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43. 君主
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(もう大丈夫そう……)
私はアーノルドの顔に生気が戻ったことを確認して、ほっと息を吐いた。
聖ルーカ教会の治療院で、アーノルドは眠っていた。ここに来た時には隣には2名の治癒師がいた。話を聞くと彼らは表面的な外傷は治せるが、深く複雑な傷や魔力回路は治せず、アーノルドは表向き全くの無傷に見えるのに危険な状態だと言われた。
マリアが事情を話して私に治癒を任せてもらい、なんとか心配いらない状態にできたと思う。同じ施設内にいた第二騎士団の騎士団長にも治癒術を施し、今までと比べ物にならないくらい一度に魔力を使ったためにすごく眠い。
寝台を挟んで向かい側に立っているマリアもものすごく眠そうだ。彼女は移動で無理をした上、途中で遭遇した第三騎士団を名乗る50名くらいの男性を眠らせるために魔法を使って、魔力切れ状態になっている。
私がいるから戦闘はできないし避けて行こうとしたマリアに対して、なにか足止めだけでも出来ないかと無理なことを言ったのは私で、そのせいでひどい負担をかけてしまった。
「マリア、座って寝てていいよ?」
マリアはゆっくり首を振った。
「いえ……今座ったら速攻落ちる自信が……殿下に何かあったら死にたくなるんで誘惑しないでもらえますか」
「でも、魔力切れなのに無理して立ってたらマリアまで危ないよ」
マリアは無言で首を振った。
「お願い、休んで」
「……だめ。可愛くお願いしても聞きませんよ。私はいいから集中して」
私はちょっと治療を頑張っただけでふらふらなのに、それ以上に負担がかかることをしたマリアは、精神力だけで立っているようなものだ。
このまま押し問答をしていても意味がない。私は一旦諦めて治癒術に集中することにした。
(早く目を覚ましますように)
アーノルドの手を握り、体温が戻っているか確認する。手は冷たい。そういえば以前私がエリーナ本人かどうか疑われた時に手に触れたけど、その時も冷たかった気がする。
ぴく、と指が軽く動いたのが分かった。
「あっ!マリア、騎士団長の指が動いたよ。多分もう大丈夫。手を握って体温を確認してくれない?」
マリアはぼんやりしていたが、私の呼びかけではっと顔を上げた。
「体温ですか?」
「うん、どうかな?いつもと同じか見てほしいの」
「そう言われても、父の手を握ったのなんて最後がいつだか覚えてませんよ」
「とにかく一回確認してみて。あと励ましてあげて」
私は無理やりマリアの手をアーノルドの手の上に乗せ、椅子を引っ張ってきてマリアをそこに座らせた。マリアは両手でアーノルドの手を握った。
「冷た。……これじゃ生きてるのか死んでるのか分からないんですが……でも、魔力の流れは、ありますね」
マリアの頭がかくんっと傾いた。なんとか持ち直したけれど、瞼は重そうだ。
「うん。ねぇ、騎士団長がいるから、私のことは騎士団長に任せるのはどう?」
「……殿下を……?」
「うん、もう目を覚ましそうだし大丈夫だよ。交代しよ?騎士団だって交代で仕事するでしょ」
「交代……ええ……そうですが……そっか……お父様がいるなら、殿下、大丈夫か……な」
私がマリアの手に自分の手を添えると、マリアはふっと目を瞑った。寝台ではなくて椅子なのが申し訳ないけど、アーノルドが目を覚ましたら移動するのを手伝ってもらおうと思う。
(よかった。治癒術だと魔力は回復できないから……)
マリアも寝不足な上身体にも負担をかけてしまっているので、重ねた手から少しだけ魔力を流して、身体の強張りを取れるようにした。
(私も、少し休ませてもらおう。ふらふらする……)
空いた椅子に座らせてもらおうと思ったら、扉がガチャ、と音を立てた。
「エリーナ?」
中に入ってきたのは王弟のギルベルトで、私のことを見て琥珀色の瞳が丸くなった。
「おじさま?!」
「なんだ……はは、君の旦那様は嘘吐きだな」
「テオに会ったんですか?……おじさま!怪我が」
ギルベルトの服は血まみれだった。慌てて近寄り治癒魔法を施すと、頬の軽い傷以外は、特に治療すべき箇所はなさそうだ。
「エリーナ、治癒魔法が上手くなったね。魔力もあるし一級に匹敵するんじゃないか?素晴らしいよ」
「ありがとうございます。何があったんですか。大丈夫ですか?」
「ああ……少し、困ったことになっていて。テオを説得するのを手伝ってもらえないかな」
「テオですか?はい、説得というのは、何を……?」
緊張感のある今の空気に合わないと思ってしまうくらい、ギルベルトはいつも通りだ。困った顔をしているから助けてあげなくてはと思う。
ギルベルトに治癒術をかけて、ひとつ違和感が残った。強いつながりを感じる魔力があって、多分、それは返り血に含まれるものだと思う。
「おじさま、あの、お父様に会われました……?」
「陛下?……ああ、これか。着替えてくればよかったね。うん、さっきまで一緒にいたんだ」
