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15. 上書き
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アーノルドに案内され到着した先は、城下町の貴族専用居住区の最西端だった。美しい石造の建物で、テラス席に午後の柔らかな日差しが差し込んでいる。
「内々の話をするから貸切にしてある。殿下、どうぞ。ゆっくり過ごしてください」
アーノルドは自分の家のように気軽な様子で、扉に続く通路を手で示した。ちょうど扉の目の前に来ると、自動扉のように開き、黒いギャルソン姿の初老の男性が迎えてくれた。
「お待ちしておりました」
中に入ると、アーノルドはパチンと指を鳴らした。微かに聞こえていた外の雑踏の音が消え、店内の生演奏の音や、調理をする音、食器が当たるカツンと鋭い音だけになる。
席に着くと乾杯用のドリンクが運ばれてきて、軽く口をつけて雑談したところでアーノルドが席を立った。
「私は少しオーナーと話してくるよ。失礼」
アーノルドはテオドールに何か耳打ちして、厨房の近くの扉へと消えた。テオドールが空になった私のグラスに目を向ける。喉が渇いていたからすぐに飲んでしまった。
「あんた酒は平気なんだな」
「うん。美味しい」
「なら良かった」
エリーナはあまりお酒には興味がなかったようだ。18歳はこの世界でも成人で、ついでにお酒も飲める。体質的には弱くなく、乾杯用の果実酒もジュースのように飲めた。果実酒は女性に人気があると言われただけあって、色も薄桃色でかわいらしく、飲みやすい。
「テオは何の料理が気に入ってるの?」
「ん?ああ、俺が気に入ってる店ってやつか、あれは……」
テオドールはアーノルドの消えた方向に目を向け、彼がいないことを確認した。そして声を低くして教えてくれた。
「ここは俺が叙勲したときにあの人が連れてきてくれた店なんだ。もちろん味もサービスもいいけど、好きなのはそれが理由だ。本人に言うなよ」
私は黙って頷いた。嬉しい秘密を共有され、頬が緩みそうになる。
「……エリーナ、この前俺が話があると言ったのを覚えてるか?」
「うん」
「その話、今していいか。騎士団長もその件で呼んだらしくて、先に俺から伝えておきたいんだ」
仕事に関係のあることだと思っていなくて驚いてしまった。テオドールの仕事と、エリーナは一切関係ないのに、なぜ私に話すのだろう。
断る理由はないので頷いた。
「うん、お願いします」
「ニーフェ公領は分かるか?」
「……北の方にあるとしか」
「そうだ。この国の最北端の領地な。そこに異動の話が出てる。異動というか、出向か。所属は第三騎士団のままだ」
「そうなんだ」
アーノルドが邪魔をするなと言っていたのはこの件だろうか。この話は多分テオドールにとって左遷ではなく出世の話で、それをテオドールが受けようというから、横から口を出して欲しくないということだったのかもしれない。それならばお安い御用だ。
「いいと思う。よかったね」
「……エリーナ、人ごとだと思ってるだろ。俺が話を受けるってことは、あんたの居住地もニーフェ公領内になるってことだよ。引越し。分かるか?」
まるで小さな子どもに説明するように、テオドールはゆっくりとした口調で『引越し』と言った。そんなことは分かる。国王陛下の意向を叶えるためには離れて暮らすわけにはいかないから、私もテオドールとともに移動することになる。
「もちろん分かるよ」
「じゃあもう少しちゃんと話を聞いてから判断しろ。俺がこうだって言ったらなんでもそうするってわけにいかないだろ」
テオドールは果実酒の入ったグラスの上に指をかざす。液体が浮いて、グラスの中に小さな地図のようなものを描いた。
「ちょっと行儀悪いけど、見逃してもらおう。王都がこの端のほうだ。山を背にした平地で気候は温暖。人が多くて魔物はほとんど出なくて、軽犯罪が多いだけの安全な場所だ」
テオドールが指先を動かすと、薄桃色の水の塊がすすすと上に移動していく。
「ここが俺の出身地。この辺から森が深くなる。さらにずっと上に登っていくと、冬がどんどん長くなる。ニーフェ公領はここだ」
地図のずっと上の方で、薄桃色の水がくるりと縁を描き、そしてパチャンと音を立てて、普通の果実酒に戻った。
「人より家畜と魔物の方が多いくらいで、帝国領に隣接してるから常に警戒が必要なんだ。その上港もあるし、国の中央部まで伸びるレーネ川があるから、帝国には絶対奪われたくない。今ここを治めてるのはヴィルヘルム公爵家の当主だ。アーノルド騎士団長の古い知り合いで、領地の防衛指揮を任せられる人間を探してると相談を受けたらしい」
私は話の先を促すように頷いた。
「命令ならもちろんすぐ従うけど、これは提案だと言われた。多分、俺の魔法と相性がいい土地柄だから候補に上がったんだと思う。大規模でひとまとめにすればいい仕事が多くて、王都みたいに細々してない。あとは、出世の話だろうな。王都で騎士団長を務めるには侯爵領以上で5年間防衛の責任者を務める必要があって、その経験を積ませてくれようとしてるんだと思う。正直いきなり経験不足の若造をぶち込む場所じゃないと思うけど、そこは公爵への信頼があるんだろ」
テオドールは少し早口で説明し、一呼吸置いた。
