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21. 心配不要
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夜中、書斎で仕事をしているとノック音が聞こえた。急ぎ案件の対応中で邪魔しないでほしいが、エリーナかもしれないので返事をする。
「誰だ。入っていいよ」
扉を開けたのはマリアだった。
「殿下だと思ったな?声が優しくてぞっとした」
「……うるさいな」
「報告があるんだ。帰る前にいいかい」
「緊急なら聞く。そうじゃないなら明日以降にしてくれ。明日の朝までに来期の予算の草案を出さないといけないのに、お前の父親が急な変更をしたせいで吐きそうなんだ」
作業途中の紙を机の上にばさりと投げる。マリアは声を出して笑った。
「自分の父親の間違いだろ。じゃ、明日にするよ。殿下とコーネリアスのことだけど、解決済みだし」
「は?!」
マリアはコートの裾を翻して部屋を出ようとする。俺は慌てて立ち上がった。
「待て!コーネリアスって……あっちから接触してきたのか?」
コーネリアスに対しては、あの翌日すぐに探し出して釘を刺した。エリーナに対して応急処置をしたのは確かなようだったし、話をした時の態度からは自分からまた接触するようには見えなかった。
だから少し様子を見るつもりだったが、判断を誤っただろうか。
マリアは首を横に振った。
「会ったのは偶然だよ。ただ、殿下に接触したがってたから間に入って少し話した。もう関わっては来ないと思うよ」
「何の話をしたんだ?マリアが説得したのか?」
「いや、殿下ご自身が、その気がないときっぱり伝えてた。言葉ははっきりしてたけど態度が優しすぎるのが心配だよ。話が通じないやつだと付け入る隙があると思われる。私からは少し厳しいことを言ってしまったから、フォローしておいてくれ」
「何を言ったんだよ」
「夢中にさせるのは夫だけにしてくださいって」
「……マリア」
ふざけているのかと思って呆れた顔を向けると、マリアはいたって真剣な顔をしていた。
「エリーナ殿下は人を否定しないね。普通に振る舞えない私のこともそのまま受け入れてくださるし、自分を怖がらせた男にさえお礼を言って、対話しようとする。他人が傷つくことにすごく敏感な人だ。彼女の隣にいると、自分がすごく大切にされるべき存在だと感じるし、居心地が良いよ。得難い人だと思う」
マリアは微笑んだ。
「他人は大切にするのに、自分のことは全く価値があると思ってない。テオが殿下のこの考えを変えられないと、ずっと一緒にいるのは難しいんじゃないかな?まぁ頑張って」
「それ、どういう……」
マリアは部屋を出て行ってしまった。それから手だけ扉の隙間から覗かせ、ひらひらと振った。
「予算策定もね。おやすみ」
「うるさいな。言われなくてもやるよ!」
説明不足なくせに気になることを言って消える。騎士団長にそっくりで嫌気がさした。
「言いたいことだけ言って消えるなよ……」
机の上に散らばった紙は、まだ膨大な作業を残している。
「あーーーもう、くそっ!絶対終わらせてやる」
*
翌朝、空が明るみ始めた頃に作業を終えてそのまま出仕し、応接室のソファで軽い仮眠だけ取った後、最終調整をして騎士団長に提出した。
間に合うと思わなかったと驚かれた時には本気で殴ろうかと思った。
(ふざけんなよ、ほんと)
午前中の会議だけ出席して、残りの演習の監督は引き継ぎ先の部下に任せて午後は急遽休みをもらうことにした。眠すぎて仕事にならない。
石造の建物を後にして、庭園に出ると、真っ黒い隊服を着た近衛兵が集まっていた。
(なんだ……?)
