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【12】丸い宦官と四角い宦官とついてる宦官
しおりを挟む「切ったのか?」
「自分の大事な息子です。首を刎ねると脅されたって切りませんよ!」
宦官用のお仕着せの茶色のカフタンの股間を押さえながら、ピエールが叫ぶ。そのようすにムクタムが「まあまあ、お方様の前でお下品ですよ」とたしなめた。
「わたくしとナスルの他にお方様にお仕えする宦官に女召使い達はたくさんおり、いちいち紹介出来ませんが、おそばを警護する“新入り”が一人ございまして」
そうムクタムが言ったところで、ナスルが連れてきたのが、なんとピエールだった。
このハレムに立ち入れる“まともな男”は帝王ただ一人。王子達もハレム住まいではあるが、彼らや他の諸外国から送られてきた人質の男子達は、旧宮殿とハレムとの間の糸杉の庭と呼ばれる区画に住まわせられていた。
ラドゥもかつてはその片隅で暮らし、分厚い壁の向こうにあるハレムの世界など、話に聞けど垣間見ることもなかった。
だから、侍従の茶色のカフタンを身にまとい、似合わぬターバンを頭に巻いた、背丈だけはひょろ長いピエールにお前も切って宦官になったのか? と聞いたのだ。
「まあ、よく考えればそうだな。大人になってあれを切るのは、命がけと聞いたことがあるからな」
ラドゥが頷けば「想像しただけで、怖いこと言わないでください」と股間を両手でおさえたままジタバタと足踏みするのに、「だからお下品だと言ってるでしょう」とムクタムが、ぴょんと飛び上がってピエールの後頭部をすぱんとはたく。
小男のムクタムとひょろ長いピエールとは、かなりの背の差があるのだが、それもものともせずに跳んで見事にひっぱたくとは。その卵型の身体と相まって、毬のような男だなとラドゥは思う。
「いてぇな、おっさん」とぼやくピエールに「おっさんではなくムクタム様と言いなさい! わたくしはあなたの上司ですよ」とぷんぷん怒る。「こんな“とう”のたった見習いを躾直すなど、まったく頭が痛い」とぶつぶつ言っている。
「しかし“お方様”も見違えるようで」というピエールの言葉に、ラドゥは「嫌みか?」と顔をしかめる。
たしかに今のラドゥは、薔薇色のカフタン姿。それも女性用の袖口が広がったものだ。その袖口には西大陸産のブロンドレースが縁取りされ、きらめく水晶のビーズで金糸の葉と枝の模様が細かく刺繍されていた。
男子よりもさらに衣は長く、ふわりとドレスのスカートのように裾は広がり、その裾にもまたレースの縁取りが施されていた。黄金の腰帯の先には、大粒のエメラルドの飾りが揺れる。
春の日差しのような金色の長い髪。その頭の上に、ちょこんと載る丸い小さなつばのない帽子はフェズという。そのフェズもまた、中央には大きなエメラルドとつらなる真珠によってかざられている。帽子の後ろには透けるチュールのレースの縁取りのヴェールがなびく。
こんな姿になったのは、アジーズと入れ替えにやってきたムクタムが、侍医の手当を受けたあとガウン一枚のラドゥの姿に「さあ、お方様。いつまでも寝間着ではいけません。朝食のご用意とともに、お仕度を」とパンパンと手を叩いて、女奴隷の侍女達を呼んで取り囲まれて、勝手に着付けられたのだ。
自分が死んだならウラキュアを滅ぼすなどという、アジーズの訳のわからない言葉に混乱していたラドゥは、あきらかな女物でも抵抗する気も失せて、なすがままだった。
朝食はスモモの果汁にレモンで風味をつけたシルベットという甘い飲み物。銅の杯には氷が一つ浮かんで冷えていた。氷は西大陸では大国の宴席の席にしか出ないような贅沢品だ。それがごく普通の朝食で使うのかと、帝国の財力に内心で感嘆した。
それに指でつまみやすいように、小さくきったパンのうえにチーズやトマト、キュウリがのったものに、これも摘まみやすい小さなパイの中には、東方渡りのスパイスの風味で味付けされた挽肉の詰め物がはいっていた。
その朝食をぼんやり食べるラドゥの邪魔にならないように、さっさと身支度に“化粧”まで済ませてしまった女達の手腕は、さすが帝国の宮廷に仕える侍女というべきか。
そんなわけでラドゥの顔には、薄化粧がほどこされて、その白い額には蓮の小さな花模様まで書き込まれていた。「お方様、いかがでございますか?」と手鏡を渡されて、一応見てはみたが、やはりこの顔が自分の顔だという実感がどうにもわかなかった。
そこでラドゥは気付く。
「よく、俺だとわかったな?」
ピエールに聞く。自分なら、これがラドゥだとは信じないだろう。
「姿が変わられたとお聞きしましたからね。痣がなくなられたと」
