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1巻
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翌朝から、イリスは早速ノアの側近だというロバートと、その補佐ケビンとともに帳簿管理についての講義を受けた。
ノア本人は北部で起きた土砂災害の対応で急に屋敷を離れることになったそうで、戻ってくるのは早くとも八日後だと言う。
毎日管理するものでもないので、説明を受けた後は実務が発生する時にノアと作業することにする。大した暇つぶしにもならず、三日もすればまた手が空いた。
余った時間を消化するため、ひたすら過去にノアが作成した書類を読む。ロバートに当時の状況を説明してもらいながら、古いそれに目を通す。
そんなふうに毎日山のような書類と書籍に目を通していたところ、古い本棚の奥に押しつぶされるようになっている分厚い革表紙の手帳が目に入った――
◆ ◆ ◆
ノアが北部の土砂災害の話を聞いたのは早朝だった。現地に駐屯している騎士団が対応しているが、父に援助のための人員を連れての対応を命令され、急いで向かうことになる。
こうした緊急事態に、ノアが実地に出向くのは珍しいことではない。公爵家から人が向かえば領民が安心した顔をするし、ノアは市井の人々と交流するのが好きだ。
ただ、今は一つ懸念があった。
公務に精を出していると、嫁いできた新妻を放置することになる。
彼は急いで必要な処理を施して、予定より一日早く屋敷に戻った。
しかし、すでに日が落ちてから長く、今日もイリスに挨拶すらできなそうだと悟って肩を落とす。遅い夕食を軽めに済ませ、寝る前に汗を拭いて着替え、妻が眠っているはずの寝室に向かう。
彼はドアノブに手をかけたが、すぐには扉を開かなかった。
(初日からアンナのことで印象が悪いのに、ずっと挽回できないままだな)
小さなため息をつく。
イリスとの婚姻は、彼には少々気の重い縁だった。家の歴史と血の尊さこそ両家はお互いに相応しいが、釣り合いが取れているのは家の名前だけだとノアは思うのだ。
イリスは幼い頃から王太子の婚約者として注目される存在だった。社交界でも一際目を引く美貌と気品を持つ高嶺の花。
そのイリスと突然結婚することになった時には本当に驚いた。思わず、こんなところに来てもらっていいのか、と口にして、父に「嫁が恥じるような領地だと言いたいのか」と凄まれ、慌てて首を横に振った覚えがある。
ノアはこの土地に愛着がある。しかしイリスはそうではない。連れてこられただけの彼女に楽しんでもらえる場所ではないと知っている。
(領地もそうだし、私自身もなぁ……)
便利さや華やかさを捨てて一緒になりたいと思ってもらえるほど、特別なところがあるかというと疑問。
ノアは自分にできることとできないことはよく理解していて、誇りに思っているところもある。しかし自分が王太子と比べて魅力的だと思うほど能天気でもなかった。
王太子のジョシュアは濡羽のような艶やかな黒髪と灰色に近いアイスブルーの瞳を持つ美丈夫だ。表情豊かではないが、以前ノアが挨拶した時には、控えめながらよく笑う人だという印象を受けた。
ジョシュアはノアが領地で経験した様々なトラブルについて面白おかしく話すのを興味深そうに聞いてくれたのだ。動物が好きなようで、ノアが逃げ出したヒヨコを捕まえようとして両手いっぱいに抱えて失敗した話をすると、自分もヒヨコを手に乗せてみたい、ヴェルディア領に行ってみたい、と笑ってくれた。社交辞令ではなく、ただ素直な気持ちを言ってくれていたように感じて、ノアは思慮深い王太子を好きになった。
夜会でジョシュアとイリスが並んでいるのを見ると、そこだけ絵画から取り出したように感じたものだ。美しく、別の世界から来たような二人。
自分はこの二人が国王と王妃になった将来、臣下として仕えることになるのだな。そうぼんやり思っていた。それはまだ遠い日の想像ではあったが、ノアを誇らしい気持ちにした。
ジョシュアもイリスも、話してみると初対面の印象ほど近寄り難くはない。イリスはノアと二人きりだと、意外なほど思ったことを顔に出し、分かりやすかった。世間知らずなところは危ういほど無防備で、プライドが高くて自分に厳しい。そこをあまり自覚していないところが可愛いと思う。
イリスは彼女自身が何かを上手くできないままでいることを許さない。ノアにとって失敗とは思えない小さな不完全さに悔しそうに息を呑んで、完璧になるまで集中してやり直す。
彼女の集中している時の横顔と、出来た時の誇らしげな、しかしそれを表に出さないように振る舞おうとする表情を思い出して、ノアの頬は緩んだ。だがそれはすぐまた曇る。
ノアはまたため息をついた。ドアノブに添えた手は動かせないままだ。
(どうしよう。このままだと一生信頼されない気がする)
結婚式の夜、ノアはイリスを信頼できる人だと感じ、夫婦としても上手くやっていけると思った。だが、あの夜のイリスの言葉で、彼女は自分と心を通わせる気がないのだと分かった時には心が重くなった。しかもその理由の一つは、ノア自身の軽率な行動だ。
――貴方が誰を愛していても、もう結婚は成立していて、後戻りはできないもの。
