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◆番外編:エリーナ(転生前)とコーネリアスの話
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(しまった。道が……)
私は王都の騎士団に出向から正式に所属異動することになり、王都に居住地を移したばかりだった。
会議の場から演習場に移動している途中で脱水で倒れている使用人を見つけ、対応している間に自分のいる場所が分からなくなった。
王都の城は父の領地と比べ物にならないほど広い。騎士団管理下の建物については正式に王都に来る前にも何度も立ち寄ったことがあり詳しいが、それ以外の区域に出てしまうと道がさっぱり分からなかった。
大勢いた文官や使用人がまばらになっていき、自分がさらに道を間違えていることを実感する。
(まずい、戻り方が分からない……)
どこを見ても似たような作りをしていて、先ほどまで自分がいた方向も不明だ。もはや埒が明かない。仕方がないので一緒に移動していた同僚の魔力を探知させてもらって追いかけようと決めたところで、何かに足が引っかかった。
「?!」
「いった……!」
自分が引っかかったものを見ると、人の足だった。その上ドレスを着た女性のものだ。
(王都の女性は体力がなさすぎるんじゃないか?!そう同じ日に何人も倒れるものか?)
慌ててその足の持ち主に駆け寄り声をかける。
「申し訳ございません。お怪我はありませんか?」
気だるげに身体を起こしたのは小柄な女性だった。杏色の長い髪に見覚えがある。確か第二王女のエリーナ様のはずだ。
顔つきはまだ子どもに見えるのに、大きく開いた胸元に情事を思わせる赤い鬱血痕が残っているのを見てぎょっとしてしまう。
「最悪……。ねぇ、貴方上手い?」
「は……?」
菫色の丸い瞳が私を見つめていた。エリーナ殿下は、何のことを問われているか分からず口を開けたまま返事ができない私のことを馬鹿にしたように笑った。
「さっきの男、小さいし早すぎて全然物足りなくて……」
エリーナ王女の手が私の手に触れた。少しずつ彼女の言葉の意味を理解し、彼女についての噂も思い出した。驚きのあまりつい手を振り払ってしまった。
「あ……殿下、私は、その……」
「何その反応?もしかして経験がないの?」
「いえ……」
「じゃあ経験があるのに下手なの?顔が綺麗なのにもったいないね」
こんな子どもの口からそのような言葉が出てくることに悲しい気持ちになった。いくら王女だろうと、近くで諫言する人間がいないものだろうか。
エリーナ王女は私の顔をじっと見つめてから、何か思いついたように口角をあげた。
「決めた。どうしたら女の人が喜ぶか私が教えてあげるわ。おいで」
先程軽く触れただけだった手が、私の指に絡んだ。私は丁寧にその指を外し、殿下のスカートの上に小さな手を戻した。
「どうか御身を軽く扱うことはおやめください。御御足の加減はいかがですか?お部屋までお送りいたします」
「何が?私のお部屋でしたいの?いいよ」
全く話が通じないことに眩暈がしそうになった。
「私は勤務中です」
「みんないつも勤務中だよ。勤務中じゃないとお城にいないじゃない」
今までこの王女に誘われ、断れずにいた兵士が複数いたことに頭痛を感じる。
(王都の騎士団の風紀はどうなってるんだ。信じ難い)
「私は彼らとは違います。王女殿下、お部屋までお送りいたしますので……」
エリーナ王女の顔から、表情が抜け落ちていた。
「ねぇ、さっきからなんで断れると思ってるの?私のこと知らない?王女様だよ。貴方の名前と所属を教えて。気に入らないから首にしちゃおっと」
(何……?王女殿下にそんな権限があるわけが……)
「できないと思ってるんでしょ?できるよ。私お母様にそっくりだから、お父様は逆らえないの。一番愛されてるんだよ」
エリーナ王女はにっこりと笑った。たった今人の人生を左右するような発言をしたとは思えないほど無害に見える。
殿下は冗談を言っているように聞こえなかった。せっかく父の領地を離れて王都に来たのに、この王女の気まぐれで全てがなかったことになるのかと思うと絶望する。
エリーナ王女は愛らしく笑って、私の頬に触れた。
「怯えてる?ふふ、可愛いね。私やっぱり貴方の顔は好き。いまから部屋に来てくれるなら許してあげる」
