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04「どうしてチョコは甘いのかしら?」
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我が家のバレンタインは忙しい。
ピーンポーン。
「は~~~~い」
玄関チャイムの音に、母はパタパタと軽快な足音を立てて走る。
「どちら様ぁ~~~?」
ガチャリという音とともに開いたその先にいたのは父よりやや年上の初老の男性だった。
「あらあら単語久里屋さんじゃない。お久しぶりねぇ」
「お久しぶりでございます、単語鏡珠お嬢様」
穏やかな笑みを浮かべた男性は紳士然としており、
ピンと背筋を伸ばして両手いっぱいの段ボールを抱えていた。
「おや、零韻ちゃん。お久しぶりですね」
「あ、はい…お久しぶりです、久里屋さん。それ、全部母さん宛ですか?」
「はい。すべて鏡珠お嬢様宛のバレンタインプレゼントでござます」
「あらあらまぁまぁ…皆さん、本当に律儀なんだから…」
母はちょっと照れ臭そうに頬を上気させ、まるで少女のようにわくわくしながら
久里屋さんからダンボールを受け取ろうとする。
「中まで運びましょう、お嬢さまはお茶の準備をしてお待ちくださいませ」
「あら、それもそうね…チョコにはやっぱりアールグレイかしら?
イングリッシュブレンドも捨てがたいわねぇ」
そんな事を呟きながら、母は鼻歌交じりに台所に向かう。いつもの「スカボローフェア」だ。
「久里屋さんも律儀ですよね…毎年毎年、芸能事務所に届いた贈り物を、
わざわざウチに届けてくれるんだから」
「ほっほっほっ…何、これが年寄りの楽しみです故。例え芸能界を引退されても、鏡珠お嬢様は鏡珠お嬢様。
この久里屋、死ぬまで付き人としてお仕えさせて頂く所存でございますぞ」
久里屋さんは、母がタカラジェンヌとして活動していた時からの付き人の一人で、
主に送迎や身の回りのお世話をしてくださっていた人だ。
その所作は洗練されており、付き人というよりはまるで執事のようだと思う。
今日のコーディネートだって、控え目に言って最高だ。
インナーはシャツじゃなくてTシャツの上に重ねた胸元のVゾーンのニットがちょっと色っぽい。
ジャストフィットのカジュアルなグレーのセットアップスーツがよく似合ってるし、
やや緩やかにカールがかかった前髪を横に流し、短くカットされ穏やかに微笑むその佇まいは、
初老のデビット・ベッカムを連想させる。
いいぞ久里屋さん。そういう所だぞ久里屋さん。
父にもぜひ見習って欲しいと思う。
久里屋さんを居間に案内し、ダンボールを開封する。
「うわぁ……すごいな…」
毎年の事ながら圧巻される。
花束や紅茶、チョコにクッキーに入浴セットにボディケアセット…
しかも全部セレブ御用達しのブランドばかり。
「引退して20年以上経つのに…母さん、こんなに愛されてるんだな…」
「ええ、ええ…鏡珠お嬢様の演技は、本当に素晴らしいものでした…
時に小鳥のように、時に鋼のように。それはさながら重力さえも操っているかのような演技でした」
そんな母を、ファンの皆さんは『無重力の天使』と呼んでいるという。
でも。
「業界関係者の人たちは…『ラプラスの女神』と呼んでいたと…」
「…そうですなぁ…」
「失礼いたしますね」と久里屋さんはソファに腰を下ろす。
「鏡珠お嬢様はなんというか…常に我々の一先…いや、十歩も二十歩も先を読んでおられる方でした」
「…そんなに?」
「はい。ラプラスとは、フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスのことで、
彼の数学者によって提唱された『ラプラスの悪魔』の定義が語源となっております」
「ラプラスの、悪魔…」
聞いたことがある。
近世・近代の物理学分野で、因果律に基づいて未来の決定性を論じる時に仮想された超越的存在の概念。
ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つがゆえに、
未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知りえる」という超人間的知性のことだ。
それが母だという。
