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5,これは恋ではない。
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母親が差別に合っていると気づいたのは、何歳ぐらいのことだっただろう。
確かにおかしいとは思っていた。
母が通り過ぎると途端に始まる、クスクス話。
不自然なほど母の前で零される、皿の上の料理。
庭でボール遊びをしていた貴族の少年が、「すいません」と言う前に、明らかに意図的に母にボールを投げつけたのを見たこともある。
なかでもはっきり差別を意識したのは、メイド長がメイドたちにこんなことを言い聞かせている場面に遭遇した時だった。
「私たちはメイドであっても、娼婦の使いでありません。良いですか、あの“売女”に媚びを売る必要はありませんからね」
“売女”。
吐き捨てられるように口にされたその言葉が、母を指す蔑称だと気づいたのは、それからもっとあとのことだ。
差別に満ちたこの世界を、私はなんとしても変えたかった。
メイド長やメイドに自分なりの熱い想いを伝えたことも、一度や二度ではない。
でも、駄目だった。
幼く、小さな女の子に過ぎない自分の意見を、この世界の誰もまともに聞いてはくれなかった。
それは自分が“聖女”という職をあてがわれたあとも、さほど変わりはしなかった。
これほどの上級職を得たのだから、自分にも世の中を変える力が備わったのではないか、――そう思ったのは最初だけで、なにも変えられはしなかった。
私が注意するとメイドたちは反省した素振りを見せるものの、私がいないところでは、母を迫害し続けた。
注意しても無駄なのだ。彼らの心に張った差別の巣は深いところにあり、私の力では、それを取り払うことは出来ない。
そして私が十五歳になってしばらく経ったある晩、ひどい雨の日、母は誰にも告げずにこの家を出てゆく。まるで自ら死を選ぶことでしか、もはやこの世界の差別からは逃れられない、とでも訴えるかのように。
私は母を救えなかった。
その切ない痛みが、今でも私の胸に氷のように突き刺さっている。
◇◇
この日は昼から涼さんに会うことになっていた。
でも、彼が宿泊しているという宿に行っても、彼の姿は見当たらない。
仕方なく、宛もなく街中を探し回り、その姿をやっと、広場の噴水の前で見つける。
「涼さん、ここに居たのですね……! 」
彼の姿を見つけると、なぜか胸の裡が熱くなる。なぜだかわからないが、母のことを思い出す。
「私の行きつけのスイーツ屋さんに行きませんか」
そう言ったときも、知らず知らず高揚して声が上擦っていることに、気づく。
普段は割と無口と言われることの多い私なのに、なぜか、涼さんの前だと饒舌になっている。
「私の母は娼婦だったんです」
と、誰にも話したことのない身の上話まで話すのも、これまでにないことだ。
彼のなにが、こうも私を安心させ、心を軽くさせるのだろう。
それが、私にはわからない。
ふたりで屋台の団子を頬張りながら川沿いの街道を下った。
辺りは徐々に陽が落ちて暗くなり、道はなにもない草原へと続いている。
「ずいぶん街の外れに来てしまいましたね」
涼さんが言う。
「……この辺りは母の生家の近くなんです」
「そうですか。それで、アニーさんもこの辺に詳しいのですね」
気がつくと母の生家の立っている“西のフィヨル広原”に来ていた。
まるで、亡くなった母に手を取って連れて来られたみたいに。
「涼さん、あれが見えますか。原っぱの高台に建っている、小さな青い家です」
「ええ、見えますよ。可愛い家ですね。……少し、朽ちているようですが」
私は頷く。
「そうです、朽ちているのです」
私はその家のことを涼さんに話して聞かせた。
幼い頃から母に手を連れられて、この家を見に来ていたこと。その家にはとっくに誰も住んでおらず、母の両親はすでに他界していたこと。
自分の生まれ育った家を母は綺麗に建て直したかったが、“娼婦だった”という差別の為に、街の大工たちが誰もその依頼を引き受けてくれなかったこと……。
すると、涼さんは思いがけないことを口にした。
「アニーさん、今でも、あの家を建て直したいですか? 」
「ええ、出来るなら、もちろん……」
恐る恐るそう返事をすると、涼さんは私の手を強く握り締めて、こう言うのだ。
「一週間下さい。一週間後に、ここにまた来てください。必ず、建て直して見せますから……! 」
一週間が経つまで、私は上手に眠ることが出来なかった。
彼のチートスキルのことは教わっていたものの、それを使っても、どうすればあの家を建て直せるかは私にはわからない。見当もつかない。
街の大工を説得しようにも、それは何度も何度も試みて来た。でも、“聖女”という上級職である私の依頼であっても、“娼婦の生家”であるあの家を建て直してくれる大工は現れなかった。
