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祭りばやしは不倫の音色

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祭りばやしは不倫の音色
瀧 けんたろう



「ひどい寝ぐせ」
 そう言われてはっとする。
舞子は、慌てて髪を押さえながら、ベッドからこちらを見上げている母を見た。薄くはなっているが、青く染めた髪はまだ豊かで、頬のあたりまで伸ばしている。けれど、頻繁に寝がえりをうったりしているせいで、髪は乱れがちだ。ぺしゃんこになって、いびつなかたちで頭にへばりついている。
いつも、身なりをきちんとしていて、家の中にいても化粧もしていたかつての母のことを思うと、舞子は胸が痛んだ。
「女の子なのだから、身なりだけはきちんとしていなさい」
 まるで、小さい子に諭すように、母はそう言うと、軽く目を閉じた。瞳を覆った瞼は、血管が浮き出るくらいに透明だった。
 舞子は、母の枕元によると、声をかけた。
「どうしたの? 何か欲しいものある?」
 母は、閉じていた目をすこし開けて、軽く首をかしげると、また目を閉じてしまった。
舞子を呼ぶ声が聞こえたので、仕事を中断してリビングに顔をだしたところだった。1日に、こんなことが何度あるかしれない。大変ではあるけれど、母が呼びかけて、駆け付けてくれるのはこの世にわたしただひとり。できることは何でもしたい。
しかし、母は反応をしないまま、静かに息をしているだけだった。どうやら、眠ってしまったようだ。
 母が認知症と診断されて、やがて1年になる。
 はじめは、軽度の認知症だったが、あっという間に進行してしまった。いまでは自分のおかれている状況もわからないときがある。
枕元のサイドテーブルには、半分ほど食べかけたフルーツゼリーのカップがあり、木製のスプーンが刺さったままだ。高島屋の地下で売っているフルーツゼリーは、シャインマスカットやオレンジがたっぷりと入っていて、一個600円もするが、母の好物だ。
舞子は、フルーツゼリーのカップにラップをして、冷蔵庫にしまった。スプーンをシンクで洗おうとしたとき、インスタントのカップスープが打ち捨てられているのを見つけた。母が自分でつくったのだろうか。それとも、妹の麻美だろうか。
麻美は、私鉄で30分ほど離れたところに、夫と子供二人と住んでいる。週に1度か2度、母親の様子を見にやってくる。舞子が出社をしなければならないときなど、代わりに見てもらうこともある。

「ちゃんとしないと」
 振り返ると、眠っていたと思っていた母がぱっちりと目を開き、こちらに顔を向けている。好奇なモノを見つけたときのような目をしている。
「松本さん?」
 舞子は眉をしかめた。松本さんって、誰?
「いつもすいません」
 母そう言いながら、軽く頭を動かした。こけた母の頬に、ベランダから差し込む光が当たって、白っぽく見えた。
 ときどき母は、わたしのことがわからなくなる。この前までは、小林さんだった。小林という名前も松本という名前も、舞子には聞き覚えがない。昔の知り合いだろうか。
 先日、担当の医師から、相貌失認、という説明をうけた。認知症のよくある症状で、顔のパーツは覚えていても、それを組み合わせて、人と結び付けることができなくなってしまう。何年も顔を突き合わせてきた家族でも、まったく知らない顔に見えてしまうらしい。
 けれど、そんな説明を受けても、ピンとこない。娘の顔がわからなくなるなんて、理屈を理解できても、信じられないことだ。
「お母さん、わたしよ」
 舞子はそう言って、母の枕元にかがみこんだ。複雑な感情を飲み込んで、とびきりの笑顔をつくった。笑いかけて安心させると、認知症が和らぐ効果があると、医師から言われたことを思い出す。
かすかなパウダーの匂いがする。甘い。昨日、母に塗ってあげたファウンデーションが、まだ残っていた。
 不意に、母の目が細まった。そうすると、形の良い目が優しくなる。舞子は、母の目が好きだった。母の大きな目が、自分にも遺伝すればよかったと思った。舞子の目は、一重で糸を引いたようで、どちらかというと父に似てしまった。
「麻美ちゃんは?」
「帰ったわ」
 妹のことは、わかるのか。
「あの子も、お仕事、たいへんなのね」
 母は、眉をしかめるようなしぐさをした。麻美は仕事などしていない。とっくにOLをやめて、いまは専業主婦だ。子供たちの夕食の支度があるからと、家に帰った。
「お母さん、何か欲しいものはない?」
 母は、首を振った。それから、首を伸ばすようにして、周囲を伺うようなしぐさをした。
「どうしたの?」
「誰か、いるのか?」
「誰もいないわよ。わたしだけ」
 そう答えると、母はベランダの方に目を向けた。ここはエアコンを点けっぱなしにしているから快適だが、外はむせ返るような暑さに違いない。35℃を超える暑さになると、ニュースの天気予報が伝えていた。
窓の外に、雲ひとつない空が広がっている。高台の斜面に建つマンションからは、視界を遮るものがなかった。
 2年前に、母は舞子が住んでいるこのマンションに越して来た。50年も連れ添った父と離婚して、それまで住んでいた湘南の家を出て、ほとんど身一つでここにやってきた。
 離婚のきっかけは、母に癌がみつかったことだったが、父と母との溝は昔から深かった。そんなに嫌なら、別れてしまえばいいのにと、舞子は何度も思った。しかし、両親が離婚することはなかった。それなのに、2年前に突然、離婚した。理由ははっきりとはわからない。
定期健診で、母に肝臓のガンが見つかった。ステージ3。手術をして、完治の確率は五分五分だと言われたらしい。
舞子たちは、あとから聞かされたが、母は病気のことを、最後まで父には告げなかった。父と離婚したのは、父の世話を受けることが耐えられなかったからでないかと思う。
「この家は売って、お金は折半。それでいいでしょう?」
 母は、娘たちもいる前で、父に向って宣言した。いつもおとなしくて、なんでも父の言いなりだった母が、そのときは別人のようにはっきりと言った。
 父は、何か言いたそうにしていたが、母の気迫に圧倒されたのか、何も言わなかった。父の細い目が、すこし色のついたメガネの奥で、さらに細まったように見えた。

「隣の部屋にいるから」
 母に声を掛けて、リビングを出た。
 舞子は、中断していたパソコンを開いて、オンライン接続した。3件ほどのコール着信があった。離席時間は、20分。上司の顔が浮かんだ。これくらいなら、許容範囲だろう。
 そう思いながら、舞子は自分のことを考えた。
 ガンで認知症の母を抱えながら、一人暮らしをしている独身女。気が付いたら、50を過ぎていた。
 美魔女とか言われるが、そういうお世辞にも、素直に喜べなくなっていた。髪も昔ほど豊かではなくなってきたし、カールを巻いても、長持ちしない。化粧の乗りが良くない日も増えた。腕が痩せて、脚の肉付きも、以前のようではなくなってきたと感じる。
 あと何年、こんな生活が続くのか。
仕事は事務系。輸出入の法令対応をやっている。それなりの専門性のある仕事ではあるが、会社の特殊事情に係わることばかりなので、転職に役立つようなノウハウが溜まっているわけでもなかった。
 いちおう、大手企業に入っているので、失業の心配はなかった。バブルの頃だったから入社できたようなもので、いまさら転職などできるとも思えない。
女ばかりの職場だった。女たちは、舞子と同年代で、家庭もちが二人、舞子のような独身女が二人。そこに、窓際のマネージャーが一人いた。
 この仕事も、あと5年もしたら、どうなってしまうかわからない。流行のAIが進化したら、舞子たちの仕事はなくなってしまうかもしれない。少なくとも、人手は減るだろう。わたしの定年まで、現状維持が続くのを祈るばかりだ。



     2
 舞子の住むマンションは、築は古いが外装はリニューアルされたばかりで、見た目は悪くなかった。駅からあるいて5分という立地も良かった。高台をすこし登った斜面に建ち、陽当たりが良いことと、見晴らしが抜群だった。
 マンションのすぐ裏手には、森が広がっている。古いお寺の敷地になっているらしく、高台の頂上付近には、小さな神社もあった。
森は、手入れのされることもなく放置されている。ひどくうっそうとしていて、昼間でも薄暗い。狸でも住んでいるのではないかと思うくらいだ。ところどころに、荒れた古い墓地が見えた。駅近だが、わりとリーズナブルな家賃なのは、そのせいかもしれなかった。
横浜の郊外にあり、急行が停車する駅だったが、駅の周囲には、気の利いたレストランなどない。昔からある古い駅ビルは、よくあるタイル張りの外装で、昭和の香りがプンプンとしている。どこにでもあるようなファーストフードのバーガーショップやカフェがあり、かたちばかりのレストランフロアには、外食チェーン店が何軒かあるだけだった。
最近になって、駅のいたるところに、この冬から駅ビルの建て替え工事が始まるという案内ポスターが貼られるようになった。30年間ありがとう。そんなことが書かれた横断幕もあった。再開発の波がやってくる。駅の周辺には、幾つもの高層マンションが建設中で、あと数年したら、この風景は一変してしまうのだろう。
電光掲示板にかかる時計を見ると、19:00になるところだった。次に来る急行だと思った。19:03着、とメッセージが送られてきた。時間には、正確な人だった。
舞子は、駅の改札を出たところに立った。ここにいれば、改札から出てくる人からは、すぐに見つけられる。
スマホのニュースを眺めていると、「不倫」「熟年離婚」というトピックのニュースやコラムが出てくる。そんな記事ばかりを読んでいるせいか、アルゴリズムが勝手に働く。しかし、ついそれをクリックしてしまう。
「社内不倫の代償」、「不倫の恋でわたしが得たもの」、「熟年離婚をたくらむ妻たちの思い」・・・。そんなキャッチが、どんなに多いことか。読んでみれば、どれもありきたりのことが書いてあるだけだ。ルポルタージュと言っているが、どこまで本当のことかも知れないような、いい加減な記事ばかりだった。
 男と女は、いつまで男と女でいられるのだろうか。
 舞衣子は、さほど豊かでもない恋愛経験について考えた。純愛や結婚について、これまであまり深く考えたこともなかった。普通にやっていたら、いずれ収まるところに収まると思っていた。その結果が、いまの通りだ。
 別の記事が目に留まった。「還暦でこの美しさは神」、「奇跡のアラ還」。昔トレンディドラマで一世を風靡した女優が、普段着で買い物をしているスナップだった。たしかに、きれいに歳を取っている人もいる。
年をとっても、醜くはなりたくないと思ってきた。肌や髪のケアは欠かさずに、いつもヒールを履いて、ちょっとした近所の買い物のときも、背筋を伸ばして歩いた。背が低いので、なおさら意識した。そういう姿を、恰好いいと言ってくれる人もいた。
 脚のことは、よく褒められた。だからというわけではないが、スカートが好きで、ひらひらと華やかにフリルのついたものが、とくに好きだった。それを、男の人は、たいていほめてくれた。

