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兄様とわたし
26 わたしの王子様 後編
しおりを挟む「──無事で、よかった……」
兄様のぬくもりが、伝わってくる。
心から、安堵した声だった。
「なん、……で……」
階段から落ちたわたしを助けるために、ひどい大怪我を負ったのに、どうしてわたしの身を案じるの? どうしてそんなに優しいの?
兄様が優しければ優しいほど、胸が締め付けられる。辛くなる。今すぐ兄様から離れて、兄様に見つからない場所に行かないと、って思ってしまう。
「痛ぅ……ッ」
「兄様!」
兄様の体が傾く。膝をつくことはなかったけれど、本当は立ってるのも辛いんじゃ……? 頭からの出血に上半身を中心とした打撲。れっきとした重症患者だ。安静にしてもらわないと困る。
わたしは肩を貸して、部屋に連れて行った。
喫茶店の従業員が休憩室として使うスペース。小さなソファを二つ並べて、簡易的なベッドとして利用している。兄様をそこに座らせる。……えと、きっと喉とか乾いてるよね。
離れようとすると、兄様に腕を掴まれた。
「水を持ってくるだけですよ……」
兄様は腕を放してくれなかった。
わたしがまた遠くへ逃げる思われているのだろう。
そう思われても、仕方ない。
家を出る最後の日に、睡眠薬を飲ませて、わたしを抱きしめて眠っていた兄様の腕から抜け出した。何も言わず、荷物をまとめて家から飛び出した。
それから約2年近く、シスヴェルさんのもとでひっそりと働いていた。
「あの、兄様……」
「どうして家を出た?」
「…………」
「傍を離れるのは許さないって言ったよね」
わたしが突然いなくなったことへの怒りや、悲しみや、恐怖。色んな感情がごちゃ混ぜになった声が、狭い部屋にこだました。
兄様に掴まれた腕が痛い。
わたしの心もズキズキと痛かった。
きっと体を動かすだけで兄様も痛いのだろう。痛みを押し殺した声で、兄様は続けた。
「ねえ、どうして分からないかな。君は俺のだって、どこにも行ってはいけないって、どうして分かってくれないのかな」
「兄様……」
「今度こそ首輪をつけようか。首輪をつけて、手枷をつけて、鎖につないで、部屋に閉じ込めないと分からないのかな」
「兄様……っ」
「次はどうしてほしい? もっと手酷く犯して、ぐちゃぐちゃにしてほしいの? よがり狂うくらい気持ちよくしたら離れないで傍にいてくれる?」
「話を聞いて、兄様っ!」
兄様が、そこでわたしを見た。
頬を伝う涙に気付いたのだろう、申し訳無さそうな顔をして、視線を逸した。
「言い過ぎた……ごめんね」
「どうして兄様が謝るんですかっ? 悪いのは全部わたしなのに、どうしてそうやっていつも、わたしを庇おうとするんですかっ?」
一度話し始めたら、止まらなくなった。
わたしは涙をポロポロと流しながら、話し続けた。
「昔からそうでした、いつも兄様に迷惑ばかりかけていました。勉強していても、遊んでいても、わたしに何かあれば責められるのはわたしじゃなくて兄様で、悪いのは全部わたしなのに、わたしのせいでいっつも兄様が辛い思いをするんです」
わたしが崖から落ちて怪我をしたとき、兄様は父から叱られていた。『妹一人満足に見られないのか、そんなので伯爵が務まると思うな』と。
次期伯爵としての勉強時間とわたしに勉強を教える時間を確保するために、睡眠時間も削っていた。
体の酷使で不眠症を患い、定期的に睡眠薬を飲んでいたことも、最近まで知らなかった。
「高熱を出して倒れたときも、わたしがわがまま言わなければ、公園に行きたいと言わなければ、兄様は苦しまずに済んだんです。今なんて、まさにそうじゃないですか……っ!」
一気にまくし立てたから、呼吸が荒い。
人生でこんなに大きな声を出したことなんてないだろう。それくらい感情的になっていた。
「わたしがキッカケで兄様が倒れた、頭を打った、死んでしまうかもってずっと不安でした。わたしの存在が兄様を傷付けるんです、兄様は優しいからわたしのためにずっと犠牲になり続けてるんです!」
