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にせもの彼氏
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「萌ちゃん、おかえり」
席に戻ると、大久保主任がにこにこと私の名前を呼ぶ。
それにあいまいな笑顔を返し、気合を入れるために、ワイングラスを一気にあおる。
「それでさ、萌ちゃん。さっきの話なんだけど」
「すみません、大久保主任」
タンッと、グラスをテーブルに置いた。
「せっかくですが、おことわりします」
「……理由を聞いても?」
よろこんで! と返したいところをグッとこらえ、まじめなトーンを意識する。
「彼氏に怒られるからです」
言った。
言ってやった。
大久保主任がポカンとした表情をしている。
嘘をついた申し訳なさよりも先に、達成感が湧きあがってきた。
もしかして、自分の力だけでなんとかできるかもしれない。
そんな期待をしていたときだった。
「そのぐらいじゃ怒らないけどな、俺は」
声のした方向に、目が引き寄せられる。
私の視線をうけて、瀬戸さんが薄く笑う。
その笑顔に、ゾクリと寒気がした。
「俺は出張が多いから、好きに遊んでいいって言っただろ? だってけっきょく、いつも俺のところに戻ってくるもんな」
瀬戸さんは、まるで愛しいものを見るように、私を見つめた。
だれもが事態を飲みこめず、シンとした空気が流れる。
「なにを、言っているの、玲於」
静寂を破ったのは、知沙さんだった。
声がふるえているのは、瀬戸さんの異常な言動のせいだ。
にせもの彼氏とはいえ、この設定は、あまりにもひどい。
「ああ、知沙。じつは前に話してた俺の彼女って、こいつなんだ」
瀬戸さんに止める気がないことを知って、知沙さんが息をのむ。
事情を知らない人が見れば、瀬戸さんのセリフに驚いているように見えるだろう。
はにかむ瀬戸さんは、彼女を溺愛する彼氏、そのものだった。
「秘密にしていたつもりはないんだけど。俺は」
瀬戸さんは、苦笑しながら、テーブルの面々を見渡していく。
大久保主任、私、がっくんと視線をすべらせ、彼は目を細めた。
「今回の出張は1週間もあったから、たくさん遊んだみたいだな、萌」
「せ……」
とっさに名字を呼びそうになり、直前で脅されたことを思い出して、うつむく。
「大久保さん。こいつ、思わせぶりな態度をとったでしょ。そういうやつなんです。男が好きで、俺1人じゃ満足できなくて、ほんとう、困った女だわ」
瀬戸さんのセリフが、耳を滑っていく。
言っている内容はひどいのに、慈愛にあふれた言い方をするから、まるでのろけているように聞こえる。
「うそだよね、萌ちゃん」
大久保主任が、ちいさな声で、聞いてくる。
答えることもできないまま、にぎりしめた自分のこぶしを見つめる。
ふるえているのは、こぶしの方か、視界の方か。
大久保主任の、私を呼ぶ声が、だんだんと切羽つまってくる。
何も言えない私の態度は、瀬戸さんの言葉を、肯定しているかのようだ。
そこまでわかっているのに、どうすることもできない。
ただ、こわくて、たまらなかった。
平然とひどい嘘をつく瀬戸さんも。
責めるように名を呼ぶ、大久保主任も。
――嘘だと知らない人が、もうひとりいることも。
ぎこちなく、慎重に、目線を上げる。
右隣の大久保主任も、左隣のがっくんも、視界に入らないように。
あえぐように息をしながら、すがる思いで、瀬戸さんの顔を見る。
笑顔を湛えた彼の瞳には、加虐的な色が宿っていた。
「大久保さんが勘違いするのも、しかたないと思いますよ。そうだ、おわびに一晩、貸しましょうか? 秋津が言っていたとおり、こいつ脱いだらすごいので」
「玲於」
聞こえた重低音は、冷酷な響きだった。
場の空気を静止させ、皆の視線を集める。
「これ以上、萌さんを侮辱するな」
まっすぐに瀬戸さんを見つめ、はっきりと発音する。
そのことばには、強い怒りがにじみでていた。
「なに、岳。おまえも萌の被害者なわけ?」
「言っていいことと悪いことの、区別もつかないのか」