改札に人があふれてきた。急行電車がついたようだ。
アスファルトの床を踏みしめる無数の音が錯綜して、酔ったような気分になる。やがて、こちらに向かって真っすぐに歩いてくる男の姿が目に入ってきた。
片島直紀は、週に2度か3度、多いときにはもっとだが、この駅にやってくる。今週は、月曜火曜と来て、水曜は来なかったが、これで3回目になる。
「おつかれさま」
 舞子が声を掛けると、直紀が白い歯を見せた。
大男というほどではないが、それなりに上背があり、体格はまずまずだ。お腹は年相応にでているが、彫りの深い顔立ちはなかなか見栄えが良くて、二重の目が大きく見開いているのと、薄い唇のかたちが良かった。
 舞子は、持っていたスマホをバックにしまって、男に近寄った。男は、舞子の腰に手を回すと、その手をゆっくりとお尻のあたりに置いて、指先を素早く動かした。
「ダメよ」
 舞子はそう言って、男の手を払いのけた。お決まりのようにこんなことをする。バカみたいだと思いながら、彼のそういう、子供みたいに戯れるところが嫌ではなかった。
 人との距離を縮めるのかうまい人だった。普通なら、絶対に親しくなる人ではない。けれど、いつの間にかそうなってしまったのは、やはりこの人の、人の懐に入るうまさなのだと思う。
 駅ビルのレストランフロアにある、うどん専門店に入った。うどんの専門店ではあったが、天ぷらやフライ、焼き鳥などがあり、居酒屋みたいなものだった。置いてある日本酒の種類も多かった。
 舞子と直紀が暖簾をくぐると、若そうに見えるが禿げ上がった店長が、愛想よく迎えてくれた。たいていそこへ案内される4人掛けのテーブルにつくと、何も言わないうちから生ビールが2つ運ばれてくる。どれだけここに来ているかということが、それだけでもわかる。
 広くはない店内だったが、清潔感があり、居心地が良かった。壁には、大きな日本画が掛けられている。江の島だろうか。塔のある小島を囲むようにして、島に打ち寄せる波が描かれていた。かつて、家族でよく行ったが、最近は行くこともない。
ビールを飲み、天ぷらや焼き鳥をつまみ、日本酒ももらって、最後にうどんか丼ものを食べる。いつものパターンだった。
直紀が、出張のお土産だと言って、菓子の包みをくれた。近くの百貨店でも売っているような老舗店のものだった。
「お母さんの具合はどう?」
 直紀にとっては、挨拶のようなものなのだろうが、そういう気遣いが紳士だと思う。
「相変わらずよ」
「自宅介護は、苦労が多いと聞くから」
 舞子は小さくうなづいた。他人には、説明してもわからないことが多い。でも、こうして気にしてくれる人がいるだけでも、素直に嬉しい。かたちばかりの同情なんていらない、という人もいる。それもわかる。けれど、共感してもらえることは嬉しい。
「徘徊するとかではないから、まだいいのよ。でも、最近では食が細くなって、ゼリーみたいなものしか食べたがらない」
「そう言っていたね。そのお菓子、ゼリーにしたよ」
「ありがとう、助かるわ」
 舞子は、長い息をはいた。乾いた喉に、ビールがよく染みた。
「あなたは幸せよ、ご両親とも健在で」
「もうだいぶ弱っているけれど」
「会いに行かないの?」
 直紀は、そうだな、とつぶやきながら、すこしだけ遠い目をつくる。
 かつて直紀からは、自分が両親の愛情をふんだんに受けて育ったという話を聞かされた。絵にかいたような円満な家庭で、つまらないとも言っていた。昔から両親が反目しあっているのを見てきた舞子は、それを聞いて羨ましいと思った。

 たいていは、1、2時間ほど食事をして、直紀は帰っていく。これだけのために、よくここまでやってくるなと思う。ありがたいと思いながら、わたしはそれに甘えている。
舞子の毎日は、家から一歩も出ないオンラインでの仕事と、母の介護のほかに、何もない。直紀が来てくれるから、化粧もするし、洋服にも気を配る。それで、救われていると思う。
 店を出ると、エレベーターホールでキスをされた。直紀の口から、ビールと日本酒の味がした。何度重ねたか知れない唇。
「明日は、すこし早く出られるか?」
 直紀に言われて、舞子はすこし考えた。最近は、会ってもこうして食事をして飲んで、キスをするくらいだ。直紀の肌が恋しいと思うこともあった。
「たぶん、大丈夫」
「だったら、そこのホテルをとっておく」
 直紀は笑みを浮かべた。駅裏に、小さなビジネスホテルがある。目にも留まらないような地味なホテルを、ラブホテル代わりに使ってみようと言い出したのは直紀だった。実際ここなら、移動の時間はいらないし、もし母に何かあっても、すぐに帰ることができる。
「あれ持ってきてよ」
 直紀が、いたずらっぽく言う。なんのことか、すぐに分かった。
「ほんとうに、あんなものを使うの?」
「見たいんだ」
 いつか、横浜でラブホテルに入ったときに、景品でもらったものだった。全身網タイツで、首と股間のあたりだけが、空いている。直紀は家に持って帰れないからと言って、舞子が預かっている。
 直紀は、ニヤニヤとしている。遊び心とも、ただの性欲ともわからない。
直紀との時間を思う。10年。いや、もっと長い。
 この人と、こんなにも長く付き合うことになるとは、舞子は思っていなかった。パンデミックのときも、会い続けた。ホテルで会っていたので、かえって都合がよかったとも言えた。
この人との延長に見えるものは何だろう。わたしには、結局、直紀しかいない。それが、哀しいとは思わないが、この上ない幸せなことだとも思えなかった。
 直紀には、家庭がある。
 それを壊すつもりはなかった。直紀も、壊すつもりはないだろう。わたしたちには、未来などない。そんなことは、最初からわかっている。
 人に後ろ指をさされないように、迷惑を掛けないように、まっとうに生きて歳をとりたいと思ってきた。その気持ちは、いまでも変わらない。それなのに、わたしはもう、こんなところまで来てしまった。舞子はそこまで考えて、首を振った。考えても仕方がない。
 目をあげると、直紀を乗せた急行列車が、ゆっくりとホームから離れていく。