今日は要人警護について共有を受けてない。全身真っ黒で裏地が赤いマントを付けているのは第一騎士団の面々で、国王以下王室の警護及びそのほか重要な客人の身辺警護に当たる。
中央にいるのは黒髪の男で、見慣れない服装をしている。
(裾が長いローブだ。アジリア首長国の人間か)
敵国じゃないから第三騎士団には基本的に関係ないが、来るかどうかくらいは共有して欲しいものだ。顔を合わせた部下が不敬を働いたら困る。注意事項と共に一言声をかけてから帰るべきだろうと踵を返す。
この調子だと戻ったらまた別の足止めをくらいそうな気がする。
(あー、眠い)
命のやり取りがあれば数日徹夜しようがなんだろうが眠くなどならないのに、王都で書類仕事や人の育成ばかりしているとたった1日の寝不足がきつい。
(なまくらになってる。ニーフェ公領に行く前に緊張感を取り戻さないと。南部の魔物掃除に混ぜてもらうか……いや、今余計な仕事増やすのは無理か。それより……)
芋づる式にやることが浮かんできて頭が痛くなってきた。
(今日は終業だ、終業!さっきの客人のことだけ伝えて速攻帰る)
頭を振って雑念を追い出すと、先ほどの第一騎士団の集団がざわついた。何か問題でもあったのかと振り返ると、中心にいた人物がいなくなっている。
軽く辺りを見渡すが、黒髪の男は見当たらない。俺は顔を見ていない。もし服を着替えられたら捜索に協力できない。
(おいおい……)
滞在中に外国の要人を見失ったら国際問題になる。第一騎士団は外からの干渉を1番嫌っているから、普段、問題がものすごく大きくなるまで全く共有してこない。この件も、ほとんど手遅れになるまで自分達でなんとかしようとするはずだ。過去に色々合ったことを思い出して思わず舌打ちが出た。
(こっちが不利になる隙を作るなよ、能無しめ)
現場を見たから問答無用で干渉してやろうと決めた。黒い隊服を着て団子になっている集団の元へ向かおうとしたら、後ろから肩を叩かれた。
「テオドール、相変わらず態度が悪いなぁ。城内で舌打ちはよくない」
「は……?」
振り向くと、この国の王位第一継承者であるユリウス王太子が立っていた。真っ直ぐの黒髪に、エリーナと同じ菫色の瞳をしている。いつも張り付いたような笑みを絶やさない人だ。アジリア首長国風の裾の長いローブを着ている。
「殿下」
そういえばこの人は、数年前からアジリア首長国に留学に出ていたはずだ。
さっと第一騎士団の連中に目を向けると、ほっとした様子でこちらを見ていた。外からの客人ではなくて、王太子が戻ってきただけだったらしい。
「お戻りになっていらっしゃったんですか。お元気そうで何よりです」
「一月だけな。春巫女の月で酒を飲めないのを忘れていて、追い出された。アルコールの毒が抜けるまで戻ってくるなと……あんなもの飲んだそばから抜けるのにな?」
「よくその異文化を尊重しない姿勢で留学しようと思いましたね」
「尊重してるさ。気に入ったところは受け入れてる」
「そういうのを尊重していないと言うんですよ」
ユリウス王太子は声を出して笑った。王太子はよく笑うが、いつも目が笑っていなくて少し怖い。
「テオドール、午後は暇だな?少し国内の近況話を聞かせてくれ」
「え……」
「なんだ、私と話すより大切な用件があるのか?」
「いいえ、しかし、それなら私より第一騎士団の人間が適任ではないですか。私の耳に入る情報は限られています」
「馬鹿だな。君と話をしたくて誘っているだけだよ。それに第一騎士団の奴らから私の耳に入る話は父上が操作してる。知っていることだけでいいから生の情報をくれ」
完全に断る権利がないことを察した。頷くしかない。
「承知いたしました。今日はもう終業しておりますから、殿下の都合のよろしい時を教えてください」
「そうなのか?じゃあ今からにしよう。ははは、楽しみだな」
(全然楽しそうじゃないんだよな……)
早く帰宅して寝るという予定は完全に吹っ飛んだ。王太子の登場は緊張感を取り戻すという意味では効果があり、ついでに眠気も飛んだ。
留学中でもそのままになっている王太子の部屋に通され、王太子に続いてソファに座るように促される。そうすると、ユリウス王太子は手を組んでにこにこしながら俺を見ていた。
「あれをやってくれ」
あれ、と言われても何のことか分からない。このタイミングで行うことと言えば防音と盗聴防止の結界を張ることくらいだ。指を鳴らして雑音を遮断すると、王太子は満足そうに笑ってソファの背もたれに寄りかかった。希望に沿っていたらしい。
(この人苦手だ。早く帰りたい)
強引さは騎士団長に似ているところもあるが、ユリウス王太子には人間味があまりない。合理主義で驚くほど冷たい決断を下す時があり、いつ自分が同じ目に合わされるかと思うと安心して話せない。
「私は話が早い人間は好きだよ」
「そうですか。では早速用件を済ませますね。まずは殿下が国を発ってからの各領地の当主と城内の組織の変更をご報告します。それから外的・内的要因による国内情勢の変化と、第二騎士団管轄の現在の重要課題について話すで良いですか?他のことは別の人間の方が詳しいです」
王太子が興味を持ちそうな項目を羅列すると、ため息をつかれた。
「テオドール……」
「はい」
「そういう意味じゃない。私と君は友人だろう?まずは君の近況を聞かせてくれ」
「はぁ……?」
(誰と誰が友人だって?)
