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第二章 臣下とは王のために存在する
悪魔のささやき
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うつくしい夕焼けが、まだらな黒で塗りつぶされる。
禍々しい色彩のなか、冴えた銀髪の少年があらわれた。
装飾を散らしたワインレッドの上衣をひるがえし、ヒールを鳴らして着地する。
背に生えた漆黒の翼が、バランスを取るように広がった。
『やあ、ギル。こないだぶり』
そう言って、右手で持ったクッキーをかじり、左手で持ったカップを口につけた。
「イブリース。何をやっている」
『だって、急に呼ぶから』
イブリースがカップを手放すと、跡形もなく消え失せた。
ギルバートが、気を取りなおして宣言する。
「ギルバート・ブレイデンの名において要求する。俺と融合し、国立公園の魔鳥を殲滅しろ。報酬は――んぐっ!?」
イブリースが、いきなりギルバートの口にクッキーをつっこんだ。
眉をひそめたギルバートが、数秒のちにおとなしく咀嚼する。
クッキーを飲みこむと、複雑な表情でイブリースをにらんだ。
「なぜアンジェリカが作ったクッキーを持っている」
『よくわかったね!? あはは、ギルきもちわるい!』
「また勝手に現世に来ていたのか」
高位悪魔であるイブリースは、魔界と現世を自由に行き来することができる。
ばれると色々と面倒なので、いまのところ、国王には秘密である。
『それよりギル。その右耳のピアス、説明してほしいな』
「これか? 通信術具だ! いいだろう」
右耳を見せてやると、イブリースがなぜか半眼になった。
『ふーん。エリオットとおそろいで素敵ー』
「おそろい? 同じ術具なんだから、あたりまえだろ」
『ギルはそういう認識か』
含みのある言い方がひっかかるが、たいしたことではないだろうと聞き流す。
「それより、さっさと融合しろ」
『そんな顔色で、耐えきれるの?』
「寝ていないだけだ。魔力は残っている」
『微量すぎて、働く気になれないよ』
やれやれ、とイブリースが首を振る。
『言ったら聞かないからな、僕のご主人様は。報酬がもらえるまで、またブレイデン公爵家で待機か』
「一流シェフのディナーが食べられるぞ」
『デザートにフォンダンショコラ出る?』
「作らせよう」
『さっすが次期当主!』
パチン、と指をならしたイブリースが、ギルバートの背に抱きつく。
『ああ、そうだ。宣言しなかった報酬の内容は、あとで僕が決めるからね』
「は!? おまえがクッキーをつっこむからだろ!」
ギルバートは身をよじり、背中のイブリースを追い払おうとする。
イブリースが笑って、ギルバートの背中に溶けこんだ。
落陽の光にかがやく空を、二頭の竜が翔る。
温暖な昼間とは違い、黄昏の風は冷たい。
肺に冷気が流れ込み、ゼノは疾走する竜の上で軽くむせた。
乗騎する竜が、なにかを知らせるように短く鳴いた。
ゼノが周囲に目をやると、夕陽をふくんだ赤い雲に、複数の影がちらついた。
肥えた影は、その巨体に似合わず疾い。
「――魔鳥イクティノス」
つぶやくと、雲の切れ間からそれが飛来した。
見た目は巨大な猛禽類、褐色と白色のまだら模様をしている。
ゼノは気息と重心を整えて、弓を引き絞る。
つがえた矢は白銀、追跡魔術を仕込めば、命中率はほぼ100%だ。
