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30. 王妃の側近

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とある午後にマリアとともに読書をしていると、テオドールが帰宅して、マリアだけを別室に呼んだ。マリアはすこぶる上機嫌ですぐに戻ってきて、その手には一本の果実酒のボトルが握られていた。

「それは?」
「シエンナ侯爵領産エイズス家のフェルトです」
「……?」

マリアは私の頭が疑問符でいっぱいであることに気付いて、説明を付け足してくれた。

「シエンナ侯爵領は白葡萄が有名で、そこに腕の良いワイン生産農家があります。フェルトは葡萄の名前ですね。私が1番好きな白ワインなんですが、良かったらいかがですか?」
「いいの?」
「ええ、殿下のおかげで手に入ったようなものですし、一緒に開けてくれる方がいたほうが美味しいですから。よく冷えてますよ」
「……?」

よく分からないけど、マリアが好きなものを一緒に飲もうと言ってくれたのは嬉しい。

「ありがとう。じゃあセアラにグラスを持ってきてもらうね」
「私が声をかけてきます。殿下はこちらでお待ちください」

マリアは立ちあがろうとした私を制止して、覗き込むような姿勢で『楽しみです』と口にした。なにか悪戯が待っているような楽しげな表情にドキッとしてしまった。
一緒にいることには慣れたけど、まだまれに彼女の言葉や仕草にどきっとすることがある。

「はぁ」

顔が熱くなってしまったので、外の風を浴びるために窓に近付いた。暑すぎず寒すぎず、春のさわやかな晴天だ。午後の暖かい日差しが心地よく、眠気を誘う。お酒を飲んだら寝てしまうかもしれない。

窓は綺麗に磨かれていて、鏡のように姿が映っている。
私の瞳は、今日は本来の色である菫色に戻っている。魔法をよく使うようになって、そしてテオドールから瞳の色には注意を払わなくて良いと言われて、以前より頻繁に自分の本来の瞳の色を目に入れるようになった。セアラはよく懐かしそうな顔をしている。

色が戻ることに配慮しなくなった結果、必然的にテオドールの手を煩わせることも減った。減ったと言うよりは元に戻ったというべきか。
以前、気が乗らないと言ってたのに無理に行為をお願いしたこともあったし、私自身が瞳の色に神経質になっていたから、お互いのために原理と必要性を改めて調べてくれたのはありがたいことだ。

頻繁にテオドールに望まないことを強要しなくて良くなったのはいいことだけど、触れる機会が減ったこと自体は、正直なところ少し寂しいと思う事がある。
肌が触れている時の、どうしようもなく求められていると錯覚するあの瞬間が惜しいと思う時点で私とエリーナはあまり変わらない。違うのは相手が複数いるかどうかくらいだ。

テオドールは私にとって行為が負担になることを気にするけど、私はテオドールが相手なら何をされても全然嫌じゃない。馬車の中でそれを口走りそうになって、慌てて最悪な言い訳で誤魔化してしまった。

私が自分の気持ちを守るために、テオドールが遊び人の王女を娶るしかなかったことをわざわざ思い出させるようなことを言ってしまって、とてつもなく後悔した。

手紙でそれを謝罪しようかと思ったけれど、上手く組み込めなかった。エリーナがほぼ毎日男の人と関係を持っていたのは事実だし、今は違うと強調するのもおかしいし、ただやってしまったという後悔だけが残っている。

(はぁ……私って本当に自分のことしか考えてない……)

テオドールに、これから彼のことを知って、前向きに関係性を作っていきたい話しをした時、テオドールはごく自然に受け入れてくれた。
手紙を渡すと笑顔で受け取ってくれるし、忙しい合間を縫って返事を書いてくれることもある。

まだ無理に結婚したことへの罪悪感や、自虐的な気持ちが顔を覗かせて気が沈むことはあるけれど、それに負けないようにしたい。

(過去のことよりこれからのこと……!)

マリアに言われた言葉をお守りみたいに心の中で繰り返して気持ちを盛り返していると、ふと窓の外が騒がしくなった。

「あれ……なんだろう?」

見たことのない馬車が屋敷の前に止まった。

(テオのお客様かな?だから今日は早かったんだね)

テオドールは帰宅して挨拶し、マリアを呼び出してからすぐ書斎に篭ってしまった。考える仕事が立て込んでいるから引きこもると言っていて、そのために割り込みの仕事が入らない自宅で作業することにしたのかと思っていたけれど、来客もあるようだ。

(私もご挨拶した方がいいのかな)

今までこの屋敷に来客があったことはない。確認のために書斎に行こうとすると、何やら廊下が騒がしかった。

「お、奥様……!王妃殿下がいらっしゃってます!」
「王妃、殿下?」

メイドの一人が慌てて廊下を走って来て、息を切らして告げた。その後ろからマリアが来るのが見えた。

「殿下!王妃様のこと聞きました?今旦那様を呼びに行ってるので、とりあえず着替えだけしましょう。王妃殿下にご挨拶するなら正装しないといけませんね」
「う、うん」

なんだかよく分からないけど、テオドールのお客様ではなかった。現王妃とは正式な場で挨拶する以外まともに会話をした事がない。
エリーナの記憶では無口で陰気な人で、笑顔も見せないから小さい時から話しかけづらく、関わりは薄い。
廊下がまた騒がしくなり、鋭い声が響いた。