「うーーん…ちょっと大げさじゃないかなぁ…?」
「ほっほっほっ…零韻ちゃんには、まだお話しておりませんでしたかな」
「何の話?」
「あれは…大河ドラマ『QueenKyrie』の撮影の時でした…」
『QueenKyrie』はとある小説が原作の母の代表作であり、母が最後に演じた集大成の作品だ。
「第12章ゴールデン・ニムバスはご存じかな?」
「あ、はい。放送15周年か何かの再放送で兄さんと観ました」
「零韻ちゃんの目から見て、いかがでしたかな?」
「…とても、綺麗でした…黄金の光に包まれた母さんは…天使…ううん…女神さまみたいだった…」
もちろんCG合成や編集もあると思う。
それでも。
黄金の光を背に立つ母が演じる主人公キリエは、ただただ美しかった。
兄はとても興奮していたし、私は子どもながらに感動して、気が付いたら泣いていた。
「実はですね…あのシーン、一発撮りなんですよ」
「えっ?」
久里屋さんがとっておきの秘密を囁くように私にこっそり耳打ちする。
「ガルシア王と対峙し、ガルシア王を退けるまでの12分8秒。
まったくのノーミスで、寸分違うことなく12分8秒を演じ切ったのですよ」
久里屋さんの言葉に、私は違和感を感じた。
「12分、8秒…?」
「そうです。【寸分違わぬ12分8秒】です」
私は自分の手が震えているのに気付いた。
まさか。
そんな、まさか。
慌ててポケットからスマホを取り出し、『QueenKyrie』の原作が連載されていたサイトを開く。
第12章ゴールデン・ニムバスは全8話。
そう。
【ガルシア王と対峙したそのシーンが第8話】なのだ。
ぞくりと背筋が戦慄くのを感じた。
だって…あのシーンは、母が一人で演じたものではない。
ガルシア王と対峙し、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団が大歓声を上げる重要なシーンだ。
それを、一度の、たった一度の撮影で終えたというのか。
まったく編集をしていない、12分8秒という時間内に納めて。
それを、母は計算していたというのか?
「当時の現場に私も居合わせたのですが、鏡珠お嬢様は撮影後にこうおっしゃっていました…
『監督、如何ですか?』と…その時の監督さんのはしゃぎようったら。助監督さんと脚本家さんは
青ざめておりましたがね…それ故の、『ラプラスの女神』なのですよ」
そう言って久里屋さんは、まるで我が事のように嬉しそうに微笑んだ。
その言葉に、私は生唾を飲み込んだ。
浮世離れしている母だとは思っていたが…次元が違いすぎる。
「…羊が、兄さんは『重力の特異点』だと言っていました…」
「そうですね。蔵人くんも…常人では考え付かないような、ひらめき…第六感に特化しております。
…血筋がなせる単語業なのでしょうなぁ…」
血筋。
その言葉が私に重く圧し掛かる。
母さんも、兄さんも…ううん、もっとすごいのはお祖母ちゃんだ。
祖母である探湯菖蒲は日本を代表する現代美術画家で、戦争撲滅や貧困・差別など、社会問題を多く取り上げた現代派の画家としてその高名を国内外問わずに轟かせている。
その影響もあって、私は都立芸術大学に通っている、所謂画家の卵だ。
でも、正直自分が祖母のようになれるとは思わない。
色に関しては人一倍拘りがあるが、デッサンに関しては顧問の瑠璃川絵美子先生からは「あなたこの画力でよく芸大に入れたわね」という不名誉な太鼓判を押されている。
正直、卒業後の進路をどうしようか悩んでいる。
絵を描くのは好きだ。
特に自然や人物がを描くのが好きだ。
そして何より、いつかの夢で見た「真っさらな青空に浮かぶ虹の橋と咲き乱れる花畑」の絵を、寸分違わず再現したいと思っている。
「…私も、お祖母ちゃんみたいになれるだろうか…」
「そんなに気負うことはありませんよ、零韻ちゃん。菖蒲お祖母様は菖蒲お祖母様。零韻ちゃんは零韻ちゃん。
皆違って皆いいんです。そんなに自分を追い込まなくていいんですよ」
「あらあら、何のお話ぃ~?」
ベルガモットの爽やかな香りをさせながら、母が台所から戻ってきた。
散々迷った末、アールグレイのフレーバードティーにしたらしい。
「ちょっとだけ、鏡珠お嬢様の武勇伝を零韻ちゃんにお話ししておりました」
「まぁ、いやだわ九里屋さんたら。私はもう芸能界はとっくに引退してるのよ?