あの言葉は、彼女自身に言い聞かせるようだった。
従妹に気持ちを残したまま形だけの結婚をしようとしている男。そう思われているのだ。
ほとんど話したこともないイリスにさえそう思われるような過去の軽率な行動を思い返して、ノアは自分のことが恥ずかしくなった。
自分とアンナに関する噂には自覚がある。でもそんなものただの噂だと気にしてこなかった。大切なのは真実で、近しい人は自分を信じてくれるのだからそれでいいと考えていたのだ。
従妹にエスコートを頼まれて兄代わりに振る舞うことの何が悪いのか。
母には呆れた顔をされ、「後先を考えないで振る舞うと後悔するわよ」と何度か忠告されていた。
未来より目の前のことを大切にしすぎてしまうのが自分の欠点だとは知っている。
彼はこれまで自分自身の足りないところに対して必要な場では取り繕うものの、真剣に直そうとはしてこなかった。それより得意なことで勝負したほうが上手くいくと経験から学んでいたのだ。
しかしできないことを許さないイリスを見ていると、自分が欠点と向き合わないのは逃げだったかもしれないと気づく。弱点に誠実に向き合いたいという気持ちが芽生えたが、そうすると仕事がさらに忙しくなる。必然的にイリスと過ごす時間が減る。そうしてまた、妻を放置している夫という印象が強まっていった。
(ダメだ、また言い訳してる。忙しくても上手くやってる夫婦はいるんだから、時間がないってのは理由にならないはずだ。今日はもうさすがに寝ているだろうし、明日話しかけてみよう)
明日は本来なら移動時間に充てていたはずの日で、少し余裕がある。
ノアは自分の予定を頭に思い浮かべながら扉を開いた。真っ暗なはずの部屋には、橙色の灯りがついている。
ベッドの背もたれに身体を預けたイリスが顔を上げた。
「イリス」
彼女の青い瞳は赤っぽい光でいつもより濃い紫に見える。その目が軽く見開かれた。
「あら……ノア、おかえりなさい」
「ただいま。随分遅くまで起きているんだね。どうしたの?」
「興味深いものを見つけたのよ。貴方こそ、戻るのは明日以降と聞いていたけれど」
「予定はね。君に会いたくて早く戻ってきたんだ」
イリスは軽く眉を顰める。ノアの言葉の真意を探るような警戒した顔つきだ。
怪我した野生動物のように激しくはないけれど、疑いと、戸惑いが混ざったような視線。
(本当なのに)
ノアは苦笑いすると、ベッドに膝を乗せた。
「それで、君のほうはどんな興味深いものが……」
イリスの手元には古い手帳があった。それに見覚えがあることに気づき、咄嗟に奪い取る。イリスが非難の声を上げた。
「ちょっと!」
「これっ……! なんで、君が!」
「これは貴方の筆跡なのね。本棚の奥に押し込まれていたわよ」
手帳の中身はノアが数年前まで思いついた時に書き留めていた詩だ。韻文と呼べるかどうかも怪しい、拙いメモ書き。読める人の少ない古い言葉で書いたもので、筆跡も雑。態度に出さなければ知らないふりをして誤魔化せただろうがもう遅い。
「中を見た? 見たよね」
「なぜそんなに肩を落とすの? いい文章だと思うわ」
「君は古ティヌム語も読めるのか! とんでもないよ。思いついたことをそのまま走り書きしているくだらないメモ書きだ。恥ずかしい」
ノアは手帳を閉じて、手で熱くなった顔を扇いだ。
「そんな。私は好きよ。特にこの、ヒヨコの雌雄が見分けられない詩」
「よりによって一番くだらないやつじゃないか」
養鶏場の視察に行った際に、待ち時間が長すぎて書いた詩。雌雄の見分け方を聞いたけれど全く理解できなかった、というだけの内容だ。
「誰にリボンをつけていいか分からないから虹色のリボンを用意して、『Arcum iris parare, colores eligere?(好きな色を選んでくれる?)』と聞くのは貴方らしいと思うわ。それに養鶏場のヒヨコにリボンをつけるのは、ティヌム神話のオマージュでしょう。女神に……」
「ごめん、本当にやめて! 顔から火が出そうだから」
昔書いた詩を真面目に解説されて、ノアの顔は文字どおり燃えるように熱くなっていた。
「そう……。他の詩も素敵だと思うわ。春に戻ってきたツバメや氷の下にいる魚の話を聞いてみたいなんて、私は考えたこともないもの」
やめてほしいと言ったのに、イリスはまだ手帳のことを話題にしている。
ノアは彼女の声に楽しげな音が混じっているのを感じ取って、拗ねた顔になった。
「揶揄ってる?」
「まぁ! 賞賛は正直な気持ちよ。貴方の目に何が映っているのか、もっと知りたいと思ったわ」
そう言いつつ、イリスの目は愉快そうに細まる。いつもの美しく計算された微笑みとは異なる、少女らしい笑い方。目尻が下がって幼い印象になっている。
ノアは軽く心臓が跳ねたのを誤魔化すように一度視線を外し、手帳をサイドテーブルに置いた。
「聞いてくれるならいくらでも話すよ。明日は、本当はまだ北部にいる予定だったから一日空いているんだ。君の予定は?」
「お義母様と美術館に行く予定があるわ」
きっかけを作ったのは自分だが、母とイリスはどんどん仲良くなる。あまりおもしろくない。
「それなら私を優先させても構わないはずだ。明日の君の時間を全部もらってもいい? 母上には私から言うから」
ノアがじっと見つめると、彼女は小さく頷いた。