「不要です。王妃様に殿下の着替えを待ってる時間なんかありません。王女殿下ならいつ何時お客様がいらっしゃってもお迎えできる服装でいるべきじゃないですか?全く……だからエレノア殿下の娘を庶民になんか嫁がせるのは反対だったんです!」
「……?」

青い顔をした王妃と、彼女より少し年下に見える見知らぬ貴族女性が立っていた。マリアが私の後ろから耳打ちした。

「彼女は現教皇の娘で王妃殿下の側近です。教皇は貴族でも就任時に爵位を返しますが、実際の権力は公爵家並みに強いですよ」

この国で一番偉い女性である王妃と、すごく偉い人の娘である側近が来た、という頭の悪い理解だけできた。
私は二人にお辞儀をした。

「王妃殿下にご挨拶申し上げます。御渡りくださいまして至極恐悦でございます。本来ならば私から謁見をお願いすべきところ、殿下に御足労いただき誠に申し訳ございません。未熟な私には殿下の御心を推し量る術がなく、畏れながら御用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「……」

王妃と側近の女性は無言のままだった。しばらく待っていると、囁くような声が聞こえた。

「いいのよ。私が勝手に来たのだから……そんなに畏まらなくていいから顔を上げて。部屋を一つお借りしていいかしら」
「ご温情に感謝いたします。かしこまりました」

私はゆっくり顔を上げた。側近の女性が私の顔を訝しげに見ている。

「エリーナ殿下……いいえ、話は後にしましょう。部屋はどちらですか?直射日光が当たらないところにしてください」
「それでしたら……」

私は時間帯と部屋の窓の位置を思い出しながら、いくつかある応接用の部屋のうち使えそうな場所を決めた。念のため使用人に先に部屋を確認するように伝える。
すぐに案内して問題ないという返事があったので、王妃を案内することにした。

「こちらでございます」

王妃を案内しようと道を開けると、反対側の廊下からテオドールが走って来た。

「王妃殿下!」

王妃から離れたところで立ち止まり、私のことを庇うような位置に移動してからお辞儀をした。

「このような場所に御渡り頂くとは大変恐縮です。今日はいったい……」

テオドールが顔を上げると、側近の女性が王妃の前に立ちはだかって叫んだ。

「王妃様に近づかないでください!貴方、本来お姿を拝むこともおこがましいほどの身分でしょう。人殺しで成り上がった人間が王都でのさばってるなんて本当に耐えられない。貴方がいない時間をわざわざ選んできたのに、なぜ帰宅しているんですか。私たちはエリーナ殿下と話をしにきたんです。貴方は呼んでないわ」
「ルビー、やめなさい。騎士団は国を守るために武器を持つの。敵を討ったのも彼個人の意思ではないのよ。無礼を詫びなさい」

側近の女性はルビーという名前らしい。名前の通り目が濃いピンク色に輝いていて、テオドールに警戒した視線を向けていた。

「言われたままに人を殺して責任も感じないんだから、もっと悪いですよ。この男一人で何人殺したかご存知ですか。氷で大量の人間を一気に串刺しにするんです!無抵抗な人間を虐殺して楽しんでるなんて、もはや人間じゃなくて……」
「ルビー、お願いだから黙って!」

王妃が悲痛な声を上げるとルビーは黙った。そしてテオドールの顔を見て頭を下げた。

「グレイソン副団長、私の侍女が卿の名誉を傷つけたことを心から謝罪します。卿の功績は理解しているつもりよ。アーノルド騎士団長にも謝罪しておくわ。本当にごめんなさい。エリーナ、……少しだけ時間をちょうだい」

私は呆気に取られて反応が遅れてしまい、慌てて頷いた。心無い言葉を浴びせられたテオドールのことが心配で顔を向けると、彼はむしろ私を気遣うような顔をしていた。

「王妃殿下、ルビー様、私は同席しても構いませんよね?エリーナ殿下の正式な侍女です。会合には侍女が少なくとも一人付き添うものでしょ?」

マリアがこの場の空気に合わないほどの気軽な雰囲気で訪ねた。そのことで少し呼吸を楽にしてもらえたような気分になる。
王妃ではなくルビーが発言した。

「シレア騎士団長の娘ですね。いいですか、王妃様?女同士だし、彼女は協力者であるべきです。私の術もありますから口外もないかと」
「……そうね。ええ、同席しても構わないわ」
「恐縮です」

マリアは私に向かって微笑んだ。王妃の話の内容は見当がつかないが、マリアが一緒にいてくれるのは心強い。
ルビーがテオドールに一瞬視線を向け、その存在を無視するように私に微笑んだ。

「ではお部屋に案内してもらえますか?」
「は、はい。お待ちください」

私はテオドールに向き合って囁いた。

「大丈夫?後で話すね」
「ああ。……ルビー様は現教皇の娘だ。言葉は強いけど実権はない。脅されても気にしすぎるなよ」

テオドールは小さく頷くと、私を励ますように微笑んだ。

王妃とルビーを応接室に案内し、セアラにお茶をお願いするとルビーは持ってきた茶葉を指定してセアラに渡した。

部屋のソファに王妃と私、そしてマリアも座るように促されて腰掛ける。
ルビーは小さな香合のようなものを取り出してテーブルの中央に置いた。心地よく甘い香りが漂う。

周囲の音が遠くなった。一種の防音結界のようだ。

「もういいでしょうか……さ、女4人で秘密の話をいたしましょう」
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