楽園をかたどったなら

ジンノケイ

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二章「迷い子に望みはない」

02 ※(アダム視点)

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「……ということがあって、参りました」
「それは……まあ、僕でも焦るよ……」

 紙で手を切るなんて獣人では有り得ないから。
 そう呟いてアダムの右手の傷をしげしげと見つめるディラン。すでに血は止まっているが、綺麗に切れた傷口はまだ赤く生々しい。
 ピリピリとした痛みがまだ残るそこへディランは手早く消毒を済ませ、絆創膏を貼り直してくれた。

「帰宅早々、お疲れのところすみません」
「謝ることじゃないよ。酷い怪我じゃなくてよかった。……それで、ジェッタは?」
「泣き疲れてそのまま寝てしまいました。あの子を泣かせるつもりはなかったのに……」

 心底、ジェッタには申し訳ないことをしてしまったと思う。
 あそこまで狼狽えさせてしまうなんて。この程度の切り傷を隠しきれなかった自分が情けなく感じ、アダムは目を伏せた。「……君は」ディランの声が頭上から降ってくる。

「君は、本当にあの子が大切なんだね」

 ——ええ、それはもう。
 ——あなたに捨てられた自分と、仲間たちと、重なったもので。

 声には出せない真っ黒な想いがグルグルと頭を巡る。
 無論、それはきっかけにすぎない。この激情を抜きにしてもジェッタのことは大切だ。
 仲間たちを失ってたったひとり彷徨うだけだった自分に寄り添い、屈託のない笑顔を向けてくれるジェッタ。本物など知らないが、妹というものがいればきっとこんな感じなのだろう。
 彼女は獣人に違いないが、そんなことは些細なことだと理屈抜きに思わされた。

「……はい」

 妙に遅れてしまった返事。不穏さを感じ取ったのか、ディランが表情を曇らせ首を傾ける。
 まったく、鈍いのか敏感なのか。この獣人のこういうところは、良くも悪くも昔から変わっていない。真新しい絆創膏を反対の指でなぞり、アダムは顔に出さず嘲笑した。

 ある意味では、ジェッタと出会ったからこそなのだ。彼と再会できたのは。

 ジェッタを見つける直前、アダムは生き延びた自分が何をするべきかを考えるようになっていた。
 無慈悲に死んでいった仲間たちが常に自分の影にいて、こちらを見ている気がする。時々袖を引かれ、忘れるなと囁く。そのたび胸に澱む想いをどうしたらいいかも分からず、当然吐き出す先もない。
 知識を得た今では、自分たちが受けてきた仕打ちが酷いものだったと理解している。
 だが、知的進化の末にここまで社会を発展させた獣人たちの在り方そのものを恨む気になれない。……【楽園】で刷り込みを受けて育った自分には、到底彼らを恨めないだけかもしれないが。
 でも、じゃあ、どうしたらいい——なかなか答えの出ないその闇を、ジェッタの笑顔が照らしてくれた。彼女を守り、共に在ることに尽くそうと思った途端に目の前が明るくなった。

「ドクター」

 唐突に呼び掛ければ、ディランの顔がより怪訝そうなものになる。

「あなたは、この街に来て何年くらいですか?」
「え……?」
「少なくとも俺たちを捨てた五年前よりあとですね。【楽園】から出た……いえ、出されたのでしょうか? あなたも大変だったことでしょう」

 ——まず、ジェッタが安心して生きられる場所を探さなくては。
 そう思ってすぐ、治安が良く大きな街へと移動することに決めた。
 とはいえヒトである自分では、付け耳などでの変装でその場その場の目は誤魔化せても定住となると難しい。電子機器の修理や直した古い機器、分解した部品を売って日銭は稼げてもその程度でしかない。最悪の場合、また獣人に飼われるしかないかもしれないと思ったその瞬間。
 街一番の大病院、その裏口から出てくるディランを見つけた。何年経っても、自分が彼を見間違えるわけがない。隣で不思議そうに見上げてくるジェッタに名を呼ばれても、瞬きひとつできなかった。

「被験体を外に放ったあなたに何の処分もないはずがない。かといって、機密事項の塊である【楽園】が易々と外部へあなたを放り出すはずもない。大なり小なり息のかかったところでしょうが……普通の病院へ送られたのは、現実を見せるためですね。甘くて優しい、夢想家なあなたに」
「……、……ああ」

