鬼の名語り

小目出鯛太郎

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この手誰の手

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 ほんの一瞬のことだった。

 掴んだ朽木くちきの細い両手首に黒い腕輪をはめた様に見えた。かがりの手が触れていた部分が黒く炭化し一部が宝石のように赤い。輝いて見えるのは、熾火おきびだった。芯が炎も上げずに燃えているのだ。朽木は生きたまま焼かれるのと同じだった。

 篝が手を離しても、もう、遅かった。

 火を、熾火を消さなくては。このままでは朽木が焼けてしまう。悲鳴を上げて地面を転がる朽木の身体に篝は手を伸ばそうとした。




う あ あ あ あ あ


 朽木は叫んだ。

 また近づいてくる手は恐怖以外の何物でもなかった。

 産声をあげずに生じた朽木の、一生のうちで最も大きな叫び。声を出す管が全て剥がれて落ちるような叫びをあげた。

 今呼ばなければ、もう二度と名前を呼べないと思った。少しの傷も、指が折れる痛みでも我慢して迷惑をかけてはいけないとじっと耐えてきたけれど。

『岩館』

 

 岩館いわだて助けてと朽木は叫んだ。


 硬い腕に攫われ。朦朧とする。冷たい水に漬けられる。夏でも冬の雪の冷たさを湛えたような滝壺の底にごぼごぼと沈んでゆく。颯の名前を呼ぶより早く、岩館を呼んでいれば良かったと朽木は思った。いつも思うのが遅すぎるのだ。
 どんなに離れていても朽木と岩館は一度繋がっているから互いの場所に飛ぶ事ができる。弱い朽木は飛べた事が無いが。岩館があの場所から朽木を攫って、滝壺の底の大岩までまた飛んだのだろう。自分の燃えたぎる手を掴んだのは、岩館だったと思っただけで歓喜に震える。



 朽木が生じたばかりでまだ名もなく、暗い森の中に希死念慮に囚われていた頃、うまく形にならぬ枝葉の手を掴まれた。

 この手誰の手、とぼんやり太い指を見る。大きな掌と逞しい肩に続く長い腕を見る。逆光で顔がよく見えぬ。

 硬い手に導かれ木には岩を割る程強い生きる力があると根をはらせ、ただの木は岩館を吸って今の容姿かたちになった。木の根は岩肌を割り、今は二本の足になった。枝葉の手は岩館に繋がれて小さなてのひらと指になった。
岩館の身体の一部は割れて砂礫されきとなって剥がれて落ちた。
 身体から落ちた砂や小石を土にならしてゆく岩館の瞳が優しく悲しかった。 

「こうして砕ければいつかは何かの苗床なえどこになる。大きいばかりでは邪魔になり世の役にはたたん」

 最後は砕けてなくなってしまいたいのか?と聞いたような気がする。

「…ただ一人残って見送り続けるのはつらい」
と岩館は言った。
 岩館の大きな身体の中には長い長い年月の間一人取り残される寂しさでいっぱいだった。

 このあやかしの身体という身体に指の先まで根を張って砂粒になるまで砕いてやるべきなのか、このあやかしが決して独りぼっちにならないように木を林を森を尽きぬ樹海になるまで産み育てて行くべきなのか。どちらも力の弱い樹精には果たせぬ願いだった。

 この人を爪の一筋でも傷つけるのは嫌だ。

 岩を削る根など一生張るまいと誓った。

 だから決して岩館の名を呼ぶまい、と思っていた。そのくせ心の中ではいつも嵐や雪を願っていた。岩館が心配して懐の中へ入れてくれるのを心待ちにしていた。今もただ、岩館の腕に抱かれて冷たい水の中で滝の音を聞いているだけで幸せだった。

 
 時が来たら…と漠然と思っていた。その時とは、誰かが自分で良いと選んでくれて子を産む時が来たら静かに身を任せようと思っていた。岩館の事を想っていれば何をされても大丈夫だと思っていた。

 浅はかだった。
なんとなくいつかは颯の子を生むのではないかと思っていた。里の中でよく会う相手だったし邪険にされても悪戯されても、虫が付きそうになるとすかさず払ってくれた。だるような暑さの時に涼しい風を送ってくれた。風が身体の全ての部分を撫でて行くと落ち着かなかった。そんな時に颯と目が合おうものなら、気恥ずかしさに脱兎の如く逃げた。
 


 そして今日初めて求められて、それも今まで考えもしなかった篝に身体をまさぐられて無意識に目を背けていた過ちに気がついた。


 誰か、ではなかった。たった一人しかいなかった。一緒にいたいのも、触りたいのも、手で触られて良いと思えるのも一つになりたいのもこの世界にはたった一人。岩館だけだった。

 どうして自分は木のあやかしになったのだろうと朽木は思った。翡翠や瑪瑙や水晶のような美しいものになりたかった。いや、贅沢は言わぬ、転がる名もなき岩で良かった。岩館と同じ物になりたかった。木では岩の番になれぬ…。


 岩館の硬い胸にぴったりと頬をつける。どれだけ泣いても涙は見えずに滝の水に溶けていく。






 取り残された篝は、煙を上げ始めた黒い小さな塊を見つめていた。

これはなんだ…。


 篝は認める事が出来ない。


このあとも手に入れる事の出来たかもしれない淡い香りが薄く漂っていた。
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