ギルベルトは自分の血まみれのシャツを見て、困ったように笑った。それから私に一歩近付いた。
「エリーナに触るな!」
テオドールの声だ、と気付いて声のした方を振り返った瞬間、私の顔の横側に生暖かい水がかかった。
「え……?」
自分の頬に指で触れると、赤いものがついている。スカートにもぽたぽた垂れて、それが床にもシミを作る。
その赤い液体が飛んできた方向に顔を向けようとすると、ぐいと手を引っ張られた。
「エリーナ」
固い胸に顔を押し付けられる。声も、手の感触も体温も、テオドールのものだと分かるから不安はない。急いで来たのか、心音はいつもよりずっと早く、呼吸が乱れている。
「テオ……?」
「ああ。怪我はないか?」
「うん。アーノルド騎士団長も大丈夫で、マリアも寝てるだけ。他の人も、ここに来てくれた人はみんな治療できてるはずだよ。テオも大丈夫?」
「そうか、すごいよ。ありがとう。俺も怪我はないよ」
テオドールの声はいつも通りだ。
「テオ、あの……」
「うん」
「おじさま、は……」
「……ギルベルト、は」
テオドールはそこで黙った。王弟である彼に敬称を付けずに呼ぶことは不自然だ。
「ギルベルト様は、帝国軍と繋がりがあったから身柄を拘束したんだ。詳しい話はまだ分かってないけどもう大丈夫だ。あんたは少し休め。魔力を使いすぎてるよ」
「おじさまが、帝国と……?!」
ギルベルトが立っていた方向に顔を向けようとしたが、テオドールはそれを許さなかった。強い力で押さえつけられている。
「礼拝堂はガラスが粉々だけど、王妃様の墓は無事だ。城下町ももう制圧できるし、心配事は何もないよ。だから、おやすみ」
テオドールが腕の力を緩め、目が合うと私を安心させるように微笑んだ。パチンと指を鳴らすような音がして、私の意識はそこで途絶えた。
*
私が次に目を覚ました時、隣にいたのはマリアだった。椅子に座っていて、私が目を覚ましたことに気付くと、がたんと音を立てて立ち上がった。
部屋を見渡すと見覚えのある寝室だ。自分が屋敷に戻っていることに気付いた。身体があちこち石のように固い。起き上がるのが大変だ。
「うっ……」
「大丈夫ですか?」
「うん、身体がちょっと痛くて……動けない……喉も、痛……」
マリアは私の身体を起こすと、水をコップに移して、私の唇を濡らしてくれた。
「どうぞ。3日寝てましたからね。セアラが時々身体を寝返りさせてくれてましたが、殿下は自分じゃ死んだみたいに動かないので身体が固まってしまってます」
「3日?!魔力切れって大変なんだね……」
マリアが呆れたように息を吐いた。
「違いますよ。旦那様が完全に魔力回路が回復するまで起きないように魔法を使ってたんです。私も勝手に同じ術をかけられて丸一日眠りこけたし、殿下には騙されたし……極悪な夫妻ですよ」
「だ、騙してないよ。立ったまま手を握るのは腰が大変だから座ってもらったの」
マリアは私のことをじとっと見た。
「他人より自分を大切にするという約束を破りましたね?」
「うっ……その、でもあの時は本当に、騎士団長がすぐ目を覚ますだろうなって思ってて、嘘ついたわけじゃないし……」
しどろもどろになる私を見て、マリアはふっと表情を柔らかくした。
「父のこと、ありがとうございました。回復してすっかり元気ですよ。私のことも助けて頂いたのに文句ばかり言ってはいけませんね。もう少し鍛錬しておきます」
「ううん、もう十分助けてもらってるよ」
「私は殿下のわがままを全部叶えたいので、十分じゃ不十分なんですよ。私の王女様は、戦略的撤退も回避も知らないみたいで、全部力ずくの正面突破をお望みのようですし、それに応えられるようにしないと」
「……」
今回のことに関しては、テオドールやマリアが私の安全を確保するために提案してくれたことを結局全部退けてここまで来た。私は何も言えなくなってしまった。
「まぁ、なんとかします。これからもなんでも言ってくださいね」
「……ありがとう」
私は心からの感謝を込めてマリアの手を握った。
「マリア、テオはどうしてるの?」
「旦那様はここ3日帰ってないそうです。城と城下町を往復して事後処理に当たってるようですが、私も詳しくは知りません」
「そうなんだ」
最後にテオドールの顔を見たのが何年も前のように感じる。怪我はないと言っていたけど、本当か分からない。
もう一つ気になることがあり、少し躊躇いながらもマリアに尋ねることにした。
「マリア、あの……ギルベルトおじさまのことは分かる?」
マリアの指がぴくりと反応した。
「ギルベルト様は……残念でしたね。陛下を庇って亡くなったという噂しか聞いておりませんが、本当に残念です」
「え?」
テオドールの話では、ギルベルトは帝国軍と繋がりがあり、身柄を拘束したと言っていた。
あの時生暖かい液体が滴った感触を思い出しながら、私は自分の頬に触れた。あれは身柄の拘束などではなくて、命を奪うための攻撃だったのではないだろうか。テオドールは私に何も見せないようにしていたけれど、目に入れなければ気付かないというものでもない。
(テオ、一人でおじさまのことを抱えようとしてるの……?誰にも何も言わずに終わりにするつもり?)