ユリウス王太子とは付き合いも長くなく、こうして城の敷地内で顔を見かけると一方的に用事を押し付けられる関係だ。時に騎士団の指揮系統を無視するようなことを言うから警戒しなければならず、友人などとんでもない。力関係が圧倒的に異なるのに対等な関係を築けるはずがない。
「私の近況は……」
どこまで何を話すべきか迷う。何を求められているのかも謎だ。俺の昇格と約半年後にニーフェ公領に行くことについては騎士団の誰でも知っていることだから話しても構わないだろうから、まずはその話をしようと口を開いた。そしたら話を遮られた。
「そういえば、テオドールはエリーナと結婚したんだったな。そこは聞いたよ」
「ええ、はい」
「うるさい女だろ、災難だったな。私がここにいる間にショーン精神病院に送ってやるから安心してくれ」
「……はい?」
話の内容が理解できずに間抜けな返事をしてしまった。
「戻って来れないようにしてやろう。明日にでもシエンナ侯爵に連絡を取る」
シエンナ侯爵領は国の南部にある。そこにあるショーン精神病院に、エリーナを送ると言っている。
俺は立ち上がって叫んだ。
「やめてください!エリーナは病んでない」
「……?本当に病んでるかどうかは気にしなくていいぞ。診断はどうとでも下せる。まぁ、あの女はまじめに診断しても病んでると思うけどな」
ユリウス王太子はため息をついた。
「父上は母上に罪悪感があるから、エリーナの顔がまともに見れないんだよ。国を守ってくれたのに、とんでもない恩賞を与えて悪かった。同じ王室の人間として責任をとって処分させてもらう」
「不要です。エリーナをものみたいに扱うのはやめてください。あんた実の妹になんてことを言うんだ」
ユリウス王太子は目を丸くして俺を見つめていた。
「テオドール、まだエリーナと顔を合わせてないのか?」
「合わせてますよ」
「じゃあ、……おかしいぞ。エリーナの噂は聞いてると思うけど、事実はもっとひどいくらいのとんでもない女だ」
ユリウス王太子は前髪を上げて額を俺に見せた。小さな傷が残っている。
「この傷はエリーナがつけたんだ。一時期毎晩泣き叫んで手当たり次第にものを投げるから、少し離れた部屋にいても眠れなくてね……。止めに行ったら割れたティーカップを投げつけられた。私はヒステリックに泣く女が大嫌いになった」
「……」
「それに、私の大切な近衛に手を出して、二人辞任させてる。小賢しく人間関係を操作して私の気に入ってる人間から辞めさせるんだよ。何度か殺そうと思った」
「……それは」
過去のエリーナの悪事については、噂程度でしか聞いたことがない。今のエリーナからは想像もつかないようなことを色々しているようだ。
それでも、俺はエリーナを精神病棟送りにして縁を切りたいとは思わない。過去何をしてきたとしても、俺にとってのエリーナは一緒に過ごした時間が示すものが全部だ。ただそれは、エリーナの罪がなくなることとイコールではない。
「殿下がエリーナ王女を恨むのはもっともな理由だと思います。ただ、その恨みは私に向けていただいて、エリーナ王女のことは容赦いただけませんか」
「なんてことを。君がエリーナの罪を背負うのは道理に合わないよ」
「……では、私は殿下に敵対します。殿下が私の大切な人間を傷つけようとするなら看過できません」
ユリウス王太子は信じられないものを見るように俺の顔を見ている。
「座りたまえ」
「……失礼します」
俺がソファに再び腰掛けると、ユリウス王太子は俺の目をじっと見つめた。
「君の上司はシレア騎士団長だな」
「ええ」
「彼は精神干渉魔法が得意だ」
「そうです」
「つまり今の君は正気か?正気でエリーナを庇うのか?」
俺が頷くと、ユリウス王太子は目を瞑って息を吐いた。それから何事もなかったかのように微笑んだ。
「そうか。妻の管理は夫の仕事のうちだ。君がエリーナを躾けてるなら私が口を出すことではないな。失礼した。それで、他にはここ数年で何か新しいことは起きたのか?確か、私が発った直後に昇格したと聞いたよ」
「ええ」
あまりにもあっさり引かれて、肩透かしを食らってしまう。最後までエリーナに対する言葉の使い方が冷たくてぞっとするが、話をぶり返したくはないので次の話題に乗ることにした。
「第三特別魔法騎士団の副団長に昇格しました」
「流石だ。シレア騎士団長とは気が合わないけど、君を拾ってきたことだけは評価してる。どうだ、次は騎士団長を目指すのか?第一騎士団長に推薦してやろうか」
「私には不相応なお話です」
「謙遜するな。できるよ」
アーノルド騎士団長にできると言われるのは悪い気がしないが、ユリウス王太子にできると言われると逃げ道を塞がれているようで恐怖を感じる。
「条件を満たしておりませんし、要人警護のきめ細やかな仕事は私に向いておりません」
「条件なんか私が言えば変わるよ。第一騎士団は王室を守るのが仕事なんだから、私が君が良いと言えばそれでいいんだ。向き不向きなんかどうでもいい」
「だとしても荷が重い話です。それに、陛下の采配で半年後にはニーフェ公領に異動が確定しておりますから、私は王都を離れますよ」
王太子には第一騎士団の騎士団長を任命する権限などないが、ユリウス王太子は自分の思った通りに話を進める能力に関しては俺の知っている人間の中でも群を抜いている。俺は口がよく回るが、多分この人はそれ以上だ。
