舞い落ちて、消える

松山秋ノブ

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episode.26(2007/4/21)

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2007年4月21日

 鈴が問題に取り組んでいる間、僕は昨日のことを考えていた。

 ー朝美の初恋を追体験させるー

篠塚先生は自信満々にそう言い切った。そうすれば記憶になんらかの影響が出るはずだ、と。朝美の初恋、そんなこと考えたことも無かった。朝美は中学から来た転校生で、僕はそれ以前のことを知らない。もし朝美が僕と出会う以前に誰かのことを好きになっているとすれば、僕にそれを突き止めることは困難だろう。戸惑った顔をする僕に篠塚先生はこうも続けた。
「初恋でなくても、誰かのことを強烈に好きになった記憶や、大きな失恋をした経験でも良いです。それなら難しくはないでしょう」
 この言葉は僕に活路を見出させた、と同時に深い絶望も与えた。先生の仮説が正しいとすれば、記憶を無くして以降、多くの時間を共に過ごした僕は、朝美にとって『強烈に好きになった相手』では無かったということになる。そうでなければ、僕と会った時に記憶に影響がなければならない。けれど、朝美は僕を見ても何も思い出せなかった。
 分かっていたことではあった。朝美が僕のことを何とも思っていなかったということは。それでも学生時代に登下校を共にし、勉強を教えあっては盛り上がっていた僕らには何か特別な感情があったのではないか、と信じていた。信じたかった。あの時間は何だったのだろう。中学時代にダブルデートの付き添いで何度も同行した時に、桂木を無視してまで僕に話しかけてきてくれたの時、朝美はどんな気持ちだったのだろう。毎朝、紫陽花の前で朝美はどんなことを考えながら僕のことを待っていたのだろう。僕が朝美の分からないところを教えている時に、僕の顔は朝美にどう映っていたのだろう。考えても考えても結論が出なかった。いや、出てくる結論は空虚なものでしかなく、認めることが出来なかった。

 ー朝美が強烈に好きになった相手ー

僕は心当たりがないわけではない。いや、あるのだ。けれども僕はそれを思い出したくはなかったし、出来れば朝美にはそこに触れることなく記憶を取り戻して欲しかった。けれど、どうやら僕はそこから逃れることはできないらしい。篠塚先生の仮説を検証するにはその記憶に触れざるを得ないのだ。
 それは僕を大いに躊躇させた。現状、それしか方法が無い。僕からしてみたら朝美の記憶が戻ることが必ずしも僕の目的ではないのだから、その点ではこの方法を取る必要が無い。けれど、それでは困る問題がある。小堺教授だ。小堺教授の許可がなければ、卒業論文を書くことができない。卒業論文のための研究という大義名分で誰にも邪魔をされることなく朝美のいる大牟田に帰る予定だった。それが大幅に狂うどころか、代替の論文内容によっては帰れなくなる。それは絶対に避けないといけなかった。正直、朝美の記憶が戻るかどうかも最早口実でしかなく、僕は朝美との時間を構築したかったのだ。だから絶対に論文の内容を変えるわけにはいかない。その小泉教授は僕に篠塚先生の研究を参考にして、自身の娘の研究のヒントを教えるという交換条件で論文を認めるという。

 僕は迷っていた。朝美に会いたい、けれど、朝美に会うには朝美の恋愛の記憶に触れないといけない。どうにも決められなかった。

 僕は鈴に問題を解いているように指示を出すと、一度ロッカーへと下がった。そしてバッグからお茶を取り出すと、一気にそれを口に含む。喉が潤う感覚はあったけれど、味はしなかった。深くため息をつく。僕はどうしたらいいのだろうか。
「どうしたんですか、途中で下がってくるなんて珍しい」
様子を見て変に思ったさくらが声をかけてきた。
「別に」
ぶっきらぼうな僕の返事に、そうですか、とあっけらかんとした表情でさくらは答える。何でもない顔をきっとしていなかったはずなのに、さくらはこういう時に深入りしてこない。そういう性格だからなのか、僕がそうしてくれるほうが良いということがわかっているからなのかは知らない。けれど、さくらのそういうところは嬉しかった。
「それはそうと、GWの件はどうなりそうですか」
と訊いてくるさくらに、僕は、まだわからないけれど、今のところ予定通りで、と答えた。さくらは、了解、と笑うと、ブースへ戻ろうとした。
「あのさ」
僕は咄嗟に呼び止めた。
「例えば…例えばの話だよ」
ちょっと勿体ぶるような口調になってしまった僕に、さくらは怪訝な顔で、はい、と答える。
「やりたいことAを認めてもらうには、やりたくないBをやるのが条件だとしたら、どうする」
「『どうする』って、どういうことですか」
「いや、やりたくないBをやるかどうかだよ」
「いや、AとBの度合いがわからないと無理ですよ」
僕は、Aはどうしてもやりたいこと、Bはどうしても避けたいことであることを精一杯伝えた。僕が説明をしている間、さくらはずっと難しい顔をして考えていた。
「難しいですね」
そう言って、さくらはブースへ戻ろうとする、僕は今ここで答えがほしかった。そしてさくらも、僕がそう思っていることは顔でわかるはずだった。それとも伝わっていなかったか、僕は手に持ったペットボトルのお茶をバッグに投げ込むと、慌ててさくらを引き留めようとする。
「けれど」
僕がそうする前に、さくらが立ち止まった。
「決められないなら、とりあえず、『Bをやる』って言ってから後のことを考えますかね」
振り返ったさくらは意地悪そうな顔をしていた。
「私、ズルいんですよ」
あーでも、とすぐに付け加えた。
「その場でBをやらないといけないなら、この手は使えないですね」
漫画のヒロインのように少し照れながら舌を出すさくらに
「いや、大丈夫だよ、ありがとう」
と言うと、さくらはそのままブースへ戻っていく。そうか、そんなシンプルな考え方があったか、とさっきまで悩んでいた自分が可笑しくなった。そんな僕を見て、さくらも大丈夫だと踏んだのだろう、もう振り返りはしなかった。僕もそのまま鈴のもとへ戻る。鈴は既に問題を解き終えていて、僕に、遅い、と唇を尖らせた。ごめん、と謝る僕の顔を見て、鈴は唇を尖らせたまま、少し笑みを見せた。安心しているようにも見えた。もしそれが僕の勘違いでなければ、そんな気を遣わせてしまったことを申し訳なく思った。
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