青空が泣くとき

らるふ

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浪人と雨

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 その日カズヒコは、御茶ノ水駅内部にあるニューデイズで、五百円程度するビニール傘を買った。天気予報を日常的に確認しない男が折り畳み傘を持っていくはずがないのである。もしあったとしても、随分前に「折り畳みでも入れてけ」と母に言われて、雨が予定通り降らず、使わずにそれっきりという場合に限る。さすがに使ったら家の外に干すけれど、片付けたあとに鞄に入れるという作業を、カズヒコはしないのである。逆に降水確率五十パーセントのときには持っていき、電車の乗客や通行人がまるで傘を持っていないことに気づいて少し恥ずかしくなるのが、カズヒコという男である。
 今日は絶対降らんという確信をもって、カズヒコは家を出た。雲一つない早朝の空に、カズヒコは絶大な信頼を寄せた。しかし行きの電車の中、何かがパツンパツンと車窓に追突する音が、裏切りの合図となった。
 土砂降りである。
 青白い顔をした空がカズヒコを嘲笑う。
 カズヒコ以外の多くの人間は傘を持っていた。あんなにも晴れていた空を一ミリたりとも信頼しないのかと、カズヒコは少し裏切られた気になった。けれども負けたのはカズヒコであって、その事実は無情にも全トウキョウ人に降り注ぐ。
 そうしてビニール傘を買ったのである。敗北の代償に五百円、プラス消費税。カズヒコは左腕に傘の持ち手を掛けて、パンパンになった財布を鞄の中に仕舞った。クレジットカードはもう持てる年なのに、これまた大学受験の敗北者であるからして、キャッシュレスのスマートな消費者にはいつまでもなれない。改札を通ったあとのスイカの残高は七十四円、交通系ICカードを無駄金に変えるほどの余裕もない。
 そんなカズヒコであるが、改札の外で、どうやらスマホで傘の貸し出しができることを知った。だからといってこの先利用することもないだろうと確信し、素通りする。
 平日の午前、駅前でいつも話している募金のおばさんはおらず、色とりどりの傘が足早に出入りするだけの御茶ノ水。湿った土の匂いが漂う。普段持っているものより一回り大きな傘を広げて、カズヒコはふと空を見た。
 ビニール越しの空が気になるのは、いつもと違う珍しい景色が見たかったからか。それとも感傷に浸りたい虚ろな新成人ゆえか。最初のコンマ数秒はそうだったとしても、そこから見開かれた目は明らかに空ではない、別のものを捉えていた。透明な屋根を伝う雨粒の一つが、カズヒコの黒いスニーカーに吸い込まれ、じんわりと漆黒が滲む。カズヒコはしかし、まだ空を見ている。それは駅を行き交う人々も同じであった。
「なんか雨、赤くない?」
見知らぬ男や女の声が混じり合った火曜日、トウキョウだけではなくニホン全土が赤い雨に見舞われたことを、カズヒコは昼食の時間に知った。


「昨日、ニホン全国に降り注いだ赤い雨」
普段テレビなど付けないのに、カズヒコの母親は熱心にテレビのナレーションに聞き入っている。カズヒコもその家族もすでにSNSを通してその正体、というより雨に含まれていた成分を知っていた。が、SNSは瞬く間に陰謀論やデマが氾濫した。情報の洪水から逃れるためにもテレビに縋るしかなかったのである。カズヒコも母親の後ろで、聞き慣れた声優のナレーションにじっと耳を澄ませた。
「気象庁の調査結果によると、雨の成分はヒトの血液成分と九十九パーセント合致しているという」
それを聞いてカズヒコはそうか、と思い至って気象庁のホームページを開いた。アクセスが集中しているせいか開くのに時間がかかった。開いた途端、「二〇二五年六月三日の雨滴成分分析結果」という赤文字がカズヒコの目に飛び込んでくる。カズヒコは躊躇いもなくそれを押した。
「うわ、めっちゃタンパク質」
「ん?」
カズヒコの声に母親が反応した。カズヒコはスマホの画面を母親の目の前に押し出す。
「グロブリン、あそれ知ってる」
「あれだろ免疫グロブリンみたいな」
「そうそれみたいなヤツ」
根っから文系の母親でもわかる数値である。政府の出したデータ以外は基本信用しないとカズヒコは心に決めた。それからカズヒコは自分の部屋に戻る途中、近い内に起こり得ることを夢想した。
 今のところ建造物や動植物、人体への実害は報告されていない。衛星という力強い味方がいるおかげで、原因もすぐに突き止められる。とはいえ、何だかわけのわからない奇妙な事態には違いなく、予備校は「緊急時につきオンライン授業に切替」とした。
 しかし、これでもし「空にヤバい生物がいる」なんてアホの流すデマが現実になったとしたら。
 カズヒコは前歯で下唇を押さえ、ニヤけそうになる表情を無に固定しようとした。そうだったらいいなと目先のメリットに食いついてしまうのが、カズヒコというバカな人間なのである。カズヒコだけでなく、たぶんSFやロマン好きな能天気の大人もきっと同じような顔をしているのだろう。
 その夢想が本当に空に届いてしまうとは毛ほども思っていないのである。
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