「……」
「ねぇ、どうする?他の人と同じになっちゃうね」
殿下は楽しそうに笑った。私の反応を試すように見つめている。
(この人は、私の尊厳を傷つける事を楽しんでいるのか……?なぜそんなことをするんだ)
幼い王女が自分の身体を大切にする方法も、他人を傷付けることの意味も、何も知らないままこの場所に一人で放置されていることが心苦しい。
(貴女の間違いを指摘もせず放置していることを、愛とは呼びませんよ)
国王がこの王女の行動をどこまで知っているかは分からない。側近がもみ消していれば、多忙な主人の耳に真実は入ってこないものだ。
私はエリーナ王女の手を引き、その身体を持ち上げて横抱きにした。
「きゃっ……!」
王女は可愛らしい悲鳴をあげると、私の首に腕を回した。私は自分と王女に認識阻害魔法をかけた。
「お部屋の場所をお教えいただけますか?」
「ふふ、いいよ。あっち」
エリーナ殿下は、人差し指で建物の入り口を指差した。楽しそうに笑っている。
「このままお部屋までお送りしますが、私は成熟した女性にしか反応しませんので残念ながらお相手はできません。次は右ですか、左ですか?」
「は?はは……っ、ふふ……!そこは右」
絨毯の上を歩いていく。エリーナ殿下は腹を押さえて笑っていた。
「私のことを子どもって言う男は、みんな自分が赤ちゃんみたいになっちゃうんだよね。貴方もそういうタイプなんだ?真面目そうだもんね、甘えられるママが欲しいの?おっぱい吸っていいよ。あー、面白い。ねぇ、早く早く、楽しみになってきた!」
先程まで心配や同情が大きく占めていた心に、苛立ちが湧き上がってきた。
(廊下に落としてやろうかこの……いや、だめだ、この高さから落としたら怪我をさせてしまうかもしれない)
私はエリーナ殿下に言われるまま廊下を進み、部屋に入った。寝台まで連れて行けと言われる言葉に従いそこへと運び、放り投げたい気持ちを抑えて丁寧に横たえる。エリーナ王女の寝台は、大量の枕とクッションで覆われて、眠るスペースがほとんどない。
(よし、これで魔法で眠らせてしまおう)
エリーナ殿下の顔の前で指を鳴らそうとしたら、その手を抑えられた。殿下は私の首元に手を添えるとそのまま唇を重ねた。
「……!」
遠慮なく、小さな舌が唇を割って入ってくる。物理的な刺激に快感を拾いそうになって、慌てて身体を引き剥がして先程しそびれた気絶する魔法をかけた。
(なんて人だ)
発言から大勢の男性を相手にしていたことは分かっていたが、明らかに慣れた動きの素早さに反応しきれなかった。自分が油断していたことに動揺して、心臓が激しく脈打っている。
王女の眠っている顔は幼く、やはり子どもにしか見えない。
寝具を持ち上げてエリーナ殿下の身体を覆う。胸元に残っている鬱血痕は、治癒魔法を施すとすぐに消えた。
(侍女も使用人もいない……いったいどうなってるんだ)
部屋を見渡すと完全に無人だ。一応部屋の前には衛兵がいたが、エリーナ王女を横抱きにして部屋に入る私に対して、身分の確認もせず咎めようともしなかった。
「……疲れた」
ため息が出た。
殿下の顔にかかった髪を耳元に流し、念のため全身の魔力の状態を確認する。私の足が引っかかってしまったところは特に怪我はしていないようだった。
彼女自身のものとは別の、見知らぬ人間の魔力を微量に感じて、そのおぞましさに不快感が湧き上がる。魔法師ということは騎士団の所属だろう。
(彼女に誘われたのを言い訳にして、この人に罪を負わせる気なのか……?こんな子ども、どうとでも誤魔化せるだろ。ふざけるな)
最後にもう一度殿下の顔色を確認して、部屋を後にした。
(演習、もうはじまってるな……なんて言えば……)
道に迷ったことも王女の相手も、大切な演習に遅れたことを正当化することはできない。
(これから挽回するしかない)
過ぎたことを心配しても仕方がない、と気持ちを切り替えて廊下を走った。
*
十数年ぶりに訪れた故郷の領地で咲く薄桃色の花は、記憶にあるよりも陳腐だった。最後に見たのが子どもの頃で自分の身体が小さかったからかもしれない。当時は世界が一面花で覆われているように見えたし、風で花びらが散る様子は本当に幻想的だと思っていた。
(こんなつまらないところに殿下を連れてきたら、ものすごく怒られていただろうな……いや、そもそも、こんな遠くまで来ることに同意してくれるはずがないか)
