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【38】どうして、あなたを忘れていたんだろう?※

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 帝国の人質となって初めて与えられた仕事は“老婆”に食事を運ぶこと。
 糸杉の庭の北の区画。ハレムの壁側のそこだけ一つの邸宅となったような空間。小さな泉の噴水がある中庭で彼女に出会った。
 たしかに容貌は老婆のようであったけれど、ラドゥを見る瞳は純粋な少女のようだった。「ぼうや」と伸ばされた手が、ラドゥの包帯におおわれた頬に触れる。

「なにをしている!」

 強い声に振り返れば、そこにはアジーズがいた。常に自分にむけていた柔らかな眼差しではなく、厳しい視線に一瞬身がすくむ。
 アジーズは相手がラドゥだと知ると「お前か」と向けられた敵意は無くなったが、それでも険しい表情だ。

「宦官長に仕事が決まったと言いつけられた。ここに食事を運ぶようにと」

 “老婆”の言葉はラドゥは使わなかった。アジーズは「そうか」と言い。

「私の母に食事を運ぶ係がお前になったのか」
「母? お母さん?」

 それはラドゥにはわからない存在だ。彼には師父しか“家族”と呼べるものがなかった。辺境村で幼い子供が「お母さん」と女達に甘えているのを見たときに、なにか湧き上がった感情は……あれはうらやましいというものだろうか? 彼らは無条件に安心して甘えている風だった。

「母はドマの鏡の呪いにかけられた」
「…………」

 ドマの鏡の話は糸杉の庭へときたときに、宦官達の口から聞かされた。ラドゥからすれば子供だましの怪談もどきにしか聞こえなかった。
 魔神ジンが残した十枚の呪いの鏡。映した者の姿を、その心の姿のままに醜く変えてしまうという。
 宦官達が面白がってきかせる話に、他の少年達は震え上がっていたが、ラドゥからすれば今さら鏡に姿を映して、これ以上どうやって醜くなれというのだ? 
 それに。

「鏡の話はやはり噂だけだな。心のありのまま、醜くするなんて嘘だ」

 ラドゥは卵のような丸い体型の宦官に「さあ、お方様」と手を引かれて、ふわふとした足取りのアジーズの母の姿を見る。

「母のあの姿を見て、嘘だと思うのか?」
「初めて会ったけれど、俺にはあの人があんな姿になるような心の醜い人と思えない」

 ラドゥに少女のようにほほえみかけて、触れたのだ。その精神が壊れているのはわかるけど、瞳の輝きは本当に綺麗だった。

「……お前は母を哀れみの目で見ないのだな?」
「どうして? 生きていることは悪いことじゃない」
「…………」

 ラドゥはそう答えてから照れて「俺の言葉じゃない、師父に言われた」と続ける。
 生きることに卑屈になるなと師父は繰り返しラドゥに言った。それはこの姿に生まれた自分に、強く生きろということだったのだろう。
 誰がなんと言おうと、心に誇りさえあればくじけず生きていける。
 ラドゥはふいに頭に温かさを感じた。アジーズの大きな手が乗っていた。
 こんな風に彼はラドゥの頭を撫でる時がある。小さな子どもにするようなことをするなと、反発すべきなのだろう。
 彼の大きな手はとても心地よくて、だから振り払えない。

「……ありがとう」

 なぜ、お礼を言われたのか、わからなかった。



 アジーズの母に食事を届けるようになってから、彼女の世話をしている二人の宦官と知り合いになった、ムクタムとナスルだ。
 彼らは召使いのいないラドゥの世話を色々と焼いてくれるようなった。糸杉の庭の共同のハマムを使うことを許されていないラドゥのために、朝、お湯を届けてくれ、着たきりの衣服がすり切れているのに気付いて、新しいものをいくつか用意してくれた。
 また、数日ごとにアジーズの邸宅に招かれて、彼ともに昼餉や夕餉をとった。食後にお茶や冷たいシルベットもともに食べる、甘味はラドゥのひそかな楽しみとなった。



「最近、銀獅子の殿下にちょっと目をかけられているみたいだけど、調子に乗らないほうがいいよ」
「戦場では常勝でも、あの方はこの宮殿ではまったく力のない、玉座からもっとも遠い王子だからね」

