子も変だ。コソコソ隠れて何やってるんだか──
帰り道、寒そうにざわめく川べりの木の下で僕は立ち止まった。ここまでの経緯すべてをつなぎ合わせて、ひとつの解に結びつける。
「……なるほど」
いつもは鈍い僕だが、この時ばかりはかなり冴えていた。
頼子もサプライズで何かを用意している。それも手作りのチョコレートだ。僕に知られないようにするためカメラをテープで隠したり、はぐらかしたり、夜中にコソコソと何かをしていたのだろう。うん、しっくりくる。絶対そうだ。
何を作ってくれるんだろう。プリンかな? 練習が必要なものだろうから、プリンじゃないならケーキかも。とにかく十四日が楽しみだな。
そうして僕は気づかなかったふりをし、何食わぬ顔で帰宅した。
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