     3
 その日は、月に一度出社しなければならない日だったので、朝から、麻美に来てもらった。
 出社といっても、役所に提出する書類に上司のサインをもらい、それをコピーして郵送するだけだ。このデジタルの時代に手書きのサインを求めるほど、日本の役所は遅れている。コピーしたものを送るだから、いくらだって改ざんできる。そんなことを考えながら、この作業をしてきた。
 指をあちこち切りながら、大量の輸出書類のコピーをこなした。早く帰ってくるつもりだったが、思いのほか手間取ってしまった。マンションに帰ると、リビングに麻美がいて、母に何か食べさせていた。
「これ買ってきたのよ、お母さん、喜んでこんなに」
 麻美はそう言うと、中華街にある有名店の袋を見せた。中身は、月餅のようだ。
「喉に詰まらないかしら、誤嚥したら大変よ」
 月餅は、母の好物だった。塗り固めたような餡子の濃厚さが、舞子はあまり得意ではない。美味しいとは思うが、一口で胸がいっぱいになる。母は、昔から月餅だけはよく食べた。食が細いくせに、手のひらほどもある月餅を、ひとりで平らげる。
「大丈夫よ、こうして傍で見ているんだから。美味しいものを食べられなくなったら、哀しいじゃない」
 それもそうだと思った。麻美の、こういう現実的な割り切りが、ときに羨ましいと思う。彼女は、これまでもそうやって生きてきた。細かいことはこだわらない。舞子が、ときに慎重になって前に進めなくなるのとは対照的に、麻美はなんとかなると言って、どんどん進んでいった。
 大学受験に失敗したときも、さっさと方向転換して、海外の大学へ行くことを決めてしまった。アメリカの大学を卒業し、帰国して外資系の会社に就職した。キャリアウーマンをやるのかなと思っていたら、職場の同僚と電撃結婚して、会社をやめてしまった。いまは、専業主婦をしている。女にとって、これほど楽な職業はないわ。それが麻美の口ぐせだった。
「お姉さん、ひとりでだいじょうぶ? そろそろ、介護ケアの人を頼んだらいいのに」
 使えるものは使った方が良いと言うのが、麻美の考えだった。
「知らない人が家に入るのを嫌がるのよ」
 そう言うと、麻美は眉をひそめた。
「そんなこと言ったって、これから何年こんな状態が続くかわからないのよ。自分のことだって、考えないと」
 現実的であるし、舞子への思いやりとも受け取れたが、母を引き取る気のない妹の言い分だった。
「そうね、・・・」
「仕事だって、たいへんでしょう?」
 舞子の仕事は、ほとんどテレワークでやれる。新型ウィルスが蔓延したときに、会社がワークスタイルを大転換して、原則が在宅勤務になった。オフィスも解約して大幅に縮小した。それが、いまも続いている。そのお陰で、舞子はこうして母の面倒をみることができる。
それはある意味、ありがたいことではあったが、逆に言うと、人に任せずに自分でやれてしまうので、舞子には逃げ道がなくなった。
 そのとき、おとなしくしていた母が、急にむせ込んだ。
「だいじょうぶ?」
 苦しそうに身もだえする。咳込もうとしているのだが、うまく咳ができないようだ。顔が赤くなり、変色していく。
「姉さん、救急車っ」
 麻美が声を張り上げた。
「看護師さんの方がいいわ」
 舞子は、スマホととって、掛かりつけの訪問看護医療所に電話をかけた。
母の背中をさすったり、水を飲ませたりしているうちに、看護師が駆け付けてくれた。
歯科にあるような吸引器をつかって、喉に詰まったものを取り除くと、母の様子は落ち着いた。
「お菓子は、気をつけてください」
 看護師に嫌味っぽく言われて、麻美は嫌そうな顔をした。
「だいぶ弱っているから、病院で点滴をしたほうがいいでしょう」
 母の脈をとっていた看護師が言う。いつも来てくれる、ベテラン女性だった。化粧っ気のない角ばった顔には、まるで愛想というものがないが、やることは的確だった。ときどき来る若い担当医よりも、よほど頼りになる。
「でも、どうやって連れて行ったらいいのか」
「救急車を呼んでしまいましょう」
 そう言われて、舞子は119番をした。すぐにサイレンの音が聞こえてきた。
 隊員の一人に、看護師が事情を伝えると、彼らも要領を得たもので、ストレッチャーに母を横たえると、あっという間に救急車に乗せてしまった。付き添いは一人と言われて、舞子が同乗した。
「すこし胸を見せてもらいますよ」
 救急隊員が手を伸ばそうとすると、ぐったりとしていた母が、すごい形相で睨みつけた。
「ダメよ」
「すこしだけ、胸の音を聞かせてください」
 男の隊員は、笑顔をつくって優しくそう言った。
「ダメよ、いくらババぁだからって、男の人はダメ」
 母は、頑なだった。
「お母さん、困らせないで」
 舞子がそう言うと、母は眉根を寄せて横を向いた。
「目をつぶってやって」
「わかりました」
 隊員は、ゆっくりと母のシャツをまくり上げて、向こうを向きながら、母の胸に聴診器を当てた。
「昔は、もっと張っていたのよ」
 母は、恥ずかしそうにつぶやいた。
 母らしいと思った。母は、良くも悪くも、自分を曲げない人だった。その姿を見ていると、自分もこうなのかと思う。
 これを、わがままというのだろうか。
ふと、ジャイアン、という言葉が思い浮かんだ。ドラえもんに出てくる、ガキ大将のジャイアン。わがままの典型。
 かつて舞子は、ジャイアンと呼ばれる男と付き合っていたことがある。付き合っていたのかどうか、でもあれは、付き合っていたというのが正しいのだろう。高校生の頃だった。
 舞子は、小さいころから、小柄だった。幼稚園や小学校では、たいていは背の順で並ぶので、舞子はいつも一番前。前へ倣えをするときには、みんなのように両手を伸ばすのではなくて、手を腰に当てて三角形をつくる。
 そういう舞子のことを、かわいいと言ってくれる人もいた。
 彼は、背も高くて体格も良く、クラスでもジャイアンのような存在の男子だった。舞子はいつも、彼のことを見上げるようにして見ていた。だから、彼の顔は、下顎のあたりからの記憶しかない。
 好きとか付き合ってとか、そういう言葉はなかったが、ジャイアンとはいつも一緒だった。ジャイアンの取り巻きの男の子たちと混じって、舞子も行動した。周りは、舞子とジャイアンは付き合っていると思っていたのだと思う。
実際ジャイアンは、舞子のことを、彼女のように扱った。そして、すごく気を遣ってくれた。舞子の嫌がることは、絶対にしなかった。高校3年のとき、彼の部屋で初めてのセックスをした。いつかそういうことになるのだと思っていたので、抵抗はなかった。ジャイアンが、舞子のことを好きなのはわかっていたし、舞子も彼のことが嫌いではなかった。他に好きな人がいるわけでもなかった。けれど、ジャイアンに守られているしずかちゃん、という思いもすこしあって、あまり気持ちよくもなかった。
高校を卒業する頃だったと思う。二人で雑踏を歩いていたら、すれ違いざまに肩がぶつかって、その相手から舌打ちをされた。
痛い、と思ってうずくまって、隣を見たらジャイアンがいなかった。すこし先に目をやると、サラリーマン風の痩せた男が、ジャイアンに襟をつかまれて、吊るされていた。なぐりかかろうとする彼に、舞子は追いすがった。痩せた男は、何度もペコペコして去った。周囲には人だかりができていて、舞子は恥ずかしくてたまらなかった。
あのとき、わたしの心は複雑だった。自分が特別な存在になりたいという気持ち、ジャイアンがわたしのことを大切にしてくれて、わたしをお姫様にしてくれる。そういう思いがあった半面で、そんなことでわたしは嬉しいのだろうかと自問した。あのサラリーマン風の人が、もし屈強なレスラーのような男だったら、それでも彼は同じことをしてくれたのかと思うと、何かが違うと思った。
あのとき、何故か父と妹のことを思った。わたしにではなく、麻美にいつも優しかった父。幼心に、父の態度に、舞子の心は傷ついた。ジャイアンに身を任せていたのは、そんなこともあったせいか。
けれど、わたしが欲しいのは、そんなものではない。ジャイアンに守られることとは違うと、はっきりと悟った。ただ守ってほしいだけではない。かといって、甘ったれた同情もいらない。わたしは、北極星を見せてくれる人が欲しかった。
それが、直紀なのかどうか。いまでもわからない。けれど、ジャイアンと別れて、それからも男の人と付き合ったが、直紀に感じるようなものを感じさせてくれる男は、これまでに一人もいなかった。

 点滴をうってもらったら、母は見違えるように回復した。担当医師からは、だいぶ体力が落ちているから、あと数日入院して栄養をとった方が良いと言われた。しかし、母は帰りたがった。
 結局、母には根負けした。介護タクシーを手配してもらい、夜半にマンションに戻ってきた。
 麻美の姿はなかった。母を連れて帰宅することはメッセージで伝えておいたが、家に帰ったのだろう。家庭のある麻美に、過度な期待はできない。
 母をベッドに横たわらせたとき、枕元にある封筒を見た。壱万円札の束が入っていて、買い物はここからするようにと、母がいつも置いているものだ。
「お母さん?」
 薄目を開けていると母と、目が合った。焦点が定まっていない。
「あの子も、いろいろとお金がかかるのよ」
 こういうところは鋭い。
舞子が、封筒の中を確認したことに気づいている。麻美に小遣いを渡したのだろう。封筒の厚みから、5万か10万か。母のお金なのだから、母の自由にしたらいい。けれど、母はすこし恥ずかしがっているようにも見えた。