子どもだと思っていた王女はいつの間にか美しい女性になっていた。最初に一線を超えたのは、ずっと別の人間をとっかえひっかえしていた彼女が他の男の魔力を色濃く残していることに気付いて耐えられなくなったからだ。
上書きしたいというつまらない欲が抑えられなかった。いつもベッドサイドに座って会話をしていただけの私が唇を重ねた時、エリーナ様はもう同じことを何百回も繰り返してきたように、ごく自然に応えた。
唇が離れると、『やっとその気になったんだ?18歳以上が対象なの?意味分かんない線引きしてて笑える』と嬉しそうに笑った。年齢ではなくてエリーナ殿下自身が理由なのだとは言えず、敗北感と愛しさが溢れて情緒を乱されたのを覚えている。
他に彼女を保護してくれる大人がそばにいなかったから、という理由で関わりを持つようになったのに、いつの間にか私はその他大勢と同じように彼女を一人の女性として見るようになってしまった。心から愛していたけれど、正式な手順も踏まずに一線を越えた時点で自分が他の人間と何も変わらないという自覚はあった。
いつから自分の気持ちが変わったのか覚えていない。
呼ばれて部屋を訪れたら他の男と寝ていたこともあるし、理由も教えてもらえず平手打ちされたこともある。贈り物を気に入らないと言って投げ返されたり、ひたすら罵られたこともある。数日に収まらない期間無視され続けて、その後何事もなかったように部屋に引っ張られたこともある。エリーナ様がいつどのタイミングでどんな感情を向けてくるのか全く読めなくて、全部彼女の気分次第だった。
思い返すと本当にひどい扱いを受けていたのだが、それでも彼女のことを愛おしいと思う気持ちは変わらなかった。私にここまで激しく感情をぶつけてくれる人はいなかったし、彼女の攻撃的なところは、自分を見て欲しいという叫びのように感じて、目が逸らせなくなった。
(私は殿下のように、叫べなかったな)
両親や、兄弟や、私を取り囲んできた周りの人間に伝えたいことがあっても、なにも行動できなかった。大切に愛されている自覚はあったから彼らの望む姿以外の振る舞いをするのが怖くて、その状況から逃げたくて故郷を出てしまった。
「エリーナ様」
本人の前ではもう名前を呼べない。
(殿下は不機嫌になるだろうけど、私にとっては貴女が隣にいたら、きっと一生忘れない景色になったでしょうね)
『それ喜ぶと思って言ってるの?貴方ってほんとつまんない』と文句を言う姿が心に浮かんだ。喜ばせたいのではなくて、ただの事実だ。
(そういえば、エリーナ様は、私の名前を知っていたんだな……)
今まで一度も呼ばれたことがなくて、はじめて呼ばれたのが記憶を失ったと聞いた後のことだ。あれだけ人格が変わっていては、記憶喪失というよりはもはや別人が乗り移ったと言われる方が信じられるけれど、魔力の流れは間違いなく正常で、あの方はエリーナ様本人のはずだ。
優しく控えめに話す姿より、私が覚えていたいのは、気難しく、幼い殿下だ。癇癪を起こして泣き叫ぶ姿と、悪戯を思いついたように楽しげな表情が愛しかった。
ありえないことだが、例え今のエリーナ殿下が私を選んでくれたとしても、もう彼女の激しさは2度と見られないことに心が痛んだ。
私は王都の騎士団に出向から正式に所属異動することになり、王都に居住地を移したばかりだった。
会議の場から演習場に移動している途中で脱水で倒れている使用人を見つけ、対応している間に自分のいる場所が分からなくなった。
王都の城は父の領地と比べ物にならないほど広い。騎士団管理下の建物については正式に王都に来る前にも何度も立ち寄ったことがあり詳しいが、それ以外の区域に出てしまうと道がさっぱり分からなかった。
大勢いた文官や使用人がまばらになっていき、自分がさらに道を間違えていることを実感する。
(まずい、戻り方が分からない……)
どこを見ても似たような作りをしていて、先ほどまで自分がいた方向も不明だ。もはや埒が明かない。仕方がないので一緒に移動していた同僚の魔力を探知させてもらって追いかけようと決めたところで、何かに足が引っかかった。
「?!」
「いった……!」
自分が引っかかったものを見ると、人の足だった。その上ドレスを着た女性のものだ。
(王都の女性は体力がなさすぎるんじゃないか?!そう同じ日に何人も倒れるものか?)