 学友なんて思っていない、小姓達の言葉などラドゥはまったく気にしていなかった。ラドゥは別に彼らのようにこびを売って後ろ盾が欲しいわけではない。
 純粋にアジーズといると楽しいからだった。
 だから、彼らの目に宿る薄暗い妬心など気付かなかったのだ。



   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇



 そして、ラドゥがセリムとムスタ、その愛人である小姓や取り巻き達から屈辱を受けた日。

 助けに来てくれたのは、やはり光そのもののような彼だった。アジーズに正論で指摘されると、二人の王子はとたん及び腰になって、取り巻きを連れて逃げて行った。
 ラドゥの心は嵐の中にあった。今まで言葉によるさげすみや石を投げられなぐる蹴るの暴力は受けた。
 だが、これは種類の違う心へも身体へも響く暴力だ。それは未然に防がれたけれど、狗をけしかけられたことや、そのあとに彼らが自分の身体をオモチャにし、さらにいかに残酷な方法でさらし者にしようとしたかという言葉は深くラドゥの心をえぐっていた。
 同年代の友などおらず、性的な知識がなかったラドゥは男同士でどうするのだ? と思っていた。それをもっとも嫌悪するような形で知ってしまった。

 みにくい者、虐げてよい者にはどんなことをしてもよいと、あざ笑っていた心みにくい者達。

 だが奴らが帝国の王子であるがゆえに、人質のラドゥにはなにも出来ない。アジーズが来なければ、きっとされるがままだっただろう。
 その悔しさと怒りでラドゥは胸が張り裂けそうだった。
 そこに差し伸べられた手を振り払ってしまうほど。

「なあ、あんた、こんな俺でも好きと言ってくれるのか?」

 聞いて、馬鹿なことだと思った。アジーズは紺碧の瞳を驚愕に目を見開いていた。その表情を見て感じたのは消え入りたいほどの後悔だった。

「もう、二度とあんたには会わない」

 だからこその断絶の印にラドゥは告げた。

「俺はあんたが好きだ」

 今、気付いた。そして、すぐに想いは砕け散る。
 自分にこんな感情があるなんて知らなかった。醜い自分が誰かと……なんて。
 でも、この光り輝く存在に惹かれた。いや、誰もが彼に焦がれるだろう。銀獅子だ。
 醜い自分など相手をしなくたって、彼にはいくらでも選択肢はある。
 ラドゥは破られた衣服もそのままに、その場から立ち去ろうとした。一刻も早くこの場から駆けて逃げたい。
 なのに肩に温かな感触。それはアジーズが着ていたカフタンだとわかった。それに包まれるようにして彼に抱きあげられていた。

「放せ!」
「お前を愛してる」

 その言葉にラドゥは固まった。思わず「嘘だ!」と叫んでいた。

「あんた、慰めるにしても下手過ぎるぞ!」
「信じないというなら、信じられるようにしてやる」

 「え?」という言葉はアジーズの唇に吸い込まれた。
 初めての口づけは、強引でさらに口中にぬるりと入りこんできた舌にも、なすがままだった。
 やっと離れたときには、酸欠で頭もぼんやりしていて、抱きあげられたまま運ばれて、あの噴水の中庭がある邸宅へと。入ったことのない奥の部屋の寝台に横たえられていた。

 そして、アジーズはラドゥを抱いた。

 無理矢理だったけど無理矢理ではない。ラドゥは抵抗しなかった。恐怖ではなく、驚き? いや、これは歓喜だ。
 大きな手でゆっくりと自分の身体をはう感覚に、熱い息を漏らした。身体の奥に与えられる疼痛に涙すれば、その涙を舐め取られて「すまない」と謝られた。

「初めてのお前には苦痛だな……」
「いい……全部、くれ……俺もあんたを……好き……」

 頭にもやがかかる。それは苦痛なのか快感なのか、それとも。

「そうか、お前の心をくれるか? 私もこのただ一度の歓喜の時を忘れない。たとえ、お前が忘れてしまったとしても……」

 その言葉どおり、ラドゥはアジーズの記憶を無くした。



 どうして忘れてしまったのだろう? 
 こんな大切なあんたを……。



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