テオドールがギルベルトを慕っていたのは、二人が話す様子から伝わっていた。その人を自分で手にかけて、誰にも言わずにいるなんて、どれだけ心が傷つくのか想像もできない。
テシアンデラの花が咲くあの場所の近くで見た、辛そうな顔を思い出してしまう。
テオドールは、個人的な感情を抜きにして必要なことを遂行できるだろうけど、それで全く心を痛めないと言っていたのは嘘だ。
「マリア、テオに会いたいんだけど、お城に行ったら会えるかな」
「城ですか……今は近付けないと思いますが、できることは試してみましょう。立てますか?」
マリアの手を取って、ベッドから起きあがろうとすると、足がふらついてしまった。
「時間がかかるかも」
「ゆっくりでいいですよ。無理はせずに」
一度座り直して自分に治癒術をかけて、もう一度立ち上がる。今度は成功した。
「セアラを呼んできますね。城に行くけど平らな靴に軽いドレスにしてもらいましょう。混乱に乗じて認識阻害で忍び込むのが早そうだ」
「うん」
セアラを呼んでもらい、着替えをして準備していると、外から扉がノックされた。
「殿下!」
「マリア、どうしたの?」
「ユリウス王太子が緊急で帰国しているらしく、殿下を城に呼んでいます。迎えが来てるのでご準備ができたら外にお願いします」
「お兄様が?!……セアラ、少し格の高いドレスに変えてくれる?」
「はい、奥様」
セアラが頷いて、喪中を示す黒いドレスを準備してくれた。誰のために喪に服すのか、私はちゃんと知らない。
*
城に到着すると、私は久しぶりに王族の居住区域に通された。一つの重厚な扉の前で止まる。ここは、国王の寝室だ。
マリアは部屋の前で待っているように言われて、私一人だけが中に入ると、寝台の横でユリウスが椅子に座っているのが見えた。
「お兄様」
アジリア首長国からこの国の王都に戻るには片道3日では足りないはずだ。元々戻ってくる予定があったのか、通常と違う手段を用いたのか分からない。ユリウスは前回会った時よりも青白い顔をしていた。
「エリーナ」
ユリウスは、椅子から立ち上がると、私に一枚の封筒を差し出した。真っ白い封筒は私が何度も目を通したものだ。
「それは……」
私はユリウスに近付いて、その白い封筒を受け取ろうと手を伸ばした。触れそうになったところでひょい、と上に没収されてしまう。
「なっ!返して。それはお母様から私宛の手紙でしょ」
こんな時に嫌がらせをしてくる神経が信じられない。私はユリウスを睨んだが、ユリウスは全く意に介す様子もなく、表情も変えずに封筒を見た。
「これが父上の懐に入っていた。刃物で突かれた痕があったが、深く刺さらずに済んだらしい。他の箇所からの出血多量でそれどころじゃなかったが……心臓を一突きされて無事だったのはこれと分厚い衣服のおかげだそうだ。父上は一年中正装して着込んでいるからな」
「……」
私は寝台で眠っている国王の顔に目を向けた。治療が遅れた時に残ってしまう、細かい傷跡があちこちに残っている。まるで粉々になったガラスの上を転がったみたいに、顔中に傷ができていた。
「良かった。テオが破れないようにって魔法をかけてくれてたの」
「テオドールが?……手紙の保護に鎖帷子なみの強度がいるか?魔力が多いと効率を考えないからよくない。やはり私の元で一度勉強したほうが本人のためにもなるぞ。説得して来い」
「やだよ。お兄様、そんな話をするために呼んだの?私はテオと話したいの。帰っていい?」
「……ははは、先日より口答えするようになってるじゃないか。妻の躾もできないとは有能なのか無能なのか分からないな」
ユリウスは目が笑わないまま笑い声をあげ、呆れたように首を横に振った。
「私はこの手紙をお前に返そうと思っただけだよ。大切なものだろう。大切なものは人に預けるな」
ユリウスは今度こそ私に手紙を差し出した。警戒しながら受け取り、手紙の無事を確認する。国王が刺されたと言っていたけれど、血液はついていなかった。
「大事だからお父様にも見せたかったの」
ユリウスにも見せるつもりでいたが、この様子なら中身に目は通しているだろう。
「……テオドールに感謝を伝えておいてくれ。国王の命を救った功績は大きい」
私は頷いた。用事が済んだようなので、立ち去ろうとすると、小さなうめき声がした。
「父上」
「お父様」
ユリウスと二人で国王の顔を覗き込む。うっすらと開いた瞳は焦点がちゃんと合っていないように見える。
「……ノア?」
掠れた囁き声が、前王妃の名前を呼んだ。私はサイドテーブルのところにあった水差しの水をハンカチに含ませて、国王の口元を濡らした。この様子では私と同じく数日続けて眠っていたのではないかと思う。眠り続けた後の喉の渇きは本当にひどいものだ。
「許して、くれるのか」
「え?」
国王は再度目を瞑って、寝具に沈み込むようにはぁ、と息を吐いた。
「疲れた……何か歌ってくれ。眠りたいんだ……」
「……!」
これから命が終わるかのように、掠れて消えゆく声に不安が湧き上がる。咄嗟に国王の手を握ると、私の不安を煽るような乾いた笑い声が聞こえた。
「……ははは、父上、ここにいるのはエリーナです。この性悪女と母上を見間違えるなんて笑えませんよ」
「お兄様?」
ユリウスが私の悪口を言うと、国王がぱっと目を開いた。眉を顰めて私とユリウスの顔を眺めると、私の手を払い除け、一人で身体を起こそうとする。それをユリウスが手で制止した。
「満身創痍です。どうか無理はなさらずに。治療が遅れたので所々後遺症も残っているそうです」
「……」
国王は起き上がるのを諦め、難しい顔のまま仰向けで天井を見ている。
「王都の状態は」
