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20. 優しさ

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「……エリーナ、殿下」

コーネリアスとは、少し腕を伸ばせば触れるくらいの距離まで近付いてしまっていた。彼は私を見て目を見開き、一歩近付いて私の腕を掴もうとした。
その間に、マリアが鞘に入ったままの剣を差し入れて止める。

「待った。いきなり腕を掴もうとするなんてこの方がどなたか分かってないのかな。そこの隣にいる彼に不敬罪で捕まえてもらおうか。どうだい、仕事だよ?」

マリアは、コーネリアスの隣にいる騎士団の男性を顎で示した。彼は戸惑った顔でコーネリアスを見た。

「サーシェ隊長……」

コーネリアスは彼に向かって左右に首を振ると、自分の腕を身体の横に戻した。私のことをじっと見たままマリアに尋ねる。

「……申し訳ありません。驚きのあまり不敬をいたしました。ご容赦ください。貴女は……?」
「マリア・サンドラ子爵夫人だよ。エリーナ王女の侍女で、シレア騎士団長の娘だ。この件は騎士団長には黙っておいてあげよう。我々は忙しいので、失礼」

マリアは私の手を引いてその場を立ち去ろうとした。

「あ、こ、コーネリアス、この前は助けてくれてありがとう。さようなら」

せっかく会えたので口頭でお礼だけ伝える。コーネリアスは呆然と私のことを見ていた。

「話しかけない方がいいですよ。追いかけてくるかも」
「でも仕事中でしょう」
「どうかな。いざと言うときに後先考えないタイプに見えます」

ちら、と後ろをみると、コーネリアスは先程の部下と思われる男性と話をしていた。そして、顔をあげた。

「あ」
「追いかけてきました?」
「えっと、……目が合った」
「あーあ、ほら。失礼しますよ。逃げましょう」
「きゃっ」

マリアは私の膝裏あたりと、腰に手を回し、持ち上げた。そのまま肩に担ぐように走って角を曲がった。

「殿下!」

コーネリアスが叫ぶのが聞こえる。遠くで足音が聞こえて、コーネリアスもすぐに角を曲がった。追いかけてきたコーネリアスは、今にも泣きそうに見えた。
マリアは足を止めない。私を抱えてこんなに速く走れるなんてすごい。

「マリア、あの……」
「聞きませんよ。どうせ会ってしまったから話そうとか言うんでしょ。私が言ったこともう忘れたんです?」
「う……だって、またいつどこで会うか分からないし、いつまでも逃げ回るわけには行かないかなって。私の安全が第一っていう話は、マリアが近くにいれば大丈夫じゃない?」

マリアはまた角を曲がると、ぴたりと足を止めた。そして私をゆっくり丁寧に石畳の上におろした。

「……もちろんです。全く、ものすごく頑固ですね。はー……これに関してはテオが正しいな……本当に驚くよ。怖がるところと譲らないところのバランスがおかしい」

独り言を言う様子が、はじめてアーノルドにそっくりだと思った。マリアは私に呆れた視線を向け、ため息をついた。そして真っ直ぐに私を見据えた。

「もしこれで貴女の身に何か起きそうになっても」

私は力強く頷いた。全部自分の責任だ。

「全部私が何とかします。殿下は心配しないで。私に任せて安心して話をしてください」

予想外の返しと頼もしい視線に、恋のときめきに似た心臓の高鳴りを感じそうになった。頬がサッと熱くなる。マリアは顔を顰めた。

「殿下……もしかしてすごく惚れっぽいんですか?コーネリアスと再燃するとかやめてくださいよ。ああいう粘着質な奴は間男に向いてないから、別の恋を探してください」

私は勢いよく頭を左右に振った。

「違う、マリアだけ」
「ならいいですけど。ああ、足音が近いな」

マリアがくるりと振り向くと、角を曲がってきたコーネリアスとぶつかりそうになった。

「っエリーナ、殿下……!」
「はぁー……こんなところまで追いかけてくるなんてしつこい男だ。卿の主張は私が聞いてやるから、殿下に危害を加えないでくれ。怖がってるよ」
「……」