「俺は死ぬまでアーノルド騎士団長の下で恩を返そうと思ってたし、今の生活に不満がない。積極的に受けるつもりはなかった。ただの提案だって言われて、返事も催促されてないしな」
テオドールは私の目をじっと見つめた。
「ここまでが俺の話だ。で、エリーナ、あんたのことだが、少し王都を離れてみたらどうかと思ってる」
「私?」
突然自分の話になり、私はすぐに反応できずに瞬きを返すことしかできなかった。
「テオは積極的に受けるつもりはないんだよね?」
「俺はどっちでもいいと思ってたんだ。必要とされるなら行くし、行かなくてもいいなら現状維持で構わない。それで返事も保留にしてたんだが……エリーナと王都を離れるのもいいなと思って」
エリーナは王都どころか、ほとんど城を離れたことがない。いきなり最北端の領地に行こうと言われても、イメージができなかった。行けと言われれば頷くのに、私が選ぶのだろうか。
「それ、私が決めるの……?」
「いや、最後に決めるのは公爵様だ。ただ、エリーナは王都にいても息苦しそうだし、城より孤児院にいた時の方が楽しそうだったろ。異動したら便利で平和な生活は捨てなきゃならないけど、あまり気にならないんじゃないかと思ったんだ。王都から離れた方が権威主義的じゃないし、顔も知られてないから王女のあんたも自由が利きやすいよ」
その提案は魅力的に思えた。この土地を離れれば、いつどこでエリーナが過去に関係を持った男性に鉢合わせるかとビクビクしなくていい。王都の煌びやかで荘厳な雰囲気から解放されて、もっと人が少ない場所に行ける。その方が私にはきっと生きやすい。
前世ではお母さんの意向で実家から2時間かけて都心の有名大学に通っていて、人の多さと忙しなさに馴染めなかった経験がある。
「それは……興味が、あるかも」
「そっか。じゃあ前向きに話を進めて欲しいと話すよ」
私が頷くと、テオは優しく笑った。
少しするとアーノルドが席に戻ってきて、緩くなってしまったであろう乾杯用のドリンクを一気に煽った。
「さて、と、話はまとまったか?」
「聞いてたんでしょう。まどろっこしいな」
「何?一応聞こえないようにしてたぞ。唇を読んで分かっただけで」
「同じじゃないですか。異動の件、是非前向きにお受けさせていただきたいです。公爵様に取り合ってもらえますか?」
「もちろん。さて、ようやく話をテーブルに乗せられるようになった。私も話がある。食事しながら気軽に聞いてくれ」
アーノルドは嬉しそうに笑った。アーノルドがギャルソンの男性に視線を送ると、前菜が運ばれて来た。カラフルな野菜がゼリー状のものに包まれている。
手をつけるタイミングが分からず、アーノルドが話しはじめるのを待っていたが、テオドールは遠慮なくカトラリーに手を伸ばした。
アーノルドも私に食事を進めるように手を差し出すので、テオドールに習ってフォークに手を伸ばす。
「ニーフェ公領の件、出向は取りやめになった」
先程前向きに受けようと決めたところなのに、もうキャンセルになってしまった。テオドールはがっかりしているだろうかと横を見てみると、アーノルドの真意を探るようにじっと目を見ていた。
「返事をするのが遅すぎましたか」
アーノルドが首を振る。
「いや、ニーフェ公領に行ってもらうのは変わらないが、ヴィルヘルム公爵家は出向じゃなくて、正式な居住者を求めているんだ。所属が公爵家直属の騎士団になる」
「あんたの下を抜けるってことですか?」
「そうなるな。そしてゆくゆくは、公爵家の一員として、防衛任務に限らず、領地全体を任せる人間を探してる」
「……は?それじゃ俺は候補者にならないでしょう。出自が話にならないし、領地運営なんて想像したこともない」
「私も公爵にお前の出自と適性のことは話したよ。それで、不可能かと問われたから少し考えてみた。教育は必要だが、時間があれば不可能じゃないな、と」
「……」
アーノルドは、テオドールの相槌を待たずに話を続けた。
「お前の興味は分からないが、能力的にはできるだろう。どこに出しても恥ずかしくないように育てたつもりだ」
「それだけ評価してもらえてるのはありがたいですが、公爵家の跡取りを押し退けて俺が候補になるのはおかしいですよ」
「ヴィルヘルム公爵の嫡子は先の戦争で亡くなってる」
「……!」
「公爵はあの戦争でお前の噂を聞いて、私に声をかける前から興味はあったらしい。次男がいるが農業に明るくて、兄の元で農地の改革に力を入れるつもりで勉強してきた男だ。いきなり政治も対外防衛もやれと言われて完全に怖気付いてる」
「なら、その次男の補佐として着いたほうがいいじゃないですか。庶民がいきなり公爵家の領地を継ぐなんて、内政の混乱のもとだ。ただでさえ外から攻められやすい土地に火種を持ち込みたくありません。俺は元々それで振り回されて来た身です。権力の配分とかふさわしい身分とか、そういうどうでもいいことで領民を振り回すのは嫌だ」
側から見ているとすごい出世の話なのに、テオドールは嬉しそうではなかった。白い隊服に袖を通した時の話でも感じたけれど、彼は権力に良い印象を持っていないようだった。アーノルドは表情を崩さない。テオドールの噛み付くような視線を全く意に介していないように見える。
「つまり自信がないのか?」
「は?……やれますよ。今までだって任されたことは全部なんとかしてきたでしょう。騎士団長が出来ると判断したなら、最後まで全力を尽くして結果を出します。でもこの話は俺を席に付ける必要性を感じない。余計な混乱を招くだけだ」