当たれ、と念じて矢を放つ。
風切り音とともに飛んだ矢は、イクティノスの脳天を弾き飛ばした。
「やるな、ゼノ」
レスターが竜を寄せて、ゼノを労う。
「白銀のおかげです。一矢で撃破できるとは」
「魔獣の弱点だからな。傷さえ付けば、勝手に死んでくれる」
証明するように、レスターが振るう白銀の槍が、かすめた一羽を絶命させた。
その向こうがわで滑空する翼を、ゼノが射抜く。
翼がはじけた魔鳥は、あっけなく落下した。
白銀の圧倒的な攻撃力に、ゼノは感嘆のため息をついて、矢を撫でる。
「ほんとうに頼りになるな」
「――俺は?」
「もちろん。いちばん頼りにしていますよ、レスター先輩」
笑いをこらえて、ゼノが返す。
冗談に聞こえたかもしれないが、まぎれもない本心だ。
さきほど、空におおきな魔術陣が現れるやいなや、エリオットが真顔で「回収してくる」と言い残して離脱した。
ふたりきりで討伐を託され、それでも平常心で挑めたのは、レスターのまったく気後れしない態度のおかげだ。
「この調子なら、すぐに殲滅できそうですね」
「だからって、気を抜くなよ。イクティノスは、気配を消して後方から急襲してくる」
「背中合わせで戦います?」
「それより、上に注意しろ。すさまじい高度から降下してくると――ゼノ!」
なにげなく空を見上げたレスターが叫ぶ。
ゼノが反射的に手綱をひるがえすが、それを待たずに竜が斜めに急降下した。
振り返ると、直前までいた場所に、魔鳥が連なって飛び込んできた。
ざっと見ただけで、十羽はくだらない。
レスターがおおきく槍を振るう。
数羽が死に至るが、半数以上が穂先から逃れ、ゼノに向かってきた。
弓が武器のゼノは、身を守る術がない。
たまらず逃げの一手を取るが、小回りの利くイクティノスを振り切ることができない。
攪乱のために方向転換を繰り返す竜の上、いちかばちかで放った矢が、かろうじて一羽を落とす。
左右から飛び込んでくるイクティノスに、竜が急停止して身をよじる。
構え損ねて、ゼノは体勢をおおきく崩す。
背負った矢筒の蓋が開いて、白銀の矢が空中に散らばった。
ゼノはとっさに手を伸ばす。
鞍から身を乗りだし、白銀に追いすがる。
「つかんだ――!?」
喜んだ矢先、浮遊感に凍りつく。
手をついた先に竜がおらず、鞍からすべりおちた。
「――ぁぐっ!」
あげた悲鳴が、苦悶の声にすり替わる。
ベルトについた命綱が、限界まで伸びて、ゼノを救った。
ゼノは、犬のように、ハッ、ハッと短く息を吐く。
逆さまの世界で、発狂しそうになるのを、理性で押しとどめる。
背骨が軋む痛みをこらえ、鐙に片足をひっかけた。
天に昇った一羽が、急降下してくるのが見えた。
――迷えば死ぬ!
確信と同時に、腕につながる弓をつかみ、手中の一矢をつがえる。
竜の横腹をかかとで踏みしめ、空と水平に身体を保つ。
無理を承知で引き絞る弓が、ギリギリと音を立てる。
「当たれ!!」
魔力を込めた白い矢は、光となってイクティノスを貫いた。
「やった――!?」
落下する羽毛の影から、新たな個体が躍りかかる。
翳る視界に蹴爪がせまり、ゼノは衝撃を覚悟する。
視界の端を、赤い炎を横切った。
ゼノに爪をかけたはずの魔鳥が、爆音をたてて砕け散る。
強烈な熱風にあおられ、竜ごと回転した勢いを味方に、鞍に手をかけて飛び乗る。
うろたえる竜の手綱を引き、首をたたいて鎮めた。
ゼノを助けたのは、正確で強大な炎の魔術。