今はただの専業主婦。愛する夫と可愛い子供たちのために生きてるんだから」
「違いありませぬ」
そう言って母と九里屋さんは朗らかに笑った。
「あらぁ、愛之助さんからだわ。うふふ…あの人には蔵人がお世話になってるから、とびっきりのお返しをしなくっちゃ」
母が取り出したプレゼントボックスはポップながらも洗練された和柄の包装紙に包まれていた。
単語真壁愛之助おじさんはかつての母の共演者で、芸歴35年以上のベテラン俳優であり、父・星一とも交流がある。
古武道と居合の達人で、一か月以上家を空けることがある父に代わる私たちにとっては父親のようなでもある。
「おや、伊藤久右衛門さんのショコラコレクションですな。これは素晴らしい」
伊藤久右衛門さんは上質な茶づくりにこだわった江戸後期から続く老舗で、かく言う私も大ファンだ。
母が箱を開けると、そこには「美しい」としか形容することができないデザインの一口チョコたちが9つ鎮座していた。
「あら可愛い」
「ほほう、すべて違うフレーバーのチョコなのですな」
今回のチョコの監修をされたのは老舗ホテルで10年のキャリアをもってフランスへ留学したとあるグランドシェフらしい。
2003年には西日本洋菓子コンテスト・プチガトー部門で金賞を取り、ノエルアリダスイーツコンテスト2015では優勝し、「宇治茶と源氏物語」スイーツコンテスト2015ではプラチナ賞をかっさらったようなお人だ。
経歴だけで卒倒しそうになる。
そんなグランドシェフが監修したチョコが不味いだろうか。いいや否。
美味しくないはずがない。
「そうねぇ…私はこの可愛い、四角くて苺のトッピングがある抹茶チョコを頂こうかしら」
「えっと…じゃあ私は…この宇治抹茶の落款が入ったやつで」
「では私めはまぁるい抹茶チョコさんを頂きましょうかね」
「頂きます」と三人で手を合わせてから、それぞれのチョコに手を伸ばして口に入れる。
「んふっ」
私の口から言葉にならない悲鳴が漏れる。
やばい。
何だこれ。ホントやばいな?????
口の中で抹茶の風味がぶわっと広がり、口から鼻に抹茶の香りが突き抜ける。
そしてまろやかなミルクチョコレートと抹茶チョコのハーモニー。
それと…少しお酒が入っているみたい。
悪くない。いや、ものすごくいい。
私は鼻から空気を吸い込んで余韻を味わいながらゆっくりと息を吐く。
これだから伊藤久右衛門さんのチョコは病みつきになってしまう。
愛之助おじさんにお礼言っておかなきゃ。
その日の夜。
「たっだいまぁ~」
「おかえり、兄さん」
玄関で愛用の黒いコートを脱いでいる兄さんを出迎える。
「お疲れ様。今日の現場どうだった?」
「いや、もぉめっちゃ走りまくった…なかなかハードだったよ」
言いながらも兄さんはとても楽しそうだ。
今兄さんは子ども向けの特撮番組で主役を演じながらモデルやCMの仕事もこなしている。
注目株の若手俳優といったところだ。
「ほいコレ。現場の皆さんからもらったバレンタインチョコ」
手渡された紙袋を見ると、これまたぎっしりとプレゼントボックスや包み紙が詰め込んである。
「…ウチってホント、バレンタインのチョコには困らないよね…」
「お前だって、大学で沢山チョコもらってるだろ」
「えっ、あっ…いや、まぁ…」
台所に向かいながら私は視線を泳がせる。
何故だか分からないけれど、小学校時代から毎年のようにバレンタインにチョコもらっている。
男子からだけではなく、女子からもらうこともしばしばだ。
私なんて兄や母のように何か取り柄があるわけでもないのに…不思議で仕方ない。