「ええ。何をするの?」
「決めてない。目が覚めた時間によるかな」
イリスの手に自分の手を重ねる。そのまま手を引いて彼女を腕の中に抱き止めたい衝動を抑えて、手を握るに留めた。イリスが笑ってくれたのが嬉しくて、急に距離が縮んだように錯覚しそうだ。
ノアは自分の気持ちを落ち着けるためにゆっくり呼吸をした。
イリスの手を握って離してを繰り返す。次第に彼女は落ち着かない様子になって、視線を泳がせる。嫌がられていないのを確認しながら、彼女の甲に文字を書くように指を滑らせた。
「何を書いているの?」
「君の名前」
イリスの名前は、彼女によく似合っているとノアは思う。まっすぐ伸びた茎と、高貴な紫色の花。
ノアはイリスの瞳をじっと見つめた。青い虹彩に橙色の灯りが映って揺れて、紫が強く見える。
「Tuae pupillae intra, Iris floribus videtur(君の瞳の中にアイリスの花が見える)」
古い言葉で呟くと、イリスは何度か瞬きをしてから、ふっと噴き出して笑った。
「一応ロマンチックなことを言ったつもりなんだけれど、そんなに面白い?」
「とてもロマンチックだと思うわ」
「本当? 甘い言葉にうっとりしているようには見えないな」
「そうね……どうして笑ってしまうのか、私にも分からないの」
彼女は肩を震わせるのはやめて、最後に困ったように眉を下げる。
「ノア、私……」
「うん」
「貴方のことを知りたいわ」
ノアの手に、イリスの細い指がそっと触れた。
◇ ◇ ◇
朝になり、イリスは習慣で陽が出る前に目を覚ました。
隣で眠るノアの穏やかな顔を見て頬を緩める。同時に、昨夜の甘く過ごした時間を思い返して、頬に熱が集まった。
ノアがわずかに眉を寄せて、ゆっくり目を開く。
「ん……イリス……?」
「ごめんなさい。起こすつもりはなかったの」
「いいよ。今日は君と話をしたかったんだ。私は予定がないとなかなか起きられないからありがたい」
彼はゆっくり身体を起こした。イリスはまだ目が覚めきっていないように見える夫の気だるそうな横顔を眺め、昨晩の手帳のことを思い出す。
「貴方は朝の冷えた空気の中、うとうと目を覚ましてまた暖かいベッドに潜るのが好きだったわね」
ノアが目を見開いてイリスを見た。頬がさぁっと赤くなる。
話題にされたくないと言われていたのだと思い出して、イリスはハッと口を閉じた。
「そうだよ。イリス、君は記憶力がよすぎるな」
彼女は昔から賢くて一度覚えたことは忘れない、天才だと褒められてきた。本人は周りにいる人々は彼女を褒めなければならないから褒めているのだと思っていたが。賞賛の裏にある彼らの意図を汲み取って正解の返答をするのが、イリスの役割だった。
「そうね、よく言われるわ」
ノアにはおよそ正解だと思えない返事をする。
彼は目を見開いた。言葉を失ったように口を開いて、閉じる。ノアはよく喋るが、驚いた時や狼狽えた時は無口になるのだなと思いながら、イリスは幼く見える夫を観察した。
「可愛い反応ね」
口から自然と感想が漏れる。そして、成人した男性で敬うべき夫を可愛いと感じ、それを口に出してしまったことに驚いた。
「ごめんなさい。可愛いだなんて」
「いや、君に好ましく思われるなら、この際なんでもいいよ。使えるものは使わないと」
ノアの視線はベッドサイドにある手帳に注がれる。
話題にするのが恥ずかしいと言っていたのに、イリスに好かれるためならなんでも使うと言う。なぜそこまでして、政略結婚した妻といい関係を築こうとするのか不思議だ。きっと彼には結婚のきっかけなど関係ないのだろう。
(この人は最初から私に歩み寄ろうとしてくれていたわ。私が義務を理由にその思いを受け取らなかっただけ)
自分の過去の振る舞いが頑なで幼稚だったことを自覚して、イリスは心苦しくなる。これからは自分も歩み寄ろうと決め、ノアに話し掛けた。
「ねぇ、ノア。貴方にはお気に入りの場所がたくさんあるんでしょう。その一つを教えて。今日はそこへ行きましょう」
「構わないけれど、一日で戻ってこられる場所は、どうだろう。特に面白いものがあるわけではないよ」
「いいの。貴方の目に映るものを知りたいの。貴方のことを教えて」
朝日を浴びた柔らかな緑混じりのブラウンの瞳は、木漏れ日の漏れる明るい森の中を思わせる。
イリスは昔の自分が日陰で木漏れ日を浴びながら散歩するのが好きだったのを思い出した。
翌日の朝。
イリスはベッドの上で痛みに悶えていた。侍女のマリアンヌが足を押す。
「あーっ! マリアンヌ、やめて、痛いわ!」
もう太陽が昇って明るい部屋で、イリスは夜着のまま。珍しい光景だ。そしてその彼女がベッドの上にうつ伏せになって叫んでいるのは初めてのことだった。
原因は、昨日ノアと出かけたことだ。山というには小さすぎる小高い丘を馬で上がった後、馬では入れない獣道を徒歩で抜けた。なんの変哲もない山道もイリスにとっては新鮮だったので、道中は楽しかった。
見たことのない植物や虫の名前を尋ねると、ノアは楽しそうに教えてくれる。けれど、おかしな名前を捏造してはイリスが気づくまで騙し続けた。どんどん非現実的なものになり笑いを堪えられない様子でいるのですぐに分かるが、イリスはそのたびに「嘘を教えるなんて!」と怒った。