     4
 9月の半ばを過ぎたというのに、暑さは和らぐ気配がなかった。ほどよく雲が出てきたと思ったら、台風や熱帯低気圧が発生して、災害級の大雨を降らせたりした。
 その日は、朝からよく晴れて、祭りばやしが聞こえてきた。高台にある神社で、秋まつりがあるらしかった。マンションのエントランスに、案内のポスターが張られていたのを思い出す。
 3連休だった。連休といっても、舞子にどこかに出かける予定があるわけではない。母を置いて行けないというのもあるが、母がここへ来る前だって同じようなものだった。直紀と会えるのは、平日に限られているから、週末や休日はひとりだった。
 昼前に、母をお風呂に入れた。髪を丁寧に洗い、足の指間や股間も丁寧に洗った。自分が母親のことを、こんなふうに洗うことがあるなんて、考えてもいないことだった。母が、嬉しそうな顔をするのが嬉しい。きれい好きの人だった。
脚を洗いながら、きれいな脚だと思った。舞子は、母の脚が好きだった。若いころの母は、もっと足首がしまっていて、長いふくらはぎがすっとしていて、太腿にはしっかりと肉がついていた。
いまは、ずいぶんと痩せて、筋張っている。お湯を流していても、肌の張りがなくなっていると感じるのは寂しいことだった。それでも、ふくらはぎのあたりのほっそりとして肉付きには、なんとも言えない色気があり、股から腰にかけての三角形の隙間は、若い女性モデルのようでもあった。
母の脚を見ながら、自分の脚と似ていると感じる。母がこの年齢にもなっても、こんな脚でいられるなら、わたしも大丈夫かもしれない。自分の30年後の脚がここにあるのだと思うと、愛おしさがこみあげてきた。
直紀は、舞子の脚がとりわけ好きだった。いつも脚に触れて、吸ったり舐めたり、いつまでも止めない。たぶん、脚フェチなのだと思う。
 そんなふうに、わたしの肉体に執着してくれる直紀のことが、いまの舞子には救いにも感じられる。それがなかったら、わたしには本当に何もない。直紀の偏執的なこだわりに、わたしの心は依存している。最近になって、そう思うことがある。
女としての身だしなみには気を付けてきたつもり。それは、母に培われてきたことだ。母は、昔から、身だしなみには気を遣う、おしゃれな人だった。小学校の参観日で、きれいな母が自慢だった。実際に、母は周りの母親たちと比べても、きれいだった。身だしなみだけではなかった。小柄だがスタイルがよくて、長い髪も黒々として艶があり、何よりも、大きな目が人目を引いた。
 しかし、母は曲がったことが嫌いな人だった。悪いこと、常識やモラルに反することには、厳しかった。そういう性格も合わなかったのか、父は母に優しくなかった。あまり家にも帰ってこなかった。仕事で遠地に行くことが多いと、母から説明されていたが、それだけではないと、幼心に思ったものだ。
 父は、たまに家にいても、機嫌が悪かった。普段はおとなしいくせに、切れると粗暴に振舞う父のことが、舞子は好きではなかった。そんな父に、母は黙って耐えていた。母を見ていて、母のような人生を送りたくないと思った。
 その母が、数年前から、急に父に反抗するようになった。あの頃は、もうガンが発症していたのかもしれない。病気のことを自覚して、それで母は、父への態度を変えたのだろうか。
 離婚したのは、しばらくしてからだった。それまで住んでいた家を処分するという話になり、母は身の回りのものだけをまとめて、舞子のところにやってきた。マンションは、1LDKだったので、母の部屋はつくれず、リビングにベッドを入れて、そこで寝起きしてもらうことにした。いずれ家を売ったら、そのお金で別の部屋を借りて移るつもりで。
 母が引っ越してきて、半年くらいしたときだった。舞子が買い物から帰ってくると、母がベッドにちょこんと正座していた。
「どうしたの?」
 母の様子が、どこか違っていた。舞子の問いに、母は不思議なものを見るような目をした。
「どちらさま?」
 舞子は、背筋が寒くなった。母は、ふざけているようには見えなかった。認知症という言葉が、脳裏を巡った。それまでも、ときどき会話がかみ合わないことは、なんとなく感じていた。
 いまでは、ようやく慣れてきたが、母がわたしのことをわからなくなってしまうのは辛い。見慣れていた母の目に映っている自分が、自分でないように思えてくる。こんな哀しい病はないと、舞子は思った。

「賑やかね」
 母は、ベランダの窓の向こうに目をやった。しかし、ここからは、何も見えない。
「高台の神社で、秋まつりをやっているのよ」
 舞子がサッシをすこし開けると、太鼓や囃子の音が大きくなった。
 舞子たち家族4人で住んでいた家も、高台の斜面にあった。ひな壇のように造成された無数の建売住宅のひとつだった。そこからは、太平洋が見下ろせて、見晴らしはどこまでも続いていた。駅から遠くて、バスに乗らなければならないところだったが、舞子はあの家が好きだった。
 高台の頂には、古い神社があった。神社には、お寺が隣り合わせになっていた。神仏習合。小学校の社会科で習った言葉。そういう名残がここにもあるのだと、幼心に思ったものだった。
 神社へと向かう坂があり、舞子は母に連れられて、そこをよく登った。坂は、薬師坂と呼ばれていた。高台のお寺には、薬師様が祀られていたのだろう。いまになって、そんなことを思った。
「行ってみたいわ」
 ベランダの向こうを、耳を澄ませるようにして見つめている。
「無理よ」
 舞子はそう言いながら、サッシを閉めた。余計なことをしてしまったと後悔した。
 しかし、母は諦める様子もなく、何度も繰り返して同じことを言った。どうしても、あのお祭りに行くと言って聞かない。母が、そう言いだすと、もう人の言うことは聞かない。最後には、口を閉ざして何日もだまりこんでしまう。昔から、母にはそういうところがあった。
 ケアマネージャーに電話で相談をすると、すぐに車いすを手配しましょうと言ってくれた。希望は、なるべく叶えてあげるのがいいともアドバイスされた。
 1時間ほどして届けられた車いすに母を乗せると、マンションを出た。裏の神社に向かう小道を見つけたのは、ここに住むようになって、ハザードマップを見ているときだった。まだ歩いたことはなかったが、マンションの裏庭から、続いている道があるようだ。その道が、山頂の人たちの生活道みたいだ。車が一台やっと通れるほどで、急勾配だが、舗装されているので車いすは押しやすかった。
 秋祭りは、想像していたよりも本格的だった。
参道には、どこから集まったのか、かなりの数の露店が立ち並んでいる。綿菓子や金魚すくい、チョコレートバナナ、ケバブの店などもあった。タイムスリップしたような風景。
舞子は、不揃いな石畳を、注意しながら車いすを押して進んだ。大抵の人は、舞子と母に道を譲ってくれた。
神楽では、太鼓や囃子が並び、ひっきりなしに音を奏でている。能の衣装のようなものをまとった神人の仮面をかぶった人たちが、調子を合わせて踊っているのが見えた。
「懐かしいわ」
 母は目を輝かせた。あっちへ行って、こっちへ行ってと、境内を隅々まで歩かされた。
「黄金バット」
 余興のショーが始まったらしく、子供たちが歓声をあげていた。
「あれは、仮面ライダーよ」
 舞子の言葉が届いたのかどうか、母は神楽の舞台で、ショッカーと戦うライダーを凝視していた。それから、何かに気づいたように辺りを見回すと、誰かを探すような目をした。
「どうしたの?」
 母は、首を伸ばすように周囲を見回していた。その目は、何かを待ち焦がれているようで、そんな母の目を見たのは初めてだった。
「お祭りの日は特別」
 母の言葉が、喧騒の中でかき消される。
大きな目が、細まってくる。ゆっくりと、陽が陰っていく。
母は、あの町の高台にあった神社のことを思い出しているのか。母に連れられて、麻美と祭りに行った。ふと、そこで母とはぐれたことを思い出した。どこにも母はいなくて、泣きながら麻美と家に帰ったときのこと。あのときの寂しさは忘れない。
舞子は、母とまたはぐれてしまわないかと感じると、急に胸が苦しくなってきた。母を見ると、きちんと梳かされて髪が、風に揺れていた。



     5
「暗くしてよ」
自分の声が、掠れていた。ききすぎたエアコンのせいなのか、羞恥のせいなのか。
思っていたよりも、着心地は悪くないし、わりと温かい。けれど、想像をはるかに超える恥ずかしさだった。
「似合うよ」
 網タイツは、舞子の全身にぴったりと張り付いていた。覆われていないのは、手首から先の両手と、首から上だけだった。それと、股間に細長い穴がある。
いわゆるストッキングとは、全然違う感覚だった。全身がひとつにつながってしまったような不思議な感覚だった。自由なのに、自由でない。脚も手も腰も、どこを触られても、共鳴するように全身が反応してしまう。敏感になっている自分がいちばん恥ずかしかった。
「ねえ、暗くして」
 舞子はもう一度言った。
「すこしだけ、いいか」
 舞子の言葉に応えず、直紀はどこから持ってきたのか、ロープで舞子を縛り始めた。手芸で使うような、柔らかい紐だったが、異常なほど太い。こんなものを、どこから手に入れたのか。手首と足首がくくられ、胸のあたりもぐるぐる巻きにされた。まったく動けなくなった。
 自由のない感覚に、締め付けられる感覚が加わる。頭が変になりそうだった。直紀が、全身をなめているのがわかる。足の指先まで。もう目を開けてはいられなかった。
「きれいだ」
 直紀がうっとりとした言いかたをする。
 人は誰かに認めてもらいたいのだと、どこかに書いてあった。
 いったいわたしは、何を認めてもらいたいのか。きれいだと直紀に褒められて、それはそれで嬉しい。でも、それだけなのか。それだけで、わたしはここまで来てしまったのか。
 あのころのことを考えると、霧の中に迷い込んでしまったように、よくわからなくなってくる。
 出会ったころの直紀には、熱量があった。見た目もタイプだったが、それだけではない。すこし粗っぽい性格も、世の中をハスに見るようなところも、舞子とあっていた。美意識も合っていた。美術館や、古い建物などへ、舞子を連れていってくれた。そういうことをしてくれる男の人と、これまで知り合ったことがなかった。
 同じものを見て、愛でることが、こんなにも幸福なことなのかと、初めて知った。お酒も全然飲めなかったのに、ワインや日本酒の味も、わかるようになった。
 魚を食べないという直紀の偏食にも慣れた。知らないうちに、舞子も魚を食べなくなっていた。しかし直紀はグルメで、美味しいものには、お金に糸目をつけなかった。女の前で見栄を張っているだけかもしれなかったが、そういうところが好きだった。
 出会って1年ほどは、坂道をブレーキの利かなくなった車で走っているようだった。ほんとうに、そういう表現があっていた。あのとき、こんなことをしていたら、わたしは地獄に落ちるに違いないと思った。
 でも、男の人に抱かれて、こんなにも気持ちがいいものだとは知らなかった。それを教えてくれたのは、直紀だった。肌や肉体の相性もある。でも、それだけでないこともわかっていた。わたしの隠された性癖が、直紀に見抜かれたからだった。
 身体が、何度も痙攣する。下半身が、勝手に波打つ。そのたびに、直紀は嬉しそうな顔をした。きっとわたしは、間抜けな顔をしているのだろう。これでは直紀の思うままだ。そう思いながら、身体が男の動きを感じていた。
 わたしは、何?わたしの生とは、何? 根源的な問いが聞こえる。
 仕事をして、30年になる。あと数年したら定年になる。そのあとは? 退職金をもらって、わずかな貯金と合わせて残りの人生を送る。母も、いずれはいなくなる。そうなったら、舞子はひとりだ。
母には、わたしのように介護をしてくれる娘がいるが、わたしには、そんな存在はない。わたしは、ひとりになって、どうなってしまうのだろう。ネットの記事に、「おひとりさま難民」という言葉を見つけた。わたしが、いつかそうならないという保証はない。むしろ、そうなることの方が、現実的にあり得ることだった。
そしてわたしは、自分に何もないことを知りながら、それでも、直紀に求められていることを頼りにしながら、こうして毎日を生きている。
そこまで考えて、やはり、いまと未来がつながらないと思った。
 彼はきっと、奥さんと暮らす。子供たちが独立して、年金と貯えで、どこにでもあるような夫婦で老後を送るのに違いない。子供たちが孫でも連れて、お爺さんになった直紀を訪ねてくる。子供は嫌いだと言っていたくせに。
 それはすべて、舞子の空想だった。
 舞子には、直紀の本当の気持ちが、わかるようでわからない。直紀は優しい。できることは何でもしてくれる。けれど、それはすべて、できること、でしかない。彼の愛情を、信じることができる。
けれど、それはいまという時間の中にいる直紀だった。いまは、いまでしかない。この状態が、いつまで続くかわからない。この先に、何があるのか、二人がどうなってしまうのか、何もわからない。口にはしないが、お互いに思っていることだ。口にしたら終わってしまう。だから口にしない。
 直紀は、舞子の身体に執着して、肉欲におぼれているけれど、そんな性欲だって、いつまで続くのか。直紀が男として機能しなくなったら、わたしたちの関係はどうなってしまうのか。そもそも、わたしに興味を感じなくなって、もっと若い女ができるかもしれない。そうしたら、私は捨てられる。
 いつか、直紀に本音を聞いてみたいと思う。本当のところは、どう思っているの? わたしと、いつまでもこうしていられると思っているの? 奥さんと別れて、わたしと暮らす気持ちはあるの?
わたしの問いに、彼はなんと答えるだろう。
 わからないと言うのだろうか。そうしたいけれど、いまじゃないというだろうか。もし妻に不幸があったら、そういうことになると言うだろうか。それとも、そんなことは考えたくないと、あっさり言うか。いずれにしても、そこに答えがあるとは思えなかった。