「一部の通路が塞がれた他は大きな被害はございません。復旧作業は全て第三騎士団が対応済みです。こういう時に魔法師は便利ですね」
「そうか……ギルベルトはどうなった」
ぼそりと呟かれた質問に、私は答えることができない。亡くなったらしいことを伝聞で聞いただけで、詳しいことは何も知らない。ユリウスの顔を見ると、ユリウスは私を見て一瞬考えるような素振りをしてから口を開いた。
「叔父上は、父上を帝国軍の手から守ったものの、ご自身は残念ながら助かりませんでした」
「……!」
「……という筋書きをテオドールから提案され、保留にしています。民衆は好き勝手に噂を口にするので、訂正するならそろそろ介入が必要でしょう。いかがされますか」
「……何?」
「叔父上が国賊であると知っているのは、ここにいる父上、私、エリーナ、それからサイモン、アーノルド騎士団長両名と、テオドールのみです」
ユリウスは椅子に座って、両手の指を身体の前で組んだ。
「彼は民衆の……特に、叔父上の指示で城下町に爆発物を仕掛けていた孤児院の子どもたちのことを配慮して、情報操作することを提案してきました。私は、その考えは甘すぎるし、幼くても自分のしたことを理解させるべきだと考えましたが……ただ、戦争が終わったばかりのこの国に国賊がいて、それも民衆の支持の厚い叔父上だと公表して、ほとんど残っていない死体を晒すメリットはあまりない、というのも事実です。周辺国に内々の揉め事を知られたくありませんし、民衆が王室を信じられなくなる。それなら帝国軍をほぼ被害なしで追い返したと触れ回る方がまだ良い。もちろん父上がそれを許せれば、のお話ですが、いかがでしょう?」
「……」
ユリウスは、1枚の紙を取り出した。
「この書面のヴラジール・シャーザールというのは、確か左翼の党首でしたか。帝国側に提示できるのはこの書面と、テュクル人の捕虜がおります。休戦協定を破って攻めてくるやつらですから表立って問いただしてもこの男を足切りして終わるでしょう。なので、シンシアの議会ではなく属国と周辺国への情報開示を示唆しようかと思っております」
ユリウスは薄汚れた紙を見て笑った。
「第一等級国なんて名前を変えただけの奴隷生産地だ。この紙一枚でそんなことを約束しようとは、叔父上は面白いことを思いついたものですね。……首は残っているのでやはり晒しましょうか?父上の御心のままに、どうぞご指示ください」
ユリウスは笑みを浮かべた。ユリウスの話を聞いているだけではよく分からないけれど、ギルベルトは帝国の人間と何かの契約を結ぼうとしたらしい。
帝国軍は、テオドールの過去の話でも、この国の人間を奴隷にしようとしていたことがあるようだった。一部の領地だけではなく、国全体を支配下に入れようとしていたのだろうか。
奴隷というおぞましい言葉の響きと、私が知っているギルベルトの印象が全く噛み合わなくて、いまだにこの話に現実味がない。
優しく気さくで明るくて、時々おどけて周りの人間を笑わせてくれる叔父の姿と、国民を他国の奴隷にしようとする国賊の姿が全く結びつかない。聖ルーカ教会で話したギルベルトは確かに本人だったのに、それを信じられずにいる。
国王が回答せず、質問を口にした。
「城にいた衛兵はどうなった?」
「叔父上の手で南の山中に飛ばされていたようです。処分は下しておりません」
「……そうか」
国王は、はぁ、と長く息を吐いた。
「……ギルベルトは、礼拝堂にいた帝国軍から私を庇って命を落とした。本人の希望で城下町の共同墓地に埋葬する。そうブラントに伝えてくれ」
ブラントは国王の側近だ。ユリウスは笑うのをやめて、真顔で尋ねた。
「父上は、叔父上がこの罪をその命で償ったとお考えですか?」
国王はしばらく無言のまま天井を見つめて、首を横に振った。
「償えるものではない。罪は私が背負う」
「……!」
国王がゆっくりと身体を起こした。ユリウスとも私とも目を合わせず、どこか遠くを見ている。
「ヴラジール・シャーザールは、チェレジア人第一主義に異論を唱えている万民平等主義の左翼の政治家だ。ギルベルトは、ヴラジールの奴隷として、毒見役と護衛を兼ねて側に仕えていたことがある」
「は……?」
部屋に沈黙が落ちた。王室の一員であるギルベルトが、他国の一政治家の奴隷だったというのは信じがたい話だ。
「留学中に襲撃を受けて、王族ということも知られずに捕まった。当時糾弾を恐れた側近がギルベルトの筆跡を真似た手紙を出し続けていて、発覚したのは半年後……そこから保護に2年かかった。手紙の内容を精査しなかった私の責任だ」
「それは……叔父上は、そのことで父上を恨んでいた、ということですか?その腹いせが今回の引き金だと?」
国王はまた首を横に振った。
「ヴラジールの奴隷は、お前たちの想像する奴隷とは違う。あの男は奴隷にまともな衣食住と教育機会を与える。ギルベルトであればさらに重宝されたはずだ……家族と呼んでいた」
「……!」
「ヴラジールの思想に傾倒していたのを知っていて、ギルベルトを放置したのが私の罪だ。王都から出られなくしたくらいで、止められるはずがなかったのに……」
「おじさまは、王都から出られなかったんですか?」
「連れ戻した時に、帝国に戻ろうとしていた。それを私が、話を聞かずに……帝国の人間に精神干渉を受けていると思っていたんだ……王室の人間が、自ら奴隷に戻ろうとするなどあってはならないことだ……」
国王の声が少しずつ小さくなっていく。ユリウスが椅子から立ち上がり、国王の胸ぐらを掴んだ。