「俺は事実を言っただけだ」
「おまえのは、脅しというんだ、玲於」
ハッとがっくんの横顔を見やる。
ふいに彼がこちらを向いて、澄んだ瞳と目が合った。
「萌さん」
たしかめるように私を見つめる彼は、おだやかな表情をしていた。
「なんでも相談してくださいって、言ったじゃないですか」
そのことばは、しずかで、あたたかかった。
彼は、いっさい私を責めなかった。
それどころか、心配そうに私に手をのばす。
きゅっと目じりをぬぐわれ、うるんだ視界がクリアになった。
そのやさしい指に、たまらなくすがりつきたくなって――。
「岳ー? 俺の彼女になにやってんのー?」
瀬戸さんが、不釣り合いな明るい声を出した。
優越感にあふれた歪んだ笑顔を見て、私はようやく理解した。
瀬戸さんがリベンジしたい本当の相手。
それは、がっくんだ。
がっくんが、瀬戸さんに目を向ける。
そして、うんざりしたように、おおきなため息をついた。
「玲於も玲於なら、萌さんも萌さんだ」
頭を殴られたような衝撃だった。
突き放すようなセリフに、顔から血の気が引いていく。
がっくんに、嫌われてしまった。
息が、うまく吸えない。
胸が軋むように、くるしい。
耳鳴りとめまいが起こり、焦点が定まらない。
「どうした岳、負け惜しみか!?」
瀬戸さんが、たえきれないように笑いだす。
その声が、とても遠くに聞こえた。
視界が白くなりかけたとき。
私の意識をつなぎとめるように、左手になにかが触れた。
テーブルの下、皆に見えない位置で、ギュッと手がにぎられる。
渇望していた手の温度に、しんじられない思いで、顔を上げる。
きっと彼はいつもどおり、私を安心させるようなおだやかな表情で――。
安堵しかけた私は、がっくんの顔を見て、かたまった。
つよい力で私の手をにぎる彼は、それはそれは、不機嫌なふくれ面をしていた。
怒っているというより、盛大に拗ねている。
初めて見る彼の表情に、おもわず、まばたきをくりかえす。
「萌さん!」
「はいっ!」
背筋を伸ばしたがっくんにいきなり呼ばれ、反射的に姿勢を正す。
「玲於と付きあっているのに、俺と寝たんですか?」
「ふえっ!?」
瀬戸さんの笑い声が止まる。
場の空気が、凍りついたのを感じた。
「答えてください!」
「え、そ、そ、それはっ、その」
語弊しかない彼の言い方に、目を白黒させる。
寝たと言っても、睡眠のほうだ。
それでも、ここで説明するには、言葉を選んでしまう。
動揺する私に、彼はたたみかける。
「じゃあ、なんで俺にキスしたんですか!?」
「ちょ! ま、それ、ええ!?」
寝起きの悪いがっくんが、キスしたら起きると約束するから、つい。
しかもあれは、彼の頬にかるく唇を当てただけだから、どちらかというと、じゃれあいの域だ。
「俺のこと、好きだって言ったじゃないですか!!」
それは『好きか嫌いかでいったら好き』の話だろうか。
そんなことを思っていると、握られていた手を、いきなり引かれた。
抵抗する間もなく、がっくんの腕の中に落ちる。
私を軽々と受けとめた彼は、左腕で私の後頭部をつかまえる。
右手を私の頬にそえて、覆いかぶさるように顔を近づけた。
彼は、私にくちびるをかさねる――数ミリ手前で、動きを止めた。
だれかが、息をのむ音が聞こえた。
はたから見ると、完全にキスをしているような体勢だ。
周囲から守るような腕のなかで、私は彼と見つめあう。
おたがいの顔がぼやけるほどの至近距離で、彼は私だけに、ふわりと笑った。
さっきまでの絶望感が、彼の体温にとけていく。
どうしようもなく、彼の笑顔が愛しかった。
そう思うと、もう止められなかった。
引き寄せられるように、数ミリの距離を埋める。
くちびるが重なったのは、ほんの一瞬だった。
彼の目が、とろけるように甘くなる。
私の想いに、彼はついばむようなバードキスで応えた。
長いようで、短いようなキスのあと。
そっと顔を離した彼は、まっすぐに、私だけを見ていた。
「俺のこと、好きですよね?」
「……はい」
「俺もです。明るくて、素直で、ちょっぴり鈍感な萌さんが、大好きです」