アーノルドはため息をついた。
「昔は煽れば乗ってきたのに、可愛げがないな……もう私でもお前を口で負かすのは苦労する。あのな、実のところこの話はもう内定してて、俺はお前の説得だけ頼まれてるんだよ。早く首を縦に振ってくれ」
アーノルドはめんどくさそうに背もたれに寄りかかった。テオドールは立ち上がった。
「なんだそれ。じゃあ命令してくださいよ。命令なら聞くし、それでどんな災を被っても文句を言うつもりはない」
「公爵家を継ごうって男が俺の命令で動いてちゃ困るんだよ。分かるだろ」
「知らないよ、そんなもん。貴族らしい都合だな」
二人の口調がどんどん崩れて、もはや口喧嘩と言っていい状態になっている。話の終着点が見えず聞いていると不安になる。テオドールは、納得しないことには絶対に首を縦に振らないだろう。
私が口を挟むべきではないのだろうけど、このままヒートアップさせて良いものだろうか。
「あ、あの……」
恐る恐る手を上げると、二人はぴたりと口をつぐんで私を見た。
「テオが1番嫌なのは、出自のせいで問題が起きることなの?」
テオドールは権力に執着しておらず、自分自身に権力を与えるための人事なら反対だと主張している。無駄な確執を生じさせず、さらに役割が果たせる立場で配属すれば良いと言っているのだ。
それは最もな意見に聞こえるけれど、実のところ彼はアーノルドから離れることが嫌なのではないか、と思った。最初にテオドールが1番反応したのは、アーノルドの指揮下を離れるかどうかという点だ。
ここまでのちょっとした会話で、どれだけ彼が育ての親であり現上司を慕っているか伝わってきたし、本当に引っ掛かっているのはそっちじゃないかと思う。
「……ああ、そうだよ」
「本当に?」
「どういう意味だ」
久しぶりに攻撃的な声を聞いた。テオドールは警戒した顔をしている。うっと心臓が痛くなって、ひるみそうになる。
アーノルド本人がそばにいては本音を聞き出すのは難しそうだ。騎士団長にはまた少しだけ離席してもらおうと思って、アーノルドに目線を合わせた。
「すみません、シレア騎士団長……」
「その点なら大丈夫だ。シレア公爵の甥として送り込んで、現地で立場が固まってからヴィルヘルム公爵家の養子にすれば解決する。俺とテオの関係なら急な話でもないからな」
「……!」
家名がつらつらと出てきて一瞬混乱してしまった。シレア公爵は確かアーノルドの兄のはずだ。つまり、先に現時点で親子関係になっても不自然ではないアーノルドの養子になることで、家柄が等しい公爵家の人間として現地に赴く。そこで実績を積んでからヴィルヘルム公爵家と縁を結ぶという話らしい。
外聞を整えなければならない貴族社会らしい面倒さだが、実行すればテオドールの言った問題は解決するのかもしれない。
「陛下にも報告済みだ。今後テオが何かしでかしたら、俺が親として責任取りますよってな。この前の指輪の件、俺に何も言わずに解決しようとしただろ。こっちにいなかったから仕方なかったとはいえ……お前にしちゃツメが甘すぎたな」
「……あれは、はい。浅はかでした。申し訳ありません」
「いいよ。もう解決したし、俺の名前の元なら、信用ならないお前とエリーナ殿下を辺境の要所に送り込んでもいいと言ってくださってるからな」
国王陛下は、私たち二人の信用は地の底まで落ちていると言っていた。口約束でそれをカバーできるだけの信用があるなんて、アーノルドは今までどんな貢献の仕方をしてきたのだろうか。
「それに、もし本当にニーフェ公領に行くなら、もう近くで指導してやることも、助けてやることもできなくなる。せめて家の名前で守らせて欲しい」
アーノルドはテオドールの目を真っ直ぐに見据えた。
「テオ、昔俺が同じ提案をしたとき、お前は断ったよな。十分な成果を出してからじゃないと家の名に傷がつくと言っていたが……もういいだろ。俺の息子になってくれ」
「……」
テオドールは返事をせずに固まっていた。表情からは感情が読み取れない。やがて目を瞑って、ゆっくり息を吸って、時間をかけて吐いた。目を開けて、アーノルドに頭を下げる。
「恐悦至極に存じます。謹んでお受けいたします」
「おい、なんで親子になるのにそんなにかしこまって返事するんだよ。おかしいだろ」
「うるさいな……畏まってないと泣きそうなんだ」
テオドールが再度長く息を吐くと、アーノルドは心から嬉しそうに笑った。
「テオ、泣いていいぞ。こういう時は我慢しないほうがいい」
「……ムカつくからもっと言ってください。涙が引っ込む」
先ほど私がテオドールに言われたことを、アーノルドが真似して言っているのだと気付いた。テオドールはふっと笑って、顔をまっすぐに戻す。一粒だけ涙が落ちて、テーブルクロスにシミを作った。
*
食後のデザートと温かい紅茶を頂き、日が傾きかけた頃に屋敷に戻ることになった。馬車の中でテオドールは窓の外に目を向けている。先ほどのアーノルドの言葉を反芻しているのだろうと思って、私は大切な時間を邪魔をしないように黙っていた。
あれだけ信頼しあえる保護者の元で育ったことが少し羨ましい。エリーナ王女にもアーノルドのような後見人がいたら、全く違う人生になっていたかもしれない。
(でもそしたら、テオとは結婚してないんだろうな)