個人的に会話しているとこのまま確定事項にされそうな気がして、苦し紛れに国王の名前を出した。個人の能力はいざ知らず、国王と王太子の人事への影響力の差は無視できないものだ。
「……なんだって?出向か?」
「いいえ、ヴィルヘルム公爵家の直属の騎士団に入ります」
ユリウス王太子は固まってしまった。
「もしかして、エリーナが別人なのではなく、君が別人になったのではないか?」
「はぁ……?」
「だって、おかしいだろう。君はシレア騎士団長の後ろをひよこみたいにくっついて回っていたのに、親鳥から離れられるのか?」
「ひ、ひよこ……?」
ユリウス王太子は珍しく動揺しているようだった。
「信じられない!信じられない。シレア騎士団長が君を囲っているから様子を見てたのに、公爵家?縁もゆかりもないじゃないか。だったら私の配下に入れてたのに。今からでも遅くない。公爵家の話は断れ」
「何を言ってるんですか……」
「ニーフェ公領みたいな寂れた領地でちまちま仕事をしても楽しくないぞ。やりがいがある方がいいだろ?私の下につけばいずれ国王の側近になれる」
国の要所の一つを寂れた領地と言い捨ててしまうあたり、この人が見ている話の規模は俺が想像もつかないものなのだろう。人柄には問題があるが、帝王学を学んできた人間という感じがする。
「大変ありがたいお話ですが、私では力不足です。寂れた領地で仕事をすることになっただけで気が重たく感じております」
「さっきからそのつまらない謙遜をやめろ。私は君の能力を買ってる。私の近衛に加わって欲しい。人手不足なんだ」
「殿下の周りには優秀な人間が山ほどいると思いますが」
「優秀な人間はいればいるほどいいだろうが!やりたいことはたくさんあるんだ。君の意思はどうだ?本人の希望は考慮されるべきだろ?」
「私個人の意思で全国的な人事に口を出すなどとんでもないことです。私は必要とされるところに身を置きますので、陛下や公爵とお話されてください。決定事項に従います」
俺に話が回ってきたということは、公爵家は相当な人手不足だ。もう確定して準備も進んでいる人事に対してユリウス王太子が手を回しても、一月で覆せる可能性はかなり低い。俺が自分で抵抗するより国王と公爵に任せたほうが安全だと判断して丸投げすることにした。
ユリウス王太子はつまらなそうにため息をついた。
「君はどうしていつもそう主体性がないんだ?人間には自由な意思があるんだ。その能力を生かしてもっと主体的に生きろ」
俺がユリウス王太子の前で主体性を出さないのは、自分個人の意見をぶつけても勝てないからだ。他の方法で意思を通すために、できるだけ個人的な意見を言わないようにしているから、主体性がない人間だと思われている。
「私は卑しい身なので、使われる方が性にあっています。過分に評価いただき恐縮です」
「……君は私の前では思ってもいないようなことしか口にしないな。分かった。友人として、ニーフェ公領に快く送り出してあげるよ」
「恐れ入ります」
俺の近況に関する報告はこれで終わり、最初に羅列した話をして、質問を受けていたらあっという間に夕方になった。
ユリウス王太子は最後に、気が変わったら教えて欲しいと言い残して、国王夫妻と食事をするために席を立った。
(あー……疲れた)
普段は家に帰るだけで馬車なんか手配しないが、今日は疲れすぎて送ってもらうことにした。
資料作成の仕事で寝不足な上、コーネリアスは勝手にエリーナと話しているし、マリアは気になることを説明なしで言い捨てフォローがなく、騎士団長はムカつくことしか言わず、ユリウス王太子は得体がしれなくて怖い。昨日からの一連のことでどっと疲労感が押し寄せてきた。揺られていると寝そうだ。
(俺が何をしたっていうんだ)
俺は毎日真面目に生きているだけなのに、周りの人間が身勝手なせいで頭が痛いことばかり起こる。
(エリーナに会いたい)
屋敷に戻って、エリーナにおかえりと言われたら少しは疲れが癒される気がする。マリアが言っていた、エリーナと一緒にいると自分が大切な存在だと実感するというのは同意できる。エリーナの話の聞き方や表情、一緒にいるときの気遣いが、自分に興味を持ち、受け入れてくれている感じがする。
(殿下が話してくれたエリーナとは本当に別人みたいだ)
部屋の外から分かるくらいに泣き叫ぶとか、人間関係を乱して人を辞職に追い込むとか、今のエリーナがどうやるのかも想像できない。エリーナは泣く時はできるだけ声を押し殺して一人で泣こうとするし、人間関係に関しては、俺と騎士団長が口論になりそうだったときに間を取り持とうとしていた。
冷静になって振り返ると、ニーフェ公領に行く話が出た時自分が動揺していたのだと分かる。アーノルド騎士団長が、自分から俺との縁を完全に切ろうとしていたことに気付いたからだ。所属が変わって指揮下を抜けるだけじゃなく、自分の意思でそれを決めたら、他人の騎士団長と俺をつなぐものが何もなくなる。
(確かにひよこだな)
エリーナにはその不安を見透かされていたかと思うと少し気恥ずかしいが、分かった上で汲み取ろうとしてくれていたことにも気付いた。エリーナの態度は、俺にとって大切なものが本当に価値があるものなのだと思わせてくれる。
(ずっと一緒にいるのは難しいって、なんだよ。離すわけないだろ)
マリアが言ったことは全部納得できない訳ではなく、エリーナが自分自身のことを低く見ているのは分かる。でもそれは、俺のそばを離れる理由になんかならないはずだ。
(ならないよな……?)