「…………」
「うんざりなんです、兄様の足枷になりたくないんです! 幸せになってほしいのに、わたしが傍にいると兄様は不幸になるんです!! だから──」
兄様がわたしの唇を強引に塞いだ。
「や……っ」
胸板を叩いてもびくともしない。
立ち上がった兄様に腰を引き寄せられ、上から押し付けられるようにキスされて、逃げ場がない。
離れようとすると、より深く兄様の舌が入ってくる。わたしの舌先に絡みついて、荒々しく蹂躙していく。
唇が離れ、唾液が糸を引いた。
「怒るよ?」
「もう怒ってるじゃないですか!」
また唇を食まれる。
今度は優しいキスだった。
「んっ」
またこぼれてしまった涙は、兄様の唇でぬぐわれる。
兄様は口角を上げて、微笑っていた。
「言いたいこと、聞きたいことはいっぱいあるのだけど、まず第一に、俺はルディと一緒にいて不幸だと思ったことは一度たりともないよ」
「でも実際に辛い目に遭ってるじゃないですか。今日なんてわたしのせいで死にかけたんですよ……っ?」
泣いているせいで、声が掠れてくる。
兄様が真剣な眼差しで見つめてきた。
「ルディのせいで階段から落ちたんじゃない、自分の意思で飛び込んだだけ。それに、幸せか不幸せかを決めるのはルディじゃない、俺だよ」
どうして、そんなに強いんだろう。
わたしと兄様じゃ、釣り合わなさすぎる。
隣に並ぶことなんて出来ない。
視線を下げたわたしの頭を、兄様が撫でようとする。でも途中で、顔を歪ませて肩をさすった。打撲が酷いのは肩だ。きっと腕を上げようとして激痛が走ったに違いない。
「早く横になってください……。頭を打って、血が出たんですよ。わたしはお水を取ってきますから、大人しくしていてください」
兄様はソファに座ったけれど、腕を放してくれない。
「もう一つだけ、聞きたいことがある」
言いたいこと、思っている事は、ほとんど言った。
「ルディが家を出た理由が、俺が不幸になるっていう話を信じたっていうのは分かった。でも、もう一つ……分からないことがある。あのとき、俺の名前を呼んだ理由を、教えて」
「…………」
「呼んだよね。俺の名前」
家を出る前の晩に、わたしは兄様に抱かれた。
最後の思い出にするつもりだった。
今でも、鮮明に覚えている。
お気に入りのナイトワンピースとナイトガウンを着て、兄様に脱がしてもらって。
優しい声で名前を呼ばれると、下腹部が切なく疼いた。
骨ばった指がわたしの肌を滑るたびに、とても身体が熱くなった。
滅多に目にすることの出来ない兄様の荒い息遣いと、頭を撫でてくれた大きな手がわたしの敏感なところを触れるたびに、奥からとろりとした蜜が湧いた。ぐずぐすに蕩けてしまったわたしを、兄様は「可愛い」と言ってくれた。
そのときに名前を呼んだ。
「どうして、名前を呼んでくれたのかな」
レザニード兄様の顔を見つめる。
やっぱりあの時と変わらなくて、本当にかっこいい、惚れ惚れするような綺麗な顔をしている。ううん、かっこいいだけじゃない。凛々しくて、気品があって、頭がよくて、運動神経もよくて、気配りも出来て、とんでもなく優しくて、素敵な、わたしの王子様。
口を開ける。
でも言葉が出てこない。
きゅっと唇を引き結ぶと、痺れを切らしたのか、兄様が口を開く。
「俺のこと、憎い?」
首を振る。
憎いなんて思ったことない。
「怖い?」
首を振る。
怖い兄様がいるのは知っている。
でも、それ以上に兄様は優しい人だ。
「嫌い?」
首を振る。
嫌いになったことなんてない。
「じゃあ──」
座ったままの兄様に、腰を抱き寄せられる。わたしは身を任せた。傷ついた体に触れないように気を付けて、兄様に近付く。
“王子様”の顔を、もっと近くで見たかった。
「──好き、かい?」
ゆっくり、頷いた。
「それは兄として、かな」
首を振って、兄様の目を真っすぐ見つめ返した。
たっぷりと時間を使ってから、一つ一つ、丁寧に言葉を紡ぐ。