そう考えたら何もかも必然というような気がしてくる。私のお母さんは私に厳しいところがあったけれど、それにも何か意味があったのだろうと思うと少し気持ちが楽になる気がした。
「エリーナ」
「はい?」
「今日は付き合ってくれてありがとうな」
「ううん。シレア騎士団長とお話しできて楽しかったよ」
テオドールは意外そうに目を丸くした。
「あんたは結構適応能力が高いよな。あの人と初対面で引かずに会話を楽しめるのはすごいよ」
「そうかな……?」
「ぜんぶ自分のペースに持っていこうとするし、うるさいし、圧倒されるだろ」
そこに関しては完全に否定できない。私は曖昧に笑った。
「養子の話、何度か言われたことがあったけど断ってたんだ。迷惑かけるし、あっちにはメリットないからな」
「そうなんだね」
迷惑をかけると分かっていて話を受けるのが難しい気持ちは分かる。それが大切な人であればなおさらだ。
「でも今日は、受け入れようと思ったよ。多分エリーナのおかげだ」
「私?」
「ああ、あんたに会って、迷惑をかけられても迷惑じゃないって学んだ。むしろ何も言われないとか、頼られない方が寂しいって」
テオドールは私の髪を耳にかけた。そして優しく笑う。
「もっとわがままなところを見たい。トゲトカゲ時代のあんたとも話をしてみればよかったな」
髪を梳く手がくすぐったい。耳に触れた手がそのままするすると髪を伝って降りていき、テオドールは私の髪を一房掬ってその先に口付けした。
「……!」
普段の親しみやすい雰囲気にはそぐわない仕草だけど、今日の正装した姿では、驚くほど様になった。テオドールの真剣な瞳と目が合って、さっと顔が熱くなる。
「照れてる?」
肩がビクッと跳ねて、つい馬車の壁際まで後ずさってしまった。私はエリーナと違って男の人に慣れておらず、キスをしたのも身体を預けたのもテオドールが初めてだ。髪にキスされたことだってないし、こうやって揶揄われたこともない。恥ずかしくなるのは許して欲しい。
「この服着てるといつもと反応が違うな。女ウケがいいってのはあんたにも当てはまるんだ?」
いつも、と言うと私がびくびく怯えていることだろうか。隊服姿に見惚れていたのは事実だけれど、テオドールに怯えなくなったのは、テオドール自身の言葉や行動が理由だ。私は返事をできずに固まっていた。
それを肯定と受け取ったのか、肯定と受け取ったらなんだという話なのだけど、テオドールがずいっと距離を縮めてきた。狭い箱馬車の中ではあっという間に追い詰められてしまう。
「ち、近……」
「怖いか?」
「怖くないけど、は、離れて……ください」
「嫌だって言ったらどうするんだ」
「えっ」
どうしてこんなに意地の悪いことをするんだろう。意味がわからなくて混乱している。
テオドールは私の頬に手を当て、さらに身を乗り出した。ぎゅっと目を瞑ると、こめかみのあたりに軽く触れる感触があり、ちゅ、と音がした。様子を探るために目を開けたら、なんだか複雑そうな顔をしているテオドールと目が合った。
そのまま私の首元に顔を埋める。整髪料と思われる香りが鼻を掠めた。
「ひっ……!な、何、何?!」
「……コーネリアスのにおいがまだ少しだけ残ってる……魔力も。すごく嫌だ。上書きしていいか」
「……!」
そこで心配になったのは、城の中に国王陛下に近い人がいて、その人にもコーネリアスと密室にいたのがバレたのではないかということだ。何もしてないはずだけれど、アーノルドのように誤解して、またエリーナの評判を落としテオドールにも迷惑をかけることになるかもしれない。
「あ、あの、ごめんなさい……それ、周りの人も気付いてたかな……?」
テオドールは、はぁ、とため息を吐いた。
「かなり近寄らないと分からないから大丈夫だろう。屋敷のメイドは勘付くかもしれないけど」
「……」
メイドは着替えを手伝ってくれるし、食事のサーブでも結構近くまで来る。匂いが分かるものだろうかと自分の腕を持ち上げてすん、と嗅いでみるけれど、コーネリアスの甘い香りがするかは自分では分からなかった。
「着替えを手伝わせなきゃいいんだろ」
「え?」
馬車が屋敷に到着して、入り口の前で止まる。テオドールは外に出ると私の腕を引き、そのまま腰と足を支えて持ち上げた。
「ひゃっ?!」
肩に寄りかかるような体勢で、背中しか見えないから抵抗もできない。テオドールの背中をパシパシと叩いて抗議するが、彼はそれを無視してどんどん先に進んでしまう。廊下にいる使用人やメイドと目が合った。困っているから助けて欲しいと目で訴えたのに、誰も声をかけてくれない。
「自分で歩けるよ……!」
「寝室まで?逃げるだろ」
「……!」
着替えを手伝わせなければ良いと言っていたことを思い出して、やっとテオドールの意図に気が付いた。気付いた時にはもう寝室に到着していて、寝台の上に仰向けで着地させられる。人間一人、よくこうも簡単に持ち上げたり運んだりできるものだ。
テオドールは私の顔のすぐ横に手を置いた。
「いい?」
ここまで散々人の抗議を無視してきたのに、最後の最後で問いかけてくるのはずるい。少し余裕のなさそうな顔にどきりとしたのは、私なのかエリーナなのか分からない。私はこの顔を見て、求められているものに応えなくてはという気持ちになった。エリーナの記憶によるとこの表情はよく男の人が寝台の上で見せる顔らしい。
それを少し怖いと思ってしまったけれど、テオドールが相手なら怖くないような気もして、自分の気持ちがよく分からない。
