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【26】帝王の母
しおりを挟む二人を乗せた白馬は外廷へと出ると、海峡に面した広大な宮殿敷地の海沿いの道を行く。後ろから護衛のための黒のシニチェリ達も徒歩にてついてくる。早足とはいえ、隊列も乱れずついてくるとは、さすが最強と言われる練度の高い軍団だ。
旧宮殿の外側の壁沿いをぐるりと回って、歴代の帝王の廟がある岬への道を行く白馬に揺られながら、ラドゥはひと言「勝手なことをして」と告げた。
「なにが菫の方だ! そのうえに夫人にソフィアなんて名前を勝手につけて!」
「ああ、お前に言ってなかったな。お前は三日前、私の第一夫人となった。もっとも、お前以外ハレムに入れるつもりはないから、第一も第二もないがな」
赤い唇を尖らせてアジーズを振り返って紫の瞳でにらみつければ、彼は微笑みさえ浮かべてこちらを余裕の表情で見ている。
「……なんでそんなに偉そうなんだ」
ラドゥははあ……と息をついた。文句はまだまだある。
「だいたい自分が宮殿を空ければ、あの女妖が俺にちょっかいをかけてくるのは、わかっていただろうに」
女妖とはサフィエのことだ。わざわざラドゥに“ソフィア”なんて名前をつけて挑発したのだ。あの前母后が黙っているわけがない。
「そのうえで、あんたは俺に“対処”を任せただろう?」
「実際、お前はうまくあの女妖をいなして、“時間稼ぎ”をした」
「宮殿の外で“視察”しているあんたには、すぐに知らせが届くと思っていたからな」
母后が帝王の愛妾になにかしかけることは、あらかじめ予測されていた。だから、すぐにアジーズに知らせも行くだろうと。
糸杉の庭での対面を提案したのは、彼が駆けつけるまでの時間稼ぎではあった。
だが、それだけではない。
「あそこでの“妃対決”は明日には宮殿中に広まっているであろうな」
くつくつと笑うアジーズはいかにも楽しそうだ。
宮殿の支配者だった前母后に毒を盛った菓子をつき出されたのにも関わらず、怯えることもひるむこともなく新帝王の“寵姫”は機転をきかせて対応した。
そのうえで現れた新帝王は、すでに“前”母后であるサフィエには、なんの権限もないのだと言い渡した。
旧宮殿に居座り続ける母后の政治的な影響力の低下は明らかになるだろう。彼女の周りの旧勢力の力もまた削がれる。
「俺をあの女妖に代わって、ハレムの女帝にしたいのか?」
「なりたいのか?」
「冗談。後宮なんて伏魔殿で腹の探りあいなど、俺の性には合わない」
アジーズの“きまぐれ”はラドゥをおとりにして、前母后との対立をあおるつもりか? と思ったが、すぐに違うと頭の中で否定した。
手間が掛かりすぎる。
帝王の愛を一心にうける寵姫ならば、わざわざ男でなくとも、あのハレムの侍女の中から適任のものを選べばいいだけだ。なにもドマの鏡を使って、ラドゥをこんな姿にしてまで、寵姫ソフィアを仕立てることはない。
だから、この男の思考も行動も謎のままだ。
そんなことを考えているうちに白馬は、霊廟のある岬へとついた。白馬の立つ岬の先からは、帝都のあいだを横断する紺碧の海峡が見えた。
アジーズの瞳の色と同じだ。
「母は西大陸の没落貴族の姫君だった。父を亡くし、他国の親族を頼って白の内海を渡る旅の途中で海賊船に襲われた。まだ十三の時だった」
海を見つめながら、淡々と語るアジーズの横顔を、ラドゥは見上げた。
「解放の身代金など当然調達出来ず、母は帝国の奴隷商に売られた」
アジーズと同じ銀髪碧眼の美しい少女。金持ちの商人か高官の妾か、ハレムに献上されるか。そんな運命が彼女を待ち受けているはずだった。