そんな困難を、彼はどのようにして乗り越えようと言うのか……。
一週間後、再びフィヨル広原に行くと、約束の時刻を少し過ぎて涼さんがやってきた。
「遅れて申し訳ありません。ちょっと、荷物が重くって……」
と、大きな台車にたっぷりと木材、ペンキ、繋ぎ材を乗せて、汗だくになって涼さんは私の前に現れた……。
「あの、建て直すっていうのは、まさか、涼さんが、自分の手で……?? 」
「そのまさかですよ。俺のチートスキルについては話しましたよね。今からそれを駆使して家を修繕します。ここに来るまで、少し大変でしたけど……」
それから、彼はどのようにして“大工スキル”を獲得したかを打ち明けてくれた。
街中の大工ギルドに向かい、手当たり次第に“物乞い”をしたこと。なかでも若手から物乞いしてもらうことが大切なのだ、と涼さんは口にした。初級者が経験値を得て新しいスキルを獲得する、そうすれば、彼と”繋がり“のある自分も、そのスキルを手に入れられる……。
「そうやって、手に入れてきましたよ、“建築”と、“修繕”のふたつの大工スキルを」
「涼さん……、あなたという人は……」
思わず、涙がこみあげてきて、私の視界はぼんやりと滲んだ。
彼はみるみるうちに母の生家を修繕していった。
なんでも、ベテラン大工たちとも“繋がり”を得たことで、彼らの巨大な経験値を一挙にものに出来たのだとか。
彼のチートスキルに関する細かな仕様については、私には良くわからない。
ただ、彼が信じられないほどの熟練した大工スキルで、鮮やかに母の生家を修繕していくのは、素人の私だって、見ていて、分かる。
陽が落ちかかる頃には、母の生家はすっかり綺麗に建て直っていた。
「どうですか、見違えたでしょう」
見違えた、などというレベルではなかった。なにもかもが、古い記憶のなかの綺麗なあの家と一致している。
私は涼さんの手を握り締め、思わず膝をついてしまう。
「ええ、幼い頃に母と見に来たときの姿、そのものです」
彼の手を額に当てて「本当に、本当にありがとうございます」と言うと、涼さんは照れくさそうに笑い、
「こんなことは、なんでもありませんよ」
とだけ言った。
「ああ……」と、私は思う。
その表情を見ていてやっとわかったのだ。
激しい差別を受けながら、いつも他人のことを考えて行動している、――涼さんのその姿が、私の見て来た母にそっくりだったのだ、と。
そう気づくと、私の胸は火を灯したように熱くなり、その熱さを鎮めるのが大変なほどだった。
私は何度も何度も、自分にこう言い聞かせねばならなかったほどだ。
“これは恋ではない、恋ではない”、と。
確かにおかしいとは思っていた。
母が通り過ぎると途端に始まる、クスクス話。
不自然なほど母の前で零される、皿の上の料理。
庭でボール遊びをしていた貴族の少年が、「すいません」と言う前に、明らかに意図的に母にボールを投げつけたのを見たこともある。
なかでもはっきり差別を意識したのは、メイド長がメイドたちにこんなことを言い聞かせている場面に遭遇した時だった。
「私たちはメイドであっても、娼婦の使いでありません。良いですか、あの“売女”に媚びを売る必要はありませんからね」
“売女”。
吐き捨てられるように口にされたその言葉が、母を指す蔑称だと気づいたのは、それからもっとあとのことだ。
差別に満ちたこの世界を、私はなんとしても変えたかった。
メイド長やメイドに自分なりの熱い想いを伝えたことも、一度や二度ではない。
でも、駄目だった。
幼く、小さな女の子に過ぎない自分の意見を、この世界の誰もまともに聞いてはくれなかった。
それは自分が“聖女”という職をあてがわれたあとも、さほど変わりはしなかった。
これほどの上級職を得たのだから、自分にも世の中を変える力が備わったのではないか、――そう思ったのは最初だけで、なにも変えられはしなかった。
私が注意するとメイドたちは反省した素振りを見せるものの、私がいないところでは、母を迫害し続けた。
注意しても無駄なのだ。彼らの心に張った差別の巣は深いところにあり、私の力では、それを取り払うことは出来ない。
そして私が十五歳になってしばらく経ったある晩、ひどい雨の日、母は誰にも告げずにこの家を出てゆく。まるで自ら死を選ぶことでしか、もはやこの世界の差別からは逃れられない、とでも訴えるかのように。
私は母を救えなかった。
その切ない痛みが、今でも私の胸に氷のように突き刺さっている。
◇◇
この日は昼から涼さんに会うことになっていた。
でも、彼が宿泊しているという宿に行っても、彼の姿は見当たらない。
仕方なく、宛もなく街中を探し回り、その姿をやっと、広場の噴水の前で見つける。
「涼さん、ここに居たのですね……! 」
彼の姿を見つけると、なぜか胸の裡が熱くなる。なぜだかわからないが、母のことを思い出す。
「私の行きつけのスイーツ屋さんに行きませんか」
そう言ったときも、知らず知らず高揚して声が上擦っていることに、気づく。