     6
 その日、母の身体を介護用のウェットタオルで拭いているとき、脚に小さな斑点があるのを見つけた。初めは気にならなかったが、タオルで何度かなぞっているうちに、次第にシミが広がってくるような気がしてきた。かすかに、赤味も帯びていた。
 舞子の様子に気づいたのか、母が声をあげた。
「いやだわ」
 まだら模様になっているシミが、妙に赤い。抗がん剤の副作用かもしれない。
 母は、身を起こすようにして、脚に点在する斑点に触れようとした。
「だいじょうぶよ、お母さん」
 舞子は、母を落ち着かせようとした。
「いやよ、こんなのみっともないわ」
 母は、半ば叫ぶようにして、脚の肌をかきむしろうとした。まるで、そこに張り付いた虫でもはがすように血相を変える。爪にかきむしらせた肌は、ミミズ腫れになり、白い肌に、血が浮き出た。
母の指の爪は、細く月形で、とても形が良いが、それが最近になって黒くなってきた。医師の話では、抗がん剤の副作用で、色素沈着がおきているらしい。その爪には、白いマニュキュアが塗られている。先日、舞子が塗ってあげたものだ。母はときどき嬉しそうに、その爪を眺めていた。
 母の体調は、日によって差があった。気分の良いときは、わりとよく喋った。可笑しそうに、声を立てて笑うこともあった。昔の話なども、よく口にした。機嫌のいいときの母は、舞子や麻美が小さいころの話をすることが多かった。
その日は、食事の支度をしている舞子に、待ちきれないように話しかけてきた。
「舞子は、いい娘さんねって近所の人たちに言われていたのよ。器量が良くて、よくお手伝いをして、家の前の道を箒ではいていたりしていたからね」
そんなこともあったかと、懐かしく思った。今日の舞子は、小林さんでも松本さんでもない。
 不意に、母が声を潜めた。何かと思って母を見ると、泣いていた。
「どうしたの?」
「あなたに、話しておかなければならないことがあるのよ」
舞子は、とっさに母の目の色を伺った。とくに、おかしなところはない。
「わたしには、ずっと恋人がいたのよ」
 母は、すこし照れたように切り出した。
「何それ?」
 舞子は、母がおかしくなってしまったのかと思った。しかし、母は真顔だった。
「わたしは、正常よ」
 たしかに、そう見えた。
「その人とは、お父さんと一緒になる前から付き合っていたの。でも、その人には、奥さんがいたわ。それでも、好きな気持ちは止められなかった。どんなに別れようと思っても、できなかった。私たちは、結婚してからも、内緒で付き合ったのよ。滅多に会うことはできなかったけれど、月に1度くらい、なんとかお互いの都合をつけて、会ったのよ。このことは、一生秘密にしておくつもりだった」
 舞子には、信じられないことだった。この母が、そんなことをしていたなんて。
「その人は、いまどうしているの?」
「亡くなったわ。2年前」
 母の目に、かすかに光るものがあった。
「それって、お父さんと離婚したころね」
 母は、頷いた。
「わたしたちは、約束していたのよ。お互いの伴侶がいなくなったら、いつか一緒になろうって。でも、それは果たせなかった。あの人は、もう自分の死期がわかって、いよいよっていうときに、離婚したの。それを私に知らせてきた。だから、わたしも離婚したのよ。せめて死ぬときは、一人身でいようと」
母の言葉がどうしても信じられない。
「人の生は、わからないわ」
 母はそう言って、黙ってしまった。しかし、母はどうして、いまさらそんなことを、わたしに告げたのだろう。
母の言葉を耳にしながら、考えることといえば、直紀のことだった。いま、舞子は母と同じことをしている。いつか一緒になろうという約束はしていないが、もしかしたら、そんな未来があるかもしれないと、心のどこかで考えることはある。
「手紙でも、ハンカチでも、何か形見になるようなものを残しておけばよかった」
 母はそう言って目を細めた。周囲に気づかれないように、細心の注意を払いながら続けてきた関係。
 ふと、秋祭りの日に、母とはぐれたことを思い出す。あのとき母は、何をしていたのだろう。
 絡まっていた糸が、解けて手繰られるように、断片的な記憶がよみがえる。秋祭りの夜のことだけではなかった。母に連れられて、まだ健在だった祖母の家によく行ったが、母は子供たちを置いて、学生時代の友人と出かけることがあった。そういうことも、いま思うと、全然違ったものに見えてきた。

その晩、珍しく父から電話がかかってきた。
「とくに用事があるわけではない」
 父は、静かに言った。いつもの、小さな声だった。気持ちが激高すると、金切り声を出す父だが、普段はおとなしい人だった。その内弁慶さが、舞子は嫌だった。ときどき、母の様子を伝えていたが、この2か月くらいは、連絡をとっていなかった。離婚したとはいえ、長年連れ添った母のことがやはり気になるのだろう。
「この前、再検査したのよ。そしたら、転移が見つかって」
電話の向こうで父が息を呑むのがわかった。定期検査で、陽性がでた。肺に転移していた。肺が一番転移しやすいと言われていた。
「それで、どうする?」
「わからない。いまは投薬で様子を見ているけれど、再手術をするかどうか、迷っているわ」
 認知症が進行していることは、父には伝えていない。
「見舞いに行きたいが、・・・」
 舞子は父の言葉を遮った。
「やめておいた方がいいわ」
 父は、そうか、と言ったきりだった。
「そっちは、どうなの?」
 電話の向こうに、もう一人の存在を感じた。
「相変わらずだ」
「食事とかは?」
 舞子が問うと、すこしばかりの沈黙があった。
「山田さんが、いろいろとやってくれる」
 山田というのは、昔から父の会社で経理をしている女性だった。その人と父ができていると知ったのは、最近になってのことだった。いまでは、隠しもしないところをみると、一緒に暮らしているのだろう。
「一緒になるの?」
「そんな歳ではないよ」
「歳なんて関係ないでしょう、彼女が可哀そうよ」
 父は、何も言わなかった。
「お父さん?」
「なんだ?」
「聞きたいことがあるの」
 父が、身構えるのがわかった。舞子は、口にしようとした言葉を飲み込んだ。
「今度でいいわ」
 そこで、電話は切れた。