マリアの提案は、角にマリアが立ち、コーネリアスと私はそれぞれ別の壁側にいて、顔を合わせないようにして話すと言うことだった。これなら万が一コーネリアスが激昂することがあっても絶対に私に触れないから、ということだ。
この提案が受け入れられないなら一言も話をさせずに帰ると言うので、コーネリアスは首を縦に振った。

マリアは自分のロングコートを脱いで腰あたりまでの石垣の上に敷き、私のことを持ち上げてそこに座らせた。

「さて、で、卿は仕事をほっぽり出してまで何を言いたかったんだ?」

マリアは腕を組んで角に寄りかかった。

「……」
「話がないなら帰っていいかな?」
「っ…待っ……殿下、先日は、大変な御無礼をいたしました。心よりお詫び申し上げます」

コーネリアスの声は静かだけどよく聞こえた。エリーナはコーネリアスが穏やかに話す声は嫌いではなかったらしく、過去の話の内容は全く覚えていないのに、この声だけは心地よいと感じる。

「……そのことはもういいです。もう会わないならそれで。貴方は私のことを助けてくれたし、これでお話しするのは最後にしましょう」
「……!」

固いもの同士がぶつかる音がして、コーネリアスが立ち上がったのが分かった。マリアが警戒して鞘に入ったままの剣で牽制すると、しばらくして座り直す音がした。

「……私は、来期、第二騎士団の副団長のポジションをオファーされました」
「そうなんですか……おめでとう」

マリアが私を責めるように咳払いした。

(だってほかに相槌のしようがないから……!)

コーネリアスが、はぁ、と長く息を吐く音がする。

「私がしかるべき立場になったら、一緒に花を見に来ていただきたいと、お話ししておりました。貴女は、気が向いたらとおっしゃってましたね」

彼は先日口にしていた約束の話をしているのだと分かった。なにかエリーナが覚えていることはないかと記憶を探ると、彼の故郷に桃色の花の木があると言われたことを思い出した。開花してもすぐに散ってしまうから、見頃になったらその時しか楽しむことが出来ない。
しかるべき立場になったら一緒に故郷を訪れて欲しいというのは、コーネリアスにとってはプロポーズみたいなものではないだろうか。

(エリーナ、流石に非情じゃない……?)

そこまで想われていても、エリーナにとってのコーネリアスは、全く特別な存在ではない。

「あの……忘れてしまってごめんなさい。でも、もし覚えていたとしても、今の私が綺麗なものを一緒に見たい人は一人しかいないの。貴方じゃない」
「グレイソン副団長ですか?」
「うん、そう」
「先日、彼と殿下が共にいるところを拝見しました」
「……」
「貴女をあの日怯えさせたのは、グレイソン副団長ではなくて、私自身でしたね。……本当に、申し訳ありませんでした」

コーネリアスはまた長く息を吐いて、それから立ち上がったようだ。カツンと足音がした。

「もし彼が貴女になにか不敬をしたら、私のところへ来ていただけますか?待っています」
「え?それは……テオはそんなことしないし、私のことは待たないで欲しい。私は大事な約束を全く覚えてないひどい女だし、その…それに、ものすごく不誠実なんだよ。貴方にふさわしくないと思う」

コーネリアスは、はは、と笑った。笑い声を聞いたのははじめてだ。

「殿下、そんな理由で貴女を嫌いになれていたら、最初から愛してません。私は貴女のわがままで気分屋なところに1番惹かれていたんですよ。でも、そうですね……グレイソン副団長は、貴女を傷つけるようなことはしないか……」

コーネリアスの影が、私の足元まで伸びてきた。立ち上がって方向を変えたのが分かる。

「マリア・サンドラ子爵夫人、殿下とお話しする機会をいただけたことに感謝いたします。エリーナ殿下、どうぞお元気で。もしまたお顔を見かけた際は、ご挨拶をしてもよろしいですか」

私はマリアの反応を伺った。マリアは少し考える素振りを見せ、私が頷きたいことに気付いてくれていたのか、仕方ないなという顔をして頷いた。

「うん」
「ありがとう、ございます。貴女は……本当に、私が知る殿下とは別人ですね。優しすぎる。……失礼いたします」

コーネリアスは独り言のように呟いてから別れの挨拶を口にした。
何の説明もしていないけれど、エリーナが別人であると確信を持って口にしたのはコーネリアスがはじめてではないだろうか。