それを扱う人間を、ゼノはひとりしか知らない。
周囲に充満する蒸気を裂いて、漆黒の影が駆け抜けた。
「ギルバート団長!」
ゼノの声に、黄金の瞳が応える。
彼は抜刀する動きで、ついでのように近くの魔鳥を断ち切った。
ギルバートは、散らばった鳥に特攻し、次々にとどめを刺していく。
漆黒の魔術剣は、白銀ほどの攻撃力は無い。
それでも彼は、圧倒的に強く、疾かった。
魔鳥を片付けたギルバートが、遠くの空を見やる。
つられてそちらを見たゼノは、新手の群れの存在を知る。
風に乗って聞こえてくるのは、仲間に警告をうながすような、短く繰り返す鳴き声だ。
ギルバートが身をひるがえし、空を駆ける。
群れの中央に突っこみ、両腕をおおきく振り払った。
「火炎の波!」
天と地を分かつように、火炎が水平に空に広がる。
魔鳥を飲みこみ、大爆発を起こした炎は、辺りを昼間のように明るく照らした。
絶命したイクティノスが、雨のように地上に落ちていく。
「ギルバート団長! 突出しすぎです!」
叫ぶエリオットが、ギルバートの取りこぼした魔鳥を、確実に一羽ずつ仕留めていく。
竜騎士団の双璧の猛攻に、ゼノは戦況が優勢に転じるのを実感する。
レスターの竜が、おおきく跳躍してとなりに並んだ。
「ゼノ、無事か!」
「はい! ……でも、矢が」
地上は遥か彼方、落下地点の特定はむずかしい。
「こんなこともあろうかと、持ってきた」
レスターが予備の矢筒を放って寄越す。
受け取ったゼノは、白銀の矢束に顔をかがやかせた。
「――ありがとうございます!」
「頼りになる先輩で、よかったな」
揶揄するレスターが、おもしろそうに笑う。
いつもどおりのまったく気後れしない態度に、ゼノは憧憬を抱く。
ゼノには無い強さ、それに近づきたくて、感情がうずく。
与えられた矢筒を背負い、白銀の矢を引きだす。
白い矢じりは、まばゆいほどに陽光をはじく。
その煌めきに負けないよう、ゼノは顔を上げ、イクティノスに照準を合わせて弓を引き絞った。
ギルバートは浮遊したまま、周囲を見渡す。
炎が消えた空は、薄墨を垂らしたよう、すでに茜色も絶えて久しい。
急激に暮れる太陽に、肉眼で見える距離が縮まっていく。
そう遠くない場所に竜の影が三頭、空中にそれ以外の気配は無い。
魔術剣が、白刃に戻る。
魔力が切れる前に殲滅できたことに口角が上がった。
「……アンジェリカ」
最愛の妹との休暇が確定し、ギルバートは快哉を叫びたい気持ちでいっぱいだった。
肩でおおきく息をつくと、ゆるい眩暈におそわれ、首を振って追い払う。
ここで気を抜いて墜落など、あまりに笑えない。
自嘲するように目を細めると、夜の匂いがする風が吹いた。
剣を収め、合流しようとギルバートが羽ばたく。
『ギルバート、上だ!!』
通信術具のするどい声に、考える前に体が動いた。
かざすように抜刀した剣が、降ってくる鉤爪と衝突する。
目を見張るほどの太い脚は、竜をも凌ぐ巨大なイクティノスだ。
魔力を流しそこねた白刃があっけなく折れて、蹴爪がギルバートの胴をわしづかみにした。
「ぐっ!」
握り潰されたギルバートの翼が、音を立てて折れる。
脇腹に食いこむ魔鳥の爪が、皮膚を突き破り鮮血が飛び散った。
ギルバートの喉笛を狙い、かぎ状の嘴がせまる。
――消滅してしまう。
まばたきする間もない一瞬、危惧するのは自分の命――ではない。
――アンジェリカとの休暇が!