「で?今年はいくつもらったんだ?」
「…………10個ほど…」
「あっはっはっはっ、さっすが俺の妹!やるじゃん」
「よしてくれ…」
カラカラと笑う兄の言葉に私はげんなりとする。
私は母や兄と違って目立つのがあまり好きではない、まったく平々凡々な一般人だ。
そんな私のどこに魅力を感じるというのだろう。
「だってお前、俺と母さんに似てめちゃくちゃ可愛いもん。なぁ、母さん」
「うん?そうねぇ…零韻は私とスターの娘で、とってもとっても可愛いわよぉ~」
顔面偏差値が異常に高い母と兄が満面の笑みを浮かべると、それだけで視界がキラキラと眩しくなる。
ウッ、本当に眩しいからやめてくれ。
そしてお世辞抜きで本心から私を褒め称えるのは本当に勘弁して欲しい。
毎日のように可愛い可愛いと言われているのに、どうしても慣れない。
食事を終えてベッドに入る前、私は小さな紙袋を片手に隣の兄の部屋のドアをノックする。
「兄さん、ちょっといい?」
「いいよー」
ドアを開けると、兄はラフな部屋着に着替え、寝る前のストレッチに励んでいた。
「何?どした?」
「あ、いや。兄さんにチョコ渡してなかったなって」
「おっ。マジ?」
兄は一つ大きく伸びをするとようやくこちらを向き直った。
「はい。ハッピーバレンタイン」
私が差し出したエンジ色の紙袋を兄は嬉しそうに受け取り中身を取り出す。
「開けていいか?」
「うん」
兄は子どものように満面の笑みを浮かべながら丁寧に包装紙を開けていく。
「おっ?『和チョコMAGATAMA』…?」
「うん。勾玉の形をしたチョコで、あんことチョコのハイブリッドスイーツなんだ。
…その、まぁ…兄さんが、仕事で良縁があればいいなって…」
私の言葉に、兄がどんどん破顔していく。
気づいた時には遅かった。
「零韻~~~~~~!!!お前!!!ホントに可愛いなぁ!!!ホンッッットに可愛い!」
「や、やめろ馬鹿!!!!抱きつくな!!!頬擦りするな!!!!離せ馬鹿兄貴!!!!!!」
万力で抱きしめられ、私は逃げることもできずにもがく。
「あらあら、どうしたの~?」
何事かと、母がドアの向こうから顔を覗かせる。
「見て母さん!!零韻が!!!俺のハイパー超絶可愛い零韻が!!めちゃくちゃ嬉しいチョコくれた!!!!」
「あらあら、そうなの~よかったわねぇ~」
母さん、笑ってないで助けてくれ。
がっくりと項垂れ、私は100トンほどありそうな溜め息を吐く。
そんなこんなで、2021年の我が家のバレンタインは終わりを告げるのだった。
ピーンポーン。
「は~~~~い」
玄関チャイムの音に、母はパタパタと軽快な足音を立てて走る。
「どちら様ぁ~~~?」
ガチャリという音とともに開いたその先にいたのは父よりやや年上の初老の男性だった。
「あらあら単語久里屋さんじゃない。お久しぶりねぇ」
「お久しぶりでございます、単語鏡珠お嬢様」
穏やかな笑みを浮かべた男性は紳士然としており、
ピンと背筋を伸ばして両手いっぱいの段ボールを抱えていた。
「おや、零韻ちゃん。お久しぶりですね」
「あ、はい…お久しぶりです、久里屋さん。それ、全部母さん宛ですか?」
「はい。すべて鏡珠お嬢様宛のバレンタインプレゼントでござます」
「あらあらまぁまぁ…皆さん、本当に律儀なんだから…」
母はちょっと照れ臭そうに頬を上気させ、まるで少女のようにわくわくしながら
久里屋さんからダンボールを受け取ろうとする。
「中まで運びましょう、お嬢さまはお茶の準備をしてお待ちくださいませ」
「あら、それもそうね…チョコにはやっぱりアールグレイかしら?