(エリーナ、貴女のことを大事にしてくれてる人もいたみたいだよ。想いを返せなかったけど、いてくれたことは覚えておこう)

コーネリアスの足音が消えると、マリアはふぅ、と息を吐いて肩の力を抜いた。

「マリア、ありがとう」

私は石垣の上から降りて、ロングコートをマリアに手渡した。マリアは私の顎に手を添えて、顔を固定した。

「殿下、旦那様のことを愛してますか?」
「え?!な、何で、いきなり、なに……?」
「質問に答えて。愛してます?」

そんなこと、私が口にしていいのだろうか。私はテオドールのことを大切に思っているし、幸せになって欲しいと思っている。身体を繋げている時だけでも求められるとすごく舞い上がってしまうし、優しくされると切ない気持ちになってしまう。
こんな気持ちになっていることをテオドールに知られたくない。

マリアの視線を前に隠し事をするのが難しい気がして、私は俯いた。

「ごめんなさい……」
「なぜ謝るんですか?」
「私の気持ちは不適切だから」
「……?夫婦が愛し合うことに関して後ろめたく思う必要はないでしょう。きっかけは関係ない」

マリアは下を向いた私の顔の位置を戻した。

「殿下、私が言いたいのは、テオを愛してるなら、他の男への態度は本当に気をつけてくださいということです。誰これ構わず今みたいに温情をかけていたら、みんな貴女に惚れますよ。殿下はそれくらい魅力的な方だと思います」

マリアの発言は分かるようで分からない。エリーナは確かにとても可愛くて魅力的だけど、悪い噂が絶えない人で、私自身は、今まで誰かに魅力があると言われたことが一度もない。
女である前に、そもそも人として、愛されたことがない。
私自身を認めてもらった経験は、子どもの頃に先生が一生徒である私に誠実に向き合ってくれたという経験だけだ。
その事実を思い出すとつらくて、少し目頭が熱くなってしまう。

マリアは私の手を握った。

「殿下の優しい言葉と心遣いは、自分の存在そのものを肯定してくれているように感じます。暖かく迎えてくれて、自分の居場所を作ってくれる方だと思う。私もこの短い付き合いでそれを実感してます。だからそのことを自覚してください。優しくしてくれて、自分を認めてくれて、なおかつそれがとんでもなく可愛い女の子なんですよ。好きになっても仕方ないと思いませんか?」

優しくするのは私が人の悪意を受け止める勇気がないからだ。認めている、というのはよく分からない。エリーナの外見の良さはよく知っている。
私の言葉が相手にそれだけの価値があるかは分からないけれど、確かに優しく扱われてありのままの自分を認めてくれたら、そこに惹かれてしまうのは分かる。

私がテオドールに抱えている気持ちだからだ。テオドールにとっての私は、エリーナにとってのコーネリアスくらいの価値なのだろうか。

相手がどんな想いを抱えていたとしても、過去の会話の内容も覚えておらず、なぜ好かれていたのかも分からない。ただ一方的に、知らぬ間に愛されていた。縁が切れたらもう思い出してももらえない存在だ。
それを思うと身体が重くなる。

(違う、むしろそれ以下な方が自然なくらいだよね)

自分がなぜテオドールと一緒にいるのか考えれば、私とコーネリアスを比べるのはむしろ失礼だ。

「何人来ても指一本触れさせませんけど、それはそれとして自衛もしましょう。それが好意からくるものであっても、今後は少しでも殿下に不快なことをした男には近寄らないでください」
「……分かった」
「これも約束です」

私が頷くと、マリアは表情を緩めた。

「怖い思いはしませんでしたか?」

優しい声の問いかけに対し、私は首を横に振った。

「なら良かった。帰りましょう」

マリアは私の背中に手を添えた。二人で並んで歩きながら、私はコーネリアスのことを思い出していた。
自分から拒絶したのだから、もう話はできないけれど、一つだけ聞いてみたい。
自分が抱えている気持ちが絶対的な一方通行で、相手にとっては取るに足らないものだと実感した時、どうやって自分を保てばいいのだろうか。

(痛い……)

心臓がずきずき痛んで、泣きたい気持ちになる。

(優しくしすぎるなって、テオにも言ってくれないかな)

マリアの顔をじっと見ると、いつもと同じ綺麗な微笑みが返ってきた。
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