 たっぷりの間を開けて、ディランは重々しく頷いた。
 自分たちが【楽園】で数多のヒトの子を殺し作り出した薬たちが、獣人社会でどれだけごく「普通」に使われているものなのか。もはや世界の一部に組み込まれ、それが無くなればどれだけの混乱が起きるのか。どれだけ困る獣人がいることか。
 通常の医療現場を見てすぐにディランは痛感したことだろう。
 ヒトの子に同情し、間違っていると嘆いて逃がしてしまうなど——獣人としてどれほど愚かなことなのか。

「今は、どうですか? 俺たちを逃がしたこと、勿体ないことをしたとお思いでしょうか」

 手を伸ばし、するりとその頬を撫でる。白い毛並みを指で梳き、一歩大きく近付いた。

「他の子たちは限界が近かったけれど、俺はまだ使えたでしょうしね」
「——アダム!」

 また、そんなことを言うなとでも叱る気か。
 咎めるように腕を掴まれるも、今さら鼓動の早さすら変わることはない。アダムはただ冷めた目をディランに向けた。

「今でも、きっと使えますよ。俺を手土産にでもすれば、ドクターもまた【楽園】に帰れるのかもしれませんね?」
「そんなことは、しない……!」
「じゃあ、あなただけが俺を使ってください。今夜も」

 ディランが息を呑んだのが分かり、笑い出しそうになる。面白いことなどひとつもない。空虚なだけの笑いだ。
 あなたしかいない、その言葉に嘘はない。
 正真正銘、アダムにとって頼れる相手はディランしかいない。彼を頼る、いや使うしかない。そう思ったからこそ、機を見て強引な手に出ることを決めた。
 何も持たない自分がジェッタを守るためにできることは、これしかなかった。それだけだ。

 ——それだけでなくては。

「ん……ん、っ……ぁ」

 唇を押し当てると、程なくしてぬるりと大きな舌が入り込んでくる。
 耳の縁を柔らかく爪先でなぞられ、背筋に甘い痺れが走った。そういえば近頃ディランは爪先を丸く整えるようになったと、そんな場合でもないのに気が付く。

「ふっ……ぁっ、ん、んッ……!」

 いつのまにか壁に押し付けられる形になり、そのまま口内をしつこく舌でまさぐられた。当たり前だが、獣人とヒトでは口はもちろん舌の大きさもあまりに違う。
 特にディランは獣人の中でも巨躯なほうだ。体格に見合ったその分厚い舌が喉にまで入り込んでくる感覚に、息苦しさと共に吐き気が込み上げる。

「ぐ、ッ——っ……! ぅ、……っ!」
「ッ……、ご、めん」

 一気に緊張し硬直したアダムに気付いたのか、焦った顔のディランはすぐに舌を引っ込めた。
 さすがに咳き込んでしまったため返事はできなかったが、この程度のことは問題ない。もっと苦しい目に遭ったことくらい山ほどあるのだから。

「アダム……大丈夫? 本当にすまない、つい……」
「……ッは、……だい、じょうぶです」

 優しく頬や背中を撫でられた途端、チクリと痛む何かを覚えた。たぶん、手の傷だ。そう思うことにした。

「これくらい、は……慣れてます、から」
「でも」
「もっとしてくださっても良いんですよ」

 ほら、と微笑んで改めてキスをする。舌先同士を触れ合わせ、唾液を送り込みながら続きを促した。
 わずかではあるが壁から背を離し、ディランにぴったりと身体を寄せる。すでに硬くなり始めたらしい彼自身が身体に当たり、途端にこちらの腹の奥も熱く疼くのを感じた。

 ——何故、こんな反応をしてしまうのだろう。これではまるで期待しているみたいだ。

 まだ先ほどの名残に霞む頭の端で、アダムはぼんやりとそう思った。
 積極的に見えるよう、意図して振る舞ってはいる。かつての飼い主たちをどうすれば喜ばせられるか学ばなければ生き残れなかったのだから、そんなことくらいは最早お手のものだ。
 そしてアダムがそんな手慣れた振る舞いを見せるたび、ディランは勝手に傷付いてくれる。

 ——本当に。
 ——どこまでも、あなたは。
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