イングリッシュブレンドも捨てがたいわねぇ」
そんな事を呟きながら、母は鼻歌交じりに台所に向かう。いつもの「スカボローフェア」だ。
「久里屋さんも律儀ですよね…毎年毎年、芸能事務所に届いた贈り物を、
わざわざウチに届けてくれるんだから」
「ほっほっほっ…何、これが年寄りの楽しみです故。例え芸能界を引退されても、鏡珠お嬢様は鏡珠お嬢様。
この久里屋、死ぬまで付き人としてお仕えさせて頂く所存でございますぞ」
久里屋さんは、母がタカラジェンヌとして活動していた時からの付き人の一人で、
主に送迎や身の回りのお世話をしてくださっていた人だ。
その所作は洗練されており、付き人というよりはまるで執事のようだと思う。
今日のコーディネートだって、控え目に言って最高だ。
インナーはシャツじゃなくてTシャツの上に重ねた胸元のVゾーンのニットがちょっと色っぽい。
ジャストフィットのカジュアルなグレーのセットアップスーツがよく似合ってるし、
やや緩やかにカールがかかった前髪を横に流し、短くカットされ穏やかに微笑むその佇まいは、
初老のデビット・ベッカムを連想させる。
いいぞ久里屋さん。そういう所だぞ久里屋さん。
父にもぜひ見習って欲しいと思う。
久里屋さんを居間に案内し、ダンボールを開封する。
「うわぁ……すごいな…」
毎年の事ながら圧巻される。
花束や紅茶、チョコにクッキーに入浴セットにボディケアセット…
しかも全部セレブ御用達しのブランドばかり。
「引退して20年以上経つのに…母さん、こんなに愛されてるんだな…」
「ええ、ええ…鏡珠お嬢様の演技は、本当に素晴らしいものでした…
時に小鳥のように、時に鋼のように。それはさながら重力さえも操っているかのような演技でした」
そんな母を、ファンの皆さんは『無重力の天使』と呼んでいるという。
でも。
「業界関係者の人たちは…『ラプラスの女神』と呼んでいたと…」
「…そうですなぁ…」
「失礼いたしますね」と久里屋さんはソファに腰を下ろす。
「鏡珠お嬢様はなんというか…常に我々の一先…いや、十歩も二十歩も先を読んでおられる方でした」
「…そんなに?」
「はい。ラプラスとは、フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスのことで、
彼の数学者によって提唱された『ラプラスの悪魔』の定義が語源となっております」
「ラプラスの、悪魔…」
聞いたことがある。
近世・近代の物理学分野で、因果律に基づいて未来の決定性を論じる時に仮想された超越的存在の概念。
ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つがゆえに、
未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知りえる」という超人間的知性のことだ。
それが母だという。
「うーーん…ちょっと大げさじゃないかなぁ…?」
「ほっほっほっ…零韻ちゃんには、まだお話しておりませんでしたかな」
「何の話?」
「あれは…大河ドラマ『QueenKyrie』の撮影の時でした…」
『QueenKyrie』はとある小説が原作の母の代表作であり、母が最後に演じた集大成の作品だ。
「第12章ゴールデン・ニムバスはご存じかな?」
「あ、はい。放送15周年か何かの再放送で兄さんと観ました」
「零韻ちゃんの目から見て、いかがでしたかな?」
「…とても、綺麗でした…黄金の光に包まれた母さんは…天使…ううん…女神さまみたいだった…」
もちろんCG合成や編集もあると思う。
それでも。
黄金の光を背に立つ母が演じる主人公キリエは、ただただ美しかった。
兄はとても興奮していたし、私は子どもながらに感動して、気が付いたら泣いていた。
「実はですね…あのシーン、一発撮りなんですよ」
「えっ?」
久里屋さんがとっておきの秘密を囁くように私にこっそり耳打ちする。
「ガルシア王と対峙し、ガルシア王を退けるまでの12分8秒。
まったくのノーミスで、寸分違うことなく12分8秒を演じ切ったのですよ」
久里屋さんの言葉に、私は違和感を感じた。
「12分、8秒…?」
「そうです。【寸分違わぬ12分8秒】です」
私は自分の手が震えているのに気付いた。
まさか。
そんな、まさか。
慌ててポケットからスマホを取り出し、『QueenKyrie』の原作が連載されていたサイトを開く。
第12章ゴールデン・ニムバスは全8話。
そう。
【ガルシア王と対峙したそのシーンが第8話】なのだ。
ぞくりと背筋が戦慄くのを感じた。
だって…あのシーンは、母が一人で演じたものではない。
ガルシア王と対峙し、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団が大歓声を上げる重要なシーンだ。
それを、一度の、たった一度の撮影で終えたというのか。
まったく編集をしていない、12分8秒という時間内に納めて。
それを、母は計算していたというのか?
