熔鉄

小目出鯛太郎

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 こんな事が、あって良いのだろうかと鉄は自分の腕の中で眠る人をしげしげと眺めた。
 
 白い額とかたち良く整った鼻梁。眼鏡を取ると隠れていた睫毛は驚くほど長い。


 昔、ほのかに好意を抱いた相手。自分の性的な嗜好に悩んでいる間にいつの間にか親友のものとなってしまった人。


 鉄は怪我を理由に大学を中退してしまっていたし、何年も経っていてもう会うこともないだろうと思っていた。


 それなのに思いがけない場所で、砂原実サハラミノルに再会してしまった。


 鉄は葬儀屋として、実は遺族として。















 
 亡くなったのが実の家族ではなく大学の教授という事を聞いて戸惑いはしたが、その場であれこれ尋ねるような事はしなかった。
 この病院は先進的な癌治療が有名だった。恐らく癌で亡くなったのだろう。どんなに治療法が優れていても助からない人はいるのだ。


「本日ご遺体の搬送を担当致します中村と木戸です」

 中村が名刺を差出し、葬儀の流れを淡々と説明する間、鉄は黙々と遺体にエンゼルケアを施す。


「故人は密葬を希望していました。葬式も墓もいらないと…」

「左様でございますか。式をお考えでないのであれば江東区には公営斎場や火葬場がありませんので、区役所以北にお住まいの方であれば四ツ木斎場をおすすめ致します。区内南部、湾岸エリアにお住まいの方は、東寄りであれば浦安市斎場、西寄りであれば桐ヶ谷斎場のご利用をご検討ください…」


 しばらくの沈黙の後、乾いた小さな声が、近ければ何処でも良いですと答えた。
 
 これは自分の担当になるな、と鉄は思った。


 葬祭業は人の死を悼む事につけ込んだビジネスだと鉄はこの仕事についてから常々思っていた。

 ただ燃やすだけの棺にランク付けがされ、人は故人への愛や悲しみから、時には世間への体面や見栄で祭壇や、盛籠や花輪、香典返しに至るまで金を使う。


 一連の流れに葬式がないとこの仕事は給与へのインセンティブが発生しないため、直葬を主任の中村は嫌がるのだ。
 大きな社葬を幾つも取り仕切ってきた中村からすると、小さな家族葬や密葬というものは雑務に他ならない。
 
 それでも態度がおざなりにならないのは、遺族の噂や口込みといったものが次の仕事を呼んだり響いたりする事を熟知しているからだろう。

「木戸、任せるぞ。遺族の方の希望に沿った形で進めてくれ。オレは、佐々木を呼んだから次の病院に行ってくらぁ。お前、終わったら休み取って良いぞ。何連勤した?」

「28連勤くらいですかね…」
 
 鉄はとぼけた。本当はそれどころではない。

「若手に倒れられても困るからな、連絡して2日休み取れよ」

「ういっす」



 実が看護師か書類や身の回りの物を預かっている間に鉄は中村と会話し、一瞬だけ休みに何をしようかと考えた。
 休日に何かをしようと思っても大抵は寝汚く過ごし近所のラーメン屋に行って終わってしまうのだが。


 
 作業に感傷を挟む余地も無く、貼り付けたような神妙な面持ちで遺体を白い布に包んでベッドから簡易ストレッチャーに移動させる。

 スライディングシートを使って遺体を滑らせ、安全ベルトで固定する。

 この重みが手から離れた時、鉄はいつも人が、モノになったように感じた。

 だからといって粗略に扱う訳ではないが、例えようの無い虚しさを覚えるのだ。

 どんな偉大な事を成し遂げても、どんなに人から慕われても、憎まれても、死んでしまえば皆同じだった。

 皆、こうなる。

 何も持っていくことは出来ず、ただ為すすべもなく包まれ、運ばれ、燃やされてしまうのだから。



 看護師一人に寂しく見送られ病院の裏口からストレッチャーは静かに黒いワゴンの寝台車に乗せられる。


「お車でいらっしゃいましたか?」
 悄然と佇む細い体躯に声をかける。

 外灯に照らされる顔が、昔の映画に出てくる魔法使いの少年のようだなぁ、と鉄は思った。

 同じ歳であるはずなのに10も若く見える。



 彼だけがまるで時間から取り残されたように若々しく、初めて会ったときそのままに頼りなげだった。


 小鹿バンビみたいなめ ぇしゃがって…


 初めて会った時も同じ事を思ったのだ。黒目がちの涙で覆われたような潤んだ瞳を見た瞬間から気になって仕方なかったのだ。


 実は首を横に振った。

「ご遺体は弊社の安置施設にお運びします。そちらでお付き添いも可能ですし、近くにビジネスホテルもございますので宿泊も可能です。もし一度ご自宅に戻られるのでしたらタクシーをお呼びしますが、この車に同乗して行かれますか?この時間帯ですし」