そういって、がっくんは私の体を抱きしめた。
「あのー、おふたりさん」
すさまじい棒読みに、ハッと我に返る。
「俺らのこと忘れて、いちゃつかないでほしいんですけど」
テーブルに片肘をついて、半眼でこちらを見る彼は、あきれ果てた顔をしていた。
がっくんの腕から離れ、彼をまっすぐに見つめる。
「瀬戸さん」
もう、彼の名字を呼ぶことに、迷いはなかった。
「宮崎さん。彼氏役を熱演した俺に、お礼とかないわけ?」
瀬戸さんは、約束を守るように、ネタバラシをする。
しかし、彼の図太さには、閉口するしかない。
「あるわけないじゃない、玲於」
「なんで知沙が答えるんだよ」
「あなた、訴えられても、しかたないわよ」
「かわいい後輩に『よろしくおねがいします』って言われて、はりきってやっただけだろ?」
まったく悪びれない瀬戸さんの態度に、知沙さんが形のいい眉をしかめた。
「玲於の性格の悪さは、もう手遅れかしら」
「だいじょうぶですよ、知沙さん」
ためいきをつく知沙さんに、がっくんが笑顔でこたえる。
「あとで俺がシメておきますから」
「きつめにね?」
「わかってます」
同期ふたりの会話に、瀬戸さんがへらりと笑った。
「反省しなきゃいけないことなんて、なんかあった?」
「シメ甲斐がありそうで、たのしみです」
まったく動じないがっくんに、さすがの瀬戸さんも笑顔をひっこめた。
「というわけで大久保さん」
がっくんが、とつぜん大久保主任を名指しする。
自分に矛先が向くと思っていなかったらしく、彼はおどろいたように目を見開いた。
「俺はにせもの彼氏とちがって、彼女を貸し出したりはしませんから」
「……ふっ、はは、ははは」
大久保主任が、いきなり笑い出した。
「いやおまえ、あれ見せつけられて、どうこうしようなんて、さすがに思えないよ」
ひとしきり笑うと、手に伝票を持って立ちあがる。
私を見つめ、すこしだけ目を細めた。
「宮崎さん、おしあわせに。ご祝儀代わりに、これぐらいは払わせてね」
「大久保主任……ありがとうございます」
おれいを言うと、彼はふっきれたように笑った。
「じゃ、また明日会社で」
大久保主任は、軽く手をかかげると、ふりかえらずに去っていった。
「大久保さんって、かっこいー」
大久保主任の背中を見送った瀬戸さんが、かるい調子で褒める。
「そうね。玲於とちがって」
「知沙」
ワイングラスをかたむける知沙さんは、ツンとすましている。
「ええ。研修の成績で俺に負けたことを、いまだに引きずっている玲於とは、大違いですね」
「引きずってねぇよ!」
むくれる瀬戸さんに、がっくんが追い打ちをかける。
「けっきょく玲於は、なにがしたかったんですか?」
「な、なにって」
「俺を見返したかったんですよね? で? 今日は勝てたんですか?」
グッと瀬戸さんが言葉につまる。
「負けず嫌いなのはけっこうですが、玲於は俺たちからの信用を失いたいんですか?」
「……なんだよ、それ」
「萌さんを踏み台にしようとしたこと、俺はけっこう怒っています」
ふたりは、無言でにらみあう。
目を逸らしたのは、瀬戸さんだった。
「あー、もうわかったよ! 俺がわるかった!」
「反省してください」
「するする! もーおまえこわいから睨むなよ」
瀬戸さんが、テーブルにつっぷす。
ガシガシと頭をかいて、うわめづかいでこちらを見た。
「ごめんね、宮崎さん」
シュンとしながら、私の反応をうかがう。
そのようすは、叱られた子供のようだった。
いまなら、ちゃんと私の話を聞いてくれるかもしれない。
そう感じて、私は瀬戸さんに向きあった。
「正直、瀬戸さんにはもう二度と関わりたくないと思いました」
「……はい」
「ものすごく、こわかったです」
「……ごめんなさい」
苦言を受け入れる彼の様子に、私は肩の力をぬいた。
「わかりました。ゆるします」
「よかった~!」
瀬戸さんが、気が抜けたように笑う。
これでいいんだろ、と言わんばかりに、がっくんの方を見た。
「玲於。詐欺師のような真似は、もうしないでくださいね」
「わかってるよ」
「『営業部の努力家のエース』の肩書が泣きますよ」
