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5-1 約束(1)
しおりを挟む午前四時半--。
ホテルのドアが乱暴にノックされ、遠野は浅い眠りから叩き起こされた。
回らない思考の中。気の抜けた、よく言えばリラックスした格好でベッドに横になっていたことを思い出す。
最低な起こされた方だ。遠野はその理由に腹を立てながらも上体をゆっくり起こした。
警察庁の思いの外に早い到着。硬直した寝起きの頭を起こすように、髪をくしゃくしゃと掻きむしる。
椅子に掛けていた紺色綿パンを履くと、よろよろと立ち上がった。薄っぺらいスリッパに足をもたつかせながら、ドアの方へと歩く。やたらと狭い視界を懸命に開き、遠野はドアスコープを覗き見た。
(……朝っぱら早くから、スーツなんかビッチリ着こなして)
ドアスコープ越しに見える歪んだスーツ姿の人影。見える範囲で四、五人の顔を認識した遠野は、そっと重たいドアを開けた。
「そんな格好してたら、目立ってしょうがねぇだろ。田舎には田舎らしい格好でこいよ。お偉いさん方」
響かせず、小さな声で尋ねる遠野に対し、スーツ姿の男はホテルの狭い廊下に響くような声で応じる。
「五分で準備しろ」
「はぁ? 舐めてんのか? 十五分だ」
「そっちこそ舐めてんのか? 本庁が五分って言ったら五分なんだよ」
髭の伸びた頬を摩り、遠野は不機嫌そうにスーツの男を睨みつける。
「ふざけんな。警護対象者は、まだF県警の管理下にあるんだ。特務が十五分って言ったら、十五分なんだよ」
「なッ! おまえ…ッ!!」
「ロビーで待っとけ。なるべく早く準備すっから。こんな所で喚くな、目立つだろ」
苦虫を潰したような表情を浮かべる警察庁を一瞥し、遠野は再びドアをそっと閉めた。
たまらず。心境が吐露しそうな程、深いため息「はぁ」を吐く。薄暗い室内に目をやると、窓側のベッドには、すばるが未だ浅く寝息を立てていた。遠野は薄っぺらいスリッパをペタペタと響かせて歩くと、布団からはみ出たすばるの手を握った。
「すばる、起きろ」
短く発した端的な言葉と。
それと裏腹な動きをする手。
離したくない華奢な手を強く握った遠野は、小さく「ごめんな」と呟いた。
「うん、わかった」
いやに物分かりのいい、すばるの返事。穏やかに笑うすばるの顔が、日中に覚えた違和感を再び遠野の脳裏に蘇らせる。
〝特務打切り、警察庁へ引継ぎ〟
電話越しに言い渡された、命令。それを伝える緒方の声は、いつもに増して非常に明るかった。遠野はその声音から、精一杯自分を律し、押さえ込んだ深い憤りを感じ取っていた。
「いつもそうだよな、お偉いさんは。今に始まったことじゃねぇよ」
『俺は! 俺は……すばるが、心配です!』
緒方が吐露した、巣食う一番大きな心情。遠野はその言葉に同調し、無言で頷いた。
「警察の事情で、すばるが一番振り回されているからな。それに俺は。すばるに謝んなきゃならないしな」
『遠野補佐……』
言葉を返しようもない。力なく発せられた緒方の声を頭に響かせながら、遠野はすばるに頭を下げた。
「一緒に行くことができなくなった。すまない、すばる」
すばるの顔を直視できない。
警察署からホテルに移動した遠野とすばるは、無言のまま重たい体をベッドに投げ出した。ふぅと、深い呼吸をしたすばるの存在。遠野は徐に体を起こすと、身勝手であると重々承知な言葉をすばるに告げる。そして、深々と頭を下げた。
頭を下げたまま、遠野はすばるの表情を探る。そのことを、遠野は極力避けた。すばるがどういう顔をしているのか。その顔をみたら、おそらく。自分の不甲斐なさに、押し潰されそうになると直感したからだ。遠野はじっと、すばるの言葉を待った。
「嘘つき」と罵られるだろうか。
「裏切れた」と口をつぐむだろうか。
どちらにせよ、心を開いてくれたすばるを傷つけた事実は変わらない。膝の上に置いた拳を、遠野はぎゅっと握りしめた。
「うん、わかった」
予想に反した、いやに物分かりのいいすばるの返事。穏やかに笑うすばるの顔が、日中に覚えた違和感を再び遠野の脳裏に蘇らせる。
こんな言葉を言わせるくらいなら、罵られて殴られた方が何倍もマシだ、と。握りしめた遠野の拳にさらに力が篭った。
「遠野さんは、全く悪くない。だから、謝んないで」
「……」
「約束を覚えていてくれれば。遠野さんが、覚えていてくれれば、オレはそれだけでいい。だから顔を上げてよ、遠野さん」
床面だけを映す遠野狭い視界に、華奢な手がスッと入ってくる。昼間、遠野がすばるにしたように。力の逃げ場を失い震える遠野の拳に、すばるは自らの手を重ねた。
十五歳の少年の気遣い、我慢、そして言いようのない恐怖。相変わらず冷たい温度をしたすばるの手は、遠野の胸をより一層苦しくさせた。
遠野はすばるの腕を引き寄せ、その体を強く抱きしめた。
「……遠野さん?」
「必ず迎えに行く。絶対に……絶対にだ、すばる!」