「……テオが決めて」
テオドールは一瞬目を見開いて、少し呆れたように笑った。
「なら返事は決まってる」
「内々の話をするから貸切にしてある。殿下、どうぞ。ゆっくり過ごしてください」
アーノルドは自分の家のように気軽な様子で、扉に続く通路を手で示した。ちょうど扉の目の前に来ると、自動扉のように開き、黒いギャルソン姿の初老の男性が迎えてくれた。
「お待ちしておりました」
中に入ると、アーノルドはパチンと指を鳴らした。微かに聞こえていた外の雑踏の音が消え、店内の生演奏の音や、調理をする音、食器が当たるカツンと鋭い音だけになる。
席に着くと乾杯用のドリンクが運ばれてきて、軽く口をつけて雑談したところでアーノルドが席を立った。
「私は少しオーナーと話してくるよ。失礼」
アーノルドはテオドールに何か耳打ちして、厨房の近くの扉へと消えた。テオドールが空になった私のグラスに目を向ける。喉が渇いていたからすぐに飲んでしまった。
「あんた酒は平気なんだな」
「うん。美味しい」
「なら良かった」
エリーナはあまりお酒には興味がなかったようだ。18歳はこの世界でも成人で、ついでにお酒も飲める。体質的には弱くなく、乾杯用の果実酒もジュースのように飲めた。果実酒は女性に人気があると言われただけあって、色も薄桃色でかわいらしく、飲みやすい。
「テオは何の料理が気に入ってるの?」
「ん?ああ、俺が気に入ってる店ってやつか、あれは……」
テオドールはアーノルドの消えた方向に目を向け、彼がいないことを確認した。そして声を低くして教えてくれた。
「ここは俺が叙勲したときにあの人が連れてきてくれた店なんだ。もちろん味もサービスもいいけど、好きなのはそれが理由だ。本人に言うなよ」
私は黙って頷いた。嬉しい秘密を共有され、頬が緩みそうになる。
「……エリーナ、この前俺が話があると言ったのを覚えてるか?」
「うん」
「その話、今していいか。騎士団長もその件で呼んだらしくて、先に俺から伝えておきたいんだ」
仕事に関係のあることだと思っていなくて驚いてしまった。テオドールの仕事と、エリーナは一切関係ないのに、なぜ私に話すのだろう。
断る理由はないので頷いた。
「うん、お願いします」
「ニーフェ公領は分かるか?」
「……北の方にあるとしか」
「そうだ。この国の最北端の領地な。そこに異動の話が出てる。異動というか、出向か。所属は第三騎士団のままだ」
「そうなんだ」
アーノルドが邪魔をするなと言っていたのはこの件だろうか。この話は多分テオドールにとって左遷ではなく出世の話で、それをテオドールが受けようというから、横から口を出して欲しくないということだったのかもしれない。それならばお安い御用だ。
「いいと思う。よかったね」
「……エリーナ、人ごとだと思ってるだろ。俺が話を受けるってことは、あんたの居住地もニーフェ公領内になるってことだよ。引越し。分かるか?」
まるで小さな子どもに説明するように、テオドールはゆっくりとした口調で『引越し』と言った。そんなことは分かる。国王陛下の意向を叶えるためには離れて暮らすわけにはいかないから、私もテオドールとともに移動することになる。
「もちろん分かるよ」
「じゃあもう少しちゃんと話を聞いてから判断しろ。俺がこうだって言ったらなんでもそうするってわけにいかないだろ」
テオドールは果実酒の入ったグラスの上に指をかざす。液体が浮いて、グラスの中に小さな地図のようなものを描いた。
「ちょっと行儀悪いけど、見逃してもらおう。王都がこの端のほうだ。山を背にした平地で気候は温暖。人が多くて魔物はほとんど出なくて、軽犯罪が多いだけの安全な場所だ」
テオドールが指先を動かすと、薄桃色の水の塊がすすすと上に移動していく。
「ここが俺の出身地。この辺から森が深くなる。さらにずっと上に登っていくと、冬がどんどん長くなる。ニーフェ公領はここだ」
地図のずっと上の方で、薄桃色の水がくるりと縁を描き、そしてパチャンと音を立てて、普通の果実酒に戻った。
「人より家畜と魔物の方が多いくらいで、帝国領に隣接してるから常に警戒が必要なんだ。その上港もあるし、国の中央部まで伸びるレーネ川があるから、帝国には絶対奪われたくない。今ここを治めてるのはヴィルヘルム公爵家の当主だ。アーノルド騎士団長の古い知り合いで、領地の防衛指揮を任せられる人間を探してると相談を受けたらしい」
私は話の先を促すように頷いた。
「命令ならもちろんすぐ従うけど、これは提案だと言われた。多分、俺の魔法と相性がいい土地柄だから候補に上がったんだと思う。大規模でひとまとめにすればいい仕事が多くて、王都みたいに細々してない。あとは、出世の話だろうな。王都で騎士団長を務めるには侯爵領以上で5年間防衛の責任者を務める必要があって、その経験を積ませてくれようとしてるんだと思う。正直いきなり経験不足の若造をぶち込む場所じゃないと思うけど、そこは公爵への信頼があるんだろ」
テオドールは少し早口で説明し、一呼吸置いた。
「俺は死ぬまでアーノルド騎士団長の下で恩を返そうと思ってたし、今の生活に不満がない。積極的に受けるつもりはなかった。ただの提案だって言われて、返事も催促されてないしな」
テオドールは私の目をじっと見つめた。
「ここまでが俺の話だ。で、エリーナ、あんたのことだが、少し王都を離れてみたらどうかと思ってる」