「は!? なにそれ、俺のこと!?」
「あれ、しらなかったんですか? 他部署の俺の耳にまで届いているのに」
瀬戸さんが、ぎゅっと口元を引き結んだかと思うと、いきなりそっぽを向いた。
「それぐらいの褒めことばは、聞き飽きてるっつーの!」
伏し目がちに頬杖をつく瀬戸さんは、わかりやすく照れていた。
「瀬戸さん、耳まで真っ赤ですよ」
つい、口に出してしまった。
「かんべんしてよ、宮崎さん」
瀬戸さんが、おてあげのように天をあおぐ。
それを見たわたしたちは、目を見合わせて、同時にふきだした。
笑い声につられるように、瀬戸さんが破顔する。
その晴れやかな明るい笑顔は、太陽のようだった。
席に戻ると、大久保主任がにこにこと私の名前を呼ぶ。
それにあいまいな笑顔を返し、気合を入れるために、ワイングラスを一気にあおる。
「それでさ、萌ちゃん。さっきの話なんだけど」
「すみません、大久保主任」
タンッと、グラスをテーブルに置いた。
「せっかくですが、おことわりします」
「……理由を聞いても?」
よろこんで! と返したいところをグッとこらえ、まじめなトーンを意識する。
「彼氏に怒られるからです」
言った。
言ってやった。
大久保主任がポカンとした表情をしている。
嘘をついた申し訳なさよりも先に、達成感が湧きあがってきた。
もしかして、自分の力だけでなんとかできるかもしれない。
そんな期待をしていたときだった。
「そのぐらいじゃ怒らないけどな、俺は」
声のした方向に、目が引き寄せられる。
私の視線をうけて、瀬戸さんが薄く笑う。
その笑顔に、ゾクリと寒気がした。
「俺は出張が多いから、好きに遊んでいいって言っただろ? だってけっきょく、いつも俺のところに戻ってくるもんな」
瀬戸さんは、まるで愛しいものを見るように、私を見つめた。
だれもが事態を飲みこめず、シンとした空気が流れる。
「なにを、言っているの、玲於」
静寂を破ったのは、知沙さんだった。
声がふるえているのは、瀬戸さんの異常な言動のせいだ。
にせもの彼氏とはいえ、この設定は、あまりにもひどい。
「ああ、知沙。じつは前に話してた俺の彼女って、こいつなんだ」
瀬戸さんに止める気がないことを知って、知沙さんが息をのむ。
事情を知らない人が見れば、瀬戸さんのセリフに驚いているように見えるだろう。
はにかむ瀬戸さんは、彼女を溺愛する彼氏、そのものだった。
「秘密にしていたつもりはないんだけど。俺は」
瀬戸さんは、苦笑しながら、テーブルの面々を見渡していく。
大久保主任、私、がっくんと視線をすべらせ、彼は目を細めた。
「今回の出張は1週間もあったから、たくさん遊んだみたいだな、萌」
「せ……」
とっさに名字を呼びそうになり、直前で脅されたことを思い出して、うつむく。
「大久保さん。こいつ、思わせぶりな態度をとったでしょ。そういうやつなんです。男が好きで、俺1人じゃ満足できなくて、ほんとう、困った女だわ」
瀬戸さんのセリフが、耳を滑っていく。
言っている内容はひどいのに、慈愛にあふれた言い方をするから、まるでのろけているように聞こえる。
「うそだよね、萌ちゃん」
大久保主任が、ちいさな声で、聞いてくる。
答えることもできないまま、にぎりしめた自分のこぶしを見つめる。
ふるえているのは、こぶしの方か、視界の方か。
大久保主任の、私を呼ぶ声が、だんだんと切羽つまってくる。
何も言えない私の態度は、瀬戸さんの言葉を、肯定しているかのようだ。
そこまでわかっているのに、どうすることもできない。
ただ、こわくて、たまらなかった。
平然とひどい嘘をつく瀬戸さんも。
責めるように名を呼ぶ、大久保主任も。
――嘘だと知らない人が、もうひとりいることも。
ぎこちなく、慎重に、目線を上げる。
右隣の大久保主任も、左隣のがっくんも、視界に入らないように。
あえぐように息をしながら、すがる思いで、瀬戸さんの顔を見る。
笑顔を湛えた彼の瞳には、加虐的な色が宿っていた。
「大久保さんが勘違いするのも、しかたないと思いますよ。そうだ、おわびに一晩、貸しましょうか? 秋津が言っていたとおり、こいつ脱いだらすごいので」