「情けない顔をするのをやめていただけませんか。叔父上は死んで、全て終わったことです。勝手に捕まって勝手に他国の一政治家の思想に染まっただけの罪人を、なぜ父上が庇うのですか。国の利益ではなく弟一人の名誉を守るために決断をする人間を、私は国王とは認めません。疲れたのでしょう?はは……いいですよ、いますぐ私に譲位してください。父上には玉座より、礼拝堂で母上の亡霊と会話している方がお似合いです」
ユリウスが拳に力をこめると、国王の胸元に衣服の皺が寄った。いつもの厳格な雰囲気は見る影もなく、国王がとても小さく見える。
ユリウスは長く息を吐いた。
「不敬を申し上げたことを謝罪します。しかし撤回はいたしません」
「いや……そう、だな。私はずっと、王の器ではなかった。それは、分かっている……」
ユリウスは国王の胸ぐらからぱっと手を離し、張り付けたような笑みを浮かべた。
「それが父上の回答ですか。……まだ公務に戻るのは難しい状態のようですから、目が覚めたことはブラント以外には黙っておきます。必要な処理は私が進めておきますよ。せいぜいゆっくりお休みください」
ユリウスは一礼すると、国王に背を向けた。私は国王のそばにいるべきなのか、ユリウスのそばにいるべきなのか分からずあたふたしてしまう。
「お、お父様、お大事になさってください。お手紙はお兄様に返してもらったの。なくしたわけじゃないから心配しないで」
私は先ほど振り払われた手を、再度国王の手に重ねた。乾いた手は温かい。ぎゅ、と一度だけ励ますように力を込めて、ユリウスを追いかけた。
私はアーノルドの顔に生気が戻ったことを確認して、ほっと息を吐いた。
聖ルーカ教会の治療院で、アーノルドは眠っていた。ここに来た時には隣には2名の治癒師がいた。話を聞くと彼らは表面的な外傷は治せるが、深く複雑な傷や魔力回路は治せず、アーノルドは表向き全くの無傷に見えるのに危険な状態だと言われた。
マリアが事情を話して私に治癒を任せてもらい、なんとか心配いらない状態にできたと思う。同じ施設内にいた第二騎士団の騎士団長にも治癒術を施し、今までと比べ物にならないくらい一度に魔力を使ったためにすごく眠い。
寝台を挟んで向かい側に立っているマリアもものすごく眠そうだ。彼女は移動で無理をした上、途中で遭遇した第三騎士団を名乗る50名くらいの男性を眠らせるために魔法を使って、魔力切れ状態になっている。
私がいるから戦闘はできないし避けて行こうとしたマリアに対して、なにか足止めだけでも出来ないかと無理なことを言ったのは私で、そのせいでひどい負担をかけてしまった。
「マリア、座って寝てていいよ?」
マリアはゆっくり首を振った。
「いえ……今座ったら速攻落ちる自信が……殿下に何かあったら死にたくなるんで誘惑しないでもらえますか」
「でも、魔力切れなのに無理して立ってたらマリアまで危ないよ」
マリアは無言で首を振った。
「お願い、休んで」
「……だめ。可愛くお願いしても聞きませんよ。私はいいから集中して」
私はちょっと治療を頑張っただけでふらふらなのに、それ以上に負担がかかることをしたマリアは、精神力だけで立っているようなものだ。
このまま押し問答をしていても意味がない。私は一旦諦めて治癒術に集中することにした。
(早く目を覚ましますように)
アーノルドの手を握り、体温が戻っているか確認する。手は冷たい。そういえば以前私がエリーナ本人かどうか疑われた時に手に触れたけど、その時も冷たかった気がする。
ぴく、と指が軽く動いたのが分かった。
「あっ!マリア、騎士団長の指が動いたよ。多分もう大丈夫。手を握って体温を確認してくれない?」
マリアはぼんやりしていたが、私の呼びかけではっと顔を上げた。
「体温ですか?」
「うん、どうかな?いつもと同じか見てほしいの」
「そう言われても、父の手を握ったのなんて最後がいつだか覚えてませんよ」
「とにかく一回確認してみて。あと励ましてあげて」
私は無理やりマリアの手をアーノルドの手の上に乗せ、椅子を引っ張ってきてマリアをそこに座らせた。マリアは両手でアーノルドの手を握った。
「冷た。……これじゃ生きてるのか死んでるのか分からないんですが……でも、魔力の流れは、ありますね」
マリアの頭がかくんっと傾いた。なんとか持ち直したけれど、瞼は重そうだ。
「うん。ねぇ、騎士団長がいるから、私のことは騎士団長に任せるのはどう?」
「……殿下を……?」
「うん、もう目を覚ましそうだし大丈夫だよ。交代しよ?騎士団だって交代で仕事するでしょ」
「交代……ええ……そうですが……そっか……お父様がいるなら、殿下、大丈夫か……な」
私がマリアの手に自分の手を添えると、マリアはふっと目を瞑った。寝台ではなくて椅子なのが申し訳ないけど、アーノルドが目を覚ましたら移動するのを手伝ってもらおうと思う。
(よかった。治癒術だと魔力は回復できないから……)
マリアも寝不足な上身体にも負担をかけてしまっているので、重ねた手から少しだけ魔力を流して、身体の強張りを取れるようにした。
(私も、少し休ませてもらおう。ふらふらする……)
空いた椅子に座らせてもらおうと思ったら、扉がガチャ、と音を立てた。
「エリーナ?」
中に入ってきたのは王弟のギルベルトで、私のことを見て琥珀色の瞳が丸くなった。
「おじさま?!」
「なんだ……はは、君の旦那様は嘘吐きだな」
「テオに会ったんですか?……おじさま!怪我が」
ギルベルトの服は血まみれだった。慌てて近寄り治癒魔法を施すと、頬の軽い傷以外は、特に治療すべき箇所はなさそうだ。
「エリーナ、治癒魔法が上手くなったね。魔力もあるし一級に匹敵するんじゃないか?素晴らしいよ」
「ありがとうございます。何があったんですか。大丈夫ですか?」
「ああ……少し、困ったことになっていて。テオを説得するのを手伝ってもらえないかな」
