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揺れ動く心

18 婚約破棄・後編

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「不思議そうな顔をしているねルディ。気になるかい?」
「……はい」
「俺はあの人が世に出せないような経歴を知っているからね。伯爵を継いだ今となっては、ちょっと揺すれば簡単にサインしてくれたよ」
「父様は、いったい何をしたのですか……?」
「自分より二十も若い娘に手を出して妊娠させたんだよ、あの人は。
 謝罪も何もなし。職場で醜聞になるのを恐れて、俺に揉み消しを依頼してきた。一番腹が立ったのは、妊娠させたのがルディの10歳の誕生日だったってことかな」

 父様が女性を妊娠させた?
 いつもいつも仕事で忙しくて、わたしの誕生日ですら、家に帰ってこなかったのに?

 監禁部屋から帰ってきたとき、あれだけ怒りを露わにして、レザニード兄様に『兄妹間の痴情なんて醜聞だ!』と殴りかかっていたのに?

 呆然としてしまう。
 怒りとか悲しみとか、何も湧いてこなかった。

「ここから先は言わないよ。これ以上あの人の汚い部分を、ルディに知ってほしくないからね。それにもういらないから、

 追い出した。
 ここまで来たらもう驚かない。
 兄様の手腕は知っている。
 本当に追放したのだろう。

「父は今どこにいるのですか?」
「さあ。俺は野垂れ死んでくれても構わないけれど、どれだけ嫌いでも、ルディの目の前で死なれるのは後味が悪いからね。俺が稼いできた手切れ金を渡したから、親戚の家に行ったか、隣国にでも渡ったんじゃないかな」
「……母様、は?」
「あぁ、そっちは実家に帰ってもらったよ。旦那がしでかした件が真っ黒すぎるからね。心の静養という意味もあるんじゃないかな」

 ということは、いまオルソーニ家には、レザニード兄様とわたしと家政婦のミレッタさんしかいない。

「雇ったのは俺じゃないから、ミレッタさんもついて行かせたよ」
「え……っ?」

 だんだん、兄様がなにをしようとしているのか分かってきた。
 
 邪魔者を排除し、二人きりになることで、オルソーニ邸宅を、としているのだ。

「ウソですよね……。兄様っ!」
「ウソじゃないよ」

 兄様のにっこりとした笑顔が、本当に怖い。
 恐怖のあまり、身体が動かなかった。

「オルソーニ家の細やかな事情については、僕がとやかく言えることではありませんので、ひとまずおいておきます」

 エーベルト様の怒声だった。
 声が怒りで震えている。

「ですが、僕とルディの婚約解消については断固として拒否させていただきます。そもそも何を理由にそんな話になったのですか」
「君は自分が何をしたのか覚えてないのかい?」
「ええ、全く。皆目検討もつきませんね」
「結婚前にも関わらずルディの純潔を奪い、他の女性とキスしたのにかい? 大きな噂になり始めてるけれどね」
「っ!」

 エーベルト様の顔が赤く染まる。
 それは恋心を抑えられなかったヘスティナ様の問題で、エーベルト様に責任はないはずだ。

 でも、第三者から見れば「ああそうだったのか」と終わる話ではないのだろう。しかもキスされたのは、公衆の面前だ。エーベルト様とヘスティナ様の逢瀬を見て、二人の関係を面白半分に吹聴した者もいるかもしれない。

「俺としては、ルディの醜聞につながる要素は排除させていただく」

 たぶんだけど、それはコジ付けだ。
 兄様はわたしを奪われたくないから、最初からエーベルト様との婚約解消を目論んでいたはずだ。そこに降って湧いてきたのが、ヘスティナ様とキスしたという話であって、わたしの醜聞がどうのという話は問題ではない。

「やめて、兄様……っ!!」
「心配しなくても大丈夫だよ」
「そうじゃないんです! いま、兄様は自分が何をしているのか分かってるんですかっ? そんなことされても、わたしはちっとも嬉しくない!!」

 せっかく。

 せっかく兄様が元の優しい兄様に戻りかけていたのに……。

 どうしてこうなっちゃったの……?
 