「玲於」
聞こえた重低音は、冷酷な響きだった。
場の空気を静止させ、皆の視線を集める。
「これ以上、萌さんを侮辱するな」
まっすぐに瀬戸さんを見つめ、はっきりと発音する。
そのことばには、強い怒りがにじみでていた。
「なに、岳。おまえも萌の被害者なわけ?」
「言っていいことと悪いことの、区別もつかないのか」
「俺は事実を言っただけだ」
「おまえのは、脅しというんだ、玲於」
ハッとがっくんの横顔を見やる。
ふいに彼がこちらを向いて、澄んだ瞳と目が合った。
「萌さん」
たしかめるように私を見つめる彼は、おだやかな表情をしていた。
「なんでも相談してくださいって、言ったじゃないですか」
そのことばは、しずかで、あたたかかった。
彼は、いっさい私を責めなかった。
それどころか、心配そうに私に手をのばす。
きゅっと目じりをぬぐわれ、うるんだ視界がクリアになった。
そのやさしい指に、たまらなくすがりつきたくなって――。
「岳ー? 俺の彼女になにやってんのー?」
瀬戸さんが、不釣り合いな明るい声を出した。
優越感にあふれた歪んだ笑顔を見て、私はようやく理解した。
瀬戸さんがリベンジしたい本当の相手。
それは、がっくんだ。
がっくんが、瀬戸さんに目を向ける。
そして、うんざりしたように、おおきなため息をついた。
「玲於も玲於なら、萌さんも萌さんだ」
頭を殴られたような衝撃だった。
突き放すようなセリフに、顔から血の気が引いていく。
がっくんに、嫌われてしまった。
息が、うまく吸えない。
胸が軋むように、くるしい。
耳鳴りとめまいが起こり、焦点が定まらない。
「どうした岳、負け惜しみか!?」
瀬戸さんが、たえきれないように笑いだす。
その声が、とても遠くに聞こえた。
視界が白くなりかけたとき。
私の意識をつなぎとめるように、左手になにかが触れた。
テーブルの下、皆に見えない位置で、ギュッと手がにぎられる。
渇望していた手の温度に、しんじられない思いで、顔を上げる。
きっと彼はいつもどおり、私を安心させるようなおだやかな表情で――。
安堵しかけた私は、がっくんの顔を見て、かたまった。
つよい力で私の手をにぎる彼は、それはそれは、不機嫌なふくれ面をしていた。
怒っているというより、盛大に拗ねている。
初めて見る彼の表情に、おもわず、まばたきをくりかえす。
「萌さん!」
「はいっ!」
背筋を伸ばしたがっくんにいきなり呼ばれ、反射的に姿勢を正す。
「玲於と付きあっているのに、俺と寝たんですか?」
「ふえっ!?」
瀬戸さんの笑い声が止まる。
場の空気が、凍りついたのを感じた。
「答えてください!」
「え、そ、そ、それはっ、その」
語弊しかない彼の言い方に、目を白黒させる。
寝たと言っても、睡眠のほうだ。
それでも、ここで説明するには、言葉を選んでしまう。
動揺する私に、彼はたたみかける。
「じゃあ、なんで俺にキスしたんですか!?」
「ちょ! ま、それ、ええ!?」
寝起きの悪いがっくんが、キスしたら起きると約束するから、つい。
しかもあれは、彼の頬にかるく唇を当てただけだから、どちらかというと、じゃれあいの域だ。
「俺のこと、好きだって言ったじゃないですか!!」
それは『好きか嫌いかでいったら好き』の話だろうか。
そんなことを思っていると、握られていた手を、いきなり引かれた。
抵抗する間もなく、がっくんの腕の中に落ちる。
私を軽々と受けとめた彼は、左腕で私の後頭部をつかまえる。
右手を私の頬にそえて、覆いかぶさるように顔を近づけた。
彼は、私にくちびるをかさねる――数ミリ手前で、動きを止めた。
だれかが、息をのむ音が聞こえた。
はたから見ると、完全にキスをしているような体勢だ。
周囲から守るような腕のなかで、私は彼と見つめあう。
おたがいの顔がぼやけるほどの至近距離で、彼は私だけに、ふわりと笑った。
さっきまでの絶望感が、彼の体温にとけていく。
どうしようもなく、彼の笑顔が愛しかった。
そう思うと、もう止められなかった。
引き寄せられるように、数ミリの距離を埋める。
くちびるが重なったのは、ほんの一瞬だった。