「テオですか?はい、説得というのは、何を……?」
緊張感のある今の空気に合わないと思ってしまうくらい、ギルベルトはいつも通りだ。困った顔をしているから助けてあげなくてはと思う。
ギルベルトに治癒術をかけて、ひとつ違和感が残った。強いつながりを感じる魔力があって、多分、それは返り血に含まれるものだと思う。
「おじさま、あの、お父様に会われました……?」
「陛下?……ああ、これか。着替えてくればよかったね。うん、さっきまで一緒にいたんだ」
ギルベルトは自分の血まみれのシャツを見て、困ったように笑った。それから私に一歩近付いた。
「エリーナに触るな!」
テオドールの声だ、と気付いて声のした方を振り返った瞬間、私の顔の横側に生暖かい水がかかった。
「え……?」
自分の頬に指で触れると、赤いものがついている。スカートにもぽたぽた垂れて、それが床にもシミを作る。
その赤い液体が飛んできた方向に顔を向けようとすると、ぐいと手を引っ張られた。
「エリーナ」
固い胸に顔を押し付けられる。声も、手の感触も体温も、テオドールのものだと分かるから不安はない。急いで来たのか、心音はいつもよりずっと早く、呼吸が乱れている。
「テオ……?」
「ああ。怪我はないか?」
「うん。アーノルド騎士団長も大丈夫で、マリアも寝てるだけ。他の人も、ここに来てくれた人はみんな治療できてるはずだよ。テオも大丈夫?」
「そうか、すごいよ。ありがとう。俺も怪我はないよ」
テオドールの声はいつも通りだ。
「テオ、あの……」
「うん」
「おじさま、は……」
「……ギルベルト、は」
テオドールはそこで黙った。王弟である彼に敬称を付けずに呼ぶことは不自然だ。
「ギルベルト様は、帝国軍と繋がりがあったから身柄を拘束したんだ。詳しい話はまだ分かってないけどもう大丈夫だ。あんたは少し休め。魔力を使いすぎてるよ」
「おじさまが、帝国と……?!」
ギルベルトが立っていた方向に顔を向けようとしたが、テオドールはそれを許さなかった。強い力で押さえつけられている。
「礼拝堂はガラスが粉々だけど、王妃様の墓は無事だ。城下町ももう制圧できるし、心配事は何もないよ。だから、おやすみ」
テオドールが腕の力を緩め、目が合うと私を安心させるように微笑んだ。パチンと指を鳴らすような音がして、私の意識はそこで途絶えた。
*
私が次に目を覚ました時、隣にいたのはマリアだった。椅子に座っていて、私が目を覚ましたことに気付くと、がたんと音を立てて立ち上がった。
部屋を見渡すと見覚えのある寝室だ。自分が屋敷に戻っていることに気付いた。身体があちこち石のように固い。起き上がるのが大変だ。
「うっ……」
「大丈夫ですか?」
「うん、身体がちょっと痛くて……動けない……喉も、痛……」
マリアは私の身体を起こすと、水をコップに移して、私の唇を濡らしてくれた。
「どうぞ。3日寝てましたからね。セアラが時々身体を寝返りさせてくれてましたが、殿下は自分じゃ死んだみたいに動かないので身体が固まってしまってます」
「3日?!魔力切れって大変なんだね……」
マリアが呆れたように息を吐いた。
「違いますよ。旦那様が完全に魔力回路が回復するまで起きないように魔法を使ってたんです。私も勝手に同じ術をかけられて丸一日眠りこけたし、殿下には騙されたし……極悪な夫妻ですよ」
「だ、騙してないよ。立ったまま手を握るのは腰が大変だから座ってもらったの」
マリアは私のことをじとっと見た。
「他人より自分を大切にするという約束を破りましたね?」
「うっ……その、でもあの時は本当に、騎士団長がすぐ目を覚ますだろうなって思ってて、嘘ついたわけじゃないし……」
しどろもどろになる私を見て、マリアはふっと表情を柔らかくした。
「父のこと、ありがとうございました。回復してすっかり元気ですよ。私のことも助けて頂いたのに文句ばかり言ってはいけませんね。もう少し鍛錬しておきます」
「ううん、もう十分助けてもらってるよ」
「私は殿下のわがままを全部叶えたいので、十分じゃ不十分なんですよ。私の王女様は、戦略的撤退も回避も知らないみたいで、全部力ずくの正面突破をお望みのようですし、それに応えられるようにしないと」
「……」
今回のことに関しては、テオドールやマリアが私の安全を確保するために提案してくれたことを結局全部退けてここまで来た。私は何も言えなくなってしまった。
「まぁ、なんとかします。これからもなんでも言ってくださいね」
「……ありがとう」
私は心からの感謝を込めてマリアの手を握った。
「マリア、テオはどうしてるの?」
「旦那様はここ3日帰ってないそうです。城と城下町を往復して事後処理に当たってるようですが、私も詳しくは知りません」
「そうなんだ」
最後にテオドールの顔を見たのが何年も前のように感じる。怪我はないと言っていたけど、本当か分からない。
もう一つ気になることがあり、少し躊躇いながらもマリアに尋ねることにした。
「マリア、あの……ギルベルトおじさまのことは分かる?」
マリアの指がぴくりと反応した。
「ギルベルト様は……残念でしたね。陛下を庇って亡くなったという噂しか聞いておりませんが、本当に残念です」
「え?」
テオドールの話では、ギルベルトは帝国軍と繋がりがあり、身柄を拘束したと言っていた。
あの時生暖かい液体が滴った感触を思い出しながら、私は自分の頬に触れた。あれは身柄の拘束などではなくて、命を奪うための攻撃だったのではないだろうか。テオドールは私に何も見せないようにしていたけれど、目に入れなければ気付かないというものでもない。
(テオ、一人でおじさまのことを抱えようとしてるの……?誰にも何も言わずに終わりにするつもり?)