「……わたしの初恋の人は、レザニード兄様です。いまわたしの心を掴んで離さないのも、レザニード兄様です。ずっと……8歳の頃から兄様のことが好きでした」
「名前で、呼んだのは……」
「呼びたくなったから、です……。大好きな人の名前を、呼びたくなっただけです……」
兄様が、目を見開いて驚いている。
薄く口を開けているけれど、言葉にならないようで、息の漏れる音しか聞こえない。
レザニード兄様の、レアなシーンだと思った。
「エーベルト君は……」
「彼には申し訳ないことをしたと思っています。兄様を忘れるために、彼を好きになりました。……でも結局、ダメだったんです。……頭から、兄様のことが離れませんでした」
寮生活の貴族学校に在学中、わたしの頭の片隅には、つねに兄様がいた。
「兄様がわたしを欲しいと思うようになったのも、わたしが原因です……。……わたしが、むかし兄様を欲しいと思ったから」
8歳の頃だ。
当時14歳だった兄様は、どんどんかっこよく、素敵な男の子になっていて、どこへ出かけても人に囲まれるくらい人気者だった。
兄様は常に笑顔を絶やさない優しい王子様だったから、わたし以外の人に微笑みかけているのがすごく嫌だった。幼いながら嫉妬した。兄様はわたしの兄様なのに、って思っていた。
願った。
兄様が欲しい、独り占めしたいと。
でもすぐにそんな考えは捨てた。
兄様に迷惑がかかる。
兄離れしようと。
「だから君への感情はまやかしだと言いたいのかい?」
「……はい」
いきなり体をソファに押し倒された。
真上にある兄様の顔は、本気で怒っているように見えた。
「ねえ、今すぐここで犯されたい?」
「えっ……?」
「どうしてルディは、他人の感情を歪ませる事ができると思っているのかな。自分は穢れてるから俺に邪な魔法か何かでも、かけてしまったと思ってるのかい? 元に戻るには俺から離れないとダメだって?」
「そ、そうです……それが事実、ですから」
心底不愉快そうに眉をひそめている兄様。
「これは前も言ったのだけど、ルディが穢れてるなんて絶対にありえない」
「で、でも、そうじゃなかったら、兄様がわたしを欲しがる理由が──」
「愛してるからだよ」
「え……」
とても、強い言葉だった。
兄様から、目が離せなくなる。
狂おしい感情を秘めた紫紺の瞳に、吸い寄せられる。
「本気で、ルディが好きで愛してる。愛してるから、誰にも取られたくない。俺以外の男を視界に入れてほしくない。可愛いルディを汚い男どもに見せたくない。ずっと傍に置いておきたい。だから欲しい」
わたしがずっと欲しかった言葉を、真剣な声で兄様が言ってくれた。
監禁されて、媚薬を飲んで、兄様が好きだよと伝えてくれたあのときのように。
ううん。
あの時以上に、わたしの心に響いた。
「これじゃあ不満?」
「全然、不満じゃないです……」
顔がとても赤くなってる気がして、兄様の顔を見られなくなる。
「俺を見て」
「…………は、い」
真剣な兄様を見つめる。
「俺はルディが欲しい。ずっと傍にいてほしい。君がいない2年間は、家がとても暗くて、寒かった。何もかもどうでもよくなった。
だから、俺のものになって」
まるで甘い毒のように、兄様の言葉が身体に沁み込んで、溶け込んでいく。
逃げられない。
ううん。
わたしはもう逃げない。
自分の気持ちに嘘をつくのも、兄様の気持ちをないがしろにするのも、やめる。
「わたしをあなたのものにしてください」
兄様がまた、目を見開いている。
そのあとすぐに、わたしの肩に顔をうずめてきた。
「やっと、ルディが笑ってくれた………」
何にも動じない完璧な人だと思っていたわたしの“王子様”は、わたしを目の前にすると、怒ったり怖くなったり、涙もろくなったりするらしい。
わたしが窓の外を見るころには、あれだけ降り続いていた土砂降りの雨が、いつの間にかやんでいた。
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