例えばエリーナが、自分が俺に相応しくないなんて訳のわからない理由で離れたがっても、俺から手を離さなければいい話だ。その前にまず好かれないと、国王陛下の気が変わったときに離婚の危機になるかもしれないが。
マリアの話は心配しなくて良いと結論づけて、目を瞑るとすぐに意識が途切れた。
「誰だ。入っていいよ」
扉を開けたのはマリアだった。
「殿下だと思ったな?声が優しくてぞっとした」
「……うるさいな」
「報告があるんだ。帰る前にいいかい」
「緊急なら聞く。そうじゃないなら明日以降にしてくれ。明日の朝までに来期の予算の草案を出さないといけないのに、お前の父親が急な変更をしたせいで吐きそうなんだ」
作業途中の紙を机の上にばさりと投げる。マリアは声を出して笑った。
「自分の父親の間違いだろ。じゃ、明日にするよ。殿下とコーネリアスのことだけど、解決済みだし」
「は?!」
マリアはコートの裾を翻して部屋を出ようとする。俺は慌てて立ち上がった。
「待て!コーネリアスって……あっちから接触してきたのか?」
コーネリアスに対しては、あの翌日すぐに探し出して釘を刺した。エリーナに対して応急処置をしたのは確かなようだったし、話をした時の態度からは自分からまた接触するようには見えなかった。
だから少し様子を見るつもりだったが、判断を誤っただろうか。
マリアは首を横に振った。
「会ったのは偶然だよ。ただ、殿下に接触したがってたから間に入って少し話した。もう関わっては来ないと思うよ」
「何の話をしたんだ?マリアが説得したのか?」
「いや、殿下ご自身が、その気がないときっぱり伝えてた。言葉ははっきりしてたけど態度が優しすぎるのが心配だよ。話が通じないやつだと付け入る隙があると思われる。私からは少し厳しいことを言ってしまったから、フォローしておいてくれ」
「何を言ったんだよ」
「夢中にさせるのは夫だけにしてくださいって」
「……マリア」
ふざけているのかと思って呆れた顔を向けると、マリアはいたって真剣な顔をしていた。
「エリーナ殿下は人を否定しないね。普通に振る舞えない私のこともそのまま受け入れてくださるし、自分を怖がらせた男にさえお礼を言って、対話しようとする。他人が傷つくことにすごく敏感な人だ。彼女の隣にいると、自分がすごく大切にされるべき存在だと感じるし、居心地が良いよ。得難い人だと思う」
マリアは微笑んだ。
「他人は大切にするのに、自分のことは全く価値があると思ってない。テオが殿下のこの考えを変えられないと、ずっと一緒にいるのは難しいんじゃないかな?まぁ頑張って」
「それ、どういう……」
マリアは部屋を出て行ってしまった。それから手だけ扉の隙間から覗かせ、ひらひらと振った。
「予算策定もね。おやすみ」
「うるさいな。言われなくてもやるよ!」
説明不足なくせに気になることを言って消える。騎士団長にそっくりで嫌気がさした。
「言いたいことだけ言って消えるなよ……」
机の上に散らばった紙は、まだ膨大な作業を残している。
「あーーーもう、くそっ!絶対終わらせてやる」
*
翌朝、空が明るみ始めた頃に作業を終えてそのまま出仕し、応接室のソファで軽い仮眠だけ取った後、最終調整をして騎士団長に提出した。
間に合うと思わなかったと驚かれた時には本気で殴ろうかと思った。
(ふざけんなよ、ほんと)
午前中の会議だけ出席して、残りの演習の監督は引き継ぎ先の部下に任せて午後は急遽休みをもらうことにした。眠すぎて仕事にならない。
石造の建物を後にして、庭園に出ると、真っ黒い隊服を着た近衛兵が集まっていた。
(なんだ……?)
今日は要人警護について共有を受けてない。全身真っ黒で裏地が赤いマントを付けているのは第一騎士団の面々で、国王以下王室の警護及びそのほか重要な客人の身辺警護に当たる。
中央にいるのは黒髪の男で、見慣れない服装をしている。
(裾が長いローブだ。アジリア首長国の人間か)
敵国じゃないから第三騎士団には基本的に関係ないが、来るかどうかくらいは共有して欲しいものだ。顔を合わせた部下が不敬を働いたら困る。注意事項と共に一言声をかけてから帰るべきだろうと踵を返す。
この調子だと戻ったらまた別の足止めをくらいそうな気がする。
(あー、眠い)
命のやり取りがあれば数日徹夜しようがなんだろうが眠くなどならないのに、王都で書類仕事や人の育成ばかりしているとたった1日の寝不足がきつい。