     7
 ときどき顔を出していた麻美が、最近は頻繁に母の様子を見にくるようになった。母は相変わらずで、痛みは薬で抑えられているものの、認知症の症状は良くはならず、むしろ日々悪化しているようにも見えた。ベッドで失禁してしまったときには、舞子もどうしたらいいのかわからなかった。
 看護師に、大人用おむつを勧められたが、舞子は思い切りがつかなかった。しかし、2回目に同じことがあって、母におむつをはかせた。嫌がると思ったが、意外にも黙ってつけてくれた。その様子が、舞子には哀しかった。
「ねえ、あの家はまだ売らないの?」
 唐突に、麻美が言い出した。
「どうなっているのかしら。すこし前までは不動産から連絡が来ていたみたいだけれど」
「はやく売ってしまいましょうよ」
 麻美は前のめりに言う。
「どうしたの? 急にそんなこと」
 舞子がそう言うと、麻美は声を落とした。
「この前、久しぶりに行ってみたのよ。そうしたら、すごく荒れていて、庭は雑草でぼうぼうだっし、家の中もガラスが割れて、枯葉や埃がたくさん。ちょっと気味悪かった」
 海の見える高台にある一軒家だった。周囲は分譲住宅で、昭和の終わりころに、都心へのベッドタウンとして開発された。しかし、家財道具も一切持ち出して、誰も住んでいないあの家に、麻美はどうして行ったのだろう。
「あの辺りに、昔の総理大臣とかの屋敷がたくさんあったでしょう。覚えている?」
 舞子は頷いた。かつて別荘地として栄えたらしく、伊藤博文とか、山県有朋とか、明治の元勲たちが別宅を構えていたらしい。有名な小説家や画家たちも、多く住んでいた。いまは、すっかりさびれてしまい、海とロングビーチがあるくらいだった。
「あの周辺の古い建物とかを整備して、歴史地区として公開しているのよ」
「それで、行ったの?」
 麻美は頷いた。
「ねえ、売りましょうよ。もともとそうするつもりであの家をでたのだから。お母さんも異論ないでしょう」
「でも、そんなに急がなくても。それに、お父さんにも聞かないと」
「お父さんはいいのよ。お母さんの病気がわかったとき、家は放棄するって言ったのだから」
確かに、そういう約束になっている。
「家なんて、どんどん痛んでしまうのよ。売れるうちに売らないと。もう、わたしたちがあそこに暮らすことはないのよ」
 その通りだった。しかし、それをはっきりと認めることは、寂しいことだった。
「売って、すっきりしましょうよ」
「そんな情けないことを言わないで」
舞子が渋っていると、麻美はゆっくりと切り出した。
「うちね、増築しようと思っているのよ」
「え?」
「子供たちも大きくなってきたでしょう。男の子二人で、どうしても手狭になって。もう息苦しくて」
 麻美は、大げさに身振りを加えて説明を始めた。
「それがね、すごい偶然が起きたの。お隣りにね、お年寄りが住んでいたのだけれど、この前亡くなって、いまそこが売りに出されているのよ。大きな土地だから、たぶん幾つかに分割して、分譲住宅にでもなるのだと思うけれど、その一部をわけてもらえないかって、不動産屋に相談したの。そうしたら、いいって。隣家からの申し出って、断らないって聞いたことがあるけれど、本当なのね」
 麻美は、喋りながら、だんだんと興奮気味になってくる。自分のことを話すとき、麻美はいつもこうだ。周りはお構いなし。この性格は、羨ましいと思う。
「家を売ったお金を、それに使うつもり?」
 麻美はむっとした顔をした。
「だって、他に当てがないもの。旦那の稼ぎもたいしたことないし、実家も余裕ないみたいで。いまさらローンを組むのもたいへん、まだ今の家だってローンが残っているもの。お母さんの家なのだから、娘のわたしにも権利あるでしょう」
 それはあなたの事情でしょう、と舞子は思った。まるで、母の遺産をすべて自分で使ってもいいと考えているような口調だった。
「お母さんをうちで引き取ってもいいと思っているの。買った土地にバリアフリーのお部屋を造って。そうしたら、お姉ちゃんも気が楽でしょう?」
そこまで考えていたのかと思うと、すこしあきれた。近頃の母は、1日の大半をベッドで過ごしている。すこしも目が離せない。排泄も、すべておむつだ。そういうことが、わかっているのだろうか。
「それに、お姉ちゃん、なんだかお母さんに優しくないし」
「なにそれ」
 舞子は麻美を睨んだ。なんてことを言うのだろう。わたしがどんな思いをして、毎日母の世話をしているのか、この人は知っているのだろうか。しかし、そう思う反面で、そんなふうに母に対して恩着せがましいことを思っている自分の心が嫌だった。それを、麻美に見透かされているような気がするのも、もっと嫌だった。
 そのとき、母が急に口をあけた。
「わたしは、松本さんと一緒にいるよ」
 麻美は目を丸くした。
「ここからは、出て行かない」
 母の声は、意外にもしっかりとしている。わたしたちの話を聞いていたらしいことも、驚きだった。
「お母さんに、ちゃんとしたお部屋も作ってあげるから」
 母は、子供がいやいやするようにして、首を振った。
「わたしは、松本さんと、ここにいるのよ」
「は? なにそれ」
 麻美は、助けを求めるように、舞子の方を見た。
「お母さんにとって、わたしは松本さん。まえは、小林さんって言われていたけれど」
「お姉さん、何とか言ってよ、・・・」
 そのとき、母が持っていたタオルを麻美に投げつけた。
「松本さんを、いじめないで」
 そう言って、母は麻美を追い払うようなしぐさをした。
「なんか、感じ悪いわ」
 麻美はそう言うと、帰るわと言って、部屋を出て行ってしまった。
 舞子は、なんとも言えない気持ちだった。母が自分を頼ってくれるのは嬉しい。けれど、わたしは母にとって、松本さんなのだ。
 そのとき、母がつぶやいた。
「あの子も、苦労しているのよ」
 思わず、舞子は母を見た。ふたつの大きな目が、しっかりとこちらを見ていた。
「売るなら、売ったらいいじゃない。二人で決めたらいいのよ。わたしはもう、いなくなるのだから。でも、わたしはここがいい」
「お母さん、わかっていたの?」
 そう問いかけたが、舞子の言葉が届いたのかどうか、母はテレビの画面を見つめていた。7時のニュースが流れ、ひょろりとしたアナウンサーが無機質に喋っている。感じのよくないアナウンサー。日本海の方で、線状降水帯が発生して、がけ崩れや川が氾濫して、行方不明者が出ていると伝えていた。
「気の毒に」
母は眉をしかめた。あんな雨が降ったら、この裏の丘だって、危ないかもしれない。
 ふと、窓の外を見た。夜の暗い森が、眼下に広がっている。わずかに開いたサッシの隙間から、すっかり冷たくなった空気が流れ込んでくる。秋祭りの日に、山の上の神社に行ったことが、思い出された。あのときの母は、少女のように楽しそうな顔をしていた。



     8
「こんど、名古屋に泊まりでいく、一緒に行かないか」
 直紀にそう言われたのは、半月くらい前のことだった。
「母の具合次第だから、直前にならないとわからないわ」
 口ではそう言ったが、気持ちは行くつもりだった。直紀と泊りでどこかへ出かけるなんて、もう何年振りだろう。
以前は、地方への出張だという口実をつくり、ちょくちょく泊りがけのデートをした。レンタカーを借り、ドライブをしながら、山間の温泉街を訪ねたり、京都へ行って、先斗町で京懐石を食べ、東山の古刹を歩いたりもした。
しかし、母と住むようになってから、そういうこともなくなった。気持ちの余裕もなくなった。直紀と、朝まで時間を気にせずに一緒に過ごせる感覚を、すっかり忘れていた。
母のことは、麻美に来てもらえばなんとかなるだろう。そう思うものの、近頃の母の調子は、あまり芳しくない。調子の良さそうな日もあるが、ぐったりして、目を離せないような日もあり、機嫌の悪いときにはあからさまに反抗したりもする。とうとう当日まで、行くか止めるか決められなかった。
理由はしかし、母の体調のことばかりではなかった。母に隠れた恋人がいたという話を聞かされて、舞子は混乱していた。
わたしは、不倫をしている良くない娘。お母さんが知ったら、悲しませることをしている。それまでは、母に対して後ろ暗さを感じながら、直紀に会っていた。しかし、そうではなかったと知ったとき、どんな気持ちで直紀に会えばいいのか、わからなくなった。
わたしは、母と同じことをしている。母が、50年以上も、家族に秘密にしてやってきたことを、娘のわたしもやっている。そのことを母が知ったら、どう思うだろうか。血は争えないといえば、それまでかもしれない。舞子は、そこに強烈な生臭さを感じないではいられなかった。
 時計を見ると、午後の3時になるところだった。今日の作業は、あらかた済ませてしまった。いつでもパソコンをオフにして、業務完了にできる。ついでに休暇申請をしてしまえば、明日の夜まではフリーになる。溜まっている休暇はたくさんある。
「松本さん」
 舞子は目をあげて、母を見た。口元から、だらしなく、ヨーグルトがこぼれている。ティッシュでそれを拭おうとすると、母は身をよじった。
「いや」
 いつになく、強い口調だった。
「どうしたのよ」
「これ、腐っている」
 母は、眉間に皺を寄せた。
「そんなことないわ。昨日買ってきたばかりよ」
「腐っている」
 母はもう一度そう言うと、鼻頭に皺をつくった。
「お母さん、わたしこれから出かけるけれど、あとで麻美がくるから、待っていてね」
 なるべく、優しくそう言った。
「ダメ」
 母が、珍しく高い声をだした。
「どうしたの?」
「ダメよ!」
 母は、何かを感じ取っているのだろうか。冷たい汗のようなものが、背中を流れるようだった。
母の大きな瞳の瞳孔が、ゆっくりと開く。母にすべてを見透かされている。そう思うと、足がすくみそうになる。母の秘密を、わたしたちは何も知らなかった。母は、どんな気持ちで秘密を抱えて生きてきたのだろう。母とは事情は違うが、直紀とのことを抱えながら、わたしは母のように生きて行けるのだろうか。
 直紀の笑った顔が思い浮かぶ。あの笑顔に、これまでどれくらい救われてきたか。いつも適当に、調子のよいことばかりを言っている男だったが、舞子への態度は、この十数年、何も変わっていない。そこには、信じられるものがある。母も、そう思って50年を生きてきたのだろうか。
 直紀に会いたい。いまから支度をすれば間に合う。
 麻美に電話をして、急な仕事になって、泊りで出なければならなくなったので、母を見てほしいと頼むと、あっさりと引き受けてくれた。泊ることはできないが、夜に様子を見にきて、明日は朝から来てくれる。
 舞子は、手早く着替えて、化粧を済ませると、後ろ髪をひかれる気持ちでマンションを出た。母が、いつまでもこちらを見つめているその目が、頭から離れなかった。

