鬼の名語り

小目出鯛太郎

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ものぐるほしけれ

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「おい、いつもに増してほうけた顔をして、おいしっかりしろ」


 あれ、と朽木は首を傾げた。知った顔がすぐ近くにあった。はやてだった。記憶にあるよりも肌が焼け、白緑びゃくろく色の髪が腰まで長く伸びていた。


「おら、聞こえてんのか?この耳は飾りか?かーざーりーかー?」
 颯は朽木の耳たぶを摘んで引っ張った。

 痛そうには見えなかった。だが葉から朝露が落ちるように朽木の目から涙がほろりと零れた。

「またすぐ泣く!お前なんかなぁ、これぐらいで泣いてどうするんだよ。こんなんじゃ海の向こうに行ったらすぐに大鋸屑ミンチにされちまうぞ

 親指で目元を擦られる。朽木はぐらぐらと体が揺れている気がした。地面の上に両足をつけて立っているのに世界が揺れ動いているような目眩に似た感覚だ。

 朽木の表情の抜け落ちた焦点の合わぬ目を見て、颯は慌ててその体を支えた。

「おい、具合が悪いのか?座るか?」

 陽の射す方へ向けて無理矢理に座らせると、涼しい風をそよと送る。

 颯が知る中で朽木は最も脆弱ぜいじゃくで、頼りなく、泣き虫で、競う張り合いもないどうしようもない存在だった。
 出会って最初のうちこそ歳若いあやかしの仲間が出来て嬉しかったのだが、次第につまらぬ奴だと思うようになってしまった。

 打てば響くとは真逆の、朽木のぼんやりとして鈍い姿は、颯を無性にいらいらさせた。




 その考えが変わったのは、他の風と共に地表の端を巡り旅をしたからだった。
 海風は物静かに物言わぬ漂流木どらふとうっどを撫でていた。時に潮流や、海波と争い、水底の美しい珊瑚さんごを奪おうとする姿は恐ろしかった。元の青い色を失う程暴れ狂う姿にドン引きした。
 もはや風なのか水なのかわからぬ姿を恐れて、颯は、海から逃げた。物言わぬ破片を未練がましく抱いているのも嫌だったし、触れられぬものを指を咥えて見ているのも嫌だった。自分は絶対にあんな風に乱れまいと思ったものだ。



 次に訪れた砂地では少ない緑地おあしすの周りに砂風も黒風も、砂塵も熱風も逗留していた。若い足無しの椰子やしを取り囲んで、でれでれと鼻の下を伸ばしていた。

 俺たちはもう自分ではこの地から動けぬのだ、と颯は風達に弾き飛ばされた。このままこの地に留まり続ければ一人虚しく砂をくじり続ける事になるぞと脅し追い出されたと言っていい。
 そこでもみくちゃにされ酷い目にあったのだが、それは他のあやかしには言うまいと颯は心に誓った。もう砂漠には近づくまい、と。

 砂漠の端でようやく胡楊こようという大樹のあやかしと話す機会があった。眩いばかりに輝く黄金の塔の様な美しく力強いあやかしだった。

 木は水と地を繋いで命を与えるものだと胡楊は言った。風は陽の恵みを運び海と陸を巡って水を運ぶものだと。言うなれば風は木に衣を着せ食事の水を運ぶ召使いのようなものであると。

 颯は憤慨した。
「俺は誰かの召使いになるなどごめんだ。俺の主は俺だ、誰にも仕えたくはない、まして飯当番など…」


 胡楊は、ふふと笑いそれで良いと言った。だが役割をはたさぬものは自分が何のために存在しているのかを忘れ、そのうち自分が何であるかも忘れてしまい形を取る事も言葉を話す事も誰かに見つけて貰うこともできずに存在が消えてしまうのだよ。そう言って颯の身体を引き寄せた。
 
 颯の風が胡楊の黄金の髪を揺らす。輝く肌の上を滑る。颯は暫し恍惚とした。そのとろりとした穏やかな瞳に紅潮した自分の顔が映っている。
 
 私達は、お前達が形を確かめるためにあるようなものだよ。私は千年生きて、枯れて千年、倒れて千年姿を留めると言われているあやかしだ。私の上を多くの風が通り過ぎて行った。此処に留まるものもいるし、旅立つものもいる。私は何処にも行くことは出来ないけれど風は自由だ。好きな所に行けば良い。木と風、同じあやかしだが、生き方も考え方も違う。お前はずっとここにいても良いし何処へでも好きな所へ旅立てるのだ。

 そう言った胡楊の影から、良く似た顔をした小胡楊が利発そうな瞳を輝かせて颯を見つめていた。毛色の違う新しい召使いだと思われたのかもしれなかった。


 あ、俺はこの場にいるべきではない、と颯は唐突に思った。この地には胡楊をここまで大きく美しく育てかしずいた多くの地と水と風のあやかしがいるだろう。


 颯の脳裏浮かんだのは、痩せて、頼りなく、寂しい目をした木のあやかしの事だった。養い親が手を離してしまえば、消えてしまいそうな弱いあやかしの事だった。
 奪い合うこともなく、寵を競うこともなく、ゆっくりと育てていける。
 競って張り合うものではなく、育てて行くものだったのだと、得心したのだ。


 良い水と、心地よい熱を運び気を使い優しくしてやらねばならない…随分と乱暴にして枝を折ってしまったから。


 そう思って戻って来たならば、朽木は以前にましておかしいように見えた。

 泣き虫で覇気がなくて、頼りなくて…。ただ真っ直ぐな澄んだ瞳をしていたのに。焦点の合わない、見ようとしない朽木を自分の体にもたれさせて颯はしばらくそこに座って、白い手を潰さぬように握っていた。
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