鬼の名語り

小目出鯛太郎

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ともといえども

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 がたん、と響いた大きな音に朽木くちきは飛び上がる。雷とは違う、だがなかなかに大きな音だった。

 がね~がね~と化け猫のような鳴き声もする。
 朽木はどうしようと刺繍の布を手にしたままうろうろと部屋の中を歩き回った。

 がたん、がたんと響くのは何かが戸にぶつかっているようだが、朽木は足枷のせいでそこまでは行けない。

「はがね~てめぇばっかりかわいいよめことりやがっているんだろういるすするんじゃねぇよとものひとりにちゃもだせねぇってのかよこらおいいるすすんなぁこらぁでろや」

 だみ声が切れ間なく何かを言って、その中にはがねとこの屋敷の主の名を呼んだようにも思うが、朽木には、この引き戸は開けられない。
 鋼からは固く戸を閉めて、決して『いらっしゃい、どうぞ、入れ』など外にいる者を招いてはいけないと言われている。

 天高く飛ぶ雲雀ひばりさえ驚いてくちばしを閉じるほどの大声に、朽木は弱り果てた。

「…鋼はるすです」
 朽木は呟いた。

 一瞬静寂が訪れた。 
「ちくしょぉぉぉぉやっぱいるんじゃねぇかおまえらいつまでいちゃついてんだこらともあけずきゃくにおもてなしもせずいちゃいちゃとおらひとりみがかわいそうだとはおもわねぇのかよこのにんぴにんがくそはがねはげろもげろおれろ~」

 これは鋼に、文句を言っていると鈍い朽木にでもわかる。木製の戸はがたん、どしんと鳴り続ける。壊れる事はないと言われていたが、音がする度に身が竦む。


 鋼、帰ってきて、鋼早く帰ってきて、と朽木は心の中で祈った。


 ずどん、と一際大きな音がした。

 きゅう、と何か絞められるような音がして、引き戸がからりと開く。
「ただいま」
 と声がして、朽木は部屋から廊下へ首を出す。玄関に立つ鋼に「おかえりなさい」と小さく声をかける。
 
 ずざざざと百足むかでが這うように玄関に何者かが入り込み、素早く鋼の下駄で踏まれた。色は灰色だが地面を這うには勿体無い艶々とした着物を着た若いあやかしのようだ。とてつもなく酒臭い。
 離れている朽木の所までぷんと匂いがする。


「つがいにかわいいよめこのにいづまにあしかせはめてとじこめるとかどちくしょうかよこのはがねのむっつりすけこ…」
 鋼がそれの襟首を掴み、ぽいっと外に投げ捨て、「うせろ」とぴしゃりと戸を閉めた。

「朽木、聞かなくて良いぞ」
 う、うん?と朽木は良く分からずに頷く。

「しかしあいつめ…他に何か言っていたか?いや、いい」
 何となく憮然とした固い顔で告げられ、朽木は首をかしげた。

「あのね、全部は覚えてないけど…このにんぴにんがくそはがねはげろもげろおれろって言ってた」

 鋼の姿が硬直した。切ない顔になった。
「いや、うん。いや、言ったのはあいつなんだろうが…朽木の口からその言葉を聞くと胸にくるな…」

 大事な所に穴が開くか、何か落としたかのように言われて、朽木は慌てて言った。

「は、はがねはやさしいよ?」
「…そうか」
 鋼の顔が、少しばかり緩んだので朽木はもう一言付け加えた。

「鋼はなんでも出来るし…」
「そうか、なんでも出来る良い男か?」
「う、うん?」

 朽木の言葉に鋼が何か良いように付け加えたが、朽木は取り敢えずこくんと縦に顎を落とす。
「さ、足の枷を外してやろうな」

 太刀風のように素早く近づいて攫い上げられ、部屋の中で胡座あぐらをかいた太腿の上に降ろされる。
 いつもよりぴったりと身体を寄せられ、しかも頭の天辺に朽木は見ることはできないが、鋼の口が、付いているように思える。

「朽木が、早く帰ってきてと言った気がして飛んできてしまった。俺もなぁ…なかなか…どうして…」

 その後に続く言葉は鋼の口の中でもごもごとして朽木には届かなかった。
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