 新幹線は、週末のせいか、混雑していた。
 4時の新幹線に乗れば、6時には名古屋につく。仕事を終えた直紀とホテルで落ち合って、街に食事にでかけよう。直紀はきっと、いい店を選んでくれているだろう。よくは知らない名古屋の街を想像しただけで、気持ちが沸き立ってくる。
舞子にはかつて、結婚するだろうと思っていた男がいる。30の半ばくらいだった。二人で旅行も行った。ベニス。
 しかし、男はプロポーズしてくれなかった。後になって、舞子の他にも付き合っている女がいたことを知った。それを聞いても、不思議と悔しいとは思わなかった。負け惜しみではなかった。
 それからも、誘われることはあった。会社の人や、友達に紹介された人だったり。けれど、そこに情熱は生まれなかった。誘われれば付き合うが、それ以上のものを感じることはなかった。わたしはもう、人を好きになることがない。そう思っていた。直紀と出会うまでは。
 けれど、不倫だけは、絶対にしないと思っていた。やっている人を軽蔑したし、そんなことをする人は、まともな感覚ではないと思っていた。それなのに、直紀との関係にはまってしまった。この関係の未来が何を意味するのか、わかっていたはずなのに。
 直紀は、奥さんや子供たちとの未来を生きている。これまでも、これからも、それは変わらない。いまは、もうひとつの世界で舞子の肉体におぼれているけれど、それもいつまで続くのか。
先日、たまたま直紀のカバンの中を見てしまった。処方されたような薬袋があったので、手にしてみると、男性クリニックの名前が印刷されていた。入っていたのは、舞子も名前を知っている、ED治療薬だった。
わたしたちは、とても薄い氷の上に、たまたまバランスよく立っているだけだという気がする。すこしでも乱暴に動いたら、たちまち氷が砕けて、水底に沈む。そうしたら、もう2度とこの地上の空気に触れることはできない。

 直紀が選んでくれたのは、地元でも有名な、名古屋コーチンの老舗料亭だった。通された個室は、きれいな襖絵に囲まれた大名屋敷の一室のようだった。料理も皿も、お酒も最高だった。
食事を始めて一時間くらいした頃だった。
「この出張は、カラなんだ」
 直紀が言った。
「え?」
「必要もない出張をつくった。ほんとうはね、仕事なんてないんだ。やってもやらなくてもいいことをやっている。いまは、そんな立場なんだ」
 これまで、仕事のことを口にすることはあまりなかった。男は、やはり会社でのポジションがすべてなのだろうか。直紀は、人並み以上に成功している部類かと思っていたが、本人にしてみたら、そうでもないのだろうか。
 けれど、舞子には知りえない世界だった。
「君と、いいホテルに泊まって、贅沢をしたうまいものを食べたい。ただそれだけだ」
「わたしへの罪滅ぼしのつもり?」
「いや、・・・」
「だって、わたしのことを、すこしはかわいそうだって、思っているから、こういうことをしてくれるのでしょう?」
 直紀の目に、哀しげな色が滲んだ。
「遠回りして、ちょくちょくわたしに会いに来てくれるのも、心にやましいところがあるからでしょう?」
 半ば本気で、半ば意地悪な気持ちで、舞子は言った。
「自分が、そうしたいんだよ」
 それは、ほんとうの気持ちかもしれない。この人も逃げ場がない。わたしと同じなのだ。
「奥様は、元気?」
「ああ、乳がん検診とか、いろいろやったが、どこにも異常はないらしい」
 直紀が、わざとらしく言う。
「しばらく、あなたの言う不測の事態は、起こりそうもないってことね」
 直紀は首を振った。
「先のことは、わからない」
「それはそうだけれど、・・・」
 そう言いながら、頭の一部が次第に覚めていく。
「毒でも盛ったら、世界は変わるかもね」
 舞子の言葉に、直紀は驚いた顔をしたが、力なく笑った。
「そんなこと、思ってもいないくせに」
 そう言われて、舞子は力が抜けそうになってきた。そう。そんなことを思ってもいない。思ったところで、思っていないことにされてしまう。堂々巡りをしている自分の姿が見える。
わたしは、この人に依存しているのだろうか。
そう思い始めたのは、ずいぶん前のことだった。その思いは、いまも変わらない。この関係は、悪いこと。あってはいけないこと。それなのに、だからなのか、依存してしまう。
 直紀も、同じだろうか。だとしたら、わたしたちは二人とも病んでいる。二人だけの闇を抱えながら、生きている。



     9
 名古屋から戻り、マンションに着いたのは、夜の8時過ぎだった。
 母の姿がなかった。
 麻美に連絡をしたが、わからない。夕方の5時くらいに、夕飯を食べさせて帰ったと言う。夕方には帰るからと伝えていたので、麻美のことは責められない。
 直紀と、別れがたくて、新横浜で新幹線を降りてから、近くのホテルに入ってしまった。前の晩も、朝も、求めあったばかりなのに、心と肉体が乾いていた。欲求に抗いきれなかった。
 麻美が帰ってから、3時間近く、母はひとりだった。そう思うと、舞子の胸は締め付けられた。
母が、ひとりで家を出ることなんて、これまでに一度もない。玄関にあった車いすがなくなっている。介護ケア施設から、レンタルしていたものだ。
 マンションの裏手に出てみた。坂道がある。秋祭りの日に、母を押して、登った坂だった。
しかし、この坂を、母が自分の力で登れるとは思えなかった。それでも、舞子は気になって、頂上を目指した。
鳥居の脇に、見覚えのある車いすがあった。
「お母さん!」
 叫んだが、声は暗闇のなかに、空しくかき消されるだけだった。舞子の背筋に、寒いものが走った。悪い予感がした。神社の境内を、くまなく探したが、母の姿はなかった。
 110番をすると、すぐに警官がマンションにやってきた。
 事情を話して、捜索のお願いをした。すでに、10時を過ぎていた。母はいったい、どこにいるのだろうか。
警官に言われて、母のスマホがないことに気づいた。普段は使うことがないが、何かのときにと持たせていたものだ。警察で、位置情報を探ってくれた。電波は、裏山から発信されているらしい。
舞子は、警官と一緒に、もう一度神社に登った。小さな鳥居。車いすを見つけたところだ。ここから、どこへ行ったのか。
鳥居の脇に立つと、マンションから登ってくる小道とは別に、参道になっている石段がある。急こう配の石段は、200段もあるだろうか。踏み鳴らされて、すり減った石段は、所々で苔むしていた。目を上げると、夜の空のずっと向こうに、かすかな稜線がある。月明りが山の線を白く浮き上がらせている。
「ありました」
 警官の声がした。振り向くと、見覚えのあるスマホを持っている。鳥居の脇の草むらで、見つけたらしい。
「こちらは?」
「母のもので、間違いないです」
 舞子は、母の持っていたスマホを握りしめた。夜露のせいか、冷たく濡れていた。
「ここから、転落しているかもしれませんね」
 警官は、石段と坂道の中間あたりにある茂みに目を凝らした。樹々や草が深くて、先までは見えない。急な勾配になっているので、簡単には踏み込めそうになかった。こんなところに迷い込んでしまったら、到底出ては来られないだろう。舞子は、黒い叢が生い茂る空間に、ひたすら目を凝らした。
「人を動員して、捜索します」
 そう言って、警官が肩につけた無線で連絡を始めた。舞子は、目の前が暗くなってくるようだった。暗く深い叢があり、どこまでも続いている。マンションに続く細い道が、黒く濡れている。
 目を落とすと、足元に石碑のようなものがあった。何か書いてある。ひらがなの崩し字で、「やくしさか」と読めた。
 そのとき、無線で喋っていた警官が舞子を振り向いた。
「お母さん、保護されたみたいですよ」
「えっ?」
「すみえさんで、よろしいですか」
「ええ」
 母の名前だった。
「駅前の広場で、発見されたらしいです」
 舞子の目に、涙があふれてきた。
 迎えにきたパトカーに乗って、警察署に向かった。
 母は、エントランスのソファーに、ちょこんと座っていた。けがもないらしい。駅前のロータリーのベンチで、一人で座っているところを、巡回中の警官が発見した。名前を聞かれて、はっきりと答えられたというから、それも不思議だった。
「どうしたのよ」
 舞子は、なんと言っていいか、わからなかった。母は、舞子に気づくと、すこし表情を変えて、驚いた顔をした。
「小林さん?」
 わたしは、松本さんから、小林さんに戻っていた。みぞおちの辺りが、きゅっと締め付けられる。こんなに心配していたのに、わたしは小林さん。
「帰りましょう」
 舞子が言うと、母はおとなしく車いすに座った。
 パトカーで送ると言う申し出を断って、舞子は母の乗った車いすを押した。夜の風が、冷たく頬を撫でる。月が明るくて、風があるせいか、上空で雲の動きが早かった。
「お母さん、神社に行ったの?」
 舞子は、母の後ろから声を掛けた。けれど、母は何も反応しない。すこし首をかしげて、斜め前方を眺めているだけだった。薬師坂のあるあたりが、黒く沈んでいた。