「そうか」
いや、これは痣がなくなったぐらいの変化ではない。
「それにその紫の目は変わらないでしょう。そんな鋭い目を持つ“お方様”なんていないですよ」
相手がどれだけの度量を持つか、ラドゥも目を見ればわかる。たしかに自分の目は、ハレムに囲われた寵姫が持つには、剣呑すぎる眼差しだろう。
「それに、自分を見て第一声が『切ったか?』ですよ。これは、どうお姿が変わっても“お方様”としか思えない」
「お前までその呼び方か?」
「ここでは、そうお呼びするように言われてましてね」
まったく、このハレムで“お方様”と呼ばれるなど、自分のほうが信じられない。
ラドゥは腰掛けていた吊りソファから立ち上がり、広い居間を横切った。そのまま続きの回廊へと出ようとすれば、部屋の外で控えていた侍女が足下に膝をついて、小さな布の靴を履かせてくれる。
まったく、靴まで人の手で履かせてもらえるとは、ここにいたらなにも自分では、出来なくなるのではないか? と不安にさえなる。
回廊はぐるりと小さな中庭を取り囲んでいる。並ぶアーチの一つをくぐり外へと出れば、日差しを感じる前に今度はナスルが大きな傘をさしかけてきた。
中庭は蒼のタイル張りの床の幾何学的な模様が美しいものだった。周囲には季節の花々が揺れる花壇に、中央には小さな噴水。
この中庭を囲む回廊の区画が、すべてラドゥのために用意された部屋なのだと、さっきムクタムは囀っていた。
もっとも、ムクタム曰く「このハレムすべてが、お方様のお城にございますから“この中ならば”どこにでもご自由にお歩きください」とのことだった。
自由というが、つまりはこのハレムから外には出るなということだ。
「お方様こちらへ」とムクタムに言われて噴水の傍らに作られた椅子のベンチに座る。ベンチには敷きものと背もたれのクッションがすでに用意されていた。
さらには小卓が傍らに置かれて、そこに今度は青磁の茶器に琥珀色の暖かな茶と、銀の皿に砂糖菓子とまったく、至れり尽くせりだ。
その温かな茶を一口のんで、ラドゥは「それで、どうしてお前がここにいる?」とついてきたピエールに尋ねる。
「死んではいないと思ったが」
「おや? 心配してくださったので?」
「俺が死んでいないのだから、お前も殺されていないだろうと思っただけだ。あの銀獅子が“無駄なこと”をするとは思えない」
自分に短剣を突き立てたラドゥを生かしたのだ。
ピエールは死ぬつもりで従者としてラドゥについてきた。そんな男をアジーズが殺すはずがない。
妙な確信があった。
「死ぬつもりでお方様についてきたなら、変わらず従者でいろと言われましてね」
ピエールの腰には剣があった。ムクタムもまだ“警護”の宦官だと言っていた。
切ってはいないが……。
「妙な男だ……」
ラドゥはつぶやき、菫の花の砂糖菓子をひとつかじる。
後宮に閉じこめた凶王に“護衛”など。
「それで逃げないんですか?」
ピエールが聞く。そばには大傘をかかげたままのナスルとムクタムも控えているというのにだ。
「ハレムに内廷に外廷と三重の分厚い壁に唯一の門。シニチェリの警備をかいくぐってか?」
ハレムはこの宮殿の一番奥深くにある場所で、帝王が寛ぐ場として、もっとも警備も厳しい。
「それも外に向かってのことでしょう?」
「内から抜け出ることは考えていないか?」
たしかにこれは外から帝王の命を狙う外敵にたいしての警備であって、中から子ネズミ一匹逃げるのを防ぐためのものではない。その荒い網の目をかいくぐる手はあるだろうが。
しかし、逃げたら逃げたで……。
「……俺が死んだら、あの銀獅子はウラキュアを滅ぼすそうだ」
「はい?」
「それこそ民どころか、草木一本生えぬ焦土とする……とな。古の商業都市ガルターゴのように焼かれたあとに大地に塩でもまかれるか?」
ガルターゴを滅ぼした、これも古の大国であるロマーヌの憎悪はすさまじく。男達は殺され、女子供は奴隷へと売られ、国のあった島の大地はそのようにされて、長らく不毛の土地であったという。
いまではガルターゴなる商業都市のあった島が、白の海と言われる内海の小島のどこであったのかさえ、わからない。
「俺がこのハレムに大人しくいればウラキュアの国と民は無事だ。まあ、あの男の酔狂が続くまでのあいだだろうがな」
「お方様、そりゃ……」とピエールはなにか言いかけたが、それより先にラドゥが「あの大いなるお心の銀獅子の帝王様のことだ。俺に早々に飽きて地下牢に放り込まれたとして、ウラキュアは無事ならばそれでよい」と締めくくった。
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