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第三十七話 安心できる場所があります。

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 ――うぉっほん!

 老人のわざとらしい咳払いで、ハッと我に返る。

 慌ててアーチーの胸板から顔を引きはがせば、いかにも楽しげにこちらを見ているドワイラクスと目が合った。

 ぎゃあああああ! 恥ずかしっ!

「二人とも、そろそろよろしいですかな?」
「……ふぁい。ずびばぜん」
「すみませんでした先生。ほらユキ、これで鼻をかめ」

 アーチーが苦笑しながら、ハンカチを差し出してきた。
 持ってたんかーい!
 
「最初から出せ!」

 奪い取ったハンカチで、アーチーの胸をコシコシとこする。
 涙のあとはあったが、鼻水までは付いてないようだ。良かった。
 こんな上等そうな服が、鼻水でテッカテカになってしまったら目も当てられない。

 チーン!
 ひとまず安心した俺は、心置きなく親友のハンカチで鼻をかんだ。

「……このハンカチちょうだい。新しいの返すから」
「いいよ、やる」
「お祭りの衣装も洗って返したいんだけど、いまどこにあるのか分からないんだ。泥や血もついてたし、もしかしたら返せないかもしれない。ごめん」
「いいって。本当に律儀だなユキは……」

 うぉっほん! うぉっほん! うぉっほん!

 ――すまん老師。また忘れてた。

「弟子から事情を聞いた時には半信半疑でしたが、親友同士というのは真実のようですな」
「はい。アーチーや村の人たちに、私はこの二年間ずっとお世話になっていました」
「その間に、黒神子様も一皮むけられたようで……、まさかあなた様の口から【ウンコたれ】などという言葉が出るとは驚きましたぞ、ふぉっふぉっふぉっ」
「……面目次第もございません」

 白い顎ヒゲを揺らして大笑いする老師に、俺は赤面するしかなかった。
 この人の前ではあんなにお上品だった黒神子の歴史が、ガラガラと音を立てて崩れていく……。
 ああ、先程の醜態をすべて水に流せないだろうか……トイレのように。

「さて黒神子様、お願いがあります」
「は?」
「年寄りなもので抑えがきかぬ身体でしてな」
「は、はあ」
「手洗いをお借りしたいのです」
「あっはい。すぐにご案内いたします」

 このタイミングでの申し出に少々面食らったが、じいちゃんたちと暮らしていた俺にとっては、こんなこと日常茶飯事だった。俺がウンコたれとか言っちゃったから誘発しちゃったのかもしれない。トイレの我慢はよくない。緊急事態だ。早くご案内せねば……。

「いやいや、ひとりで大丈夫です。これアーチー、ワシが戻るまでの間、黒神子様が退屈されないようにお相手をしていなさい。御無礼のないようにの」
「承知しました」

 ……そういうことか。
 俺達に気をきかせて、わざと席を外してくださるんだ。
 それなのに全然気づいてなかった。間抜け過ぎる。

 ふぉっふぉっふぉっ……と再び笑いながら、老師は足取り軽く出ていってしまった。
 かなり高齢のはずだが、杖も使わずに相変わらず元気なご老人だ。

 さすがは若い頃から数々の武勲をたて、勇猛果敢な大将軍として名をはせた稀代の英雄……ドワイラクス殿だ。

 勇退してからは、何故か真逆の職種である大神殿の医学図書館に腰を据えて館長となり、今では歩く生き字引としてすっかり定着してしまった超変わり者だ。

 老師は黒神子が幼い頃からずっと家庭教師をしてくれた。
 だから俺は一生頭が上がらない。

 オスカーもそうだ。
 彼が老師にヒヨッコ扱いされているのを何度も見たことがある。
 可愛がられていた俺とは違い、オスカーは修業時代からよくボコボコにされていたそうだ。あのお気楽な第一王子ですら、老師をみると裸足で逃げ出す。

 ふたりとも相当なトラウマがあるらしい。
 俺にはそんな怖い人には見えないんだけどなあ……よくお菓子もくれたし。
 
「……厳戒態勢だから、いくら先生といえども、今日は門前払いされるだろうと覚悟してた。会えてよかった。もう二度とユキに会えないのかと……昨日から生きた心地がしなかった」

 またアーチーに抱きしめられる。
 俺の涙腺が壊れたように、アーチーもどこかが壊れちゃったみたいだ。
 
 いつまでも抱き合ってるのは照れ臭いので、俺はアーチーの腕を取ると、近くの長椅子に腰かけさせた。すぐ隣りに自分も座る。

「本当にごめん。皆をずっと騙してて……俺……」
「自分を責めるな。親父もリンダも、みんなお前のことを心配してた。会えなくなるのではと寂しがっていたぞ」
「落ち着いたら皆には会いに行けると思う。じいちゃんたちは、俺の正体知った上で面倒みてくれていたんだ。きっと心配してるから、もしも会えたら、俺は元気だって伝えておいてくれないか? 近いうちに必ず会えるって。大神殿からの使いよりも、アーチーや村の人から俺の様子を伝えてくれた方が、じいちゃんたちも安心できるだろうし」
「わかった」
「そうだ! あとで手紙を書くよ。それを村長経由でアーチーに届けてもらおう。神殿には話を通しておくから、それくらいは許してもらえると思う」
「……許すって……ユキの方が地位が上なんじゃないのか?」

 アーチーの目が少し厳しくなった。

「あー……ここって昔から何かと窮屈なところでさ。俺は二年間も仕事さぼってたから、当分自由に動けそうもないんだ。だから、アーチーの師匠が老師で本当に助かったよ。これから連絡も取りやすいし、村との太いパイプができてすごく心強い。かなり元気出た」
「……酷いことはされてないんだな?」
「うん。大事にされているから安心して。俺は大丈夫だから」
「……ならいいが」

 ふと会話が途切れて、部屋の中がシンと静まり返る。
 なんとなく、お互いにまだ距離を掴みかねていて、普段のようにうまく会話が弾まない。

「……まさかユキが……黒神子様だったとはな」
「……」
「破談になった婚約者って……王子のことだったんだ」
「……うん」
「結婚するのか?」
「するわけないよ」
「……そうか」
「……うん」

 お互いに目をそらしたまま、話を続ける。
 やたらと沈黙が重い。

 もうそろそろタイムリミットだ。
 今のうちに彼へ伝えておくことはないだろうか。
 気持ちばかりが焦って、考えがうまくまとまらない。

「……ユキ、先に謝っておく。ごめん」
「え?」

 ……と思った時には、またアーチーの腕の中に抱き込まれていた。

「先生が戻るまでの間、このままでいさせてくれないか」
「……アーチー」
「頼む……ユキ……」
「……」
「頼むから……」

 トクントクンと、アーチーの心臓の音が聞こえてきた。
 少し早い鼓動に彼の緊張が伝わってきて、こんな時なのに、変わらない青年の純朴さに安心する。


 ――もう少しだけ、この音を聞いていたい。


 俺は了解の代わりに力を抜いて、ゆっくりと目を閉じた。
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