(なまくらになってる。ニーフェ公領に行く前に緊張感を取り戻さないと。南部の魔物掃除に混ぜてもらうか……いや、今余計な仕事増やすのは無理か。それより……)
芋づる式にやることが浮かんできて頭が痛くなってきた。
(今日は終業だ、終業!さっきの客人のことだけ伝えて速攻帰る)
頭を振って雑念を追い出すと、先ほどの第一騎士団の集団がざわついた。何か問題でもあったのかと振り返ると、中心にいた人物がいなくなっている。
軽く辺りを見渡すが、黒髪の男は見当たらない。俺は顔を見ていない。もし服を着替えられたら捜索に協力できない。
(おいおい……)
滞在中に外国の要人を見失ったら国際問題になる。第一騎士団は外からの干渉を1番嫌っているから、普段、問題がものすごく大きくなるまで全く共有してこない。この件も、ほとんど手遅れになるまで自分達でなんとかしようとするはずだ。過去に色々合ったことを思い出して思わず舌打ちが出た。
(こっちが不利になる隙を作るなよ、能無しめ)
現場を見たから問答無用で干渉してやろうと決めた。黒い隊服を着て団子になっている集団の元へ向かおうとしたら、後ろから肩を叩かれた。
「テオドール、相変わらず態度が悪いなぁ。城内で舌打ちはよくない」
「は……?」
振り向くと、この国の王位第一継承者であるユリウス王太子が立っていた。真っ直ぐの黒髪に、エリーナと同じ菫色の瞳をしている。いつも張り付いたような笑みを絶やさない人だ。アジリア首長国風の裾の長いローブを着ている。
「殿下」
そういえばこの人は、数年前からアジリア首長国に留学に出ていたはずだ。
さっと第一騎士団の連中に目を向けると、ほっとした様子でこちらを見ていた。外からの客人ではなくて、王太子が戻ってきただけだったらしい。
「お戻りになっていらっしゃったんですか。お元気そうで何よりです」
「一月だけな。春巫女の月で酒を飲めないのを忘れていて、追い出された。アルコールの毒が抜けるまで戻ってくるなと……あんなもの飲んだそばから抜けるのにな?」
「よくその異文化を尊重しない姿勢で留学しようと思いましたね」
「尊重してるさ。気に入ったところは受け入れてる」
「そういうのを尊重していないと言うんですよ」
ユリウス王太子は声を出して笑った。王太子はよく笑うが、いつも目が笑っていなくて少し怖い。
「テオドール、午後は暇だな?少し国内の近況話を聞かせてくれ」
「え……」
「なんだ、私と話すより大切な用件があるのか?」
「いいえ、しかし、それなら私より第一騎士団の人間が適任ではないですか。私の耳に入る情報は限られています」
「馬鹿だな。君と話をしたくて誘っているだけだよ。それに第一騎士団の奴らから私の耳に入る話は父上が操作してる。知っていることだけでいいから生の情報をくれ」
完全に断る権利がないことを察した。頷くしかない。
「承知いたしました。今日はもう終業しておりますから、殿下の都合のよろしい時を教えてください」
「そうなのか?じゃあ今からにしよう。ははは、楽しみだな」
(全然楽しそうじゃないんだよな……)
早く帰宅して寝るという予定は完全に吹っ飛んだ。王太子の登場は緊張感を取り戻すという意味では効果があり、ついでに眠気も飛んだ。
留学中でもそのままになっている王太子の部屋に通され、王太子に続いてソファに座るように促される。そうすると、ユリウス王太子は手を組んでにこにこしながら俺を見ていた。
「あれをやってくれ」
あれ、と言われても何のことか分からない。このタイミングで行うことと言えば防音と盗聴防止の結界を張ることくらいだ。指を鳴らして雑音を遮断すると、王太子は満足そうに笑ってソファの背もたれに寄りかかった。希望に沿っていたらしい。
(この人苦手だ。早く帰りたい)
強引さは騎士団長に似ているところもあるが、ユリウス王太子には人間味があまりない。合理主義で驚くほど冷たい決断を下す時があり、いつ自分が同じ目に合わされるかと思うと安心して話せない。
「私は話が早い人間は好きだよ」
「そうですか。では早速用件を済ませますね。まずは殿下が国を発ってからの各領地の当主と城内の組織の変更をご報告します。それから外的・内的要因による国内情勢の変化と、第二騎士団管轄の現在の重要課題について話すで良いですか?他のことは別の人間の方が詳しいです」
王太子が興味を持ちそうな項目を羅列すると、ため息をつかれた。
「テオドール……」
「はい」
「そういう意味じゃない。私と君は友人だろう?まずは君の近況を聞かせてくれ」
「はぁ……?」
(誰と誰が友人だって?)