慌ててその足の持ち主に駆け寄り声をかける。
「申し訳ございません。お怪我はありませんか?」
気だるげに身体を起こしたのは小柄な女性だった。杏色の長い髪に見覚えがある。確か第二王女のエリーナ様のはずだ。
顔つきはまだ子どもに見えるのに、大きく開いた胸元に情事を思わせる赤い鬱血痕が残っているのを見てぎょっとしてしまう。
「最悪……。ねぇ、貴方上手い?」
「は……?」
菫色の丸い瞳が私を見つめていた。エリーナ殿下は、何のことを問われているか分からず口を開けたまま返事ができない私のことを馬鹿にしたように笑った。
「さっきの男、小さいし早すぎて全然物足りなくて……」
エリーナ王女の手が私の手に触れた。少しずつ彼女の言葉の意味を理解し、彼女についての噂も思い出した。驚きのあまりつい手を振り払ってしまった。
「あ……殿下、私は、その……」
「何その反応?もしかして経験がないの?」
「いえ……」
「じゃあ経験があるのに下手なの?顔が綺麗なのにもったいないね」
こんな子どもの口からそのような言葉が出てくることに悲しい気持ちになった。いくら王女だろうと、近くで諫言する人間がいないものだろうか。
エリーナ王女は私の顔をじっと見つめてから、何か思いついたように口角をあげた。
「決めた。どうしたら女の人が喜ぶか私が教えてあげるわ。おいで」
先程軽く触れただけだった手が、私の指に絡んだ。私は丁寧にその指を外し、殿下のスカートの上に小さな手を戻した。
「どうか御身を軽く扱うことはおやめください。御御足の加減はいかがですか?お部屋までお送りいたします」
「何が?私のお部屋でしたいの?いいよ」
全く話が通じないことに眩暈がしそうになった。
「私は勤務中です」
「みんないつも勤務中だよ。勤務中じゃないとお城にいないじゃない」
今までこの王女に誘われ、断れずにいた兵士が複数いたことに頭痛を感じる。
(王都の騎士団の風紀はどうなってるんだ。信じ難い)
「私は彼らとは違います。王女殿下、お部屋までお送りいたしますので……」
エリーナ王女の顔から、表情が抜け落ちていた。
「ねぇ、さっきからなんで断れると思ってるの?私のこと知らない?王女様だよ。貴方の名前と所属を教えて。気に入らないから首にしちゃおっと」
(何……?王女殿下にそんな権限があるわけが……)
「できないと思ってるんでしょ?できるよ。私お母様にそっくりだから、お父様は逆らえないの。一番愛されてるんだよ」
エリーナ王女はにっこりと笑った。たった今人の人生を左右するような発言をしたとは思えないほど無害に見える。
殿下は冗談を言っているように聞こえなかった。せっかく父の領地を離れて王都に来たのに、この王女の気まぐれで全てがなかったことになるのかと思うと絶望する。
エリーナ王女は愛らしく笑って、私の頬に触れた。
「怯えてる?ふふ、可愛いね。私やっぱり貴方の顔は好き。いまから部屋に来てくれるなら許してあげる」
「……」
「ねぇ、どうする?他の人と同じになっちゃうね」
殿下は楽しそうに笑った。私の反応を試すように見つめている。
(この人は、私の尊厳を傷つける事を楽しんでいるのか……?なぜそんなことをするんだ)
幼い王女が自分の身体を大切にする方法も、他人を傷付けることの意味も、何も知らないままこの場所に一人で放置されていることが心苦しい。
(貴女の間違いを指摘もせず放置していることを、愛とは呼びませんよ)
国王がこの王女の行動をどこまで知っているかは分からない。側近がもみ消していれば、多忙な主人の耳に真実は入ってこないものだ。
私はエリーナ王女の手を引き、その身体を持ち上げて横抱きにした。
「きゃっ……!」
王女は可愛らしい悲鳴をあげると、私の首に腕を回した。私は自分と王女に認識阻害魔法をかけた。
「お部屋の場所をお教えいただけますか?」
「ふふ、いいよ。あっち」
エリーナ殿下は、人差し指で建物の入り口を指差した。楽しそうに笑っている。
「このままお部屋までお送りしますが、私は成熟した女性にしか反応しませんので残念ながらお相手はできません。次は右ですか、左ですか?」