彼の目が、とろけるように甘くなる。
私の想いに、彼はついばむようなバードキスで応えた。
長いようで、短いようなキスのあと。
そっと顔を離した彼は、まっすぐに、私だけを見ていた。
「俺のこと、好きですよね?」
「……はい」
「俺もです。明るくて、素直で、ちょっぴり鈍感な萌さんが、大好きです」
そういって、がっくんは私の体を抱きしめた。
「あのー、おふたりさん」
すさまじい棒読みに、ハッと我に返る。
「俺らのこと忘れて、いちゃつかないでほしいんですけど」
テーブルに片肘をついて、半眼でこちらを見る彼は、あきれ果てた顔をしていた。
がっくんの腕から離れ、彼をまっすぐに見つめる。
「瀬戸さん」
もう、彼の名字を呼ぶことに、迷いはなかった。
「宮崎さん。彼氏役を熱演した俺に、お礼とかないわけ?」
瀬戸さんは、約束を守るように、ネタバラシをする。
しかし、彼の図太さには、閉口するしかない。
「あるわけないじゃない、玲於」
「なんで知沙が答えるんだよ」
「あなた、訴えられても、しかたないわよ」
「かわいい後輩に『よろしくおねがいします』って言われて、はりきってやっただけだろ?」
まったく悪びれない瀬戸さんの態度に、知沙さんが形のいい眉をしかめた。
「玲於の性格の悪さは、もう手遅れかしら」
「だいじょうぶですよ、知沙さん」
ためいきをつく知沙さんに、がっくんが笑顔でこたえる。
「あとで俺がシメておきますから」
「きつめにね?」
「わかってます」
同期ふたりの会話に、瀬戸さんがへらりと笑った。
「反省しなきゃいけないことなんて、なんかあった?」
「シメ甲斐がありそうで、たのしみです」
まったく動じないがっくんに、さすがの瀬戸さんも笑顔をひっこめた。
「というわけで大久保さん」
がっくんが、とつぜん大久保主任を名指しする。
自分に矛先が向くと思っていなかったらしく、彼はおどろいたように目を見開いた。
「俺はにせもの彼氏とちがって、彼女を貸し出したりはしませんから」
「……ふっ、はは、ははは」
大久保主任が、いきなり笑い出した。
「いやおまえ、あれ見せつけられて、どうこうしようなんて、さすがに思えないよ」
ひとしきり笑うと、手に伝票を持って立ちあがる。
私を見つめ、すこしだけ目を細めた。
「宮崎さん、おしあわせに。ご祝儀代わりに、これぐらいは払わせてね」
「大久保主任……ありがとうございます」
おれいを言うと、彼はふっきれたように笑った。
「じゃ、また明日会社で」
大久保主任は、軽く手をかかげると、ふりかえらずに去っていった。
「大久保さんって、かっこいー」
大久保主任の背中を見送った瀬戸さんが、かるい調子で褒める。
「そうね。玲於とちがって」
「知沙」
ワイングラスをかたむける知沙さんは、ツンとすましている。
「ええ。研修の成績で俺に負けたことを、いまだに引きずっている玲於とは、大違いですね」
「引きずってねぇよ!」
むくれる瀬戸さんに、がっくんが追い打ちをかける。
「けっきょく玲於は、なにがしたかったんですか?」
「な、なにって」
「俺を見返したかったんですよね? で? 今日は勝てたんですか?」
グッと瀬戸さんが言葉につまる。
「負けず嫌いなのはけっこうですが、玲於は俺たちからの信用を失いたいんですか?」
「……なんだよ、それ」
「萌さんを踏み台にしようとしたこと、俺はけっこう怒っています」
ふたりは、無言でにらみあう。
目を逸らしたのは、瀬戸さんだった。
「あー、もうわかったよ! 俺がわるかった!」
「反省してください」
「するする! もーおまえこわいから睨むなよ」
瀬戸さんが、テーブルにつっぷす。
ガシガシと頭をかいて、うわめづかいでこちらを見た。
「ごめんね、宮崎さん」
シュンとしながら、私の反応をうかがう。
そのようすは、叱られた子供のようだった。
いまなら、ちゃんと私の話を聞いてくれるかもしれない。
そう感じて、私は瀬戸さんに向きあった。
「正直、瀬戸さんにはもう二度と関わりたくないと思いました」
「……はい」
「ものすごく、こわかったです」
「……ごめんなさい」
