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揺れ動く心

過去回想 わたしの大好きなレザニード兄様

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 わたしがまだ、エーベルト様と出会う前の話──

 学校が長期休みに入って、わたしは伯爵家に戻ってきていた。あいもかわらず両親は仕事で忙しく、家の中はがらんとしている。静か……そう、とても静かだった。

 買い出しに行っているのか、家政婦のミレッタさんもいない。

 レザニード兄様も……いない。きっと婚約者のリリーさんと一緒に出掛けているんだろう。伯爵邸の玄関を開けたら、にこりと笑う兄様に出迎えてもらえる。少しだけ期待していた。「おかえり」と、一言そう言ってくれるだけでいい。それだけで、充分わたしは満たされる。

 …………勉強、しようかな。

 一人で勉強するときは、いつも居間に行く。自室は……寂しい。けれど居間なら、あそこなら色んな思い出がある。ミレッタさんに話しかけられたり、両親から誕生日プレゼントを貰ったり、兄様に勉強を教えてもらった場所だから、そこなら一人でもあんまり寂しくない……気がした。

 机の上に羽ペンと教科書を取り出す。きょうの勉強内容は歴史だ。王国史。どこそこのだれそれが、こんな偉大なことをしました……なんて。勉強は苦手だ。頭が良くないから、覚えても覚えてもすぐに忘れてしまう。

「あ、この人って……」
 
 なんとなく読み始めた歴史の教科書に、ハルヴィザという名前を見つけた。昔の有名な王子様の名前で、何かの改革に携わった人。どうしてわたしがこの人の名前を知っているかというと、彼をモデルに作られた絵本を読んでいたからだ。

 何でも彼は、顔がめちゃくちゃ整っていて、王子様なのに平民の女の子と恋をしてしまった、という逸話があった。

 史実では、ハルヴィザと平民の女の子は結ばれない。どういう経緯かは分からないけれど、きっと政略結婚だとか、そんな理由だと思う。実際、彼と結婚したのはどこぞの王女様だ。でも、彼をモデルにした絵本は史実とは違う。

 話の内容はこうだ。
 王子様と平凡な女の子が、身分違いの恋をする。王子様はとても熱心に女の子を口説いていたんだけど、女の子のほうが気後れしちゃって、相思相愛なのに付き合わない。

 最後は崖から落ちた女の子を助けるために、王子様が女の子を庇って、一緒に落ちちゃって、王子様が大けがを負う。……そのあと、女の子が王子様の看病をして、自分の気持ちを伝えて、二人は結ばれてハッピーエンド。

 絵本だから、都合がいいな、とは思う。
 でもそれくらいの都合の良さが、わたしは好きだった。

「確かあの本は……」

 本を保管している物置きに移動する。歴史の勉強? ひとまず放置だ。
 物置きは、古くなった絨毯や使わなくなった食器類をまとめて保管している場所。掃除なんて年に一回しかやらないので、埃がすごい。ちょっとむせた。口もとと手で覆いながら、灯りを点けて、部屋の奥へ進む。

「えぇっと…………父様が古い本をまとめてこの辺りに移動しちゃったから」

 木箱を開けたりしてみたけど、なかなか目当ての本が見つからない。
 諦めようかな。
 はぁと息を吐いて、なにげなく本棚を見上げる。
 一番上の棚に、見覚えのある背表紙が見えた。

 ……あった。

 つま先立ちして、手を伸ばす。ギリギリ、手が届かない。あとちょっと……あ、いま背表紙に触れた。あともうちょい!

「わっ!?」

 急に腰ごと体をぐいっと持ち上げられて、とってもびっくりした。
 後ろを振り返ると、クスクス笑うレザニード兄様の姿がある。外用の恰好をしているから、きっと家に帰ってきたばかりだろう。

 ……兄様を見るのは久しぶりだ。やっぱり兄様はかっこよくて、ドキリとする。あとなんか、いい匂いがした。香水じゃないと思うけど、何を食べたらこんないい匂いがするようになるんだろう。

「ほら。こうすればルディでも取れるよね」
「た、確かに取れますけどっ!」

 わたしの骨盤部分を兄様が掴んで持ち上げている状態。触れられている部分を中心に、もぞもぞとした感覚が走る。平静を装って本を取ると、すぐに兄様が下ろしてくれた。

「おかえりルディ。いつ自宅こっちに戻っていたんだい?」
「ただいまです。ついさっき帰ってきました……」
「時間を言ってくれれば学校まで迎えに行ったのにね」
「兄様が学校に来たらまずいと思います」
「どうして?」
「王子様が来たってみんな騒ぐと思います……」