痛みが怒りに変わる。
傷付くこともかまわず、蹴爪から利き腕を引きぬき、折れた剣を魔鳥の左目に突き刺した。
「低位魔獣のぶんざいで!!」
魔術剣の残骸にぶちこんだ魔力が爆ぜる。
片目をつぶされた鳥が、悲鳴をあげて暴れだす。
蹴爪の拘束が緩み、好機とみて抜けでる瞬間。
ふりまわされた堅い嘴が、ギルバートの側頭部を強打した。
すさまじい衝撃に、ギルバートの息がつまる。
骨にひびく打撃音が脳を揺らし、聴覚が消えた。
焼けるような痛みのなか、こめかみから耳朶に熱い液体が伝う。
頸の力が抜けて、指先すら動かせない。
まぶたの奥から、世界が白に浸食されていく。
かすかに残る視界のなかで、白い光が一閃する。
魔鳥の胴体に白銀の槍が突き刺さり、そこから鳥が破裂した。
空中に血のりをばらまきながら、ギルバートが墜落する。
極限まで竜を疾駆させたゼノが、真下に滑りこむ。
「受け止めました!」
後方に向け、ありったけの大声で報告を飛ばす。
すくいあげるように飛翔した後、平らな地面に着地した。
すぐさま竜の背から彼を下ろす。
竜が足を折りまげて、小柄なゼノの動きを助けた。
ゼノは魔術で光球を灯す。
明りの下で見るギルバートは、想像以上に無惨なありさまだった。
漆黒の翼は折れて、あらぬ方向に曲がっている。
融合した魔人の肌は白いが、それを抜きにしても生気が感じられない。
大量の血糊が騎士服をまだらに染めあげ、腹部からはいまだに出血が止まらない。
「ギルバート団長、聞こえますか!?」
呼びかけに、ギルバートの瞼がかろうじて開く。
焦点の合わない黄金の瞳が揺れている。
彼の意識が混濁しているのは明らかだ。
ゼノは自責の念に駆られる。
さきほど彼に助けられたばかりなのに、イクティノスのボスが出現したとき、まったく動けなかった。
矢が届かぬ距離だとはいえ、敵に一番近かったのは自分だ。
エリオットがイクティノスを倒さなければ、どうなっていたかわからない。
「せめて、応急処置を」
自分の無力さを嘆くまえに、できることをしたい。
――俺だって、すこしは役に立てるはずだ。
なぜか、強くそう思った。
治癒魔術は習ったばかりで、治せる傷はごくわずか。
それでも止血ぐらいはできる、とギルバートの脇腹に手をかざす。
レスターとエリオットが、間近に竜を着地させる気配がした。
「――術式展開」
「待てゼノ!!」
「え?」
つよい制止に、ゼノが振りかえる。
治癒魔術が発動し、ゼノの手のひらが淡く光った。
「――あああ゛!!」
ギルバートが絶叫する。
視線を戻したゼノは、ギルバートの傷が広がり、血が噴きだすのを見た。
愕然とする間もなく、ゼノはギルバートから引きはがされる。
気付くと、背後からレスターに羽交い絞めにされていた。
なにが起こったのか分からない。
それでも、自分の治癒魔術が原因なのは間違いない。
よけいなことをしてしまった――功を焦ったばっかりに!
後悔に震えるゼノの耳に、エリオットの叱咤する声が聞こえた。
「動くな、ギルバート!」
「ぅっ……ぐ!」
エリオットが、錯乱するように暴れるギルバートを押さえつけている。
折れた翼が地をたたき、彼が移動したわずかな距離、その地面が血でどす黒く変色している。
「れ、レスター先輩……」
ゼノは青い顔でレスターを仰ぎ見る。
痛ましげにギルバートを見やるレスターが、静かに告げる。
「融合した魔人に、聖魔術は禁忌だ」
「す、すみません、俺……」
聖属性の白銀が、魔属性の魔獣を滅ぼすと知っていたのに。
治癒魔術など、聖属性の極み――悪魔と融合したギルバートにとって、それが毒にしかならないと、なぜわからなかった。
どうしてだか、頭の中は自分の能力を誇示することで埋まり、他のことを考える余裕がなかった。
欲求を満たす行動をすべきだと、耳元でずっとささやかれているような気分だった。
叱責を覚悟するゼノに、レスターが苦笑して両手をはなす。
「伝えていなくて、悪かった」
「いいえ! ……先走った、俺の過失です」