「当時の現場に私も居合わせたのですが、鏡珠お嬢様は撮影後にこうおっしゃっていました…
『監督、如何ですか?』と…その時の監督さんのはしゃぎようったら。助監督さんと脚本家さんは
青ざめておりましたがね…それ故の、『ラプラスの女神』なのですよ」
そう言って久里屋さんは、まるで我が事のように嬉しそうに微笑んだ。
その言葉に、私は生唾を飲み込んだ。
浮世離れしている母だとは思っていたが…次元が違いすぎる。
「…羊が、兄さんは『重力の特異点』だと言っていました…」
「そうですね。蔵人くんも…常人では考え付かないような、ひらめき…第六感に特化しております。
…血筋がなせる単語業なのでしょうなぁ…」
血筋。
その言葉が私に重く圧し掛かる。
母さんも、兄さんも…ううん、もっとすごいのはお祖母ちゃんだ。
祖母である探湯菖蒲は日本を代表する現代美術画家で、戦争撲滅や貧困・差別など、社会問題を多く取り上げた現代派の画家としてその高名を国内外問わずに轟かせている。
その影響もあって、私は都立芸術大学に通っている、所謂画家の卵だ。
でも、正直自分が祖母のようになれるとは思わない。
色に関しては人一倍拘りがあるが、デッサンに関しては顧問の瑠璃川絵美子先生からは「あなたこの画力でよく芸大に入れたわね」という不名誉な太鼓判を押されている。
正直、卒業後の進路をどうしようか悩んでいる。
絵を描くのは好きだ。
特に自然や人物がを描くのが好きだ。
そして何より、いつかの夢で見た「真っさらな青空に浮かぶ虹の橋と咲き乱れる花畑」の絵を、寸分違わず再現したいと思っている。
「…私も、お祖母ちゃんみたいになれるだろうか…」
「そんなに気負うことはありませんよ、零韻ちゃん。菖蒲お祖母様は菖蒲お祖母様。零韻ちゃんは零韻ちゃん。
皆違って皆いいんです。そんなに自分を追い込まなくていいんですよ」
「あらあら、何のお話ぃ~?」
ベルガモットの爽やかな香りをさせながら、母が台所から戻ってきた。
散々迷った末、アールグレイのフレーバードティーにしたらしい。
「ちょっとだけ、鏡珠お嬢様の武勇伝を零韻ちゃんにお話ししておりました」
「まぁ、いやだわ九里屋さんたら。私はもう芸能界はとっくに引退してるのよ?
今はただの専業主婦。愛する夫と可愛い子供たちのために生きてるんだから」
「違いありませぬ」
そう言って母と九里屋さんは朗らかに笑った。
「あらぁ、愛之助さんからだわ。うふふ…あの人には蔵人がお世話になってるから、とびっきりのお返しをしなくっちゃ」
母が取り出したプレゼントボックスはポップながらも洗練された和柄の包装紙に包まれていた。
単語真壁愛之助おじさんはかつての母の共演者で、芸歴35年以上のベテラン俳優であり、父・星一とも交流がある。
古武道と居合の達人で、一か月以上家を空けることがある父に代わる私たちにとっては父親のようなでもある。
「おや、伊藤久右衛門さんのショコラコレクションですな。これは素晴らしい」
伊藤久右衛門さんは上質な茶づくりにこだわった江戸後期から続く老舗で、かく言う私も大ファンだ。
母が箱を開けると、そこには「美しい」としか形容することができないデザインの一口チョコたちが9つ鎮座していた。
「あら可愛い」
「ほほう、すべて違うフレーバーのチョコなのですな」
今回のチョコの監修をされたのは老舗ホテルで10年のキャリアをもってフランスへ留学したとあるグランドシェフらしい。
2003年には西日本洋菓子コンテスト・プチガトー部門で金賞を取り、ノエルアリダスイーツコンテスト2015では優勝し、「宇治茶と源氏物語」スイーツコンテスト2015ではプラチナ賞をかっさらったようなお人だ。
経歴だけで卒倒しそうになる。
そんなグランドシェフが監修したチョコが不味いだろうか。いいや否。
美味しくないはずがない。
「そうねぇ…私はこの可愛い、四角くて苺のトッピングがある抹茶チョコを頂こうかしら」
「えっと…じゃあ私は…この宇治抹茶の落款が入ったやつで」
「では私めはまぁるい抹茶チョコさんを頂きましょうかね」
「頂きます」と三人で手を合わせてから、それぞれのチョコに手を伸ばして口に入れる。
「んふっ」
私の口から言葉にならない悲鳴が漏れる。
やばい。
何だこれ。ホントやばいな?????