 マンションに戻ると、麻美と父がいた。父は、麻美から連絡をもらって駆け付けたらしかった。
「大丈夫なのか?」
 父は、車いすに乗せられた母のことを、困惑した表情で見つめている。久しぶりに見る母の姿に、驚いているに違いない。どんな言葉をかけたらいいのか、わからないでいるようだった。
 父に、母の認知症のことは言っていない。母からも、口止めされていた。
 しかし、こんなふうに、家族4人がそろったのは、いつ以来のことだろうか。湘南にある家で、一緒に暮らしていたときのことが、蘇ってくる。あの頃のわたしたちは、幸せだったのだろうか。いまとなっては、それもわからない。
 母が、父のことを、不審げな目で見ている。
「どちらさま?」
 一瞬、空気が凍りついた。
舞子が、慌てて口を開いた。
「ヘルパーの方よ、車いすの修理。お母さん、タイヤの音がうるさいって言っていたでしょう」
 舞子は、父に目配せをした。
「そう。ご苦労様です」
 そう言うと、父に向って頭をさげた。
父は、母に頭を下げられて、困ったように頭を下げた。禿げ上がった頭には毛がない。以前は薄い髪が中途半端に残って、みすぼらしく見えたが、さっぱりと剃っているので、活力が増したようにも感じる。
舞子は、父を見詰めながら、その表情から何か読み取れないかと思った。変わり果てた母を見て、父は何を思っているのだろうか。父の目に、表情はない。すこし怒ったように、しかめ面をしていた。

 母を寝かせつけると、今日は泊るという麻美を部屋に残し、舞子は父を駅まで送った。
「お父さん、ちょっといい?」
 改札に向かう階段を登りかけたとき、舞子は足をとめた。
「お母さんの秘密を聞いたわ」
「ん?」
 父が、足を止めて、こちらを見た。細い目に、かすかに光がこもる。
「お母さんに、秘密の恋人がいたってこと」
「ああ」
 そう言うと、父はぎこちなく笑った。
「知っていたの?」
 舞子は、母から告白されたことを語った。
 父は、舞子の言葉にじっと耳を傾けながら、表情を変えなかった。それから、ゆっくりと口を開いた。
「その人は、もうずいぶん前に、亡くなった。交通事故だったらしい」
「え?」
「結婚して、すぐの頃だった。お母さんから、付き合っている人がいると聞かされたときは驚いた。別れてくれと言われた。・・・けれど、その人はもう死んでしまったし、お父さんは、お母さんとやっていこうと決めたんだ。そして、すぐにお前が生まれた」
 父は、淡々とそれだけ言うと、じゃあと言って、改札口に向かって歩いて行った。



     10
 こここにも、居場所がなかった。
 片島直紀は、新幹線のホームに登る長い階段を、ゆっくりと登った。列車が到着するアナウンスが、けたたましい。男たちが、直紀のことを、迷惑そうに追い越していく。
さっき、スマホで予定表を確認したが、午前中は何も入っていなかった。ひとつ予定があったかと思っていたが、キャンセルされていた。週次の定期的な報告会で、誰かの都合が悪くなると、前触れもなくキャンセルされる。
午後には、部門の損益報告会と導入されたAIツールの勉強会。どちらも、直紀が必須ではない。
かつて、直紀の予定表はぎっしりと埋まっていた。トイレにも行く暇がないと愚痴をこぼしていた。次々と、30分刻みに予定が入り、自分の時間がなかった。1日がたちまち過ぎる。
昨年末に、世界が変わった。それまでの役職が外れて、シニアアドバイザーという立場になった。部下がひとりもいなくなり、ルーチンがなくなった。アドバイザーの定義はあいまいだ。何をするかは、自分で考える。元の部下たちが、わざわざ好き好んで自分にアドバイスを求めることなどない。
直紀は、56歳になる。これまでの先輩たちは、だいたいこの歳になると、グループ会社とか、取引先とかに移って、そこで役員職を得ていた。直紀も、いずれそういうことになるのだと、勝手に思っていた。
けれど、数年前に、会社の方針で、グループ会社がすべて本体に統合されて、行先がなくなった。社外に親しい付き合いもなかったので、心当たりもなかった。定年まで、あと5年足らず。この先を、どう過ごすのか。
 火曜日から水曜日にかけて、ぽっかりと予定がなかった。久しぶりに、両親のところに顔を出そうかと思って、この街にやってきた。帰省するのは、半年ぶりだった。
 父も老いた。当たり前だが、以前のような覇気はない。話していても、どこか目の焦点が定まらない。90歳になるのだから、元気な方だと思うのだが、もしかしたら、これが見納めかもしれない。
父より5歳若い母は相変わらず元気ではあるが、それでも肉のたるみ具合は、以前より増したようだ。年寄りになれば、みな同じかと思っていたが、老化はいつまでも続くものだ。生きているというのは、そうものだ。
久しぶりに見た母に感じた違和感が、いまさらのようにみあげてくる。
母は、かつての母と、何も変わっていない。直紀の好きな鶏のから揚げとマカロニサラダを作ってくれた。変わらない味。直紀を気遣ってくれる。けれど、もうあの頃の母ではなかった。かつて、そこに帰れば安心できて、いつでも直紀のすべてを包んでくれた母はいない。
 陽ざしが強かった。ちょうど東からの朝日がホームに差し込んでする。遮るものが何もない。直紀が眩しそうにしていたら、日傘をさした年配の女性が、一緒にどうかと声を掛けてくれた。
 直紀は、見知らぬその女性と相傘をして、次の列車を待った。女の首が、やけに白いのが気になった。化粧の匂いも、わりと強かった。幾つくらいだろうか、そう思いながら、直紀は女の横顔を見た。傘を差しながら、もう一方の手で、スマホをいじっている。ゲームをやっているようだった。
 直紀よりは、一回りは年上だろうと目算した。目が大きくて、それを縁取るようにして、濃いシャドウを塗っていた。年甲斐もなく、若い女がするような化粧だと思ったが、わりと様になっていた。
「これからお仕事?」
「はい」
 直紀は答えた。女の声は、すこし枯れていて、それがなんだかなまめかしかった。スナックのママでもやっていそうな雰囲気だった。
「よかったら、いらしてよ」
 女はそう言うと、ハンドバックから名刺を差し出した。やはり、水商売か。
縦長の和紙のような手触りの装丁で、「COACH・たかこ」と書いてある。携帯番号とURLが記されているだけだ。
「スナック、ですか?」
 女は笑った。
 その目が気になった。なんだか、母によく似ている。最近、この年代の女性を見ると、みんな母に重なってくる。
「まあそんなところ、一応は、経営コンサルタントなのだけれど」
 女はそういうと、可笑しそうに笑った。直紀は、自分の名刺を女に渡した。
「あら、大企業さんじゃないの」
「大きいだけの会社です」
 直紀はそう言いながら、自分が置かれている立場を思って、暗い気持ちになった。外から見たら、大企業に勤めている恵まれたサラリーマンなのだろうが、予定がからっぽで、定年を待つだけの身の上だ。
「石川さんって常務のかた、よくうちに来られるわよ」
 たしかに、石川という常務がいる。人事系の役員だ。しかし、話したこともない。
 列車が、ホームに入ってきた。E6系の車両は、長い流線型で、エメラルドグリーンのデザインが斬新だった。
「座れそうかしら」
 女は、車窓を目で追いながら、滑り込んでくる新幹線の車内の様子をうかがった。
「そこまでは、混んでいないでしょう」
 直紀が言うと、女は首を傾げた。
「やりたいことを、やったらいいのよ」
「え?」
「あなた、やさしい目をしている」
 女はそう言うと、唇の脇をひきあげた。そのしぐさが、舞子に似ていると思った。
 直紀は、傘の礼を言った。
 そのとき、スマホにメッセージ着信の合図があった。新幹線に乗り込みながら確認すると、舞子からのメッセージだった。

 さっき、母が息を引き取りました。眠るように。

 メッセージは、それだけだった。
 直紀は、スマホの画面を凝視した。日傘に入れてくれた女が、空いた席を見つけて座ろうとしていた。目が合ったので、直紀は、軽く会釈をした。
自由席は、思っていたよりも混んでいた。隣の車両でようやく空席を見つけた。
 走り出した新幹線が加速していく。遠目に山の稜線が連なり、手前には無数の住宅地が、詰め込んだように密集している。加速するにつれて、はっきりと見えていた家々のかたちが、だんだんと追えなくなってくる。
 スマホの画面を、もういちど開いた。
舞子からは、ここ数日、連絡がなかった。名古屋へ行ったあと、母親の様子がおかしくなったと連絡があった。家族のことが全くわからなくなり、ほとんど寝たきりの状態になったと。
舞子の母は、どんな人だったのだろう。
母娘なのだから、似ているのだろう。直紀は、舞子の30年後を想像した。時を隔てて、二人の女がつながっているように感じる。日傘をさしてくれた女や、直紀の母までもが、そこに重なってくる。年齢の違う女たちの顔が、いくつも折り重なった。それぞれの顔に、それぞれの表情があった。

 お母さま、心からお悔やみします。しばらくたいへんかと思うが、落ち着いたら連絡ください。待っています。

 何度も打ち直して送った。送信済みになったのを確認すると、スマホをポケットにしまい目を閉じた。トップスピードに達した新幹線は、快調に走っていた。
 (完)
  
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