ユリウス王太子とは付き合いも長くなく、こうして城の敷地内で顔を見かけると一方的に用事を押し付けられる関係だ。時に騎士団の指揮系統を無視するようなことを言うから警戒しなければならず、友人などとんでもない。力関係が圧倒的に異なるのに対等な関係を築けるはずがない。
「私の近況は……」
どこまで何を話すべきか迷う。何を求められているのかも謎だ。俺の昇格と約半年後にニーフェ公領に行くことについては騎士団の誰でも知っていることだから話しても構わないだろうから、まずはその話をしようと口を開いた。そしたら話を遮られた。
「そういえば、テオドールはエリーナと結婚したんだったな。そこは聞いたよ」
「ええ、はい」
「うるさい女だろ、災難だったな。私がここにいる間にショーン精神病院に送ってやるから安心してくれ」
「……はい?」
話の内容が理解できずに間抜けな返事をしてしまった。
「戻って来れないようにしてやろう。明日にでもシエンナ侯爵に連絡を取る」
シエンナ侯爵領は国の南部にある。そこにあるショーン精神病院に、エリーナを送ると言っている。
俺は立ち上がって叫んだ。
「やめてください!エリーナは病んでない」
「……?本当に病んでるかどうかは気にしなくていいぞ。診断はどうとでも下せる。まぁ、あの女はまじめに診断しても病んでると思うけどな」
ユリウス王太子はため息をついた。
「父上は母上に罪悪感があるから、エリーナの顔がまともに見れないんだよ。国を守ってくれたのに、とんでもない恩賞を与えて悪かった。同じ王室の人間として責任をとって処分させてもらう」
「不要です。エリーナをものみたいに扱うのはやめてください。あんた実の妹になんてことを言うんだ」
ユリウス王太子は目を丸くして俺を見つめていた。
「テオドール、まだエリーナと顔を合わせてないのか?」
「合わせてますよ」
「じゃあ、……おかしいぞ。エリーナの噂は聞いてると思うけど、事実はもっとひどいくらいのとんでもない女だ」
ユリウス王太子は前髪を上げて額を俺に見せた。小さな傷が残っている。
「この傷はエリーナがつけたんだ。一時期毎晩泣き叫んで手当たり次第にものを投げるから、少し離れた部屋にいても眠れなくてね……。止めに行ったら割れたティーカップを投げつけられた。私はヒステリックに泣く女が大嫌いになった」
「……」
「それに、私の大切な近衛に手を出して、二人辞任させてる。小賢しく人間関係を操作して私の気に入ってる人間から辞めさせるんだよ。何度か殺そうと思った」
「……それは」
過去のエリーナの悪事については、噂程度でしか聞いたことがない。今のエリーナからは想像もつかないようなことを色々しているようだ。
それでも、俺はエリーナを精神病棟送りにして縁を切りたいとは思わない。過去何をしてきたとしても、俺にとってのエリーナは一緒に過ごした時間が示すものが全部だ。ただそれは、エリーナの罪がなくなることとイコールではない。
「殿下がエリーナ王女を恨むのはもっともな理由だと思います。ただ、その恨みは私に向けていただいて、エリーナ王女のことは容赦いただけませんか」
「なんてことを。君がエリーナの罪を背負うのは道理に合わないよ」
「……では、私は殿下に敵対します。殿下が私の大切な人間を傷つけようとするなら看過できません」
ユリウス王太子は信じられないものを見るように俺の顔を見ている。
「座りたまえ」
「……失礼します」
俺がソファに再び腰掛けると、ユリウス王太子は俺の目をじっと見つめた。
「君の上司はシレア騎士団長だな」
「ええ」
「彼は精神干渉魔法が得意だ」
「そうです」
「つまり今の君は正気か?正気でエリーナを庇うのか?」
俺が頷くと、ユリウス王太子は目を瞑って息を吐いた。それから何事もなかったかのように微笑んだ。
「そうか。妻の管理は夫の仕事のうちだ。君がエリーナを躾けてるなら私が口を出すことではないな。失礼した。それで、他にはここ数年で何か新しいことは起きたのか?確か、私が発った直後に昇格したと聞いたよ」
「ええ」
あまりにもあっさり引かれて、肩透かしを食らってしまう。最後までエリーナに対する言葉の使い方が冷たくてぞっとするが、話をぶり返したくはないので次の話題に乗ることにした。
「第三特別魔法騎士団の副団長に昇格しました」
「流石だ。シレア騎士団長とは気が合わないけど、君を拾ってきたことだけは評価してる。どうだ、次は騎士団長を目指すのか?第一騎士団長に推薦してやろうか」
「私には不相応なお話です」
「謙遜するな。できるよ」
アーノルド騎士団長にできると言われるのは悪い気がしないが、ユリウス王太子にできると言われると逃げ道を塞がれているようで恐怖を感じる。
「条件を満たしておりませんし、要人警護のきめ細やかな仕事は私に向いておりません」
「条件なんか私が言えば変わるよ。第一騎士団は王室を守るのが仕事なんだから、私が君が良いと言えばそれでいいんだ。向き不向きなんかどうでもいい」
「だとしても荷が重い話です。それに、陛下の采配で半年後にはニーフェ公領に異動が確定しておりますから、私は王都を離れますよ」
王太子には第一騎士団の騎士団長を任命する権限などないが、ユリウス王太子は自分の思った通りに話を進める能力に関しては俺の知っている人間の中でも群を抜いている。俺は口がよく回るが、多分この人はそれ以上だ。
個人的に会話しているとこのまま確定事項にされそうな気がして、苦し紛れに国王の名前を出した。個人の能力はいざ知らず、国王と王太子の人事への影響力の差は無視できないものだ。
「……なんだって?出向か?」
「いいえ、ヴィルヘルム公爵家の直属の騎士団に入ります」