山道を抜けた後には、目の前にはヴェルディア領の都、エメリアの街並みが広がっていた。
市庁舎と広場を中心とした中央部分には人の行き来が見える。王都ほどではないが、街の中心部にはしっかりと活気があって、彼女は忙しなく動く人々を興味深く見つめたのだった。
その代償がこの状況だ。
「もう、信じられませんわ。馬車も通れない道にお嬢様を連れていくなんて! 本当に気の利かない男!」
ぶつぶつと文句を言いながら、マリアンヌがマッサージを続ける。
「マリアンヌ、もういいわ。大丈夫よ」
イリスは身体を起こそうとしたが、全身が痛くて固まった。
「ご無理はなさらないでください。今日は一日ベッドでお休みになりましょう」
「いやよ。そんな、情けないじゃない。貴方もノアも余裕そうな顔して」
「私は出身が田舎で山に慣れているだけです」
「あら、貴女、ウィントロープの出身でしょう?」
ウィントロープはイリスの父が治める領地の都だ。人口の多い華やかな都会である。
「ウィントロープに日帰りできる場所で生まれた女は全員、ウィントロープ出身と名乗るんです」
「まぁ」
長年隣にいた侍女の出身地も把握していなかったことに、イリスはショックを受ける。
「そんなことより、あぁ、お嬢様、お嬢様の足に虫刺されが……! なんてことでしょう。私、もうノア様のことを一生許せません!」
けれど、マリアンヌがそんなことに本気で怒っているので、次の瞬間には笑ってしまった。
「別にいいわよ。ここでは誰も気にしないわ」
「私が気にします! 冷やすものを持ってまいりますから、お待ちくださいませ」
マリアンヌは慌てた様子で部屋を出ていった。イリスはその背中を見送って、ゆっくりとベッドから起き上がる。着替えの済まないうちから、鉛筆とスケッチブックを取り出した。
(忘れないうちに完成させなきゃ)
昨日見た街並みを刺繍の図案に落とし込むつもりでいた。本当は帰ってすぐに取り掛かりたかったが、昨日は全身が痛くて動けなかったのだ。
(美しい場所だったわ)
午前の白い光を浴びて川が輝き、緑が青々としている。赤褐色の屋根の合間に石畳が見えて、そこを歩く人々の声が聞こえてきそうな街の様子をよく覚えておきたいと思った。
その時、寝室の扉をノックする音が聞こえた。マリアンヌが冷やすものを持ってきたのだと思って顔を上げると、ノアが入ってくる。イリスはまだ身支度すらしていなかったことを思い出して顔を赤くする。ノアの眉尻が下がった。
「起き上がれなくなっちゃった? ごめん、山登りが初めてだとどうなるか知らなくて」
「だ、大丈夫よ。もう治ったもの。今、起きようとしていたところなのよ」
「そっか。無理しなくていいよ。みんなには、イリスは私のせいで起きられないって言ってあるから」
イリスは絶句した。ノアは〝夫のせいで起きられない〟という言葉が使用人たちの間でどう受け取られるのか知らないらしい。
「貴方……! まあ、いいわ。どうしたの? 何か用かしら」
「行き詰まったから顔を見にきただけ。一緒に休憩しない? 焼き菓子をもらったんだ」
ノアの顔にはわずかな緊張が滲んでいる。断られる可能性を想像しているのだろう。
今までイリスが彼の誘いを断ったことなど一度もないのに。
「いいわよ。着替えるから待っていてくれる?」
「ありがとう。動くのは辛いんじゃない? そのままでもいいし、ベッドに座って食べてもいいよ」
夜着のままベッドで食事するなんてありえない。イリスはまた絶句した。ノアがその顔を見て笑う。
「嘘だよ。何時間でも待つから安心して」
「何時間もかからないわよ。マリアンヌが戻ってくるから出ていって」
「ここにいたらダメなの?」
「ダメに決まってるじゃないの!」
「せっかく君に会いにきたのに」
ノアがイリスの手を握った。明るいブラウンの瞳に見つめられて、イリスは固まる。
こんな時どうすればいいか誰も教えてくれなかったので、どうしていいか分からない。顔が熱くなり、幼い罵り言葉が口から出そうになる。
ノアがパッと手を離した。その瞳が柔らかくなる。
「冗談だよ。着替えが終わったら執務室に来てほしい」
「分かったわ……」
なんだかどっと疲れて、イリスはため息とともに言葉を絞り出した。
「これは?」
ノアが彼女の手元にあるスケッチブックに目を留める。
「刺繍の図案よ。昨日見た風景が美しかったから、忘れないうちに残したくて」
「昨日って、丘の上から見た景色ってこと?」
「ええ、エメリアの街並みよ」
彼はじっとスケッチブックを見つめた。昨日、丘の上から一緒に街並みを眺めた時の横顔を思い出す。
その時の視線は温かかったが、今は感情の読めない顔だ。しばらくしてノアがイリスと視線を合わせた。
「また、一緒に行く?」
「行きたいけれど……」
イリスは少し考える。
「二十日待ってちょうだい。足腰を鍛えないと、息切れしてスケッチどころじゃないもの」
「待って、君が鍛えるの?」
「他に誰がいるのよ」
ノアが楽しそうに笑った。
「鍛えなくても私が運んであげるよ」
「なんですって?」
「ほら、こうやってさ」
「きゃっ!」
イリスの膝裏と背中を支えて、横抱きになるように抱き上げる。イリスは悲鳴を上げた。
「痛っ! ノア、私、今全身が痛いのよ!? 山上まで運べるわけないでしょう。嘘と冗談はいい加減にしなさい。本当に怒りますからね。一日一回までにして!」