 実はほんの少し躊躇うような素振りを見せたが、人通りも車も通らない暗い裏道を振り返り見て、こくんと頷いた。

 
 実は遺体側でなく、ワゴンの助手席側に乗り込んだ。


 鉄は中に入りたそうにしている看護師に会釈した。何処の病院も少ない人数で夜勤を回しているのは知っていた。
 早く出立した方がありがたがられるのだ。



 もう、裏手には佐々木の乗ってきた別の黒いワゴンが停まっていた。中村達はその車で、次の病院に向かう。

 鉄は車に乗り込みエンジンをかけた。


 沿道を少し走り、予定に無い脇道に入り、鉄は車を停止させた。
「少々お待ち下さい」


 車を停めたのは自販機が見えたからだ。
 温かいミルクティーがあって良かったなと、その他にブラックコーヒーと緑茶を買った。

 いつもならば、こんなサービスはしないのだが。
 鉄は車に戻り、実の手にミルクティーの缶を持たせた。

「今も好きなら良いんだけど」

「え?」

 台詞を言ってから、これでは気味悪がられるだけかと頭をかいた。

「もう、忘れてるかもしれないけど俺木戸だよ。ボクシングやってた木戸鉄キドテツ

「…あ…え?」


 実の手がフロントの車内ライトに伸びた。


 実は覚えているだろうか。

 実に自分はどう見えているだろうか。

 不意に鉄は恥ずかしくなった。


 あの頃はボクシングのために身体を鍛えて、階級のためにかなり身体を絞っていた。

 無駄な肉など無く、しなやかなむちのような体つきをしていた。
 
 だが網膜剥離と眼底骨折で、その道が断たれてから、別人のようになってしまった。

 柔道でもやってた?と聞かれる事はあっても誰も鉄が、ボクシングをやっていたとは思わない。かなり太ってしまった。


 車内ライトに照らされて二人は見つめ合った。
 実だけが、ほっそりとしたまま変わらない。ずるい、と鉄は思った。

「て…つ君、鉄君、ごめん、わからなかった」
「いや、俺も唐突にごめん。飲めよ」

 実の指はかちん、と缶のプルタブを弾いた。

 かちん、かちん。

 遊んでいるのではなく実の手は、震えていた。

 鉄は実の手から缶を取り上げ、プルタブを開けた。
 
「両手出して」
 暖かな缶を包むように持たせて、そっとその手を上から押さえた。


 人の死を目にして、泣き出したり笑いだしたり、残された家族が軽い興奮状態になるのを鉄は見てきた。

 泣きたいのなら泣けば良い。
 我慢することも無理をすることもないのだ。
 白い実の手が冷え切っていて、震えが止まるまで温めてやりたいと鉄は思った。



「鉄君。この車、どこに行くの?」


 遺体は直ぐに燃やす事は出来ない。24時間以内は火葬してはいけないと定められた法律があるからだ。
 流れについては中村が説明しているはずだが、亡くなったショックでそういった説明は耳を素通りしてしまったのだろう。よくある事だった。


「病院の霊安室が使えなかったから、うちの会社の安置施設に行くんだよ。自宅には戻りたくないって話だったから。ほら、飲んで」

 実は、泣きそうな顔をしていた。
 涙が流れないだけで泣いているのかもしれなかった。

「葬式をしない直葬を希望していても、24時間は安置しないといけないし、役所が開いたら死亡届を提出して火葬許可申請の手続きをうちの会社で…まぁ、俺がやってくるから」
「おれも行く」

「実は…あ、ごめん。砂原さんは施設で付き添いしていても良いし、一度実家に戻られても」

「一緒に行く…実でいいよ」

 一緒に行くと言い切った言葉だけが、別人の口を借りたように強い口調だった。








 ベルトコンベアに乗せるように淡々と『業務』をこなし事務的に接して『見送り』と同時に砂原実の手を離すはずだった。
 淡い想いも過去の思い出として、心の中でさよならを告げたつもりだった。

 それなのに。


 実に、一人でいたくないと言われた時。鉄の心は揺れ動いた。

 自分の休みを実に付き添って費し、『見送り』を終わらせる。


 そうして仕事を終わらせたら、元気を出せよと励まして何事も無かったようにいつもの日常に戻るはずたった。



 ああ、それなのに…。



 したいのをずっと我慢していたなどと言われてしまえば鉄の自制心などすぐに熔けた。






 誰かの終わりが、二人の始まりだった。

 一人でいたくないと指を握られた時に心まで掴まれた。

 あるいは初めて会った時からずっと、鉄の心は実に囚われていた。



 指はあんなに冷たかったのに、実の中は熱かった。
 鉄は実の中でどろどろに熔けた。 

 
 もう離れられるはずがなかった。


 離れたいとも思わなかった。







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