テオドールがギルベルトを慕っていたのは、二人が話す様子から伝わっていた。その人を自分で手にかけて、誰にも言わずにいるなんて、どれだけ心が傷つくのか想像もできない。
テシアンデラの花が咲くあの場所の近くで見た、辛そうな顔を思い出してしまう。
テオドールは、個人的な感情を抜きにして必要なことを遂行できるだろうけど、それで全く心を痛めないと言っていたのは嘘だ。
「マリア、テオに会いたいんだけど、お城に行ったら会えるかな」
「城ですか……今は近付けないと思いますが、できることは試してみましょう。立てますか?」
マリアの手を取って、ベッドから起きあがろうとすると、足がふらついてしまった。
「時間がかかるかも」
「ゆっくりでいいですよ。無理はせずに」
一度座り直して自分に治癒術をかけて、もう一度立ち上がる。今度は成功した。
「セアラを呼んできますね。城に行くけど平らな靴に軽いドレスにしてもらいましょう。混乱に乗じて認識阻害で忍び込むのが早そうだ」
「うん」
セアラを呼んでもらい、着替えをして準備していると、外から扉がノックされた。
「殿下!」
「マリア、どうしたの?」
「ユリウス王太子が緊急で帰国しているらしく、殿下を城に呼んでいます。迎えが来てるのでご準備ができたら外にお願いします」
「お兄様が?!……セアラ、少し格の高いドレスに変えてくれる?」
「はい、奥様」
セアラが頷いて、喪中を示す黒いドレスを準備してくれた。誰のために喪に服すのか、私はちゃんと知らない。
*
城に到着すると、私は久しぶりに王族の居住区域に通された。一つの重厚な扉の前で止まる。ここは、国王の寝室だ。
マリアは部屋の前で待っているように言われて、私一人だけが中に入ると、寝台の横でユリウスが椅子に座っているのが見えた。
「お兄様」
アジリア首長国からこの国の王都に戻るには片道3日では足りないはずだ。元々戻ってくる予定があったのか、通常と違う手段を用いたのか分からない。ユリウスは前回会った時よりも青白い顔をしていた。
「エリーナ」
ユリウスは、椅子から立ち上がると、私に一枚の封筒を差し出した。真っ白い封筒は私が何度も目を通したものだ。
「それは……」
私はユリウスに近付いて、その白い封筒を受け取ろうと手を伸ばした。触れそうになったところでひょい、と上に没収されてしまう。
「なっ!返して。それはお母様から私宛の手紙でしょ」
こんな時に嫌がらせをしてくる神経が信じられない。私はユリウスを睨んだが、ユリウスは全く意に介す様子もなく、表情も変えずに封筒を見た。
「これが父上の懐に入っていた。刃物で突かれた痕があったが、深く刺さらずに済んだらしい。他の箇所からの出血多量でそれどころじゃなかったが……心臓を一突きされて無事だったのはこれと分厚い衣服のおかげだそうだ。父上は一年中正装して着込んでいるからな」
「……」
私は寝台で眠っている国王の顔に目を向けた。治療が遅れた時に残ってしまう、細かい傷跡があちこちに残っている。まるで粉々になったガラスの上を転がったみたいに、顔中に傷ができていた。
「良かった。テオが破れないようにって魔法をかけてくれてたの」
「テオドールが?……手紙の保護に鎖帷子なみの強度がいるか?魔力が多いと効率を考えないからよくない。やはり私の元で一度勉強したほうが本人のためにもなるぞ。説得して来い」
「やだよ。お兄様、そんな話をするために呼んだの?私はテオと話したいの。帰っていい?」
「……ははは、先日より口答えするようになってるじゃないか。妻の躾もできないとは有能なのか無能なのか分からないな」
ユリウスは目が笑わないまま笑い声をあげ、呆れたように首を横に振った。
「私はこの手紙をお前に返そうと思っただけだよ。大切なものだろう。大切なものは人に預けるな」
ユリウスは今度こそ私に手紙を差し出した。警戒しながら受け取り、手紙の無事を確認する。国王が刺されたと言っていたけれど、血液はついていなかった。
「大事だからお父様にも見せたかったの」
ユリウスにも見せるつもりでいたが、この様子なら中身に目は通しているだろう。
「……テオドールに感謝を伝えておいてくれ。国王の命を救った功績は大きい」
私は頷いた。用事が済んだようなので、立ち去ろうとすると、小さなうめき声がした。
「父上」
「お父様」
ユリウスと二人で国王の顔を覗き込む。うっすらと開いた瞳は焦点がちゃんと合っていないように見える。
「……ノア?」
掠れた囁き声が、前王妃の名前を呼んだ。私はサイドテーブルのところにあった水差しの水をハンカチに含ませて、国王の口元を濡らした。この様子では私と同じく数日続けて眠っていたのではないかと思う。眠り続けた後の喉の渇きは本当にひどいものだ。
「許して、くれるのか」
「え?」
国王は再度目を瞑って、寝具に沈み込むようにはぁ、と息を吐いた。
「疲れた……何か歌ってくれ。眠りたいんだ……」
「……!」
これから命が終わるかのように、掠れて消えゆく声に不安が湧き上がる。咄嗟に国王の手を握ると、私の不安を煽るような乾いた笑い声が聞こえた。
「……ははは、父上、ここにいるのはエリーナです。この性悪女と母上を見間違えるなんて笑えませんよ」
「お兄様?」
ユリウスが私の悪口を言うと、国王がぱっと目を開いた。眉を顰めて私とユリウスの顔を眺めると、私の手を払い除け、一人で身体を起こそうとする。それをユリウスが手で制止した。
「満身創痍です。どうか無理はなさらずに。治療が遅れたので所々後遺症も残っているそうです」
「……」
国王は起き上がるのを諦め、難しい顔のまま仰向けで天井を見ている。
「王都の状態は」
「一部の通路が塞がれた他は大きな被害はございません。復旧作業は全て第三騎士団が対応済みです。こういう時に魔法師は便利ですね」
「そうか……ギルベルトはどうなった」
ぼそりと呟かれた質問に、私は答えることができない。亡くなったらしいことを伝聞で聞いただけで、詳しいことは何も知らない。ユリウスの顔を見ると、ユリウスは私を見て一瞬考えるような素振りをしてから口を開いた。
「叔父上は、父上を帝国軍の手から守ったものの、ご自身は残念ながら助かりませんでした」
「……!」
「……という筋書きをテオドールから提案され、保留にしています。民衆は好き勝手に噂を口にするので、訂正するならそろそろ介入が必要でしょう。いかがされますか」
「……何?」