呆れと非難を込めてノアを睨む。
彼は全く意に介さず、今度は声を出して笑った。
ノア本人は北部で起きた土砂災害の対応で急に屋敷を離れることになったそうで、戻ってくるのは早くとも八日後だと言う。
毎日管理するものでもないので、説明を受けた後は実務が発生する時にノアと作業することにする。大した暇つぶしにもならず、三日もすればまた手が空いた。
余った時間を消化するため、ひたすら過去にノアが作成した書類を読む。ロバートに当時の状況を説明してもらいながら、古いそれに目を通す。
そんなふうに毎日山のような書類と書籍に目を通していたところ、古い本棚の奥に押しつぶされるようになっている分厚い革表紙の手帳が目に入った――
◆ ◆ ◆
ノアが北部の土砂災害の話を聞いたのは早朝だった。現地に駐屯している騎士団が対応しているが、父に援助のための人員を連れての対応を命令され、急いで向かうことになる。
こうした緊急事態に、ノアが実地に出向くのは珍しいことではない。公爵家から人が向かえば領民が安心した顔をするし、ノアは市井の人々と交流するのが好きだ。
ただ、今は一つ懸念があった。
公務に精を出していると、嫁いできた新妻を放置することになる。
彼は急いで必要な処理を施して、予定より一日早く屋敷に戻った。
しかし、すでに日が落ちてから長く、今日もイリスに挨拶すらできなそうだと悟って肩を落とす。遅い夕食を軽めに済ませ、寝る前に汗を拭いて着替え、妻が眠っているはずの寝室に向かう。
彼はドアノブに手をかけたが、すぐには扉を開かなかった。
(初日からアンナのことで印象が悪いのに、ずっと挽回できないままだな)
小さなため息をつく。
イリスとの婚姻は、彼には少々気の重い縁だった。家の歴史と血の尊さこそ両家はお互いに相応しいが、釣り合いが取れているのは家の名前だけだとノアは思うのだ。
イリスは幼い頃から王太子の婚約者として注目される存在だった。社交界でも一際目を引く美貌と気品を持つ高嶺の花。
そのイリスと突然結婚することになった時には本当に驚いた。思わず、こんなところに来てもらっていいのか、と口にして、父に「嫁が恥じるような領地だと言いたいのか」と凄まれ、慌てて首を横に振った覚えがある。
ノアはこの土地に愛着がある。しかしイリスはそうではない。連れてこられただけの彼女に楽しんでもらえる場所ではないと知っている。
(領地もそうだし、私自身もなぁ……)
便利さや華やかさを捨てて一緒になりたいと思ってもらえるほど、特別なところがあるかというと疑問。
ノアは自分にできることとできないことはよく理解していて、誇りに思っているところもある。しかし自分が王太子と比べて魅力的だと思うほど能天気でもなかった。
王太子のジョシュアは濡羽のような艶やかな黒髪と灰色に近いアイスブルーの瞳を持つ美丈夫だ。表情豊かではないが、以前ノアが挨拶した時には、控えめながらよく笑う人だという印象を受けた。
ジョシュアはノアが領地で経験した様々なトラブルについて面白おかしく話すのを興味深そうに聞いてくれたのだ。動物が好きなようで、ノアが逃げ出したヒヨコを捕まえようとして両手いっぱいに抱えて失敗した話をすると、自分もヒヨコを手に乗せてみたい、ヴェルディア領に行ってみたい、と笑ってくれた。社交辞令ではなく、ただ素直な気持ちを言ってくれていたように感じて、ノアは思慮深い王太子を好きになった。
夜会でジョシュアとイリスが並んでいるのを見ると、そこだけ絵画から取り出したように感じたものだ。美しく、別の世界から来たような二人。
自分はこの二人が国王と王妃になった将来、臣下として仕えることになるのだな。そうぼんやり思っていた。それはまだ遠い日の想像ではあったが、ノアを誇らしい気持ちにした。
ジョシュアもイリスも、話してみると初対面の印象ほど近寄り難くはない。イリスはノアと二人きりだと、意外なほど思ったことを顔に出し、分かりやすかった。世間知らずなところは危ういほど無防備で、プライドが高くて自分に厳しい。そこをあまり自覚していないところが可愛いと思う。
イリスは彼女自身が何かを上手くできないままでいることを許さない。ノアにとって失敗とは思えない小さな不完全さに悔しそうに息を呑んで、完璧になるまで集中してやり直す。
彼女の集中している時の横顔と、出来た時の誇らしげな、しかしそれを表に出さないように振る舞おうとする表情を思い出して、ノアの頬は緩んだ。だがそれはすぐまた曇る。
ノアはまたため息をついた。ドアノブに添えた手は動かせないままだ。
(どうしよう。このままだと一生信頼されない気がする)
結婚式の夜、ノアはイリスを信頼できる人だと感じ、夫婦としても上手くやっていけると思った。だが、あの夜のイリスの言葉で、彼女は自分と心を通わせる気がないのだと分かった時には心が重くなった。しかもその理由の一つは、ノア自身の軽率な行動だ。
――貴方が誰を愛していても、もう結婚は成立していて、後戻りはできないもの。
あの言葉は、彼女自身に言い聞かせるようだった。
従妹に気持ちを残したまま形だけの結婚をしようとしている男。そう思われているのだ。
ほとんど話したこともないイリスにさえそう思われるような過去の軽率な行動を思い返して、ノアは自分のことが恥ずかしくなった。
