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84,海老。

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 ※今回はアニー目線の話です。

 「美味しいお酒が造れそうなので、夕飯をご一緒しませんか」
 
 と涼さんから打診があったのが、彼がB級昇格試験から帰った翌日のことだ。
 聞くと、試験で相当のゴタゴタがあったようで、明日からは裁判も控えているというのに、わざわざ私の為に時間を空けて会いに来てくれるという。

 「お久しぶりです。どうぞ、中へお入りください」
 「失礼します」
 
 フィヨル広原の私の家の敷居を涼さんがくぐると、会っていない期間はさほどでもないのに、胸が苦しくなるほどの懐かしい匂いが、すっと部屋に広がる。

 「旅先で極上のルーンハニーが採れたんです。素晴らしい味なので、ぜひアニーさんにも味わって欲しくて」
 「私の方でも、市場で良質な海老を買ってあります。パエリアを作るので、ぜひ一緒に食べましょう」
 
 キッチンで料理を作るあいだ、私はふと、この国での第四階級の人々に対する扱いが変わって来ていることに、想いを馳せる。

 昔は、第四階級の人を見れば、街の人は顔をしかめ、ひそひそと陰口を囁き、気性の荒いひとはものを投げつけたりした。
 第四階級の人々が街の宿に泊まるなどということは出来なかったし、ましてや、どこか就職先を見つけるなどということも、到底、不可能だった。

 でも、今はそうではない。
 
 涼さんがこの世界にやってきてから、街には第四階級の人々が溢れ、当たり前のように街のどこかに就職し、なかには、涼さんのように冒険に出て行く人まで出て来ている。
 以前のように、露骨に第四階級の人に嫌な顔を向ける人は、ほぼいなくなった。

 「もし母が生きている頃に、涼さんが居てくれたら、母さんも亡くならなくて済んだかもしれない」

 まな板の海老に向けて、ついそんな声が自分の口から落ちる。

 私がまだ聖女になりたての頃、教会の部下たちに「差別はやめましょう」と熱を籠めて説いたことがある。彼らもまた人間で、私たちとなにも変わらない、と。
 でも、部下たちから帰って来た反応は、白けた沈黙だけだった。熱を籠めて話せば話すほど、彼らとの距離は広がり、私の言葉は彼らとのあいだにある深い溝へと落ちてゆく。

 それが、このところはそうではなくなっている。
 つい昨日も、治癒院の人々に向けて同じようなことを説くと、多くの若い治癒士たちが「わかります。私たちも同じことを思っていました」と私の意見に同意してくれる。なかでも顔馴染みのユリは、「私たちが率先して、差別を無くして行きましょう」と仲間たちに声を掛けてくれまでした。……本当に、私たちには今、多くの“仲間”たちが寄り添ってくれている。

 「アニーさん、調合が終わりました。一口、味見をしませんか」
 「え、……では、いただきます」

 背後から掛けられた涼さんのその声に、思わずさっと涙を拭い、笑みを拵える。
 でも、咄嗟に作った笑みは完璧ではなく、糸の外れた真珠のように、私の目端から一粒、涙がこぼれる。

 「……なにか、辛いことがありましたか」
 「いえ、逆です。……私、嬉しくって」
 「嬉しい? ……よほど良い海老が採れたのですか」
 「……そうです」と、私はつい笑って、そう答える。「とても良い海老が採れたのです」

 私が笑みを零したことで安堵したのか、涼さんもまた、いつもの優し気な笑みを浮かべてくれる。
 その笑みに優しく包まれたような気分がし、私は彼の差し出したグラスを、一口飲み込む。

 「美味しい……! ものすごく美味しいです……! 」
 「そうですか。安心しました。自信はあったのですが、アニーさんの口に合うかはわからなかったので……」
 「お世辞抜きに、こんなに美味しいお酒を飲んだことはありませんよ……! 」
 「自分で言うのもなんですが、俺もそう思っています。調合も上手く行って、素晴らしいお酒が造れました」
 「これ、市販はしないのですか? こんなに美味しいなら、きっとすごく売れると思います」
 「実は、セシリアさんにすでに話は通していて、量産することが決まっています」
 「素材の方も大丈夫なのでしょうか。量産できるほど、豊潤に採れる素材なのですか?」
 「この酒にとって最も重要なのは、極上のルーンハニーなのですが、遠征で行ったシキ村は、実はその極上のルーンハニーの産地だということがわかったのです。“沈黙の呪縛”から癒えた村長が教えてくれたのですが、村民だけが知る良質な蜜だったものを、特別に、俺の為に仕入れさせてもらえることが決まりました。その蜜があれば、このお酒はいくらでも造れます」
 「その蜜が売れれば、シキ村の方々も潤いそうですね」
 「その通りです。村が潤えば、冒険で休むための拠点として発展する可能性もあります。そうすれば、冒険者である俺たちにとっても、有益なことです」
 「すごいです。……本当に、涼さんはすごいです」

 彼の周りでは大勢の人々が幸せになってゆく。
 もう私やエレノアさんやセシリアさんだけの、涼さんではない。もっと大勢の人々が信頼し、大好きな、涼さんなのだ。
 
 だからこそ、私は不安でいっぱいになる。
 いつか彼が自分の価値の高さに気がついて、私を置いてどこか遠いところへと離れて行ってしまう気がするのだ。私は聖女であるが、“聖女に過ぎない女”なのだ。そんな女を、涼さんがずっと特別視してくれる約束はない。

 「ときどきで良いので、以前のように、このフィヨル広原の家にまた夕飯を食べに来ていただけませんか」
 「……? もちろんです」
 「……涼さんは私のことを忘れてしまうかもしれませんが、忘れても良いので、それまでは仲良くしてください」

 私はズルい女かも知れない。
 彼の気持ちを確かめるために、こんな情けないことをわざと口にしてしまう。こんなこと、人生で涼さん以外に誰にも言ったことはないのに。
 彼といると、ときどき、私は私ではなくなってしまう。

 「……シビラさんと“沈黙の呪縛”の特効薬を制作中だという話でしたね」
 呆れられてしまっただろうか、涼さんは、話題を転じてそう言う。
 「ええ。明日もシビラさんの家に向かうつもりです」
 「俺もついていって良いですか」
 涼さんはそう思わぬことを口にし、持っていたグラスをまな板の横に置く。
 「……なぜですか」
 
 「アニーさんと、もっと一緒にいたいからです。本当はセシリアさんと酒造りの打ち合わせがあるのですが、特効薬の為と言えば、セシリアさんも許してくれると思います。……俺がついていったら、駄目ですか」
 
 涼さんも勇気を出して言ってくれたのだろうか、その顔は真っ赤に染まっている。
 普段なら率先していろいろとやってくれ、頼りにもなる人なのに、突然のその恥し気な表情に、胸がしめつけられる。

 「……涼さんが来てくれるなら、私も嬉しいです」
 
 そう言った自分の耳が、ものすごく熱くなり、赤くなっているのが、わかる。

 「じゃあ、午前中にここに迎えに来ます。それから、一緒に行きましょう」
 「わかりました。準備をして、待っています」

 涼さんはまな板の横に置いたグラスを再び手に取り、ダイニングへと戻りながら、最後にこう零した。

 「忘れるわけないですよ、こんな綺麗なひと。……顔だけじゃなくて、性格だってとても素敵です」

 まな板のうえに取り残されていた海老に再び取り掛かりながら、私は真っ赤になった顔をもとに戻すことがなかなか出来なかった。





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