「先の大宰相であるヴグル・パシャが彼女の主人となった。彼は母の聡明さと貴族の姫としての教養に目を見張り、女奴隷ではなく自分の娘として母を養育した」
ヴグルには息子がなく、宮殿での将来有望な小姓の若者と彼女を娶せて跡継ぎ夫婦とする予定だった。
「だがそのパシャの家へと、先の帝王が気紛れに訪問した」
後年はハレムにこもりきりとなった酒呑みサリドだが、この頃はまだ青年らしい好奇心で、宮殿の外へと忍びで出歩くのが趣味だったという。
政治は母后や宰相達にとられての自由気ままなふるまい。
そこから先はアジーズが語らずとも予想はついた。
パシャの家で養育されている美しい娘にサリドは目をつけ、手を出した。
「帝王がハレム外に寵姫を持ったことを、あの女妖は気に入らなかった」
自分の目の届かぬ宮殿外で、第二、第三の寵姫を作られてはたまらないという考えもあったのだろうと、アジーズは語る。
「ある日、母后の使者が母の元へとやってきた。“贈り物”を携えて。使者はそれを母自ら箱をあけて見るように求めた。“母后の言葉”だとな」
母后からの使者に大宰相の娘同然の扱いとはいえ、まだ寵姫として認められてもいない奴隷娘が逆らえるわけもない。
彼女は箱の中の“鏡”を手にとった。
ドマの鏡は一瞬にして娘の姿をおぞましい老婆へと変えた。
「それが母后による私刑だ。そのとき三枚残っていたドマの鏡のうち、二枚は母后の所有。帝王の所有が一枚だった」
では、その帝王所有の一枚が、ラドゥに使われたのか。
しかし、酒呑みサリドが、母后の知らない外に愛人を作った。それが気にいらないと、なんの罪もない娘にそれだけのことをしたのか? とラドゥは思わず顔をしかめた。
そんなラドゥの金色の頭をアジーズの大きな手が撫でる。
「私の母の変わり果てた姿を見た父は恐慌を起こしてな。宮殿に逃げ帰って二度と母と会うことはなかった」
それ以来、彼は母后を怖れてハレムにこもりきりとなり、酒と色に溺れるようになったという。酒呑みサリドと言われた、先の帝王の誕生だ。
「だが話はそれで終わらなかった。母の腹にはすでに子がいたんだ。それが私だな。
私は十一歳になるまで母とともにヴグル・パシャの館で暮らした」
この不遇の王子にヴグルは十分な養育を与えたという。学問に武芸とその当時つけられる最高の教師をだ。「閉鎖的な宮殿内の教育よりも、よほど開明的だった」とアジーズは語る。
「とはいえ、帝王の血を引く王子をいつまでも外に置くわけにはいかない。私は母とともに宮殿に迎え入れられた」
親子に与えられたのはハレムではなく、ハレムであってハレムではないとされる、糸杉の庭の一角だった。
「父王には私の他に二人の王子がいた。歳はあちらのほうが二つほど上だった」
いずれも母后が選んだ夫人が産んだ王子。セシムとムスタだ。のちにラドゥが首だけにして本国に送り返した。
この二人が亡くなった上に、先の帝王サリドも直後に崩御したために、最も玉座から遠いと言われていたアジーズが、帝王となったわけだが。
「二人の王子はハレムに暮らしていたが、同じ宮殿内だ。その“評判”は人々の口にのぼる」
「当然、あんたのほうが出来が良かった。そして、それも旧宮殿の女妖は気に入らなかったか」
ここから先も気分の悪い話になりそうだと、ラドゥは思う。しかし、聞かねばなるまいと。
「そうだ。あの鏡のときと同じく、母后の使いがやってきて、私に菓子を勧めた。母は私の代わりにそれを口にして“狂った”のだ」
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