自分とアンナに関する噂には自覚がある。でもそんなものただの噂だと気にしてこなかった。大切なのは真実で、近しい人は自分を信じてくれるのだからそれでいいと考えていたのだ。
従妹にエスコートを頼まれて兄代わりに振る舞うことの何が悪いのか。
母には呆れた顔をされ、「後先を考えないで振る舞うと後悔するわよ」と何度か忠告されていた。
未来より目の前のことを大切にしすぎてしまうのが自分の欠点だとは知っている。
彼はこれまで自分自身の足りないところに対して必要な場では取り繕うものの、真剣に直そうとはしてこなかった。それより得意なことで勝負したほうが上手くいくと経験から学んでいたのだ。
しかしできないことを許さないイリスを見ていると、自分が欠点と向き合わないのは逃げだったかもしれないと気づく。弱点に誠実に向き合いたいという気持ちが芽生えたが、そうすると仕事がさらに忙しくなる。必然的にイリスと過ごす時間が減る。そうしてまた、妻を放置している夫という印象が強まっていった。
(ダメだ、また言い訳してる。忙しくても上手くやってる夫婦はいるんだから、時間がないってのは理由にならないはずだ。今日はもうさすがに寝ているだろうし、明日話しかけてみよう)
明日は本来なら移動時間に充てていたはずの日で、少し余裕がある。
ノアは自分の予定を頭に思い浮かべながら扉を開いた。真っ暗なはずの部屋には、橙色の灯りがついている。
ベッドの背もたれに身体を預けたイリスが顔を上げた。
「イリス」
彼女の青い瞳は赤っぽい光でいつもより濃い紫に見える。その目が軽く見開かれた。
「あら……ノア、おかえりなさい」
「ただいま。随分遅くまで起きているんだね。どうしたの?」
「興味深いものを見つけたのよ。貴方こそ、戻るのは明日以降と聞いていたけれど」
「予定はね。君に会いたくて早く戻ってきたんだ」
イリスは軽く眉を顰める。ノアの言葉の真意を探るような警戒した顔つきだ。
怪我した野生動物のように激しくはないけれど、疑いと、戸惑いが混ざったような視線。
(本当なのに)
ノアは苦笑いすると、ベッドに膝を乗せた。
「それで、君のほうはどんな興味深いものが……」
イリスの手元には古い手帳があった。それに見覚えがあることに気づき、咄嗟に奪い取る。イリスが非難の声を上げた。
「ちょっと!」
「これっ……! なんで、君が!」
「これは貴方の筆跡なのね。本棚の奥に押し込まれていたわよ」
手帳の中身はノアが数年前まで思いついた時に書き留めていた詩だ。韻文と呼べるかどうかも怪しい、拙いメモ書き。読める人の少ない古い言葉で書いたもので、筆跡も雑。態度に出さなければ知らないふりをして誤魔化せただろうがもう遅い。
「中を見た? 見たよね」
「なぜそんなに肩を落とすの? いい文章だと思うわ」
「君は古ティヌム語も読めるのか! とんでもないよ。思いついたことをそのまま走り書きしているくだらないメモ書きだ。恥ずかしい」
ノアは手帳を閉じて、手で熱くなった顔を扇いだ。
「そんな。私は好きよ。特にこの、ヒヨコの雌雄が見分けられない詩」
「よりによって一番くだらないやつじゃないか」
養鶏場の視察に行った際に、待ち時間が長すぎて書いた詩。雌雄の見分け方を聞いたけれど全く理解できなかった、というだけの内容だ。
「誰にリボンをつけていいか分からないから虹色のリボンを用意して、『Arcum iris parare, colores eligere?(好きな色を選んでくれる?)』と聞くのは貴方らしいと思うわ。それに養鶏場のヒヨコにリボンをつけるのは、ティヌム神話のオマージュでしょう。女神に……」
「ごめん、本当にやめて! 顔から火が出そうだから」
昔書いた詩を真面目に解説されて、ノアの顔は文字どおり燃えるように熱くなっていた。
「そう……。他の詩も素敵だと思うわ。春に戻ってきたツバメや氷の下にいる魚の話を聞いてみたいなんて、私は考えたこともないもの」
やめてほしいと言ったのに、イリスはまだ手帳のことを話題にしている。
ノアは彼女の声に楽しげな音が混じっているのを感じ取って、拗ねた顔になった。
「揶揄ってる?」
「まぁ! 賞賛は正直な気持ちよ。貴方の目に何が映っているのか、もっと知りたいと思ったわ」
そう言いつつ、イリスの目は愉快そうに細まる。いつもの美しく計算された微笑みとは異なる、少女らしい笑い方。目尻が下がって幼い印象になっている。
ノアは軽く心臓が跳ねたのを誤魔化すように一度視線を外し、手帳をサイドテーブルに置いた。
「聞いてくれるならいくらでも話すよ。明日は、本当はまだ北部にいる予定だったから一日空いているんだ。君の予定は?」
「お義母様と美術館に行く予定があるわ」
きっかけを作ったのは自分だが、母とイリスはどんどん仲良くなる。あまりおもしろくない。
「それなら私を優先させても構わないはずだ。明日の君の時間を全部もらってもいい? 母上には私から言うから」
ノアがじっと見つめると、彼女は小さく頷いた。
「ええ。何をするの?」
「決めてない。目が覚めた時間によるかな」
イリスの手に自分の手を重ねる。そのまま手を引いて彼女を腕の中に抱き止めたい衝動を抑えて、手を握るに留めた。イリスが笑ってくれたのが嬉しくて、急に距離が縮んだように錯覚しそうだ。