口の中で抹茶の風味がぶわっと広がり、口から鼻に抹茶の香りが突き抜ける。
そしてまろやかなミルクチョコレートと抹茶チョコのハーモニー。
それと…少しお酒が入っているみたい。
悪くない。いや、ものすごくいい。
私は鼻から空気を吸い込んで余韻を味わいながらゆっくりと息を吐く。
これだから伊藤久右衛門さんのチョコは病みつきになってしまう。
愛之助おじさんにお礼言っておかなきゃ。
その日の夜。
「たっだいまぁ~」
「おかえり、兄さん」
玄関で愛用の黒いコートを脱いでいる兄さんを出迎える。
「お疲れ様。今日の現場どうだった?」
「いや、もぉめっちゃ走りまくった…なかなかハードだったよ」
言いながらも兄さんはとても楽しそうだ。
今兄さんは子ども向けの特撮番組で主役を演じながらモデルやCMの仕事もこなしている。
注目株の若手俳優といったところだ。
「ほいコレ。現場の皆さんからもらったバレンタインチョコ」
手渡された紙袋を見ると、これまたぎっしりとプレゼントボックスや包み紙が詰め込んである。
「…ウチってホント、バレンタインのチョコには困らないよね…」
「お前だって、大学で沢山チョコもらってるだろ」
「えっ、あっ…いや、まぁ…」
台所に向かいながら私は視線を泳がせる。
何故だか分からないけれど、小学校時代から毎年のようにバレンタインにチョコもらっている。
男子からだけではなく、女子からもらうこともしばしばだ。
私なんて兄や母のように何か取り柄があるわけでもないのに…不思議で仕方ない。
「で?今年はいくつもらったんだ?」
「…………10個ほど…」
「あっはっはっはっ、さっすが俺の妹!やるじゃん」
「よしてくれ…」
カラカラと笑う兄の言葉に私はげんなりとする。
私は母や兄と違って目立つのがあまり好きではない、まったく平々凡々な一般人だ。
そんな私のどこに魅力を感じるというのだろう。
「だってお前、俺と母さんに似てめちゃくちゃ可愛いもん。なぁ、母さん」
「うん?そうねぇ…零韻は私とスターの娘で、とってもとっても可愛いわよぉ~」
顔面偏差値が異常に高い母と兄が満面の笑みを浮かべると、それだけで視界がキラキラと眩しくなる。
ウッ、本当に眩しいからやめてくれ。
そしてお世辞抜きで本心から私を褒め称えるのは本当に勘弁して欲しい。
毎日のように可愛い可愛いと言われているのに、どうしても慣れない。
食事を終えてベッドに入る前、私は小さな紙袋を片手に隣の兄の部屋のドアをノックする。
「兄さん、ちょっといい?」
「いいよー」
ドアを開けると、兄はラフな部屋着に着替え、寝る前のストレッチに励んでいた。
「何?どした?」
「あ、いや。兄さんにチョコ渡してなかったなって」
「おっ。マジ?」
兄は一つ大きく伸びをするとようやくこちらを向き直った。
「はい。ハッピーバレンタイン」
私が差し出したエンジ色の紙袋を兄は嬉しそうに受け取り中身を取り出す。
「開けていいか?」
「うん」
兄は子どものように満面の笑みを浮かべながら丁寧に包装紙を開けていく。
「おっ?『和チョコMAGATAMA』…?」
「うん。勾玉の形をしたチョコで、あんことチョコのハイブリッドスイーツなんだ。
…その、まぁ…兄さんが、仕事で良縁があればいいなって…」
私の言葉に、兄がどんどん破顔していく。
気づいた時には遅かった。
「零韻~~~~~~!!!お前!!!ホントに可愛いなぁ!!!ホンッッットに可愛い!」
「や、やめろ馬鹿!!!!抱きつくな!!!頬擦りするな!!!!離せ馬鹿兄貴!!!!!!」
万力で抱きしめられ、私は逃げることもできずにもがく。
「あらあら、どうしたの~?」
何事かと、母がドアの向こうから顔を覗かせる。
「見て母さん!!零韻が!!!俺のハイパー超絶可愛い零韻が!!めちゃくちゃ嬉しいチョコくれた!!!!」
「あらあら、そうなの~よかったわねぇ~」
母さん、笑ってないで助けてくれ。
がっくりと項垂れ、私は100トンほどありそうな溜め息を吐く。
そんなこんなで、2021年の我が家のバレンタインは終わりを告げるのだった。
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