「そうじゃない。悪魔の瘴気に中てられたんだよ、おまえ」
思ってもみないことを言われ、ゼノはレスターを見返す。
「瘴気は人の欲望を増幅させる。ゼノは、どうしてもギルバート団長を治したかったんだな」
レスターは、失敗した子供を見守るような目をしていた。
善意の解釈に、ゼノの頬に朱がはしる。
そうではない。
自分は役立たずではないと、証明したかっただけだ。
否定を口にする前に、レスターがつづけた。
「ちなみに俺は今、きれいなお姉さんといいことがしたい」
「――えっ!?」
「話なら後で聞いてやる。美人ぞろいの店でな」
「……焼肉がいいです」
こぼれた本音に、レスターが破顔した。
「それじゃ、さっさとエリオット副団長の『回収』を手伝って帰るぞ。来いゼノ!」
「はい!」
ゼノは歯切れよく返事をする。
こんどは自分のためではなく、ギルバートを救うために行動する。
矮小な己を律するように、ゼノは気合を入れて、レスターの背中を追いかけた。
禍々しい色彩のなか、冴えた銀髪の少年があらわれた。
装飾を散らしたワインレッドの上衣をひるがえし、ヒールを鳴らして着地する。
背に生えた漆黒の翼が、バランスを取るように広がった。
『やあ、ギル。こないだぶり』
そう言って、右手で持ったクッキーをかじり、左手で持ったカップを口につけた。
「イブリース。何をやっている」
『だって、急に呼ぶから』
イブリースがカップを手放すと、跡形もなく消え失せた。
ギルバートが、気を取りなおして宣言する。
「ギルバート・ブレイデンの名において要求する。俺と融合し、国立公園の魔鳥を殲滅しろ。報酬は――んぐっ!?」
イブリースが、いきなりギルバートの口にクッキーをつっこんだ。
眉をひそめたギルバートが、数秒のちにおとなしく咀嚼する。
クッキーを飲みこむと、複雑な表情でイブリースをにらんだ。
「なぜアンジェリカが作ったクッキーを持っている」
『よくわかったね!? あはは、ギルきもちわるい!』
「また勝手に現世に来ていたのか」
高位悪魔であるイブリースは、魔界と現世を自由に行き来することができる。
ばれると色々と面倒なので、いまのところ、国王には秘密である。
『それよりギル。その右耳のピアス、説明してほしいな』
「これか? 通信術具だ! いいだろう」
右耳を見せてやると、イブリースがなぜか半眼になった。
『ふーん。エリオットとおそろいで素敵ー』
「おそろい? 同じ術具なんだから、あたりまえだろ」
『ギルはそういう認識か』
含みのある言い方がひっかかるが、たいしたことではないだろうと聞き流す。
「それより、さっさと融合しろ」
『そんな顔色で、耐えきれるの?』
「寝ていないだけだ。魔力は残っている」
『微量すぎて、働く気になれないよ』
やれやれ、とイブリースが首を振る。
『言ったら聞かないからな、僕のご主人様は。報酬がもらえるまで、またブレイデン公爵家で待機か』
「一流シェフのディナーが食べられるぞ」
『デザートにフォンダンショコラ出る?』
「作らせよう」
『さっすが次期当主!』
パチン、と指をならしたイブリースが、ギルバートの背に抱きつく。
『ああ、そうだ。宣言しなかった報酬の内容は、あとで僕が決めるからね』
「は!? おまえがクッキーをつっこむからだろ!」
ギルバートは身をよじり、背中のイブリースを追い払おうとする。
イブリースが笑って、ギルバートの背中に溶けこんだ。
落陽の光にかがやく空を、二頭の竜が翔る。
温暖な昼間とは違い、黄昏の風は冷たい。
肺に冷気が流れ込み、ゼノは疾走する竜の上で軽くむせた。
乗騎する竜が、なにかを知らせるように短く鳴いた。
ゼノが周囲に目をやると、夕陽をふくんだ赤い雲に、複数の影がちらついた。
肥えた影は、その巨体に似合わず疾い。
「――魔鳥イクティノス」
つぶやくと、雲の切れ間からそれが飛来した。
見た目は巨大な猛禽類、褐色と白色のまだら模様をしている。
ゼノは気息と重心を整えて、弓を引き絞る。