ノアは自分の気持ちを落ち着けるためにゆっくり呼吸をした。
イリスの手を握って離してを繰り返す。次第に彼女は落ち着かない様子になって、視線を泳がせる。嫌がられていないのを確認しながら、彼女の甲に文字を書くように指を滑らせた。
「何を書いているの?」
「君の名前」
イリスの名前は、彼女によく似合っているとノアは思う。まっすぐ伸びた茎と、高貴な紫色の花。
ノアはイリスの瞳をじっと見つめた。青い虹彩に橙色の灯りが映って揺れて、紫が強く見える。
「Tuae pupillae intra, Iris floribus videtur(君の瞳の中にアイリスの花が見える)」
古い言葉で呟くと、イリスは何度か瞬きをしてから、ふっと噴き出して笑った。
「一応ロマンチックなことを言ったつもりなんだけれど、そんなに面白い?」
「とてもロマンチックだと思うわ」
「本当? 甘い言葉にうっとりしているようには見えないな」
「そうね……どうして笑ってしまうのか、私にも分からないの」
彼女は肩を震わせるのはやめて、最後に困ったように眉を下げる。
「ノア、私……」
「うん」
「貴方のことを知りたいわ」
ノアの手に、イリスの細い指がそっと触れた。
◇ ◇ ◇
朝になり、イリスは習慣で陽が出る前に目を覚ました。
隣で眠るノアの穏やかな顔を見て頬を緩める。同時に、昨夜の甘く過ごした時間を思い返して、頬に熱が集まった。
ノアがわずかに眉を寄せて、ゆっくり目を開く。
「ん……イリス……?」
「ごめんなさい。起こすつもりはなかったの」
「いいよ。今日は君と話をしたかったんだ。私は予定がないとなかなか起きられないからありがたい」
彼はゆっくり身体を起こした。イリスはまだ目が覚めきっていないように見える夫の気だるそうな横顔を眺め、昨晩の手帳のことを思い出す。
「貴方は朝の冷えた空気の中、うとうと目を覚ましてまた暖かいベッドに潜るのが好きだったわね」
ノアが目を見開いてイリスを見た。頬がさぁっと赤くなる。
話題にされたくないと言われていたのだと思い出して、イリスはハッと口を閉じた。
「そうだよ。イリス、君は記憶力がよすぎるな」
彼女は昔から賢くて一度覚えたことは忘れない、天才だと褒められてきた。本人は周りにいる人々は彼女を褒めなければならないから褒めているのだと思っていたが。賞賛の裏にある彼らの意図を汲み取って正解の返答をするのが、イリスの役割だった。
「そうね、よく言われるわ」
ノアにはおよそ正解だと思えない返事をする。
彼は目を見開いた。言葉を失ったように口を開いて、閉じる。ノアはよく喋るが、驚いた時や狼狽えた時は無口になるのだなと思いながら、イリスは幼く見える夫を観察した。
「可愛い反応ね」
口から自然と感想が漏れる。そして、成人した男性で敬うべき夫を可愛いと感じ、それを口に出してしまったことに驚いた。
「ごめんなさい。可愛いだなんて」
「いや、君に好ましく思われるなら、この際なんでもいいよ。使えるものは使わないと」
ノアの視線はベッドサイドにある手帳に注がれる。
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(この人は最初から私に歩み寄ろうとしてくれていたわ。私が義務を理由にその思いを受け取らなかっただけ)
自分の過去の振る舞いが頑なで幼稚だったことを自覚して、イリスは心苦しくなる。これからは自分も歩み寄ろうと決め、ノアに話し掛けた。
「ねぇ、ノア。貴方にはお気に入りの場所がたくさんあるんでしょう。その一つを教えて。今日はそこへ行きましょう」
「構わないけれど、一日で戻ってこられる場所は、どうだろう。特に面白いものがあるわけではないよ」
「いいの。貴方の目に映るものを知りたいの。貴方のことを教えて」
朝日を浴びた柔らかな緑混じりのブラウンの瞳は、木漏れ日の漏れる明るい森の中を思わせる。
イリスは昔の自分が日陰で木漏れ日を浴びながら散歩するのが好きだったのを思い出した。
翌日の朝。
イリスはベッドの上で痛みに悶えていた。侍女のマリアンヌが足を押す。
「あーっ! マリアンヌ、やめて、痛いわ!」
もう太陽が昇って明るい部屋で、イリスは夜着のまま。珍しい光景だ。そしてその彼女がベッドの上にうつ伏せになって叫んでいるのは初めてのことだった。
原因は、昨日ノアと出かけたことだ。山というには小さすぎる小高い丘を馬で上がった後、馬では入れない獣道を徒歩で抜けた。なんの変哲もない山道もイリスにとっては新鮮だったので、道中は楽しかった。
見たことのない植物や虫の名前を尋ねると、ノアは楽しそうに教えてくれる。けれど、おかしな名前を捏造してはイリスが気づくまで騙し続けた。どんどん非現実的なものになり笑いを堪えられない様子でいるのですぐに分かるが、イリスはそのたびに「嘘を教えるなんて!」と怒った。
山道を抜けた後には、目の前にはヴェルディア領の都、エメリアの街並みが広がっていた。
市庁舎と広場を中心とした中央部分には人の行き来が見える。王都ほどではないが、街の中心部にはしっかりと活気があって、彼女は忙しなく動く人々を興味深く見つめたのだった。
その代償がこの状況だ。
「もう、信じられませんわ。馬車も通れない道にお嬢様を連れていくなんて! 本当に気の利かない男!」