「は?はは……っ、ふふ……!そこは右」
絨毯の上を歩いていく。エリーナ殿下は腹を押さえて笑っていた。
「私のことを子どもって言う男は、みんな自分が赤ちゃんみたいになっちゃうんだよね。貴方もそういうタイプなんだ?真面目そうだもんね、甘えられるママが欲しいの?おっぱい吸っていいよ。あー、面白い。ねぇ、早く早く、楽しみになってきた!」
先程まで心配や同情が大きく占めていた心に、苛立ちが湧き上がってきた。
(廊下に落としてやろうかこの……いや、だめだ、この高さから落としたら怪我をさせてしまうかもしれない)
私はエリーナ殿下に言われるまま廊下を進み、部屋に入った。寝台まで連れて行けと言われる言葉に従いそこへと運び、放り投げたい気持ちを抑えて丁寧に横たえる。エリーナ王女の寝台は、大量の枕とクッションで覆われて、眠るスペースがほとんどない。
(よし、これで魔法で眠らせてしまおう)
エリーナ殿下の顔の前で指を鳴らそうとしたら、その手を抑えられた。殿下は私の首元に手を添えるとそのまま唇を重ねた。
「……!」
遠慮なく、小さな舌が唇を割って入ってくる。物理的な刺激に快感を拾いそうになって、慌てて身体を引き剥がして先程しそびれた気絶する魔法をかけた。
(なんて人だ)
発言から大勢の男性を相手にしていたことは分かっていたが、明らかに慣れた動きの素早さに反応しきれなかった。自分が油断していたことに動揺して、心臓が激しく脈打っている。
王女の眠っている顔は幼く、やはり子どもにしか見えない。
寝具を持ち上げてエリーナ殿下の身体を覆う。胸元に残っている鬱血痕は、治癒魔法を施すとすぐに消えた。
(侍女も使用人もいない……いったいどうなってるんだ)
部屋を見渡すと完全に無人だ。一応部屋の前には衛兵がいたが、エリーナ王女を横抱きにして部屋に入る私に対して、身分の確認もせず咎めようともしなかった。
「……疲れた」
ため息が出た。
殿下の顔にかかった髪を耳元に流し、念のため全身の魔力の状態を確認する。私の足が引っかかってしまったところは特に怪我はしていないようだった。
彼女自身のものとは別の、見知らぬ人間の魔力を微量に感じて、そのおぞましさに不快感が湧き上がる。魔法師ということは騎士団の所属だろう。
(彼女に誘われたのを言い訳にして、この人に罪を負わせる気なのか……?こんな子ども、どうとでも誤魔化せるだろ。ふざけるな)
最後にもう一度殿下の顔色を確認して、部屋を後にした。
(演習、もうはじまってるな……なんて言えば……)
道に迷ったことも王女の相手も、大切な演習に遅れたことを正当化することはできない。
(これから挽回するしかない)
過ぎたことを心配しても仕方がない、と気持ちを切り替えて廊下を走った。
*
十数年ぶりに訪れた故郷の領地で咲く薄桃色の花は、記憶にあるよりも陳腐だった。最後に見たのが子どもの頃で自分の身体が小さかったからかもしれない。当時は世界が一面花で覆われているように見えたし、風で花びらが散る様子は本当に幻想的だと思っていた。
(こんなつまらないところに殿下を連れてきたら、ものすごく怒られていただろうな……いや、そもそも、こんな遠くまで来ることに同意してくれるはずがないか)
子どもだと思っていた王女はいつの間にか美しい女性になっていた。最初に一線を超えたのは、ずっと別の人間をとっかえひっかえしていた彼女が他の男の魔力を色濃く残していることに気付いて耐えられなくなったからだ。
上書きしたいというつまらない欲が抑えられなかった。いつもベッドサイドに座って会話をしていただけの私が唇を重ねた時、エリーナ様はもう同じことを何百回も繰り返してきたように、ごく自然に応えた。
唇が離れると、『やっとその気になったんだ?18歳以上が対象なの?意味分かんない線引きしてて笑える』と嬉しそうに笑った。年齢ではなくてエリーナ殿下自身が理由なのだとは言えず、敗北感と愛しさが溢れて情緒を乱されたのを覚えている。