苦言を受け入れる彼の様子に、私は肩の力をぬいた。
「わかりました。ゆるします」
「よかった~!」
瀬戸さんが、気が抜けたように笑う。
これでいいんだろ、と言わんばかりに、がっくんの方を見た。
「玲於。詐欺師のような真似は、もうしないでくださいね」
「わかってるよ」
「『営業部の努力家のエース』の肩書が泣きますよ」
「は!? なにそれ、俺のこと!?」
「あれ、しらなかったんですか? 他部署の俺の耳にまで届いているのに」
瀬戸さんが、ぎゅっと口元を引き結んだかと思うと、いきなりそっぽを向いた。
「それぐらいの褒めことばは、聞き飽きてるっつーの!」
伏し目がちに頬杖をつく瀬戸さんは、わかりやすく照れていた。
「瀬戸さん、耳まで真っ赤ですよ」
つい、口に出してしまった。
「かんべんしてよ、宮崎さん」
瀬戸さんが、おてあげのように天をあおぐ。
それを見たわたしたちは、目を見合わせて、同時にふきだした。
笑い声につられるように、瀬戸さんが破顔する。
その晴れやかな明るい笑顔は、太陽のようだった。
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※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。
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幼い頃から言いたいことを言えずに、両親の望み通りにしてきた。
結婚だってそうだった。
良い娘、良い姉、良い公爵令嬢でいようと思っていた。
夫の9番目の妻だと知るまでは――
「他の妻たちの嫉妬が酷くてね。リリララのことは9番と呼んでいるんだ」
嫉妬する側妃の嫌がらせにうんざりしていただけに、ターズ様が側近にこう言っているのを聞いた時、私は良い妻であることをやめることにした。
※最後はさくっと終わっております。
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※誤字脱字など見直して気を付けているつもりですが、やはりございます。申し訳ございません。教えていただけますと有り難いです。
捨てられた王子
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*『拾われた令嬢』と同じ世界観、ふわっとしてます。そちらも読んで頂けるとより楽しんで頂けると思います。
「私、王太子ダルダ・クニスキンは、婚約者であるメルシア・ソロシアンとの婚約を破棄する事をここで宣言しよう!」
本日は、煌びやかな卒業パーティー。そこに華やかに着飾る黒髪のモナと共に入場し、私は皆に告げる。
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静まり返る周囲に構うことなく、私はモナとフロアの中央を陣取る。ファーストダンスだ。モナと踊る事を楽しみにしていたのだが、なかなか音楽が始まらない。側近達に視線を送れば、ようやく音楽が流れだし、軽やかなステップで私達は踊り始めた。
気後れでもしているのか、私達に続いて踊り出す者はいなかった。だがそれも無理もない話だ。こんなにも可愛らしいモナと王太子である私、ダルダが踊っているのだからな。例え踊る者がいたとしても、私達が皆の視線を集めてしまい、目にされもしないだろう。
視界の端に元婚約者の姿が見えた気がしたが、愛するモナ以外と踊る気はなかった。私は真実の愛を見つけたのだ、さらばだメルシア。
*見切り発車の為、矛盾が出てくるかもしれません。見つけ次第修正します。
*本編10話と登場人物紹介(本編後のメモ書きあり)で完結。*『捨てられた王子と拾われた令嬢』としてアルファポリス様にも投稿しています。内容は変わりません。
随時、誤字修正と読みやすさを求めて試行錯誤してますので行間など変更する場合があります。
拙い作品ですが、どうぞよろしくお願いします。
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