 兄様は、誰がどう見たってとびっきりの美青年だ。
 髪はブロンド、瞳は複雑な色を散りばめたアメジストで、かたちのよい唇は柔らかそうで、声は聞いているだけで安心するくらい耳心地がよくて、ほんのり甘い。

 兄様は見た目から、よく“王子様”と呼ばれる。

 わたしにとっても、兄様は王子様だ。

 凛々しくて、かっこよくて、優しくて、素敵な、大人の男性。

「なるほどね」

 紫紺の瞳を細めて、レザニード兄様がわたしに微笑みかける。
 
「別に俺は気にしないけど?」
「わたしが気にします! 絶対に休み明けになったらクラス中の人から話しかけられて囲まれます!」

 あの人は誰!? という感じで、もしかしからクラス中どころか学年を超えて質問攻めに遭いそうな気がする。それくらい兄様の容姿は注目を集めるし、とってもモテるのだ。

「ああそう、それは確かにダメだね。女の子ならいいけど、男はダメ」
「またそういうこと言って…………」
「で、その本は? ずいぶん古そうだね」

 兄様が、わたしが持っている本を興味深そうに覗き込んできた。
 距離が急に縮まってドキッとしたけれど、顔には出ていない……と思う。

「昔読んでた恋愛物の絵本です」
「絵本にしてはずいぶん分厚いと思ったけど、なんだ……恋愛物か」
「兄様は興味ないと思いますよ」
「恋愛物に興味ないけど、妹がどんな内容の恋愛物を好んで読んでいるのかは気になるね」
「王子様と平民の女の子が恋に落ちて、苦難を乗り越えて少しずつ距離を縮めていく話です」
「身分違い、か。ありがちだね」
「確かにありがちですけど、こういうのが女の子心をくすぐるんです」

 兄様はわたしから本を取って、ぱらぱらとページをめくっていく。

「この王子様、ずいぶん強気だね。すっごいグイグイいってる。
 へえ、ルディはこういう男が好みなんだ」
「そ、そ、そういうわけじゃ……っ!」

 なぜか嬉しそうなレザニード兄様。
 兄様はそのまま本を読みながら、歩き出してしまう。

 慌てて追いかけた。

「あ、もうキスしてる。手を出すのが早いね」
「なんでそんなシーンを!?」
「ほぅ……『あなたのその可愛らしい顔を見ていたら、私の胸が高鳴ってしまいました。無礼をお許しください、私の愛しいひと』……か」
「読み上げないでください!!」

 ただでさえ絵本に登場する王子様と兄様の特徴が一緒なのに、朗読されたらわたしがどうにかなってしまいそうだ。すでに顔が赤い気がする。兄様が本を読んでいてくれて良かった。こんな顔、絶対に見られたくない。

「やたら好きだの愛してるだの言ってるね、この王子様。『好き』とか『愛してる』とか、こんな歯の浮くようなセリフとか、俺だったら恥ずかしくて言えないね。あ、このセリフまだ続いてるな」
「もう言わなくていいです!」

 兄様が声に出してクスクス笑う。
 わたしに本を差し出してきた。

「この物語はハッピーエンドなんだね。それは良かったよ」

 兄様から、本を受け取る。

 わたしの指と兄様の骨ばった指が触れ合った途端、兄様が瞬時に手を引っ込めた。……あれ、なんか失礼な事したかな? 驚いて兄様の顔を見るけど、もう兄様は顔を背けていて、どんな表情をしていたのか分からなかった。
 
 ちょっぴり、兄様に拒絶されたみたいで気分が落ち込む。

「あまりものでよければ食事を作るよ。ミレッタさんもいないしね」
「あ、じゃあわたしも手伝います」
「一緒に作ろうか。いつもみたいに」

 兄様と一緒に、兄様の隣で、昼食を作った。

 なんてことない日常。

 わたしは兄様のことが好きだ。

 でも兄様は、リリーさんという素敵な女性と婚約して、両想いの状態だ。
 わたしもそのうち、誰かと出会って、付き合って、婚約して、その人のお嫁さんになるだろう。

 いいんだ。
 それでいい。
 わたしは兄離れすると決めている。

 そもそもこの気持ちは、歓迎されない。兄様だって困惑するだろうし、誰にも理解してもらえないだろう。


「ちゃんと手を洗ったかい?」
「いつまで子ども扱いなんですか?」
「ルディはいつまでも可愛い妹だからね」


 ──でも、やっぱり……ちょっとだけでもいいから。


 兄様がわたしを可愛い『妹』だと言ってくれて、隣で微笑みかけてくれる今だけでもいいから。

 わたしは、大好きなレザニード兄様の隣を独占したい。

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