他に彼女を保護してくれる大人がそばにいなかったから、という理由で関わりを持つようになったのに、いつの間にか私はその他大勢と同じように彼女を一人の女性として見るようになってしまった。心から愛していたけれど、正式な手順も踏まずに一線を越えた時点で自分が他の人間と何も変わらないという自覚はあった。
いつから自分の気持ちが変わったのか覚えていない。
呼ばれて部屋を訪れたら他の男と寝ていたこともあるし、理由も教えてもらえず平手打ちされたこともある。贈り物を気に入らないと言って投げ返されたり、ひたすら罵られたこともある。数日に収まらない期間無視され続けて、その後何事もなかったように部屋に引っ張られたこともある。エリーナ様がいつどのタイミングでどんな感情を向けてくるのか全く読めなくて、全部彼女の気分次第だった。
思い返すと本当にひどい扱いを受けていたのだが、それでも彼女のことを愛おしいと思う気持ちは変わらなかった。私にここまで激しく感情をぶつけてくれる人はいなかったし、彼女の攻撃的なところは、自分を見て欲しいという叫びのように感じて、目が逸らせなくなった。
(私は殿下のように、叫べなかったな)
両親や、兄弟や、私を取り囲んできた周りの人間に伝えたいことがあっても、なにも行動できなかった。大切に愛されている自覚はあったから彼らの望む姿以外の振る舞いをするのが怖くて、その状況から逃げたくて故郷を出てしまった。
「エリーナ様」
本人の前ではもう名前を呼べない。
(殿下は不機嫌になるだろうけど、私にとっては貴女が隣にいたら、きっと一生忘れない景色になったでしょうね)
『それ喜ぶと思って言ってるの?貴方ってほんとつまんない』と文句を言う姿が心に浮かんだ。喜ばせたいのではなくて、ただの事実だ。
(そういえば、エリーナ様は、私の名前を知っていたんだな……)
今まで一度も呼ばれたことがなくて、はじめて呼ばれたのが記憶を失ったと聞いた後のことだ。あれだけ人格が変わっていては、記憶喪失というよりはもはや別人が乗り移ったと言われる方が信じられるけれど、魔力の流れは間違いなく正常で、あの方はエリーナ様本人のはずだ。
優しく控えめに話す姿より、私が覚えていたいのは、気難しく、幼い殿下だ。癇癪を起こして泣き叫ぶ姿と、悪戯を思いついたように楽しげな表情が愛しかった。
ありえないことだが、例え今のエリーナ殿下が私を選んでくれたとしても、もう彼女の激しさは2度と見られないことに心が痛んだ。
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ものすごく!!ものすごく面白かったです(*´ω`*)
何せ登場人物がみんな素敵!エリーナがとにかく可愛いしテオもすごくカッコいい!マリアもカッコいいし、騎士団長も素敵!ユリウスもみんな大好き!!
話の流れも最高で、ハラハラドキドキするし、心が痛くなることがあっても、みんなどこか憎めなくて許してしまうエリーナの気持ちに共感できました。
終わってしまうのが寂しいです。もっとみんなのお話聞きたかったです❤️
実は1回目読んですぐに感想を書いてます。寝ぼけながら見てたこともあってエリーナが元の母のこととかをテオに話したのかなーって。。。
何度かちゃんと読み込みます!
素敵なお話ありがとうございます😊
みち様
感想ありがとうございます!楽しんでいただけてとっても嬉しいです。
作中唯一明確にヒロインに敵意があったユリウスまで……大好きと言っていただけてありがたいです。
エリーナは、本編内では元のお母さんのことはテオには話してなかったです。
ニーフェ公領に引っ越した後に、今後何かのきっかけで別の人の記憶があることは話すことはあるはずですが、多分そんなに深く、自分の中に深く根を張るものとしては話さないんじゃないかなと思います。
エリーナとして暮らしていく中で”私”はそこから解放されていっているので、昔の思い出話をぽつぽつするかもしれないですね。
終わってしまうのが寂しいとまで言っていただけたことがとても嬉しいです!
長いお話に最後までお付き合いくださりありがとうございました。