ユリウス王太子は固まってしまった。
「もしかして、エリーナが別人なのではなく、君が別人になったのではないか?」
「はぁ……?」
「だって、おかしいだろう。君はシレア騎士団長の後ろをひよこみたいにくっついて回っていたのに、親鳥から離れられるのか?」
「ひ、ひよこ……?」
ユリウス王太子は珍しく動揺しているようだった。
「信じられない!信じられない。シレア騎士団長が君を囲っているから様子を見てたのに、公爵家?縁もゆかりもないじゃないか。だったら私の配下に入れてたのに。今からでも遅くない。公爵家の話は断れ」
「何を言ってるんですか……」
「ニーフェ公領みたいな寂れた領地でちまちま仕事をしても楽しくないぞ。やりがいがある方がいいだろ?私の下につけばいずれ国王の側近になれる」
国の要所の一つを寂れた領地と言い捨ててしまうあたり、この人が見ている話の規模は俺が想像もつかないものなのだろう。人柄には問題があるが、帝王学を学んできた人間という感じがする。
「大変ありがたいお話ですが、私では力不足です。寂れた領地で仕事をすることになっただけで気が重たく感じております」
「さっきからそのつまらない謙遜をやめろ。私は君の能力を買ってる。私の近衛に加わって欲しい。人手不足なんだ」
「殿下の周りには優秀な人間が山ほどいると思いますが」
「優秀な人間はいればいるほどいいだろうが!やりたいことはたくさんあるんだ。君の意思はどうだ?本人の希望は考慮されるべきだろ?」
「私個人の意思で全国的な人事に口を出すなどとんでもないことです。私は必要とされるところに身を置きますので、陛下や公爵とお話されてください。決定事項に従います」
俺に話が回ってきたということは、公爵家は相当な人手不足だ。もう確定して準備も進んでいる人事に対してユリウス王太子が手を回しても、一月で覆せる可能性はかなり低い。俺が自分で抵抗するより国王と公爵に任せたほうが安全だと判断して丸投げすることにした。
ユリウス王太子はつまらなそうにため息をついた。
「君はどうしていつもそう主体性がないんだ?人間には自由な意思があるんだ。その能力を生かしてもっと主体的に生きろ」
俺がユリウス王太子の前で主体性を出さないのは、自分個人の意見をぶつけても勝てないからだ。他の方法で意思を通すために、できるだけ個人的な意見を言わないようにしているから、主体性がない人間だと思われている。
「私は卑しい身なので、使われる方が性にあっています。過分に評価いただき恐縮です」
「……君は私の前では思ってもいないようなことしか口にしないな。分かった。友人として、ニーフェ公領に快く送り出してあげるよ」
「恐れ入ります」
俺の近況に関する報告はこれで終わり、最初に羅列した話をして、質問を受けていたらあっという間に夕方になった。
ユリウス王太子は最後に、気が変わったら教えて欲しいと言い残して、国王夫妻と食事をするために席を立った。
(あー……疲れた)
普段は家に帰るだけで馬車なんか手配しないが、今日は疲れすぎて送ってもらうことにした。
資料作成の仕事で寝不足な上、コーネリアスは勝手にエリーナと話しているし、マリアは気になることを説明なしで言い捨てフォローがなく、騎士団長はムカつくことしか言わず、ユリウス王太子は得体がしれなくて怖い。昨日からの一連のことでどっと疲労感が押し寄せてきた。揺られていると寝そうだ。
(俺が何をしたっていうんだ)
俺は毎日真面目に生きているだけなのに、周りの人間が身勝手なせいで頭が痛いことばかり起こる。
(エリーナに会いたい)
屋敷に戻って、エリーナにおかえりと言われたら少しは疲れが癒される気がする。マリアが言っていた、エリーナと一緒にいると自分が大切な存在だと実感するというのは同意できる。エリーナの話の聞き方や表情、一緒にいるときの気遣いが、自分に興味を持ち、受け入れてくれている感じがする。
(殿下が話してくれたエリーナとは本当に別人みたいだ)
部屋の外から分かるくらいに泣き叫ぶとか、人間関係を乱して人を辞職に追い込むとか、今のエリーナがどうやるのかも想像できない。エリーナは泣く時はできるだけ声を押し殺して一人で泣こうとするし、人間関係に関しては、俺と騎士団長が口論になりそうだったときに間を取り持とうとしていた。
冷静になって振り返ると、ニーフェ公領に行く話が出た時自分が動揺していたのだと分かる。アーノルド騎士団長が、自分から俺との縁を完全に切ろうとしていたことに気付いたからだ。所属が変わって指揮下を抜けるだけじゃなく、自分の意思でそれを決めたら、他人の騎士団長と俺をつなぐものが何もなくなる。
(確かにひよこだな)
エリーナにはその不安を見透かされていたかと思うと少し気恥ずかしいが、分かった上で汲み取ろうとしてくれていたことにも気付いた。エリーナの態度は、俺にとって大切なものが本当に価値があるものなのだと思わせてくれる。
(ずっと一緒にいるのは難しいって、なんだよ。離すわけないだろ)
マリアが言ったことは全部納得できない訳ではなく、エリーナが自分自身のことを低く見ているのは分かる。でもそれは、俺のそばを離れる理由になんかならないはずだ。
(ならないよな……?)
例えばエリーナが、自分が俺に相応しくないなんて訳のわからない理由で離れたがっても、俺から手を離さなければいい話だ。その前にまず好かれないと、国王陛下の気が変わったときに離婚の危機になるかもしれないが。
マリアの話は心配しなくて良いと結論づけて、目を瞑るとすぐに意識が途切れた。
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