つがえた矢は白銀、追跡魔術を仕込めば、命中率はほぼ100%だ。
当たれ、と念じて矢を放つ。
風切り音とともに飛んだ矢は、イクティノスの脳天を弾き飛ばした。
「やるな、ゼノ」
レスターが竜を寄せて、ゼノを労う。
「白銀のおかげです。一矢で撃破できるとは」
「魔獣の弱点だからな。傷さえ付けば、勝手に死んでくれる」
証明するように、レスターが振るう白銀の槍が、かすめた一羽を絶命させた。
その向こうがわで滑空する翼を、ゼノが射抜く。
翼がはじけた魔鳥は、あっけなく落下した。
白銀の圧倒的な攻撃力に、ゼノは感嘆のため息をついて、矢を撫でる。
「ほんとうに頼りになるな」
「――俺は?」
「もちろん。いちばん頼りにしていますよ、レスター先輩」
笑いをこらえて、ゼノが返す。
冗談に聞こえたかもしれないが、まぎれもない本心だ。
さきほど、空におおきな魔術陣が現れるやいなや、エリオットが真顔で「回収してくる」と言い残して離脱した。
ふたりきりで討伐を託され、それでも平常心で挑めたのは、レスターのまったく気後れしない態度のおかげだ。
「この調子なら、すぐに殲滅できそうですね」
「だからって、気を抜くなよ。イクティノスは、気配を消して後方から急襲してくる」
「背中合わせで戦います?」
「それより、上に注意しろ。すさまじい高度から降下してくると――ゼノ!」
なにげなく空を見上げたレスターが叫ぶ。
ゼノが反射的に手綱をひるがえすが、それを待たずに竜が斜めに急降下した。
振り返ると、直前までいた場所に、魔鳥が連なって飛び込んできた。
ざっと見ただけで、十羽はくだらない。
レスターがおおきく槍を振るう。
数羽が死に至るが、半数以上が穂先から逃れ、ゼノに向かってきた。
弓が武器のゼノは、身を守る術がない。
たまらず逃げの一手を取るが、小回りの利くイクティノスを振り切ることができない。
攪乱のために方向転換を繰り返す竜の上、いちかばちかで放った矢が、かろうじて一羽を落とす。
左右から飛び込んでくるイクティノスに、竜が急停止して身をよじる。
構え損ねて、ゼノは体勢をおおきく崩す。
背負った矢筒の蓋が開いて、白銀の矢が空中に散らばった。
ゼノはとっさに手を伸ばす。
鞍から身を乗りだし、白銀に追いすがる。
「つかんだ――!?」
喜んだ矢先、浮遊感に凍りつく。
手をついた先に竜がおらず、鞍からすべりおちた。
「――ぁぐっ!」
あげた悲鳴が、苦悶の声にすり替わる。
ベルトについた命綱が、限界まで伸びて、ゼノを救った。
ゼノは、犬のように、ハッ、ハッと短く息を吐く。
逆さまの世界で、発狂しそうになるのを、理性で押しとどめる。
背骨が軋む痛みをこらえ、鐙に片足をひっかけた。
天に昇った一羽が、急降下してくるのが見えた。
――迷えば死ぬ!
確信と同時に、腕につながる弓をつかみ、手中の一矢をつがえる。
竜の横腹をかかとで踏みしめ、空と水平に身体を保つ。
無理を承知で引き絞る弓が、ギリギリと音を立てる。
「当たれ!!」
魔力を込めた白い矢は、光となってイクティノスを貫いた。
「やった――!?」
落下する羽毛の影から、新たな個体が躍りかかる。
翳る視界に蹴爪がせまり、ゼノは衝撃を覚悟する。
視界の端を、赤い炎を横切った。
ゼノに爪をかけたはずの魔鳥が、爆音をたてて砕け散る。
強烈な熱風にあおられ、竜ごと回転した勢いを味方に、鞍に手をかけて飛び乗る。
うろたえる竜の手綱を引き、首をたたいて鎮めた。
ゼノを助けたのは、正確で強大な炎の魔術。
それを扱う人間を、ゼノはひとりしか知らない。
周囲に充満する蒸気を裂いて、漆黒の影が駆け抜けた。
「ギルバート団長!」
ゼノの声に、黄金の瞳が応える。
彼は抜刀する動きで、ついでのように近くの魔鳥を断ち切った。
ギルバートは、散らばった鳥に特攻し、次々にとどめを刺していく。
漆黒の魔術剣は、白銀ほどの攻撃力は無い。
それでも彼は、圧倒的に強く、疾かった。
魔鳥を片付けたギルバートが、遠くの空を見やる。
つられてそちらを見たゼノは、新手の群れの存在を知る。