「私?」
突然自分の話になり、私はすぐに反応できずに瞬きを返すことしかできなかった。
「テオは積極的に受けるつもりはないんだよね?」
「俺はどっちでもいいと思ってたんだ。必要とされるなら行くし、行かなくてもいいなら現状維持で構わない。それで返事も保留にしてたんだが……エリーナと王都を離れるのもいいなと思って」
エリーナは王都どころか、ほとんど城を離れたことがない。いきなり最北端の領地に行こうと言われても、イメージができなかった。行けと言われれば頷くのに、私が選ぶのだろうか。
「それ、私が決めるの……?」
「いや、最後に決めるのは公爵様だ。ただ、エリーナは王都にいても息苦しそうだし、城より孤児院にいた時の方が楽しそうだったろ。異動したら便利で平和な生活は捨てなきゃならないけど、あまり気にならないんじゃないかと思ったんだ。王都から離れた方が権威主義的じゃないし、顔も知られてないから王女のあんたも自由が利きやすいよ」
その提案は魅力的に思えた。この土地を離れれば、いつどこでエリーナが過去に関係を持った男性に鉢合わせるかとビクビクしなくていい。王都の煌びやかで荘厳な雰囲気から解放されて、もっと人が少ない場所に行ける。その方が私にはきっと生きやすい。
前世ではお母さんの意向で実家から2時間かけて都心の有名大学に通っていて、人の多さと忙しなさに馴染めなかった経験がある。
「それは……興味が、あるかも」
「そっか。じゃあ前向きに話を進めて欲しいと話すよ」
私が頷くと、テオは優しく笑った。
少しするとアーノルドが席に戻ってきて、緩くなってしまったであろう乾杯用のドリンクを一気に煽った。
「さて、と、話はまとまったか?」
「聞いてたんでしょう。まどろっこしいな」
「何?一応聞こえないようにしてたぞ。唇を読んで分かっただけで」
「同じじゃないですか。異動の件、是非前向きにお受けさせていただきたいです。公爵様に取り合ってもらえますか?」
「もちろん。さて、ようやく話をテーブルに乗せられるようになった。私も話がある。食事しながら気軽に聞いてくれ」
アーノルドは嬉しそうに笑った。アーノルドがギャルソンの男性に視線を送ると、前菜が運ばれて来た。カラフルな野菜がゼリー状のものに包まれている。
手をつけるタイミングが分からず、アーノルドが話しはじめるのを待っていたが、テオドールは遠慮なくカトラリーに手を伸ばした。
アーノルドも私に食事を進めるように手を差し出すので、テオドールに習ってフォークに手を伸ばす。
「ニーフェ公領の件、出向は取りやめになった」
先程前向きに受けようと決めたところなのに、もうキャンセルになってしまった。テオドールはがっかりしているだろうかと横を見てみると、アーノルドの真意を探るようにじっと目を見ていた。
「返事をするのが遅すぎましたか」
アーノルドが首を振る。
「いや、ニーフェ公領に行ってもらうのは変わらないが、ヴィルヘルム公爵家は出向じゃなくて、正式な居住者を求めているんだ。所属が公爵家直属の騎士団になる」
「あんたの下を抜けるってことですか?」
「そうなるな。そしてゆくゆくは、公爵家の一員として、防衛任務に限らず、領地全体を任せる人間を探してる」
「……は?それじゃ俺は候補者にならないでしょう。出自が話にならないし、領地運営なんて想像したこともない」
「私も公爵にお前の出自と適性のことは話したよ。それで、不可能かと問われたから少し考えてみた。教育は必要だが、時間があれば不可能じゃないな、と」
「……」
アーノルドは、テオドールの相槌を待たずに話を続けた。
「お前の興味は分からないが、能力的にはできるだろう。どこに出しても恥ずかしくないように育てたつもりだ」
「それだけ評価してもらえてるのはありがたいですが、公爵家の跡取りを押し退けて俺が候補になるのはおかしいですよ」
「ヴィルヘルム公爵の嫡子は先の戦争で亡くなってる」
「……!」
「公爵はあの戦争でお前の噂を聞いて、私に声をかける前から興味はあったらしい。次男がいるが農業に明るくて、兄の元で農地の改革に力を入れるつもりで勉強してきた男だ。いきなり政治も対外防衛もやれと言われて完全に怖気付いてる」
「なら、その次男の補佐として着いたほうがいいじゃないですか。庶民がいきなり公爵家の領地を継ぐなんて、内政の混乱のもとだ。ただでさえ外から攻められやすい土地に火種を持ち込みたくありません。俺は元々それで振り回されて来た身です。権力の配分とかふさわしい身分とか、そういうどうでもいいことで領民を振り回すのは嫌だ」
側から見ているとすごい出世の話なのに、テオドールは嬉しそうではなかった。白い隊服に袖を通した時の話でも感じたけれど、彼は権力に良い印象を持っていないようだった。アーノルドは表情を崩さない。テオドールの噛み付くような視線を全く意に介していないように見える。
「つまり自信がないのか?」
「は?……やれますよ。今までだって任されたことは全部なんとかしてきたでしょう。騎士団長が出来ると判断したなら、最後まで全力を尽くして結果を出します。でもこの話は俺を席に付ける必要性を感じない。余計な混乱を招くだけだ」
アーノルドはため息をついた。
「昔は煽れば乗ってきたのに、可愛げがないな……もう私でもお前を口で負かすのは苦労する。あのな、実のところこの話はもう内定してて、俺はお前の説得だけ頼まれてるんだよ。早く首を縦に振ってくれ」
