教えて、先生

くろ

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 次の日は、やけに清々しく目覚めることができた。
 目を閉じればステージの上で縦横無尽に舞い踊る千明が鮮明に浮かんで、なかなか寝付けなかったのに。
 まるで世界の全てが俺に味方しているようなそんな朝。
 俺は全速力で走っていた。





 ***




 いつもと同じ朝。でもいつもと違う。
 五年ぶりに千明を見た昨日から世界がひっくり返ったみたいに色鮮やかに見えている。ショッピングモールから帰るときも、家で夕飯を食べたときも風呂でもトイレでも、白黒みたいに見えていた世界が、カラフルで幸福な世界に一変した。俺はパンケーキを前にハチミツを好きなだけかけていいよと言われた子供のように興奮し、とびっきり甘くした気持ちを抱いて眠りについた。
 だけど世界の色が変わったとしても特別なにかが変わったということはない。いつも通り起きて朝ごはんを食べてバスに乗る。明らかに違うのは、この先もこの幸福感を携えながら過ごせるということ。陰ながら千明が頑張っている姿を見ることが出来るのだ。昨日みたいにバレないように踊る千明のことを見ていたい。

「先生!」

 千明の声がした。幻聴かと思って辺りを見渡すと、少し離れた場所からこちらに走ってくる人を見つけた。
 まさか。そんな。
 キャップを目深にかぶって、マスクで顔の半分を覆ってしまっているけれど、聞き間違いじゃなければあれは千明の声だった。
「嘘だろ…なんで…」
 突然の出来事に何も考えられなくなり、反射的に反対方向に走り出した。
「は!?ちょっと!」
 そうやって叫んだ声も千明だった。
 どこに向かえばいいのかもわからないけれど、一度走り出した足は前へ前へと進んでいく。この五年、ひたすらに千明を求めていた。いつだって千明を思い浮かべ、何度も思い出しては恋焦がれた。会いたくて会いたくて、会いたくなかった。ざぁざぁと降る雨の中を傘もささずに歩くように生きてきたし、これからもそのつもりだったのに。
「まっ、待てって、先生!」
 誰が待つかよ。日頃の運動不足を呪いながらも休むことなく走って走って、走った。
 体力の限界が近づいてきたのを感じるのと同時に足がもつれて転んだ。コンクリートの地面に擦れて膝がじんじんと熱を持っていく。早く起き上がらないといけないのはわかってるのに、息も上がって立ち上がれない。
「あーあ、大丈夫かよ」
「はぁ、はぁ、…なん、で」
「怪我してないか?」
 夢であって欲しいのに、痛む膝がそれを否定している。目の前に、世界で一番会いたかった男が、もう会えないと諦めていた男が、こちらに手を差し伸べながら立っている。ぎこちなく手を掴んで立ち上がると、千明は少し屈んで俺のズボンやシャツの汚れを優しく払ってくれた。派手に転んだなぁなんて笑っている千明を衝動的に抱き締めたくなって手を伸ばしたところであることに気が付いた。
「…身長、伸びたな」
「あぁ、180」
 自分より伸びていることにムッとした顔をすると、さっきよりも大きく笑って俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「なんでいるんだよ」
「なんでって…会いにきてくれたのは先生の方だろ」
 言われた瞬間顔が熱くなる。
「まさか気付かれてないと思ってた?あんなに穴が開くほど見つめられたら嫌でも気付くって」
 昨日の俺を思い出してるみたいに目を細めてニコニコしている千明を見て、心の中で舌打ちをした。今世紀最大のミスを犯した気がして後悔が押し寄せる。
「っ…!だけど、俺がここにいるって、なんで」
 この質問に関して、あぁそっか、と言って千明は自分のポケットにごそごそと手を突っ込んだ。五年前よりも髪の毛は明るいし身長もかなり伸びているけど、伏し目になったときの睫毛なんかはあの頃と同じで、やっぱり本物なんだと改めて実感していると、ぐしゃぐしゃになった紙を丁寧に広げながら俺に見せた。それはいつか俺が載った新聞の切り抜きで、大学名と院に進む予定だということが記載されていた。
 その切り抜きを眺めながら千明が言う。
「俺、先生に言われた通り、たくさんの人に出会ったよ」
「……そうか」
「文化祭のダンスがSNSでちょっと話題になって、いろんな人が面白がって俺を見にきた。それでスカウトしてもらって今の仕事を始めてからはもっと、可愛いファンの子もついてくれたし、キレイな人とも共演したり」
「良かったな」
 千明に色んな人に出会って、その気持ちが勘違いだったって気付くだろうと教えたのは俺だ。今だってあの日を思い出しては心臓がギリギリと痛くなる。
「それで、わかったんだ」
 千明は持っているぐしゃぐしゃになった紙を目を細めながら一撫でして、それからこっちをみて真っ直ぐと通る声で言う。

「この好きは、間違ってなかった」

 淀みの一切ない声はハッキリと俺の耳まで届き、そのまま熱を持って脳に響いた。
「やっぱ俺、先生にしかドキドキしないし、触ったりキスしたいって思わない」
 聞きながら、鼻の奥が痛くなっていく。
「俺の特別は、先生だけだ」
 ――どうしてこいつには、迷いがないんだろう。
「……男同士だぞ」
「それ関係あんのか」
 ――いつだって俺を真っ直ぐ見る。
「結婚したり、こどもも出来ない」
「二人でいることが大事だろ」
 ――目の前の霧を晴らすように、凍った心を溶かすように。
「…俺、誰とも付き合ったことないけど」
「まじ?その顔で?」
 俺も先生が初めて、なんてほんの少し顔を赤くして照れくさそうに笑ってる。
 ――あぁなんて、なんて愛おしい。
 そろりと手を伸ばして千明の頬に触れる。瞳をわずかに潤ませて、笑っていたはずなのに急に真面目な顔になって、耐えるように下唇を噛んで、ただ息を潜めて俺の言葉を待っている。一文字も聞き逃すまいと耳を澄ませて、じっと。


『教えて、先生』


 そう瞳が囁いていた。



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