風に乗って聞こえてくるのは、仲間に警告をうながすような、短く繰り返す鳴き声だ。
ギルバートが身をひるがえし、空を駆ける。
群れの中央に突っこみ、両腕をおおきく振り払った。
「火炎の波!」
天と地を分かつように、火炎が水平に空に広がる。
魔鳥を飲みこみ、大爆発を起こした炎は、辺りを昼間のように明るく照らした。
絶命したイクティノスが、雨のように地上に落ちていく。
「ギルバート団長! 突出しすぎです!」
叫ぶエリオットが、ギルバートの取りこぼした魔鳥を、確実に一羽ずつ仕留めていく。
竜騎士団の双璧の猛攻に、ゼノは戦況が優勢に転じるのを実感する。
レスターの竜が、おおきく跳躍してとなりに並んだ。
「ゼノ、無事か!」
「はい! ……でも、矢が」
地上は遥か彼方、落下地点の特定はむずかしい。
「こんなこともあろうかと、持ってきた」
レスターが予備の矢筒を放って寄越す。
受け取ったゼノは、白銀の矢束に顔をかがやかせた。
「――ありがとうございます!」
「頼りになる先輩で、よかったな」
揶揄するレスターが、おもしろそうに笑う。
いつもどおりのまったく気後れしない態度に、ゼノは憧憬を抱く。
ゼノには無い強さ、それに近づきたくて、感情がうずく。
与えられた矢筒を背負い、白銀の矢を引きだす。
白い矢じりは、まばゆいほどに陽光をはじく。
その煌めきに負けないよう、ゼノは顔を上げ、イクティノスに照準を合わせて弓を引き絞った。
ギルバートは浮遊したまま、周囲を見渡す。
炎が消えた空は、薄墨を垂らしたよう、すでに茜色も絶えて久しい。
急激に暮れる太陽に、肉眼で見える距離が縮まっていく。
そう遠くない場所に竜の影が三頭、空中にそれ以外の気配は無い。
魔術剣が、白刃に戻る。
魔力が切れる前に殲滅できたことに口角が上がった。
「……アンジェリカ」
最愛の妹との休暇が確定し、ギルバートは快哉を叫びたい気持ちでいっぱいだった。
肩でおおきく息をつくと、ゆるい眩暈におそわれ、首を振って追い払う。
ここで気を抜いて墜落など、あまりに笑えない。
自嘲するように目を細めると、夜の匂いがする風が吹いた。
剣を収め、合流しようとギルバートが羽ばたく。
『ギルバート、上だ!!』
通信術具のするどい声に、考える前に体が動いた。
かざすように抜刀した剣が、降ってくる鉤爪と衝突する。
目を見張るほどの太い脚は、竜をも凌ぐ巨大なイクティノスだ。
魔力を流しそこねた白刃があっけなく折れて、蹴爪がギルバートの胴をわしづかみにした。
「ぐっ!」
握り潰されたギルバートの翼が、音を立てて折れる。
脇腹に食いこむ魔鳥の爪が、皮膚を突き破り鮮血が飛び散った。
ギルバートの喉笛を狙い、かぎ状の嘴がせまる。
――消滅してしまう。
まばたきする間もない一瞬、危惧するのは自分の命――ではない。
――アンジェリカとの休暇が!
痛みが怒りに変わる。
傷付くこともかまわず、蹴爪から利き腕を引きぬき、折れた剣を魔鳥の左目に突き刺した。
「低位魔獣のぶんざいで!!」
魔術剣の残骸にぶちこんだ魔力が爆ぜる。
片目をつぶされた鳥が、悲鳴をあげて暴れだす。
蹴爪の拘束が緩み、好機とみて抜けでる瞬間。
ふりまわされた堅い嘴が、ギルバートの側頭部を強打した。
すさまじい衝撃に、ギルバートの息がつまる。
骨にひびく打撃音が脳を揺らし、聴覚が消えた。
焼けるような痛みのなか、こめかみから耳朶に熱い液体が伝う。
頸の力が抜けて、指先すら動かせない。
まぶたの奥から、世界が白に浸食されていく。
かすかに残る視界のなかで、白い光が一閃する。
魔鳥の胴体に白銀の槍が突き刺さり、そこから鳥が破裂した。
空中に血のりをばらまきながら、ギルバートが墜落する。
極限まで竜を疾駆させたゼノが、真下に滑りこむ。
「受け止めました!」
後方に向け、ありったけの大声で報告を飛ばす。
すくいあげるように飛翔した後、平らな地面に着地した。
すぐさま竜の背から彼を下ろす。
竜が足を折りまげて、小柄なゼノの動きを助けた。