アーノルドはめんどくさそうに背もたれに寄りかかった。テオドールは立ち上がった。
「なんだそれ。じゃあ命令してくださいよ。命令なら聞くし、それでどんな災を被っても文句を言うつもりはない」
「公爵家を継ごうって男が俺の命令で動いてちゃ困るんだよ。分かるだろ」
「知らないよ、そんなもん。貴族らしい都合だな」
二人の口調がどんどん崩れて、もはや口喧嘩と言っていい状態になっている。話の終着点が見えず聞いていると不安になる。テオドールは、納得しないことには絶対に首を縦に振らないだろう。
私が口を挟むべきではないのだろうけど、このままヒートアップさせて良いものだろうか。
「あ、あの……」
恐る恐る手を上げると、二人はぴたりと口をつぐんで私を見た。
「テオが1番嫌なのは、出自のせいで問題が起きることなの?」
テオドールは権力に執着しておらず、自分自身に権力を与えるための人事なら反対だと主張している。無駄な確執を生じさせず、さらに役割が果たせる立場で配属すれば良いと言っているのだ。
それは最もな意見に聞こえるけれど、実のところ彼はアーノルドから離れることが嫌なのではないか、と思った。最初にテオドールが1番反応したのは、アーノルドの指揮下を離れるかどうかという点だ。
ここまでのちょっとした会話で、どれだけ彼が育ての親であり現上司を慕っているか伝わってきたし、本当に引っ掛かっているのはそっちじゃないかと思う。
「……ああ、そうだよ」
「本当に?」
「どういう意味だ」
久しぶりに攻撃的な声を聞いた。テオドールは警戒した顔をしている。うっと心臓が痛くなって、ひるみそうになる。
アーノルド本人がそばにいては本音を聞き出すのは難しそうだ。騎士団長にはまた少しだけ離席してもらおうと思って、アーノルドに目線を合わせた。
「すみません、シレア騎士団長……」
「その点なら大丈夫だ。シレア公爵の甥として送り込んで、現地で立場が固まってからヴィルヘルム公爵家の養子にすれば解決する。俺とテオの関係なら急な話でもないからな」
「……!」
家名がつらつらと出てきて一瞬混乱してしまった。シレア公爵は確かアーノルドの兄のはずだ。つまり、先に現時点で親子関係になっても不自然ではないアーノルドの養子になることで、家柄が等しい公爵家の人間として現地に赴く。そこで実績を積んでからヴィルヘルム公爵家と縁を結ぶという話らしい。
外聞を整えなければならない貴族社会らしい面倒さだが、実行すればテオドールの言った問題は解決するのかもしれない。
「陛下にも報告済みだ。今後テオが何かしでかしたら、俺が親として責任取りますよってな。この前の指輪の件、俺に何も言わずに解決しようとしただろ。こっちにいなかったから仕方なかったとはいえ……お前にしちゃツメが甘すぎたな」
「……あれは、はい。浅はかでした。申し訳ありません」
「いいよ。もう解決したし、俺の名前の元なら、信用ならないお前とエリーナ殿下を辺境の要所に送り込んでもいいと言ってくださってるからな」
国王陛下は、私たち二人の信用は地の底まで落ちていると言っていた。口約束でそれをカバーできるだけの信用があるなんて、アーノルドは今までどんな貢献の仕方をしてきたのだろうか。
「それに、もし本当にニーフェ公領に行くなら、もう近くで指導してやることも、助けてやることもできなくなる。せめて家の名前で守らせて欲しい」
アーノルドはテオドールの目を真っ直ぐに見据えた。
「テオ、昔俺が同じ提案をしたとき、お前は断ったよな。十分な成果を出してからじゃないと家の名に傷がつくと言っていたが……もういいだろ。俺の息子になってくれ」
「……」
テオドールは返事をせずに固まっていた。表情からは感情が読み取れない。やがて目を瞑って、ゆっくり息を吸って、時間をかけて吐いた。目を開けて、アーノルドに頭を下げる。
「恐悦至極に存じます。謹んでお受けいたします」
「おい、なんで親子になるのにそんなにかしこまって返事するんだよ。おかしいだろ」
「うるさいな……畏まってないと泣きそうなんだ」
テオドールが再度長く息を吐くと、アーノルドは心から嬉しそうに笑った。
「テオ、泣いていいぞ。こういう時は我慢しないほうがいい」
「……ムカつくからもっと言ってください。涙が引っ込む」
先ほど私がテオドールに言われたことを、アーノルドが真似して言っているのだと気付いた。テオドールはふっと笑って、顔をまっすぐに戻す。一粒だけ涙が落ちて、テーブルクロスにシミを作った。
*
食後のデザートと温かい紅茶を頂き、日が傾きかけた頃に屋敷に戻ることになった。馬車の中でテオドールは窓の外に目を向けている。先ほどのアーノルドの言葉を反芻しているのだろうと思って、私は大切な時間を邪魔をしないように黙っていた。
あれだけ信頼しあえる保護者の元で育ったことが少し羨ましい。エリーナ王女にもアーノルドのような後見人がいたら、全く違う人生になっていたかもしれない。
(でもそしたら、テオとは結婚してないんだろうな)
そう考えたら何もかも必然というような気がしてくる。私のお母さんは私に厳しいところがあったけれど、それにも何か意味があったのだろうと思うと少し気持ちが楽になる気がした。
「エリーナ」
「はい?」
「今日は付き合ってくれてありがとうな」
「ううん。シレア騎士団長とお話しできて楽しかったよ」