普段は割と無口と言われることの多い私なのに、なぜか、涼さんの前だと饒舌になっている。
「私の母は娼婦だったんです」
と、誰にも話したことのない身の上話まで話すのも、これまでにないことだ。
彼のなにが、こうも私を安心させ、心を軽くさせるのだろう。
それが、私にはわからない。
ふたりで屋台の団子を頬張りながら川沿いの街道を下った。
辺りは徐々に陽が落ちて暗くなり、道はなにもない草原へと続いている。
「ずいぶん街の外れに来てしまいましたね」
涼さんが言う。
「……この辺りは母の生家の近くなんです」
「そうですか。それで、アニーさんもこの辺に詳しいのですね」
気がつくと母の生家の立っている“西のフィヨル広原”に来ていた。
まるで、亡くなった母に手を取って連れて来られたみたいに。
「涼さん、あれが見えますか。原っぱの高台に建っている、小さな青い家です」
「ええ、見えますよ。可愛い家ですね。……少し、朽ちているようですが」
私は頷く。
「そうです、朽ちているのです」
私はその家のことを涼さんに話して聞かせた。
幼い頃から母に手を連れられて、この家を見に来ていたこと。その家にはとっくに誰も住んでおらず、母の両親はすでに他界していたこと。
自分の生まれ育った家を母は綺麗に建て直したかったが、“娼婦だった”という差別の為に、街の大工たちが誰もその依頼を引き受けてくれなかったこと……。
すると、涼さんは思いがけないことを口にした。
「アニーさん、今でも、あの家を建て直したいですか? 」
「ええ、出来るなら、もちろん……」
恐る恐るそう返事をすると、涼さんは私の手を強く握り締めて、こう言うのだ。
「一週間下さい。一週間後に、ここにまた来てください。必ず、建て直して見せますから……! 」
一週間が経つまで、私は上手に眠ることが出来なかった。
彼のチートスキルのことは教わっていたものの、それを使っても、どうすればあの家を建て直せるかは私にはわからない。見当もつかない。
街の大工を説得しようにも、それは何度も何度も試みて来た。でも、“聖女”という上級職である私の依頼であっても、“娼婦の生家”であるあの家を建て直してくれる大工は現れなかった。
そんな困難を、彼はどのようにして乗り越えようと言うのか……。
一週間後、再びフィヨル広原に行くと、約束の時刻を少し過ぎて涼さんがやってきた。
「遅れて申し訳ありません。ちょっと、荷物が重くって……」
と、大きな台車にたっぷりと木材、ペンキ、繋ぎ材を乗せて、汗だくになって涼さんは私の前に現れた……。
「あの、建て直すっていうのは、まさか、涼さんが、自分の手で……?? 」
「そのまさかですよ。俺のチートスキルについては話しましたよね。今からそれを駆使して家を修繕します。ここに来るまで、少し大変でしたけど……」
それから、彼はどのようにして“大工スキル”を獲得したかを打ち明けてくれた。
街中の大工ギルドに向かい、手当たり次第に“物乞い”をしたこと。なかでも若手から物乞いしてもらうことが大切なのだ、と涼さんは口にした。初級者が経験値を得て新しいスキルを獲得する、そうすれば、彼と”繋がり“のある自分も、そのスキルを手に入れられる……。
「そうやって、手に入れてきましたよ、“建築”と、“修繕”のふたつの大工スキルを」
「涼さん……、あなたという人は……」
思わず、涙がこみあげてきて、私の視界はぼんやりと滲んだ。
彼はみるみるうちに母の生家を修繕していった。
なんでも、ベテラン大工たちとも“繋がり”を得たことで、彼らの巨大な経験値を一挙にものに出来たのだとか。
彼のチートスキルに関する細かな仕様については、私には良くわからない。
ただ、彼が信じられないほどの熟練した大工スキルで、鮮やかに母の生家を修繕していくのは、素人の私だって、見ていて、分かる。
陽が落ちかかる頃には、母の生家はすっかり綺麗に建て直っていた。
「どうですか、見違えたでしょう」
見違えた、などというレベルではなかった。なにもかもが、古い記憶のなかの綺麗なあの家と一致している。
私は涼さんの手を握り締め、思わず膝をついてしまう。
「ええ、幼い頃に母と見に来たときの姿、そのものです」
彼の手を額に当てて「本当に、本当にありがとうございます」と言うと、涼さんは照れくさそうに笑い、
「こんなことは、なんでもありませんよ」
とだけ言った。
「ああ……」と、私は思う。
その表情を見ていてやっとわかったのだ。
激しい差別を受けながら、いつも他人のことを考えて行動している、――涼さんのその姿が、私の見て来た母にそっくりだったのだ、と。
そう気づくと、私の胸は火を灯したように熱くなり、その熱さを鎮めるのが大変なほどだった。
私は何度も何度も、自分にこう言い聞かせねばならなかったほどだ。
“これは恋ではない、恋ではない”、と。
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