ぶつぶつと文句を言いながら、マリアンヌがマッサージを続ける。
「マリアンヌ、もういいわ。大丈夫よ」
イリスは身体を起こそうとしたが、全身が痛くて固まった。
「ご無理はなさらないでください。今日は一日ベッドでお休みになりましょう」
「いやよ。そんな、情けないじゃない。貴方もノアも余裕そうな顔して」
「私は出身が田舎で山に慣れているだけです」
「あら、貴女、ウィントロープの出身でしょう?」
ウィントロープはイリスの父が治める領地の都だ。人口の多い華やかな都会である。
「ウィントロープに日帰りできる場所で生まれた女は全員、ウィントロープ出身と名乗るんです」
「まぁ」
長年隣にいた侍女の出身地も把握していなかったことに、イリスはショックを受ける。
「そんなことより、あぁ、お嬢様、お嬢様の足に虫刺されが……! なんてことでしょう。私、もうノア様のことを一生許せません!」
けれど、マリアンヌがそんなことに本気で怒っているので、次の瞬間には笑ってしまった。
「別にいいわよ。ここでは誰も気にしないわ」
「私が気にします! 冷やすものを持ってまいりますから、お待ちくださいませ」
マリアンヌは慌てた様子で部屋を出ていった。イリスはその背中を見送って、ゆっくりとベッドから起き上がる。着替えの済まないうちから、鉛筆とスケッチブックを取り出した。
(忘れないうちに完成させなきゃ)
昨日見た街並みを刺繍の図案に落とし込むつもりでいた。本当は帰ってすぐに取り掛かりたかったが、昨日は全身が痛くて動けなかったのだ。
(美しい場所だったわ)
午前の白い光を浴びて川が輝き、緑が青々としている。赤褐色の屋根の合間に石畳が見えて、そこを歩く人々の声が聞こえてきそうな街の様子をよく覚えておきたいと思った。
その時、寝室の扉をノックする音が聞こえた。マリアンヌが冷やすものを持ってきたのだと思って顔を上げると、ノアが入ってくる。イリスはまだ身支度すらしていなかったことを思い出して顔を赤くする。ノアの眉尻が下がった。
「起き上がれなくなっちゃった? ごめん、山登りが初めてだとどうなるか知らなくて」
「だ、大丈夫よ。もう治ったもの。今、起きようとしていたところなのよ」
「そっか。無理しなくていいよ。みんなには、イリスは私のせいで起きられないって言ってあるから」
イリスは絶句した。ノアは〝夫のせいで起きられない〟という言葉が使用人たちの間でどう受け取られるのか知らないらしい。
「貴方……! まあ、いいわ。どうしたの? 何か用かしら」
「行き詰まったから顔を見にきただけ。一緒に休憩しない? 焼き菓子をもらったんだ」
ノアの顔にはわずかな緊張が滲んでいる。断られる可能性を想像しているのだろう。
今までイリスが彼の誘いを断ったことなど一度もないのに。
「いいわよ。着替えるから待っていてくれる?」
「ありがとう。動くのは辛いんじゃない? そのままでもいいし、ベッドに座って食べてもいいよ」
夜着のままベッドで食事するなんてありえない。イリスはまた絶句した。ノアがその顔を見て笑う。
「嘘だよ。何時間でも待つから安心して」
「何時間もかからないわよ。マリアンヌが戻ってくるから出ていって」
「ここにいたらダメなの?」
「ダメに決まってるじゃないの!」
「せっかく君に会いにきたのに」
ノアがイリスの手を握った。明るいブラウンの瞳に見つめられて、イリスは固まる。
こんな時どうすればいいか誰も教えてくれなかったので、どうしていいか分からない。顔が熱くなり、幼い罵り言葉が口から出そうになる。
ノアがパッと手を離した。その瞳が柔らかくなる。
「冗談だよ。着替えが終わったら執務室に来てほしい」
「分かったわ……」
なんだかどっと疲れて、イリスはため息とともに言葉を絞り出した。
「これは?」
ノアが彼女の手元にあるスケッチブックに目を留める。
「刺繍の図案よ。昨日見た風景が美しかったから、忘れないうちに残したくて」
「昨日って、丘の上から見た景色ってこと?」
「ええ、エメリアの街並みよ」
彼はじっとスケッチブックを見つめた。昨日、丘の上から一緒に街並みを眺めた時の横顔を思い出す。
その時の視線は温かかったが、今は感情の読めない顔だ。しばらくしてノアがイリスと視線を合わせた。
「また、一緒に行く?」
「行きたいけれど……」
イリスは少し考える。
「二十日待ってちょうだい。足腰を鍛えないと、息切れしてスケッチどころじゃないもの」
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「他に誰がいるのよ」
ノアが楽しそうに笑った。
「鍛えなくても私が運んであげるよ」
「なんですって?」
「ほら、こうやってさ」
「きゃっ!」
イリスの膝裏と背中を支えて、横抱きになるように抱き上げる。イリスは悲鳴を上げた。
「痛っ! ノア、私、今全身が痛いのよ!? 山上まで運べるわけないでしょう。嘘と冗談はいい加減にしなさい。本当に怒りますからね。一日一回までにして!」
呆れと非難を込めてノアを睨む。
彼は全く意に介さず、今度は声を出して笑った。
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