テオドールは意外そうに目を丸くした。
「あんたは結構適応能力が高いよな。あの人と初対面で引かずに会話を楽しめるのはすごいよ」
「そうかな……?」
「ぜんぶ自分のペースに持っていこうとするし、うるさいし、圧倒されるだろ」
そこに関しては完全に否定できない。私は曖昧に笑った。
「養子の話、何度か言われたことがあったけど断ってたんだ。迷惑かけるし、あっちにはメリットないからな」
「そうなんだね」
迷惑をかけると分かっていて話を受けるのが難しい気持ちは分かる。それが大切な人であればなおさらだ。
「でも今日は、受け入れようと思ったよ。多分エリーナのおかげだ」
「私?」
「ああ、あんたに会って、迷惑をかけられても迷惑じゃないって学んだ。むしろ何も言われないとか、頼られない方が寂しいって」
テオドールは私の髪を耳にかけた。そして優しく笑う。
「もっとわがままなところを見たい。トゲトカゲ時代のあんたとも話をしてみればよかったな」
髪を梳く手がくすぐったい。耳に触れた手がそのままするすると髪を伝って降りていき、テオドールは私の髪を一房掬ってその先に口付けした。
「……!」
普段の親しみやすい雰囲気にはそぐわない仕草だけど、今日の正装した姿では、驚くほど様になった。テオドールの真剣な瞳と目が合って、さっと顔が熱くなる。
「照れてる?」
肩がビクッと跳ねて、つい馬車の壁際まで後ずさってしまった。私はエリーナと違って男の人に慣れておらず、キスをしたのも身体を預けたのもテオドールが初めてだ。髪にキスされたことだってないし、こうやって揶揄われたこともない。恥ずかしくなるのは許して欲しい。
「この服着てるといつもと反応が違うな。女ウケがいいってのはあんたにも当てはまるんだ?」
いつも、と言うと私がびくびく怯えていることだろうか。隊服姿に見惚れていたのは事実だけれど、テオドールに怯えなくなったのは、テオドール自身の言葉や行動が理由だ。私は返事をできずに固まっていた。
それを肯定と受け取ったのか、肯定と受け取ったらなんだという話なのだけど、テオドールがずいっと距離を縮めてきた。狭い箱馬車の中ではあっという間に追い詰められてしまう。
「ち、近……」
「怖いか?」
「怖くないけど、は、離れて……ください」
「嫌だって言ったらどうするんだ」
「えっ」
どうしてこんなに意地の悪いことをするんだろう。意味がわからなくて混乱している。
テオドールは私の頬に手を当て、さらに身を乗り出した。ぎゅっと目を瞑ると、こめかみのあたりに軽く触れる感触があり、ちゅ、と音がした。様子を探るために目を開けたら、なんだか複雑そうな顔をしているテオドールと目が合った。
そのまま私の首元に顔を埋める。整髪料と思われる香りが鼻を掠めた。
「ひっ……!な、何、何?!」
「……コーネリアスのにおいがまだ少しだけ残ってる……魔力も。すごく嫌だ。上書きしていいか」
「……!」
そこで心配になったのは、城の中に国王陛下に近い人がいて、その人にもコーネリアスと密室にいたのがバレたのではないかということだ。何もしてないはずだけれど、アーノルドのように誤解して、またエリーナの評判を落としテオドールにも迷惑をかけることになるかもしれない。
「あ、あの、ごめんなさい……それ、周りの人も気付いてたかな……?」
テオドールは、はぁ、とため息を吐いた。
「かなり近寄らないと分からないから大丈夫だろう。屋敷のメイドは勘付くかもしれないけど」
「……」
メイドは着替えを手伝ってくれるし、食事のサーブでも結構近くまで来る。匂いが分かるものだろうかと自分の腕を持ち上げてすん、と嗅いでみるけれど、コーネリアスの甘い香りがするかは自分では分からなかった。
「着替えを手伝わせなきゃいいんだろ」
「え?」
馬車が屋敷に到着して、入り口の前で止まる。テオドールは外に出ると私の腕を引き、そのまま腰と足を支えて持ち上げた。
「ひゃっ?!」
肩に寄りかかるような体勢で、背中しか見えないから抵抗もできない。テオドールの背中をパシパシと叩いて抗議するが、彼はそれを無視してどんどん先に進んでしまう。廊下にいる使用人やメイドと目が合った。困っているから助けて欲しいと目で訴えたのに、誰も声をかけてくれない。
「自分で歩けるよ……!」
「寝室まで?逃げるだろ」
「……!」
着替えを手伝わせなければ良いと言っていたことを思い出して、やっとテオドールの意図に気が付いた。気付いた時にはもう寝室に到着していて、寝台の上に仰向けで着地させられる。人間一人、よくこうも簡単に持ち上げたり運んだりできるものだ。
テオドールは私の顔のすぐ横に手を置いた。
「いい?」
ここまで散々人の抗議を無視してきたのに、最後の最後で問いかけてくるのはずるい。少し余裕のなさそうな顔にどきりとしたのは、私なのかエリーナなのか分からない。私はこの顔を見て、求められているものに応えなくてはという気持ちになった。エリーナの記憶によるとこの表情はよく男の人が寝台の上で見せる顔らしい。
それを少し怖いと思ってしまったけれど、テオドールが相手なら怖くないような気もして、自分の気持ちがよく分からない。
「……テオが決めて」
テオドールは一瞬目を見開いて、少し呆れたように笑った。
「なら返事は決まってる」
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