「…………」

 兄様はわたしを見て、困ったような表情を浮かべた。
 一歩、近付いてくる。
 わたしは思わず、一歩下がった。

「君が欲しいからだよ、ルディ」

 兄様が、わたしの頬に手を添えて。
 唇に噛みついてきた。

「んんっ!!」

 兄様の赤い舌がわたしの唇を舐める。
 胸板を叩くと、意外にもあっさり離れてくれた。
 
 でも、エーベルト様に見られてしまった。
 エーベルト様は、わたしを見ないようにしていた。耳がとても赤い。


 やだ。こんなのやだっ!

 エーベルト様を悲しませたくない。


 涙が溢れてくる。拭っても拭っても、全然涙がとまらない。
 
「ルディ……?」

 レザニード兄様が小さく呟く。紫の瞳が揺れていて、戸惑っているのが伝わってきた。

「ルディ!」

 エーベルト様が呼んでいる。
 わたしはフラフラ歩き始めた。

 兄様は、わたしを止めなかった。

「言ってくれ。僕はルディのためなら、何でも出来る。だからここで言ってくれ。ルディが選んだのは僕だと、助けてくれと。そしたら僕は、あの頭のおかしい兄貴からルディを救いだすからッ!!」

 エーベルト様とレザニード兄様が立っている場所の、ちょうど真ん中で立ち止まる。
 わたしは、エーベルト様を見つめた。

 そして、ゆっくり首を振る。

「ありがとう。エーベルト様」
「じゃあ──」
「ダメなの。それじゃ、エーベルト様に迷惑がかかるから」

 兄様の執念は恐ろしい。
 もし、エーベルト様がわたしを助けようとすれば、もっと恐ろしい未来が待っているかもしれない。
 

 もしかしたら兄様が、エーベルト様を……。


 そんな未来、最初はありえないと思っていた。
 わたしが兄様から離れて、エーベルト様と結婚すれば、兄様は元に戻ると思っていた。
 でも違う。
 今日、兄様がやってきたことを見れば、兄様は本当に、どんな手段を使ってもわたしを取り戻そうとする。

 わたしはエーベルト様に辛い目に遭ってほしくない。

「こんなわたしを好きになってくれて、本当にありがとう。エーベルト様」
「ルディ、まさかおまえ……!」
「わたし──ルディカサブランカ・ルドルフ・オルソーニは、エーベルト・マックス様に婚約破棄を申し付けます」

 悲しそうに眉間にしわをよせ、拳を握り締め、奥歯を噛みしめているエーベルト様。
 本当に、ごめんね。
 優しいエーベルト様。
 エーベルト様なら、きっとわたし以上に綺麗で可愛くて優しい女性と出会えるよ。

 わたしは、エーベルト様の幸せを願ってる。
 

 エーベルト様。
 わたしの──二回目の初恋の人。


「せめてこれだけ言わせてくれ」

 エーベルト様は駆け寄ってきて、わたしの肩を掴んだ。
 赤い瞳が、真摯に見つめてくる。

「僕は何番目でもいい。ルディの初恋が僕じゃなくても、僕にとってルディは初恋の人で、好きで、大好きで、愛している。この気持ちは絶対に変わらない。辛くなって、助けてほしいと思ったら、僕に言ってくれ!」

 エーベルト様が、わたしを強く抱きしめる。また涙が出てくる。エーベルト様は、わたしみたいな女じゃもったいないくらいに、本当に優しくて、情熱的で、とってもイイ人だ。

 エーベルト様と見つめ合う。
 唇が重なった。

「ん……っ!!」

 でも、すぐに離れる。
 兄様に見られているからだ。
 きっと、兄様は冷たい目をしていて────
 
「え…………?」

 思わず、目を見開く。
 兄様は、全然冷たい顔をしていない。
 それどころか。


「…………やっぱり、俺じゃ勝てないな」


 何かを諦めたように。
 レザニード兄様は、とても……寂しそうに微笑んでいた。

 
「ルディ」
「はい、兄様」
「帰ろう」
「はい」

 兄様が、わたしの手を握って引っ張った。
 わたしも兄様の手を握り返す。











 自宅に戻るまで、わたしと兄様は終始無言だった。

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