上擦り震える遠野の声。赤の他人である自分のために泣く大人。きっと後にも先にも、こんな人には巡り合わないだろう、と。すばるは遠野の肩に額を乗せた。
「約束だよ、遠野さん」
手の温度同様。終始穏やかなすばるの声は、互いの感情の温度差までをも生じさせる。たった一瞬で、遠野とすばるの間に生じた溝のような隔たり。
「……あぁ! 約束だ!」
その隔たりを埋めるように。また、そんな隔たりを感じた自分を否定するように。遠野はすばるを、より強く抱きしめた。
「忘れ物、ないか? すばる」
「うん、大丈夫。大したの持ってないし」
ロビーへと向かう、途中通過のエレベーターの中。変に意識することもないごく普通の会話が、遠野とすばるの間を行き来していた。
「あ、パソコン。預かりっぱなしだったな」
「いい。遠野さんが持っててよ。どうせ使えないだろうし」
「大丈夫か?」
「迎えに来た時に、返してくれたらいいよ」
「分かった」
軽く視線を交わし、笑顔を見せる。こんなことも最後だと思っていても、お互いに口には出さずにいた。
軽快な音が一つ、エレベーターに響き、同時にドアが左右に開く。外はまだ日も昇ってもいないのに、煌々と電気の灯ったホテルのロビーは、やたらと明るい。すばるは思わず目を細めた。
瞬間、ロビーの一角がザワッと動いた。
険しい顔をした大人がエレベーターの方に顔を向け、一斉に立ち上がる。反射的に、ビクついたすばるの体を、遠野はそっと手を添え支えた。
手入れされた革靴の踵を派手に鳴らし、スーツ姿の男がすばるに近づく。すばるはゴクッと唾を飲み込んだ。
「三ツ谷すばるくんだね。警察庁情報技術犯罪対策課の大塚だ。これより君は我々と行動を供にしてもらう。いいね」
迷いのない動作で、スーツの胸ポケットから取り出した黒く滑る手帳を開く。隙すらない。笑顔も余裕もない。全身から放たれる言いようもない圧に、すばるは黙って頷いた。
その小さな同意を合図に、すばるはスーツの男たちに取り囲まれると、両腕をしっかりと掴まれる。
「遠野さん!」
「すばるッ!」
不安げな表情を浮かべるすばるに、遠野は咄嗟に手が出た。すばるの腕に、遠野の手が触れる--。
あと少し、のところで。突然、間の視界が遮られる。遠野とすばるの間に、大塚と名乗った男が割って入っていた。
「これより、三ツ谷すばるは本庁の管理下に入る。今までご苦労だった」
伸ばした手を、遠野は引っ込まざるを得なかった。手のひらを拳に握りかえ、遠野は大塚をグッと見上げる。蔑むように見下ろす大塚の視線を跳ね除けるように。遠野は皺一つないスーツを掴んだ。
「すばるを! よろしくお願いします」
懇願、というべき遠野の必死な手。大塚は鬱陶しげに振り払うと、言葉すら発せずホテルの出口へ向かう。
ホテル出入り口正面に横付けされたシルバーのワゴン。スーツ姿の一団が、そのワゴンに乗り込もうとした、その時--。
--パン! パン、パン!!
乾いた破裂音が、遠野の耳をつん裂く。聞き慣れたはずのその音に、遠野は思わず息が止まった。
ワゴンの向こう側から〝笑う〟白い仮面を着けた複数の人影が、至近距離で警察庁《本庁》の一団に発砲している。統率の取れた無駄のない動き。不意を突かれ襲われた彼らは、携行した拳銃を構える間も無く、銃弾を受け地面に倒伏した。白御影石のタイルが、ガラスが。瞬く間に赤く染まり、広がっていく。
ほんの一瞬。ほんのガラス一枚隔てた向こう側。予想だにしない事由が、時間の概念が狂ってしまったかのように。切り取られた世界線に、ただ一人残された遠野の目の前を通り過ぎる。
あまりに突発な出来事。ぼんやりとしていた遠野は、ハッとして声を振り絞った。
「すばるッ!」
一人、赤く染まる地面に佇むすばるが、遠野の声に振り返る。
「遠野さんッ!!」
センサーが誤作動し、開閉を繰り返す自動ドア。その隙間から、すばるは遠野に向かって必死に手を伸ばした。
すばるの手を早く掴まなければならないのに。
ドクン、ドクンと脈打つ遠野の体は、気持ちとは裏腹に異様に遅く重たい。
「すばるーッ!!」
「遠野さ……ッ!!」
あと数十センチ……! 手が触れ合うまで……あと少し!! 遠野の手とすばるの手が、重なる--!!
「うぁ……」
苦しげな呻き声とともに。グラッ、と。すばるの体が大きくブレた。一瞬で感情を失った表情と、意志を失い見開かれた目が遠野の視界から外れていく。入れ替わるように。すばるの背後から〝笑う〟白い仮面--ガル・フォーク・マスクが現れた。
遠野の目に、小型拳銃の銃把がすばるの肩口に深く食い込むのが見えた。非常にゆっくりと動く遠野の視界が次に捉えたのは、遠野の真正面へと移動していく小型拳銃の銃口。
丸い筒の向こう側で、撃鉄がガチャリと単調な音を立てるのを耳で微かに拾った。
遠野を捉えた銃口に臆することなく。遠野は、宙を彷徨うすばるの手を掴まんと、走る--。
「すばるーッ!!」
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