「叔父上が国賊であると知っているのは、ここにいる父上、私、エリーナ、それからサイモン、アーノルド騎士団長両名と、テオドールのみです」
ユリウスは椅子に座って、両手の指を身体の前で組んだ。
「彼は民衆の……特に、叔父上の指示で城下町に爆発物を仕掛けていた孤児院の子どもたちのことを配慮して、情報操作することを提案してきました。私は、その考えは甘すぎるし、幼くても自分のしたことを理解させるべきだと考えましたが……ただ、戦争が終わったばかりのこの国に国賊がいて、それも民衆の支持の厚い叔父上だと公表して、ほとんど残っていない死体を晒すメリットはあまりない、というのも事実です。周辺国に内々の揉め事を知られたくありませんし、民衆が王室を信じられなくなる。それなら帝国軍をほぼ被害なしで追い返したと触れ回る方がまだ良い。もちろん父上がそれを許せれば、のお話ですが、いかがでしょう?」
「……」
ユリウスは、1枚の紙を取り出した。
「この書面のヴラジール・シャーザールというのは、確か左翼の党首でしたか。帝国側に提示できるのはこの書面と、テュクル人の捕虜がおります。休戦協定を破って攻めてくるやつらですから表立って問いただしてもこの男を足切りして終わるでしょう。なので、シンシアの議会ではなく属国と周辺国への情報開示を示唆しようかと思っております」
ユリウスは薄汚れた紙を見て笑った。
「第一等級国なんて名前を変えただけの奴隷生産地だ。この紙一枚でそんなことを約束しようとは、叔父上は面白いことを思いついたものですね。……首は残っているのでやはり晒しましょうか?父上の御心のままに、どうぞご指示ください」
ユリウスは笑みを浮かべた。ユリウスの話を聞いているだけではよく分からないけれど、ギルベルトは帝国の人間と何かの契約を結ぼうとしたらしい。
帝国軍は、テオドールの過去の話でも、この国の人間を奴隷にしようとしていたことがあるようだった。一部の領地だけではなく、国全体を支配下に入れようとしていたのだろうか。
奴隷というおぞましい言葉の響きと、私が知っているギルベルトの印象が全く噛み合わなくて、いまだにこの話に現実味がない。
優しく気さくで明るくて、時々おどけて周りの人間を笑わせてくれる叔父の姿と、国民を他国の奴隷にしようとする国賊の姿が全く結びつかない。聖ルーカ教会で話したギルベルトは確かに本人だったのに、それを信じられずにいる。
国王が回答せず、質問を口にした。
「城にいた衛兵はどうなった?」
「叔父上の手で南の山中に飛ばされていたようです。処分は下しておりません」
「……そうか」
国王は、はぁ、と長く息を吐いた。
「……ギルベルトは、礼拝堂にいた帝国軍から私を庇って命を落とした。本人の希望で城下町の共同墓地に埋葬する。そうブラントに伝えてくれ」
ブラントは国王の側近だ。ユリウスは笑うのをやめて、真顔で尋ねた。
「父上は、叔父上がこの罪をその命で償ったとお考えですか?」
国王はしばらく無言のまま天井を見つめて、首を横に振った。
「償えるものではない。罪は私が背負う」
「……!」
国王がゆっくりと身体を起こした。ユリウスとも私とも目を合わせず、どこか遠くを見ている。
「ヴラジール・シャーザールは、チェレジア人第一主義に異論を唱えている万民平等主義の左翼の政治家だ。ギルベルトは、ヴラジールの奴隷として、毒見役と護衛を兼ねて側に仕えていたことがある」
「は……?」
部屋に沈黙が落ちた。王室の一員であるギルベルトが、他国の一政治家の奴隷だったというのは信じがたい話だ。
「留学中に襲撃を受けて、王族ということも知られずに捕まった。当時糾弾を恐れた側近がギルベルトの筆跡を真似た手紙を出し続けていて、発覚したのは半年後……そこから保護に2年かかった。手紙の内容を精査しなかった私の責任だ」
「それは……叔父上は、そのことで父上を恨んでいた、ということですか?その腹いせが今回の引き金だと?」
国王はまた首を横に振った。
「ヴラジールの奴隷は、お前たちの想像する奴隷とは違う。あの男は奴隷にまともな衣食住と教育機会を与える。ギルベルトであればさらに重宝されたはずだ……家族と呼んでいた」
「……!」
「ヴラジールの思想に傾倒していたのを知っていて、ギルベルトを放置したのが私の罪だ。王都から出られなくしたくらいで、止められるはずがなかったのに……」
「おじさまは、王都から出られなかったんですか?」
「連れ戻した時に、帝国に戻ろうとしていた。それを私が、話を聞かずに……帝国の人間に精神干渉を受けていると思っていたんだ……王室の人間が、自ら奴隷に戻ろうとするなどあってはならないことだ……」
国王の声が少しずつ小さくなっていく。ユリウスが椅子から立ち上がり、国王の胸ぐらを掴んだ。
「情けない顔をするのをやめていただけませんか。叔父上は死んで、全て終わったことです。勝手に捕まって勝手に他国の一政治家の思想に染まっただけの罪人を、なぜ父上が庇うのですか。国の利益ではなく弟一人の名誉を守るために決断をする人間を、私は国王とは認めません。疲れたのでしょう?はは……いいですよ、いますぐ私に譲位してください。父上には玉座より、礼拝堂で母上の亡霊と会話している方がお似合いです」
ユリウスが拳に力をこめると、国王の胸元に衣服の皺が寄った。いつもの厳格な雰囲気は見る影もなく、国王がとても小さく見える。
ユリウスは長く息を吐いた。
「不敬を申し上げたことを謝罪します。しかし撤回はいたしません」
「いや……そう、だな。私はずっと、王の器ではなかった。それは、分かっている……」
ユリウスは国王の胸ぐらからぱっと手を離し、張り付けたような笑みを浮かべた。
「それが父上の回答ですか。……まだ公務に戻るのは難しい状態のようですから、目が覚めたことはブラント以外には黙っておきます。必要な処理は私が進めておきますよ。せいぜいゆっくりお休みください」
ユリウスは一礼すると、国王に背を向けた。私は国王のそばにいるべきなのか、ユリウスのそばにいるべきなのか分からずあたふたしてしまう。
「お、お父様、お大事になさってください。お手紙はお兄様に返してもらったの。なくしたわけじゃないから心配しないで」
私は先ほど振り払われた手を、再度国王の手に重ねた。乾いた手は温かい。ぎゅ、と一度だけ励ますように力を込めて、ユリウスを追いかけた。
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