ゼノは魔術で光球を灯す。
明りの下で見るギルバートは、想像以上に無惨なありさまだった。
漆黒の翼は折れて、あらぬ方向に曲がっている。
融合した魔人の肌は白いが、それを抜きにしても生気が感じられない。
大量の血糊が騎士服をまだらに染めあげ、腹部からはいまだに出血が止まらない。
「ギルバート団長、聞こえますか!?」
呼びかけに、ギルバートの瞼がかろうじて開く。
焦点の合わない黄金の瞳が揺れている。
彼の意識が混濁しているのは明らかだ。
ゼノは自責の念に駆られる。
さきほど彼に助けられたばかりなのに、イクティノスのボスが出現したとき、まったく動けなかった。
矢が届かぬ距離だとはいえ、敵に一番近かったのは自分だ。
エリオットがイクティノスを倒さなければ、どうなっていたかわからない。
「せめて、応急処置を」
自分の無力さを嘆くまえに、できることをしたい。
――俺だって、すこしは役に立てるはずだ。
なぜか、強くそう思った。
治癒魔術は習ったばかりで、治せる傷はごくわずか。
それでも止血ぐらいはできる、とギルバートの脇腹に手をかざす。
レスターとエリオットが、間近に竜を着地させる気配がした。
「――術式展開」
「待てゼノ!!」
「え?」
つよい制止に、ゼノが振りかえる。
治癒魔術が発動し、ゼノの手のひらが淡く光った。
「――あああ゛!!」
ギルバートが絶叫する。
視線を戻したゼノは、ギルバートの傷が広がり、血が噴きだすのを見た。
愕然とする間もなく、ゼノはギルバートから引きはがされる。
気付くと、背後からレスターに羽交い絞めにされていた。
なにが起こったのか分からない。
それでも、自分の治癒魔術が原因なのは間違いない。
よけいなことをしてしまった――功を焦ったばっかりに!
後悔に震えるゼノの耳に、エリオットの叱咤する声が聞こえた。
「動くな、ギルバート!」
「ぅっ……ぐ!」
エリオットが、錯乱するように暴れるギルバートを押さえつけている。
折れた翼が地をたたき、彼が移動したわずかな距離、その地面が血でどす黒く変色している。
「れ、レスター先輩……」
ゼノは青い顔でレスターを仰ぎ見る。
痛ましげにギルバートを見やるレスターが、静かに告げる。
「融合した魔人に、聖魔術は禁忌だ」
「す、すみません、俺……」
聖属性の白銀が、魔属性の魔獣を滅ぼすと知っていたのに。
治癒魔術など、聖属性の極み――悪魔と融合したギルバートにとって、それが毒にしかならないと、なぜわからなかった。
どうしてだか、頭の中は自分の能力を誇示することで埋まり、他のことを考える余裕がなかった。
欲求を満たす行動をすべきだと、耳元でずっとささやかれているような気分だった。
叱責を覚悟するゼノに、レスターが苦笑して両手をはなす。
「伝えていなくて、悪かった」
「いいえ! ……先走った、俺の過失です」
「そうじゃない。悪魔の瘴気に中てられたんだよ、おまえ」
思ってもみないことを言われ、ゼノはレスターを見返す。
「瘴気は人の欲望を増幅させる。ゼノは、どうしてもギルバート団長を治したかったんだな」
レスターは、失敗した子供を見守るような目をしていた。
善意の解釈に、ゼノの頬に朱がはしる。
そうではない。
自分は役立たずではないと、証明したかっただけだ。
否定を口にする前に、レスターがつづけた。
「ちなみに俺は今、きれいなお姉さんといいことがしたい」
「――えっ!?」
「話なら後で聞いてやる。美人ぞろいの店でな」
「……焼肉がいいです」
こぼれた本音に、レスターが破顔した。
「それじゃ、さっさとエリオット副団長の『回収』を手伝って帰るぞ。来いゼノ!」
「はい!」
ゼノは歯切れよく返事をする。
こんどは自分のためではなく、ギルバートを救うために行動する。
矮小な己を律するように、ゼノは気合を入れて、レスターの背中を追いかけた。
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